夕張にて─北海道旅行最終日の日記─
皆さんは、東南とか中央アジアで親切な地元の人のトラックに乗せてもらった、というような体験談を目にしたことはないだろうか?私もそういうものを目にして、浪人の鬱々とした期間を海外旅行を夢見て気晴らししていた思い出がある。
この記事は、今年9月、北海道でのそんな体験を、どちらかといえば自分用の備忘録として記したものだ。アジアの旅行記のように”””人生が変わる”””体験ではなかったかもしれないが・・・一つの体験として嬉しかったので、メモをするものである。
前日譚
1.2020年9月15日
9月15日は、北海道旅行4日目であった。HOKKAIDO LOVEというJR北海道のほぼ全列車が6日間乗り放題になる切符を手に入れ、網走観光を終え釧網本線に乗って根室へと向かっていた私は驚愕の真実を知った。
根室市内全ての宿が満室で震えてる pic.twitter.com/RX2HSgHcnp
— べいりん (@FromBayline) September 13, 2020
そう、HOKKAIDO LOVE6日間周遊パスは、その圧倒的コスパにより北海道中の鉄道のある街に鉄オタという鉄オタを引き付ける誘蛾灯のような役割を果たしていたのだ。*1
その晩私は厚岸という街に泊まった。釧路から1時間、根室から1時間半という絶妙な距離にあるこの街で牡蠣料理に舌鼓を打った・・・のはよいのだが、このせいで元々曖昧だった旅程が、完全に崩れてしまうことになってしまった。
2.2020年9月16日
厚岸から始発に乗った私は、根室で回転寿司や引き込み線の廃線跡を見回ったり、納沙布岬で灯台にたどり着けず記念館で終わるなどのアクシデントもありながら、無事根室観光を終えた。
続いて向かったのは釧路湿原である。そしてここで迷った末宿を取ったのが帯広だった。釧路は供給自体が少ないのかハイブランドホテルしか残っていない様相であった。
2020年9月17日
1.帯広→追分
オタクには2種類がいる。体力のあるオタクと体力のないオタクである。そして、俺は確実に後者に属する。体力テストは学年ビリだし、記録は軒並み女子の平均を大きく下回っていた。
そして、体力のないオタクには5日間の旅行は明らかにキャパオーバーであった。起きて30分ツイッターを無為に見る、朝ご飯30分、TikTokでJKのダンス*2をぼけっと見て30分が経って・・・とやっていると、乗ろうと思っていた特急とそのあとの特急まで発車してしまっていた。
さて飛び乗ったのは当初の計画から2時間強遅れた特急おおぞら。本当はこの日はウポポイに行こうかとおぼろげに考えていたものの、予約が必要ということを知らなかったのだった。路頭に迷う私。例のパスで特急に乗るときは車掌に行き先を申告する必要があるのだが、そこで口から出たのはなぜか追分だった。
2.追分→夕張
追分は、夕張や岩見沢等からの石炭が苫小牧や室蘭へ向かう要衝の駅であった。
広い構内が当時を物語っている。まさに盛者必衰。
追分から再び下り列車に乗って新夕張へと向かう。
平成30年、JR夕張線の廃止は記憶に新しい。それによって平行する夕鉄バスが紅葉谷(新夕張駅のある地名である)からまちの方へ向かう唯一の交通手段になった。*3
車内で一日乗車券を購入する。バスは1時間弱をかけて石炭博物館へとたどり着いた。
3.夕張→博物館
石炭博物館が予想以上に面白くて、うだうだしていたらバスを逃してしまった。
さて困った。バス停についたのはバスが発車して5分後のことである。さてどうするか。キャリーバッグを引きずりながら降りるにしても本町が限界であろうし*4どうも踏ん切りがつかなかった。
