港町の山小屋だより

2021年5月、被災地石巻に焼酎と洋楽を楽しむBAR「山小屋」がオープン。東京でサラリーマンをしながら毎週末に石巻に帰ってバーを開く生活を続けて2年。そして2023年4月、37年ぶりに石巻にUターン。昼間の事務職とバー経営の二足のワラジを履くオーナーYがゆるーく情報発信しています。

スナック銀巴里

7月、知人に誘われて市内のスナック「銀巴里」に行ってきた。以前から気になっていた店だ。石巻の懐かしい風景をパステル画に描いた浅井元義先生が生前によく通っていたと、息子さんから聞いており、壁にかけられている絵を観に行きたいと思っていた。

会社の懇親会(滝川)が終わったあと、電器屋のデボンさんと「こまち」で待ち合わせ、一杯ひっかけてから銀巴里に行った。ボックス席の頭上に150号大のパリ街並みと思しき風景画が飾られていた。浅井先生のふだんの画風とはかなり異なる。まるで佐伯祐三のよう。場末のスナック然に流れがちな店の雰囲気をビシっと引き締める、とてもいい絵だ。

ママの杉山さんに浅井先生の話を伺った。「よく来てくださったのよ。この絵も『ママにあげる』って言って。私も向こうにもっていけないから息子さんに返そうと思っているの」とのことだった。あとでその息子さんにメールしたら「いやいや、いらねー()」と言っておられた。

そういえば名前を言ってなかったと、苗字を言ったら、ママの目つきが変わった。

「あら。あなたのお母さんのご実家は松本でしょう? 私の叔母が嫁いだわよ」

えーーー、本当ですか? 誰さん?

「ときこよ。私の母の一番下の妹」

えーーー、ときこおばちゃん? ということは山内家?

「そうよ。うちの母は杉山家に嫁いだの。南浜町で松本家と近かったから、あなたのおじさんおばさんもよく知ってるわ。文夫さんだっけ? 山で亡くなったのは」

はい、岩手山で遭難しました。和子とは?

1個違いでよく遊んだわ。公一さんはお元気なの? そう、よかった。でもあなたのお母さん美代子さんと妹の孝子さんは残念だったわね」

このあと延々と松本家の話が続いた。なんて店だ。この店を今まで知らなかったとは痛恨の極みだ。いや、こうして元気で会えたことを喜びたい。オレをここに連れてきたデボンさんは、カウンターでこんな騒ぎになっているとも知らず、グラス片手に気持ちよさそうに歌っている。ママにボトルを入れますと言ったが断わられた。「今日は電器屋さんのおごりでしょ。いいからあなたも歌いなさい」とデンモクを渡された。そのあとも肉じゃがや刺身やガーリックトーストが次々出てきた。滝川でもこまちでも食べたので満腹だったが、がんばって完食した。その週末もデボンさんと銀巴里に行って大騒ぎをした。いい店が見つかってよかった。

スナックで苗字を名乗ると親の話が出ることが、たまにある。10年ほど前に、プラナという店に入ったとき、隣に座った女性に名前を告げたら「お父さん、学校の先生じゃなかった?」と言われたのでそうだよと言ったら、その女性は手を振り、「みんなー、ここにY先生の息子さんが来てるよー!」と大声をあげた。たちどころに女性が数名やってきて「あー、確かに似てる」「いい先生だったよねー」と囲まれてしまった。親父が勤めていた高校のOGが働く店だったのだ。居心地がいいのか悪いのか()。このあとどうなったか覚えていない。

スナックさざなみのママは、おふくろを知っていた。お母さんが押し絵教室で同じ先生に習っていたのだという。「あなたのお母さんのほうが上手でね。先生の名前を継いで自宅で教室を開いたんだったわね。えー、津波で亡くなったの? それはそれは…」と、自分の口から母親の死を伝えることもある。

