眠りたいだけ眠り、食べたいだけ食べ。

人間らしく生きていきたいのだ。

 

自分らしく、とかいう前に、本能のままに、したいことをしたいときにしたいだけする。そうやって人間らしく生きてみたい、と思う。

 

とはいえ、常識人である私含め多くの人は、

月曜〜金曜まで、週5日、毎日8時間会社勤めをしている。しなければならないと思っている。

それが楽しくてやっている人もいるかもしれないけれど、大抵の人は仕事だからやっている。

小中高と、学校に通ったのと同じように。

今思うと、小中高の学校生活も、毎日8時に登校し、毎週「時間割」に沿ってみんなで授業を受け、同じ時間にご飯を食べ、部活動に勤しむ、という生活を当たり前のようにこなしていたのだからある意味大人になった今よりもすごい。

 

そのような子供時代があるからこそ、大人になっても一定のルールに則り生きていく術が身についているのかもしれない。

もちろん、ルールなんて何もいらない、と言ってしまったなら社会はうまく機能しなくなってしまうだろうから最低限必要なルールも確かにある。

スーパーには衛生上問題ない食品が並んでいてほしいし、水道・電気は毎日滞りなく使いたいし、電車は動いてほしいし。

だけど、もう少し適当でもいいよな、と思う部分もある。コンビニは24時間営業じゃなくても良いし、たまに休みがあるのはしょうがないし、電車が5分遅れるぐらい大したことないし。

 

つまりは、外せない部分はどこかを見極めて他はもう少し適当でも良いかもしれない、ということだ。

 

自分の仕事にしても、すべてを厳格にやりすぎてはいけないと思っている。

手を抜くということではなく、優先度の高いものに集中的に労力を投下したいとのだ。

例えば資料のフォーマットをきっちり揃え誤字脱字をパーフェクトに失くすことに邁進するよりも、良い企画を立てるためにインプットやアウトプットにもっと時間をかけること。

クライアントの機嫌をとるために立ち回るのではなく、良い仕事を作っていくためにどうすればいいか膝を突き合わせて話し合うこと。

仕事の効率を上げたり少し先の未来のためにも、自分の興味・視野を広げるための投資的な仕事もしていくこと。

 

少し話が膨らんでそれたけれど、システマチックに、機械のように働くのではなく、もう少し人間臭く、仕事をし、社会の中で生きてみたいのだ。

 

だから休日にはできるだけ、眠りたいだけ寝、食べたいものを食べ、欲望のまま、自分の心の赴くままに過ごそうと思っている。

 

社会の中にある、いろんな仕組みや、人や、仕事はもう少し寛容に、もう少しクリエイティブになっても良いのではないか。

AIが発達した先の未来には、人は働かなくても良くなるという。人は働かなくて良くなり、遊ぶのだと。

つまりは「労働」としての仕事はどんどん減っていき、人は遊ぶように、感じ、考え、生み出していく、そういう機械には決してできないものこそが求められるようになっていくということだ。

 

AIが発達した未来のためだけでなく、30代前半までに、もう少し、我慢をすることをやめ、自分のほしいものを手に入れる勇気を持っても良いのかもしれない。

暴露系で生きる女性たち

昨日、下北沢にある本屋B&Bでこんなイベントがあった。

 

アケミン×中村淳彦×森林原人

「AV女優を描き、セックスを仕事にする私たちの理由」

『うちの娘はAV女優です』刊行記念

 

イベント自体には参加していないけれど、イベント終了直後にお店にふらりと寄ると、店内にはサイン待ちの女性客の列や、書籍購入待ちの女性客がたくさん。

彼女らが手にしている本のタイトルは『セックス幸福論』『イケるSEX』など、普通の本屋さんでそれらの本を数冊まとめ買いしている女性を見たら「お、おお…(やるな)」と思ってしまいそうな。(失礼。)

 

最近、本にしてもWebコンテンツにしても、性に関してあけっぴろげに語るエッセイ、コラムがとても増えているように感じる。セックスだけでなく、愛や、夫婦や、不妊治療やLGBTなどのセンシティブな話や、その他諸々を含め。

 

すごい時代になったよなあと思う。

十数年までは、女性(特に日本の)は奥ゆかしく、性に関する話を公的にするなんて、恥ずかしい、下品だ、という風潮がもう少し残っていたような気がするのだけど。

 

このイベントにしてもそうだが、

女性が性に関する話を公言することは単なる「エロ」ではなく、「生きる」ことに近づいているかのようで、神聖な感じすらする。

しかし、もし自分であったなら、やはり自身の旦那や彼との恋愛やセックスについて語るというのは非常に恥ずかしいものだろうし、自分の恥ずかしい部分を公表して、共感を得る事で仕事を作っていくなんて、なんてたくましい女性たちだろう、と思う。