そして近くには女性運転士のタクシーが静かに佇んでいることに気がついた。あたかも獲物を狙って佇む鷹である。思えば、夏の夕張に車のないよそ者が来るとすれば、訪れるのはここぐらいであろう。さしづめ私は飛んで火にいる夏の虫*5、、、
バス停の脇でスマホの地図とにらめっこしながら数分したころ、脇の道路を一台のセダンが通りかかった。そして窓が開く。
「乗るか?」
それがおっさんとの出会いだった。
4.博物館→清水谷
私がキャリーバッグを後部に乗せ、助手席に座ると同時に車は走り出した。
助手席の足元や後部座席をつぶして拵えてあるベッドにはコンビニ弁当やら生活用品のごみが散乱していた。
「あのタクシーの姉ちゃんすごい目ェしてたな」
それが車でおっさんと交わした最初の会話だった。・・・あの運ちゃんのお姉さんも2000円の獲物を逃がして悲しいだろうな、と思った。
「あ、そうかコロナか。」と言っておっさんは徐にマスクをつけた。この人もコロナは知ってるんやな、と少し安心した。*6まあ、おそらく私が保菌者だったらおっさんは既に感染していたのは間違いない。
車は麓を目指して走った。正直まだこのおっさんを信用はできていなかった。「知らない人の車に乗ってはいけません」という言葉にこれほど合致した状況があっただろうか?まあ冷静に考えれば70そこらのご老人が、二十歳になったばかりのイケイケの青年に勝てるはずもないし、そこまでビビらなくてもよいのではないか、と今からすれば思うのだが、、、、
「どこ行くん?」
私は迷った。何しろこのおっさんは信頼できない、と思っていたのだ。本当はガイドマップに載っていた清水谷の炭住廃墟やら清水谷の町並み、夕張線の廃線跡なんかをこの車で巡れたら最高である。*7が、ここはリスクより安全を取って近場にしようか・・・
「清水谷までで構わないので・・・」
「清水谷からはどうするん?」
そうなるわな。バスだから・・・と返答はする。が、結局遠慮合戦の上新夕張まで送ってもらえることになってしまった。このおっさんが悪い人ではないような気もしてきていた。
「清水谷で何しようとしてたん?」
「炭住と夕張線の廃線跡見に来たんですよ」
「じゃあ駅寄ってくか?」
夕張線の廃駅はすべて封鎖されていた。中には、もう誰にも座られることのない椅子がぽつねんと佇んでいた。
5.清水谷→大夕張
車内では私について質問されて返す感じの会話が続いてきたが、私もやはりおっさんの素性は気になる。
「車内泊してるんですか?」
「道内を車でぐるぐる回って車内泊してるんよ、家にいるより金もかからんしな」
そういうもんなのか。端から見たら気楽でいいな、と感じるもんだが、実際そういう境遇ならそんな簡単なものではないんだろう。おっさんもあまり自分のことを積極的に語りたくはないようだ。これ以上おっさんについては聞かないことにした。
「(石炭)博物館の前はどこから来たんですか?」
「今の時期シューパロダム*8の水位が下がって橋とかが見えるようになってるからさ、それ見に来たんだよね」
「行く?」
なんという僥倖。そもそも夕張行きの計画の時に大夕張行きを計画したこともあったが、最近往復3本の夕鉄バスすら廃止されていたらしく、運転がおぼつかない私は大夕張行きを断念していた。そこに行けるというならこんなに幸運なことはない。
「じゃあお願いしていいスか?」 清水谷から坂道を上がる。おっさんの運転はかなり危なげで、誘拐より事故死を心配するほどだった。俺と会話してたのがいけないのだろうか・・・。そしてともかく、10分のハラハラの末、南大夕張という地区まで上がってきた。
南というからには北もあるのかと思う方のために、ここで夕張の地図を眺めてみよう。橙の文字がある一帯が「大夕張」と呼ばれる地区である。
清水谷や鹿の谷などの麓は三井系列の「北海道炭礦汽船」が開発したのに対し、大夕張は三菱系列による開発であるという違いがあった。*9