山小屋の斜向かいのスナックおり姫のお客さんからは「Y先生の息子さんすか?」と声をかけられたこともあった。親の評判が悪いのは困りものだが、うちの親の場合はたいがい褒めてくれる。親父に関しては「いい先生だった」という話しか聞こえてこない。教師としての親父を知らないが、実際に教わった生徒さんがそう言うのだから嘘ではないだろう。

お袋も褒められることが多い。「字がうまかった」「多才だった」「いつも旦那さんのそばで笑顔だった」とか。確かに仲はよかった。2011年、震災後の石巻で初めて入ったスナックで「あなたのお父さんとお母さんと一緒に社交ダンスを習ってたのよ」とママから言われたことがある。社交ダンスに押し絵に短歌にコーラスと、たしかに多才な母親ではあった。あれこれ手をつけすぎるところは似ちゃったかもしれない。

山小屋をやっていて、お客さんからそんな話を聞いたことは、今のところない。そもそも客層が違うのだ。だから、こちらから出向いていく必要がある。年配のママがやっている、3040年やっている老舗スナックに目星をつけてドアを開ける。そういう店はだいぶ少なくなってしまったが、行くなら今のうちだ。親父の最後の教え子も、もう50代になろうとしており、時間も限られている。もう、自分のことなどどうでもよく、両親がこの町に生きていた証を捜し歩いている。

いつか自分の娘(あるいは孫)も、オレの生前の評判を聞くために石巻の店を聞いて回ったりするだろうか? それはないなぁ。そもそも悪評ばかりだろう。

「店にいないでほかの店で飲んでばかりいた」

若い女性が客に来るといろいろサービスして露骨だった」

「ブログやインスタで言い訳ばかり書いてて痛かった」

サボってないで、ちゃんと働こう。。。

石巻で働いて3ヵ月が経った

最近はnoteばかりで、hatenaに書くことが少なくなった。4月に完全移住したというのに、何も書いていないことに気づいて、あわててアップする次第。いちおう3ヶ月が経った、というテイにしておく(実際に書いているのは7月中旬)。

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三種の神器 その2〈ラジカセ〉

 

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ラジカセへの執着は小6ですでに見られた。夏休みの子供会ラジオ体操で、会場にラジカセを持って行くのが班長の役目で、20人ほどの子供が集まる広場にラジオ体操の声が響き渡るように、できるだけスピーカーが大きいラジカセを持っていったほうがよい。うちには小さなポータブルラジカセしかなかったので、隣に住む叔父が持っていた短波ラジオが聴けるラジカセを借りた。スピーカーは16センチモノラル、確かNEC製だったと思う。もちろんオーディオ機器という認識ではないが、家の電化製品を他人に見せることになり、見栄を張りたくなったのだ。テレビにしろ冷蔵庫にしろ、大きい家電はその財力を示していた。

中学になりバレー部の連中がやたらラジカセやカセットテープにこだわる気質で、話を合わせるためにいろいろ勉強した(音楽の話題は中島みゆきとかだったが)。そして中2の年、あのCMがテレビから流れてきた。

https://youtu.be/LJGIhFNnaPA

シャネルズの歌う「ランナウェイ」の曲をバックにamtrakの列車が駅のホームに入ってくる映像はなかなかカッコよかった。アメリカという未知なる国への憧憬が湧き上がり、このラジカセでグッドミュージックが聴きたい欲求がやおら芽生えた。「何を聴く」ではなく「何で聴く」だったのだ。

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当時のポスターを見ると、メーカーのパイオニアはラジカセと呼ばず「ポータブルステレオ」と呼んでいたようだが、中坊にはそこまで伝わらなかった(笑)。三種の神器の一つはどこまでも「ラジカセ」だ。