(かくいう私も、ここでアラサー女子のリアルを綴るなんて恥ずかしい事をやろうとしているのだけど。)

 

一方で、男性はというとあまり変わっていない。

男性が自身の性に対する暴露をするようなことはあまりないし、あったとしても、先のイベントに登壇していた、女性の身も心も知り尽くしているAV男優ぐらいの人でないと、神聖さの欠片もない中二病的な下ネタぐらいにしかならないだろう。

 

愛とは何か、セックスとは何か。

それはすごく人間的な問いであると思う。

仕事に少々疲れているアラサー女子である筆者が最近感じることに、「生きる意味を、夢や仕事に見出せなくなった瞬間、男や酒に溺れる以外何ができるだろう」という極論を考えることがある。

病んでいるのである。いや、実際にそうなっているということではなく、病むとしたらやっぱそんな感じじゃない?と思っている。私だけでなく、世間全体が病んでいるような、そんな時代だ。

 

暴露をする女性たちは、女性の生きる環境が変わっていく中で必死に自分たちの生きる意味を探しているのかもしれない。

 

大半の女性が、本心ではやはり幸せな結婚をすることを夢みることは今も昔も変わっていないけれど、結婚後の生き方が不安定な都会で、幸せとは、生きる意味とはなんなのか。(仕事?子ども?それとも?)

 

少し前までは、女性であってもバリバリ仕事をするいわゆるデキる女性タイプや、ギラギラと燃える野心を隠さず個性的に生きていこうとする芸術家タイプ、新しい働き方でキラキラ輝くノマド系など、「私こうして成功しました」的な話がまだ話題を集めていた気がする。

それが最近では、そのようなギラギラと理想の人生を追い求める女性よりも、自分の失敗や恥ずかしい部分などを洗いざらい暴露して、それでもたくましく生きていこうとする女性の方が共感を得るようになっている。

 

男性にしてもそうかもしれない。「こうやって成功しました」的な本は、ホリエモンを除き誰にも見向きされない、「そんなうまい話あるわけないでしょ」と冷遇されている感じがする。

 

女性にしても、男性にしても成功を夢見ることができない時代になったということか。

日本の、この冬の時代は一体いつまで続くのだろう。

 

 

さみしさの正体

さみしい、とは何か。

 

ここのところずっと考えていた。

恋人と別れてから2ヶ月ほど、人から「さみしいか?」と聞かれたならば、答えは「意外とそうでもない」。

ただ、やはり彼という人間が好きだったとは思う。

だから、「さみしい」というよりも、その人を幸せにしてあげられなかった不甲斐なさや、これからの人生を共に過ごしていく存在ではなくなってしまった事実が悲しい、と思うことの方が多い。

 

さみしい、とは何か?

「さみしい」とは、思うに「ちょっと足りない」ということだ。

口さみしいという言葉があるが、あれは「口の中が少しさみしい」、要は何か少し食べたい気分で、ちょっと足りないな、ということだ。

しかし空腹なわけではない。

空腹で死ぬことはあっても、口さみしくて死ぬことはない。

 

さみしくて死ぬ、という人がいるが、それはだいぶ間違っていると思う。

ちょっと足りなくて死ぬ人はいないのだ。

さみしくて死ぬ、という人は「さみしい」という言葉に頼りすぎである。

 

「さみしい」に代弁させている本当の欲求は何か?

 

「人恋しくて今すぐ誰かに抱きしめて欲しい」なのか、

仕事か何かを一生懸命頑張ったから「頑張ったね」と褒めてもらいたいのか、

ストレスが溜まっていて誰かに愚痴を聞いて欲しいのか。

例を挙げてみたけれど、やっぱりどれも、死ぬほどのものではない。

 

「さみしい」のは「ちょっと足りない」だけなので、現状がまったくダメなわけではない。言い換えると、一定量満たされているのだ。

 

こじらせアラサー女子としては、最優先である仕事に対しても、少し「足りない」と思うことがあり、なんだかなあと日々モヤモヤすることはある。

今の仕事を金輪際続けられないほど大嫌いなわけではない。

けれども、例えばもう少し人から認められたい、もう少し人に感謝されるような仕事がしたい、もうちょっと、自分の好きなことや得意分野にチャレンジしたい、みたいなこと。言葉にしてみるとすごく幼稚だ。

 

「さみしい」とは、どこかちょっと足りないだけ。現状に一定の満足感はあるけれど、どこかにちょっとの不満があるだけなのだ。

 

シングルでさみしい、という女子も、意外と一人の生活を満喫しているのだ。休日、部屋着にノーメイクで好きなだけNetflixを見たり、お気に入りのラーメン屋さんで一人グラスビールに半ラーメン・半チャーハンを食べたり、たまに見かけるイケメン店員に少々ときめいたり。