麓で、大夕張の鉄道保存遺跡を見に行きたいと言うと、おっさんも実は気になっていたのだという。ここに降り立ったおっさんも興奮している様子だった。根っからの鉄オタの私は言うまでもない。これは三菱大夕張鉄道という鉄道の車両で、麓の清水谷から、ここ南大夕張を通り奥の鹿島地区や炭鉱まで繋がっていた。
おっさんは懐かしいなという。おっさんが70歳だとして、青年の頃、つまり50年前はSLこそ絶滅したものの、田舎、特に北海道ではこういう客車列車は全盛期だっただろう。
おっさんの車に乗り込む。
「湖の方までいこうか」
2人を乗せた車は長いトンネルに入っていった。
しばらく走った車は、トンネルを出たところで脇に入って駐車した。
「デカいやろ」
「デカいっスね」
広大。それ以外に形容する単語が見つからないようだった。オンライン授業のせいで千葉県に押しとどめられていた当時、身の回りでデカい建物と言えば千葉そごうとセンシティぐらいだったものだ。その鬱憤を晴らすようなデカさ。
「もう少し奥行くか」
またおっさんの車に乗り込み、1分かそこら走る。
そして停まったのは、国道からダムに張り出すように広がる広場だった。後から調べたところでは、ここは鹿島眺望公園という名前だという。おっさんによれば、1枚目の写真中央に沈んでいるアーチは鹿島のシンボル的な橋で、ダム建設の時に2枚目中央の橋の一番奥に1スパンだけ移設したんだとか。訪れたのは9月中旬だが、もっと他の季節(おそらく雪解け水が入り込んでくる春だろう)には一杯に湛水されるのだという。
「や~キレイッスね・・・」
「よかったわ」とおっさん。
「道も残ってるやろ」
「キレイに残ってますね~」
クソデカい湖、一大炭鉱街の遺跡、そして1時間前に出会ったばかりのおっさんと大学生。それ以外には何もなかった。通りがかる車さえなかった。*10
「いいモン見せて貰いました」
「やろ?」
ここでウィキペディアの受け売りではあるがシューパロダムと大夕張の成り立ちを簡単に書いておこう。
1929、三菱大夕張炭鉱が開山し、戦後の復興とともに1955年生産のピークを迎えるも、ご存じの通りエネルギー革命を経て炭鉱は衰退、そもそもの石炭自体も枯渇し始め1973年には閉山となった。一方、先ほど訪れた鉄道の遺跡などが残されていた南大夕張地区の炭鉱は、1963年に操業を開始、なんと1990年まで残ったが、時代の波には抗えず同年閉山した。
産業あるところに人あり、人あるところに街あり。「夕張」の歴史は炭鉱とともに始まったが*11、大夕張も例外ではなく、炭鉱の開設とともにまちが発生し、炭鉱と命運を共にしてきた。
上の写真ABは1972年10月に撮影された写真である。写真を拡大すればわかる通り、谷底にはびっしりと炭住(炭鉱住宅)や炭鉱の設備が敷き詰められていることがわかる。
初期の炭鉱はまさに人海戦術であって──人は、この近代産業のシステムに組み入れれれては、吹いて飛ぶような塵芥でもあった。当時の炭鉱勤務は事故と隣り合わせの今風にいえば3K…どころではない勤務状況であったようである。先述の石炭博物館でも模擬坑道が火事で燃え尽きたように、石炭というまさに燃料となるものを採掘するために、逃げ道のほとんどないちいさな穴を掘っていくというのは、事故の原因を何重にも重ねてしまっているのだ。現に、炭鉱というのは平成に入っても事故が起こってたくさんの人が亡くなっている。
当然、それだけたくさんの坑夫は町で暮らさねばならない。そういった人たちに対して生活用品を売る人、酒を売る人、、、したがって、この大産業成立にあっては、まちが形成されるのは必然であった。