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ひゃー、一番安いモデルでも59800円もする。中坊に買える代物ではない。パイオニアはかなり高級路線を行っていたようだ。手に入れるには親にねだるしかなく、5万は切りたいところ。市内にあった家電店を片っ端から見てあるいた。東芝、日立など白物家電メーカーもボンビートやパディスコなどのブランドを揃えていた。こちらもソニーやパイオニアなどのオーディオブランドとそれらを区別していなかったので、価格帯の中からスピーカー口径や出力ワット数の大きなものを選ぶつもりでいた。庄子デンキで日立がいいと店員に言ったら、わかってねーなという顔でソニーを勧めてきた。「あのね、数字じゃないよ。スピーカーの反応の良さで言ったらこいつだよ」と指差したのがこれ。

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うーん、カッコ悪い(笑)。70年代のクラシックなデザインに憧れていたので80年代の奇抜なデザインには抵抗があった。77のほうは20cmウーファー&フルロジックで59800円、66は16cmで42800円。最大出力はともに7w。家にSONY製品があるのも悪くないと66に決めた。中学で買ったのか高校で買ったのか覚えていないが、高校受験前に通っていた塾に77が置いてあり、欲しいなぁと思った記憶があるので、やはり高校で買ってもらったのかもしれない。

この66は良き相棒と呼んでもよいくらいに高校時代を共にした。別項で書くサンスイのステレオで録音したカセットテープを勉強中や枕元で聴いて過ごした。大学に入ったときも上京するのにテープの山とこの66を寮の部屋に持ち込んだ。大学3年の時にSONYのミニコンポを買ったあたりで手放したと思う。一人暮らしの部屋で聴くのにコンポがあればラジカセは要らない。

石巻のような田舎の家電店では、当時発売されていたすべてのメーカーのラジカセを比較検討することなどできず、メーカーに押し込まれた人気商品を買わされるのが関の山だろう。シャープ(ザ・サーチャー)、ナショナル(マック)、アイワ、ビクター、いろいろ比べたかったけれど、限られた条件、狭い選択肢の中で選ばざるを得なかった。とはいえ、日本の優秀な電化製品のどれを選ぼうとも、その時代に聴いた音楽に優劣がついたとは思えない。むろん自分の音楽的趣味に、絶対的な自信など持ち合わせていないけれど、あの時代、大好きなラジカセとともに好きな音楽に浸っていた10代の音楽生活をなくして今の自分はありえない。多感な10代を、レコードやFMラジオやFM雑誌やビルボードチャートなどとともに過ごしたことは、とても幸せなことだったと強く思う。

今年も一箱古本市が開催

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10月15日、今年で11回目を迎える石巻一箱古本市が行われた。山小屋営業以前から「めめんと書房」として参加して今年で4回目となる。山小屋との同時営業は去年に続いて2回目だが、今年はさらにウクライナ料理Borschも同時営業だ。

去年はとても忙しかった。事務局からは「主会場から離れているのでお客さん来るかなぁ」と言われて、まぁのんびりやろうと思っていたら11時のスタートから来客がすごかった。駅から一番近いので仙石線を降りてまず山小屋に寄るのだ。来てくれた人にコーヒーをサービスすると決めていたので午後までずっと豆を挽いてコーヒーを淹れ、カウンター越しに本の代金を受け取るのを3時間ほど続けた。飯が食えたのは閉店して幟を返しに行った午後4時。いろんな人と出会えて、あんなに楽しいことはなかった。

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今年もコーヒーサービスは継続。思いがけず同級生のS子(本職は書店員)が手伝いを申し出てくれたので、だいぶ楽をさせてもらった。今年は挽いた豆を使い、アイスコーヒーにしたのでスムーズにサービスできたと思う。

本の売れ行きもまずまず。去年からの売れ残りに、東京自宅の蔵書を(引越しがてら)持ってきて補充したのがよく売れた。レヴィ=ストロースの『神話論理』を全巻買ってくれた若者もいた(売価の半額にしてあげた)。。
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めめんと書房の売りでもある「束見本」もほぼ完売。一年間で貯めた40冊を一冊100円で売り、ウクライナ人道支援金として供出させていただいた。
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Borschの3人は、いつも通りにボルシチ、ヴァレニキ、オリヴィエ、ムリンツィを販売。本を買いがてら店内でボルシチを食べていく客が多く、売り上げに貢献できてよかった。ウクライナ料理と古本の相性がよいのだろう。山小屋が一人取り残された感じだ(笑)。