 

ただ、そんな生活の中でもふと「さみしい」と思うのは、結婚していない自分にどこか欠点があるんじゃないかと不安になったり、一人でおいしいものを食べたときふと誰かとそのおいしさを共有したくなったり、時々ちょっと足りないなーと思うことがある、というだけ。

 

 川村元気さんの小説『4月になれば彼女は』に、「1人でいるさみしさは耐えられるけれど、2人でいるさみしさは耐えられない」というようなセリフがある。

 

アラサー女子は何かと結婚を重視しがちなのだけど、結婚してもしなくても、その「ちょっと足りない」感は、生きていれば常に隣にあるものなのだと思う。

 

「さみしい」とは、「ちょっと足りない」だけ。

そう思ったら、「さみしい」なんてどうってことないことと思えるのではないだろうか。

 

こじらせ系コンテンツが大好物すぎるので、こじらせアラサー女子のリアルを綴ってみることにした。

こじらせアラサー女子、ブログ始めました。

 

  • 仕事
  • お酒
  • 恋愛
  • 映画と本

 

こんなところでブログ書いていきます。

近年こじらせ系コンテンツ、本当流行ってますね。

cakesのこじらせ外科医の雨月メッツェンバウム次郎先生のコラムや、林伸次さんの『ワイングラスのむこう側』、東村アキコさんの『東京タラレバ娘』、Amazonプライムのオリジナルドラマ『東京女子図鑑』、などなど、こじらせ系の大人たちのお話は共感できるところがありすぎて、大好物でありんす。

 

そして私自身、こじらせアラサー女子であることには相当な自信が。悲しいかな、自負しております。

ここでは身バレしない程度に、リアルな話をつづっていきます。

 

さて、初回となる今回は、やはり仕事の話からですかね。

編集者という肩書きでWebメディアのライターのような仕事をしております。

 

残業は多いかとか具体的にどんなことやってるのかとか楽しさややりがいがあるか、大変かとか、そんなやわな質問は合コンの場ぐらいで十分でござる。

ここで伝えたいのは、何を隠そう、アラサーのジタバタである。

 

誤解のなきよう言っておくと、20代までは、自分がどんな仕事に情熱を注ぎどうキャリを築いていきたいのか、その時その時の直感と気持ちを大事にして、仕事と真摯に向き合ってきた(つもりな)のです。

 

そしてアラサーど真ん中にして、少しづつ自分のやりたいことに近づけている実感もあり、愚痴を言いながらも前向きに、うまく力を抜きながら働いていこうと思っていたのである。

そして、3年ほどお付き合いしている彼と結婚をし、彼の転勤にあわせて出来ることならばリモートワークや、フリーのお仕事もできたりしたら念願かなったり、なぞ。

 

しかしながら人生はそう、うまくは転ばない。

彼と破局した。もうすぐ、30。

バリキャリで一人で生きていく自信なんてまったくないであります。

 

とはいえ、元来こじらせ女子な私は「これ幸い、また男遊びが出来るでやんす」と、合コンやら飲み会やらボード(季節ですもの)やら、フリーの開放感を満喫している。

一歩心の底をのぞきこむと、ネガティブな感情の渦に巻き込まれないよう、一生懸命遊ぶでやんす。

アラサー女子を楽しまなにゃソンソン。

 

先日、飲み会の前に時間があったので恵比寿のスタバで本を読んでいたところ。

アラフォーと思われる女性2人の会話を耳にした。

どうやら少し年上の人生の先輩的な女性(おそらくオーバー40)と、悩める40手前ぐらいの女性の2人組。

なんせ先輩女性の声が大きいもので、聞きたくなくても聞こえてしまう。

内容は恋愛の話。タイプの人にどうやったら出会えるか、それは自分のタイプを公言していれば自然と縁が繋がって歯車が回り始めるのよ、というお話。

ポジティブで行動的なところは素晴らしいと思うけれど、未だそんな話を大声でスタバでしているということは本当に相性の良い人に巡り合えていないということ。

 

飲み会前のアラサー女子の私としては、ぶるぶると身震いする話で思わず途中から耳栓代わりに音楽を・・・。

 

もちろん恋愛も結婚もすべてご縁だから、いつ結婚相手に出会えるかなんてわからないし若くしてするから幸せとも限らない。

 

そんなことは百も承知で、「仕事、恋愛。価値観も幸せも人それぞれ」と余裕な顔をしながら内心焦ってヒヤヒヤジリジリするのはアラサーの宿命。

 

そして恵比寿の夜の街へ、今日もよき出会いを求めて出ていくのである。

(どうせ今日も良い人には巡り合えないであろう、と半ば知りつつも。)

 

とりとめもなく、自己紹介と最近の出来事をば。

さて、明日も頑張りましょ。