夕方、幟を返して表彰式に参加。店番を手伝った助っ人3人が飲みに来てくれた。出店者も次々と予約が入り満席状態が続き、最後の客が帰ったのは午前1時過ぎ。朝9時から17時間ぶっ続けで働いたことになる。売上も開店以来最高額となった。古本市サマサマである。売れ残った本は店奥のキャビネットに置いて通年販売をする。来年はこれに補充すればよい。

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昨年の開店前は「東京の人がブックバーを開くらしい」と噂が立ち、なんだそりゃ?と訝しんだが、蓋を開けてみればそれに近い形態になってきている。自分のなかではめめんと書房(2019〜)と山小屋(2021〜)は別の事業体のつもりだったが、まさかの合体。たしかに二つも要らないので、どちらか一つを残したいところだが、今は決めきれない。商号が二つあってもいいんじゃないかと、今は思っている。

 

ふらば〜るバレーというスポーツ

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スポーツの日の10月10日、地元調布市のふらば〜るバレー大会に参加してきた。調布では小学校開放クラブを中心に毎年ニュースポーツの交流会を行い、キンボールやボッチャ、タグラグビーなどを楽しんでおり、中でもふらば〜るバレーが盛んだ。オニギリ型のボールを使ってワンバウンドさせるのだが、バレーボールの魅力がギュッと詰まっていて楽しい。

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娘が通っていたJ小学校で始めたのは7〜8年前だろうか。学校開放でお父さんたちとソフトボールを始めて、開放委員になり、市のスポーツ推進委員からふらば〜るをやろうと、ソフトボールとバレーボールの合同チームが立ち上がったのが最初だ。子供は入れずに純粋に大人だけで楽しんだ。隣のK小学校に開放サークルができたと聞いて門を叩き、他校保護者なのに毎週練習していた。

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週末のソフトボール(校庭開放)、テニス(倶楽部でのレッスン)と、10年間スポーツ漬けだったが新型コロナの影響で学校開放が閉ざされ何もできなくなった。山小屋を始めたのも、週末スポーツができなくなり暇になったことも大きな要因だ。

ふらば〜るはとにかく楽しい。オニギリ型のボールをワンバウンドさせるのでどこに跳ねるか予測できず、跳びはねてばかりいる。ボールが軽いので指先でも何とか上げられるし、思い切り打てばフワフワと相手コートに届くので、ラリーを続ける楽しさを満喫できる。ダメだと思ったボールがコート内に戻ってきて相手コートに返してポイントを獲った時などは歓喜に湧く。こんなスポーツは滅多にない。書いていると長くなるのでルール解説に移ろう。

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【用具とコート】
○ボール:ふらば〜る(直径43cm)。Amazonで買える
○コート:6.10m×13.40m(バドミントンダブルス用コート)

○ネット:ソフトバレーまたはバドミントン用ネット。高さは2.0m
○マーカーアンテナ:正式な大会では必要【チームの人数とゲームの進め方】
○5対5でプレー。5〜8名で参加者全員をローテーションの対象とする

○ローテーションするが前衛後衛の区別はなく、誰でも攻撃に参加できる

○調布では10分1セットでやっているが15点マッチでもよいらしい
【選手のポジション】
○サービス時、各チームの選手は、前列2人がサービスラインより前に、後列3人がサービスラインより後ろにいなければならない(Wのように)
○サービスが行われた後はどこに動いてもよい
○サービス権を得たチームは、時計回りにひとつずつローテーションする
【サーブ】
○サーブは後列中央の選手が行う。前足か後足のどちらかをコート中央のハーフラインを踏んでサーブを打つ
○サーブは片手アンダーハンドで打たなくてはならない(サイドハンドはフォールト)

○サーブがネットに触れた場合はフォールト
【競技方法】
○相手からサービスされたボールだけはノーバウンドでレシーブしなければならない。2回または3回で相手コートに返す。1回で返した場合はフォールト
○以後のラリーは、相手コートからの返球は必ずワンバウンドさせてレシーブして3回以内で相手コートに返球する
○相手コートに返球するまでボールに触れることができるのは1人1回までとする
○3回目のボールがネットに当たって戻ってきた場合に限り4回目での返球が許される。その場合は3回目に触った選手でも、すでに1回触った選手でもよい(つまり誰でもよい)

【反則】

タッチネット、オーバーネット、ホールディング、オーバータイムス、ドリブル、マーカー外等の反則は、9人制バレーボールに準じて判断する

【ボールのイン/アウトの判定】

○ボールを上から見て、輪郭がラインに掛かった場合はイン、ラインに掛からない場合はアウトとする(ボールがラインに触れたかどうかではなく、上から見た時のかかり具合で判断)

 

会場は味の素スタジアムに隣接する武蔵野の森スポーツプラザ。東京オリンピックではバドミントン会場として使われました。サブアリーナに約20チームが集結して8分間1セットを4試合。わが深大寺(じんだいじ)小学校チームは4勝0敗でリーグ優勝を果たしました。気持ちいいーー! なんも言えねー!

実は石巻にもふらばーるバレーを広めたいと練習会を計画しています。人数が揃えば試合形式で練習したいです。バレーをやりたいけど機会がない方、運動不足の方、老若男女が楽しめるスポーツですので奮ってご参加ください。詳しくは山小屋またはジモティまで。

https://jmty.jp/s/miyagi/com-spo/article-uxme8

ウクライナ料理店とのコラボ開始

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石巻在住のウクライナ人男性と日本人女性パートナーによるテイクアウト専門店「Borsch(ボルシチ)」が、8月27日から山小屋店舗で営業を開始した。いわゆる“間借り”である。

今年3月にロシア・プーチンとの戦争が始まり、母国ウクライナから母と祖母を呼び寄せた二人は時の人となり、地元ニュースや新聞メディアに登場した。ロシアによる爆撃で破壊されたウクライナ(チェルニヒウ)の街が、震災で壊滅した門脇・南浜と対比され、「石巻で戦争を考える」という思潮が思いがけず醸成された。対岸の火事と思いがちな海外の戦争を我が事として深く知りたくて、何らか接点を持ちたいと考えていたら、知り合いの不動産会社から間借りを打診してきた。家族を支援をしている石巻に恩返しをしたいと、ウクライナ料理店を出店したいという。一も二もなく承諾した(もちろんオーナーにも断りを入れた)。

二人とは初回会った時から打ち解け、親しくなった。二人は元々タイ式マッサージのプロで、石巻で店をやっており、とにかく人当たりがよいのだ。ちょうど来店していた小学校同級生たちも異文化交流を楽しんでくれた。雑誌「石巻学」主宰者の大島幹雄さん(ロシア語が堪能)もたまたま来店してその日は賑やかな夜となった。

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震災後の石巻は、復興支援やボランティア人材が流入し、他力に頼らざるを得ない状況が長く続いたので、地方都市にありがちな外部の人間への拒否感が薄い町になった。外国人も同様で、とにかく受け入れが暖かい。ウクライナの戦争勃発当初も避難民受け入れに積極的だった(イベント好きな市長さんのようだ)。

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そういう状況下で間借りの話だったので、こちらも「石巻人」としての人情を発揮したという次第だ。また店側の人間としても、こういう営業形態を石巻の人はどう受け止めるだろうと興味深かった。

まだ始めて1ヵ月しか経っておらず、水曜と土曜の週2回営業のうち半分も立ち会っていないのでまだよく見えていないが、まずは成功しているという印象だ。開店当初はご祝儀もあるだろう。ボルシチやヴァレニキ(餃子)などウクライナ料理も、長く親しんでくれるかどうか。そもそも、いつまでこの営業を続けるのかーー。

ウクライナから呼び寄せた家族が祖国に帰れる日はやって来るのだろうか? 戦争は今も続いている。仮に明日終わったとしても復興の道のりは果てしなく遠い。このまま石巻に定住するのが得策かもしれない(当人が決めることだが)。

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未来がどうなるか、誰にもわからない。山小屋だっていつまでやれるだろう? そんなデラシネ同士が肩寄せ合って、場末の横丁で小さな店をやるのも悪くない。震災後の復興途半ばの石巻と、戦後復興の端緒にも就けていないウクライナとの共同作業、どうか温かく見守ってほしい。

山の日のアリバイ工作

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8月11日は山の日で祝日。山小屋店主が家でゴロゴロしていては笑われる。前日に仕事を終えて帰石する途中、どこかサクッと登れる山はないかとあれこれ調べたところ、泉ヶ岳なら仙台から地下鉄とバスで登山口まで行けることがわかったが、そのためには仙台に泊まらねばならず、石巻から近い山に方向転換。兄貴に相談して鬼首(おにこうべ)の禿岳(かむろだけ)に決めた。

12日金も休日、どうせなら一泊してツーリングも楽しむべしと朝9時にバイクで出発。鳴子から花山ダムを抜けて、途中で道を間違えながらも禿岳付近までたどり着いたが、先日の大雨で崩落したのか登山口までの国道が閉鎖されていた。

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昼の13時を回っており、今日の登山は無理かとトロトロ走っていたら、鬼首キャンプ場近くに「片山地獄入口」という看板を発見。このあたりは間欠泉が多いのだ。地熱発電所でも見てくるかと峠道を登っていくと「登山口」の看板を発見。荒雄岳という山らしい。ネット検索したら1時間ほどで登れるというのでここから登ることにした。

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詳細省略するが案の定きつかった。運動不足、100キロ近くまで増えた体躯には、いきなりの登山は無謀であった。それでもなんとか登頂して前方の栗駒山を眺望できた。あとは一気に下山、16時には登山口に帰り着いた。あとで分かったがこのあたりは鬼首カルデラと呼ばれ、この荒雄岳を中心に凹地を形成し、禿岳はその外輪山に当たる。兄貴によれば宮城の八ヶ岳ともいわれているらしい。山小屋店主のくせにまったくもって無知なのだ。

行きと帰りで別の登山道を通ったので県道に出てからバイクを置いた場所まで1時間ほど歩かされ、その間に登山靴の底がベロリと剥がれた。何年か前にボンドで補修したが限界かもしれない。でもまだ使えるぞ。

鳴子のコメリに行って600円の靴を買って履き替えた。そのまま鳴子温泉に投宿して翌日も温泉めぐり。国道398号で秋田に抜けるのは初めてで、なかなか面白かった。

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↑花山番所

 

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↑湯浜温泉(渓流沿いの一軒宿)


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↑泥湯温泉


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↑川原毛地獄

 

小安街道(398号線)は花山峠を挟んで温湯(ぬるゆ)温泉、大湯温泉、小安峡温泉と温泉が続き、皆瀬から泥湯温泉を抜けると108号線に出る。石巻から3時間もあれば来られるので日帰りにちょうどよい。秋は紅葉も楽しめそう。国道108号線の旧道「仙秋サンライン」も走るには楽しそうだ。川原毛地獄はもう一度見に来たい。

ということで何とか「アリバイ登山」を遂行できた。自信がついたとは言わないが、登山への気やすさが生まれたことは確かだ。秋が深まる前にもう一度チャレンジしたい。いつか、お客さんと一緒に山に登れたらよいのだが。