1928年、それまで南大夕張までであった大夕張鉄道は北部の大夕張炭鉱まで延伸し、同時に大夕張炭鉱も開通する。それを機に鹿島地区にも市街地が形成されていった。驚いたことに、1962年まで清水谷までの道路が開通するまで大夕張はまさに「陸の孤島」であり、鉄道が唯一の交通機関であったようである。
大夕張・鹿島の孤立具合を表すエピソードがある。最近はコロナウイルスでも何かと話題になっているワクチン。ワクチンについて日本で語られるうえで外せないのがポリオであろう。ポリオの最大の流行であり、生ワクチン輸入の契機となったS35年の流行、その嚆矢はここ大夕張であったのだ。生ワクチン導入の一大キャンペーンを張った当時NHK記者の上田代議士の回顧録に、当時の大夕張・鹿島の様子がよくわかる部分があったから参考のために引用しよう。
昭和三十五年(一九六〇)六月。北海道大夕張。三菱鉱業の炭鉱町で、その従業員が九〇%を占める人口二万足らずの山奥の町である。夕張岳のふもとにひろがるこの炭柱街では、あと二日後に迫った年に一度の山神(さいじん)祭の準備で、人々の心は浮き浮きしていた。なにしろ、ここは陸の孤島といわれる辺ぴなところ。札幌から直線ではかれば六〇キロだが、自動車の入る道はない。わずかに会社の鉄道が一本あるだけ。土地の楽しみは少なかった。まじめな斉藤三千男さんは、山神祭の日、永年勤続で会社から表彰されることが内定していた。「いいことが二つ重なった」と妻のトクさんと喜んだ。その十三日、目の中に入れても痛くない末っ子の四つの美紀ちゃんが、昼ごはんのとき茶碗をとろうとして伸ばした右手をガクンと前に落として転んだ。トクさんは腕が抜けたと思って、いそいで夕張市の病院へつれていった。会社の鉄道とバスをのりかえて、四時間もかかって病院へ行ってみると、医者の顔がきびしく曇った。聞いたこともないポリオという病気、伝染病だという。ほかの人にうつしてはいけないといわれ、保健所からの指示で帰りの鉄道は貨車を一台石灰で真白に消毒され、トクさんと美紀ちゃんは手をしっかり握りながら真暗な気持で帰って来た。つくとすぐ山の上の隔離病院へ。それは鉱業所病院の長い廊下の奥の古びた木造の一棟だった。途方にくれた母親はぐったりと腰をおろした。美紀ちゃんは、まもなく、右足も動かなくなってしまった。三千男さんの表彰どころではなかった。「根絶」 上田哲著*12
時は流れ、炭鉱は近代化され従業員も減るとともに、石炭自体の需要も減少、また大夕張炭鉱の貯蔵量自体も減ってくる。1970年には南大夕張炭鉱が稼働し、それに託す形で大夕張炭鉱はその幕を閉じた。
が、当然ながら働く人には幕は降ろされない。
例えば http://www.ooyubari.sakura.ne.jp/oyubariten01.jpg
や http://www.ooyubari.sakura.ne.jp/oyubariten04.jpg
という写真に収められたように、大夕張を去り他の地へ移る人が多かっただろうが、もちろん夕張に残る人もおり、そういった人のために、清水谷や本町などに多数の団地が建設されていった。*13そして、こうした離坑夫の処遇として観光開発に手を出し・・・となって、一般に知られているように夕張は破綻へと歩みを進めていくのだ。
緑町・千年町・常盤町周辺に家々が少し残っただけで、他は完全に更地になってしまっているのがわかる。
そして、1990年、まさにプラザ合意から5年後、海外産の廉価な石炭に押され南大夕張炭鉱も閉鎖、大夕張から炭鉱は消滅する。
南鉱山閉山から8年後、1998年、シューパロ湖建設のため、わずかに300人が残っていた*14鹿島地区の住人は全戸移転。全盛期に1万もの住人を擁していた南部地区も、現在では400人ほどが暮らすのみとなっている。
・・・
そして、鹿島眺望公園にはいくつもの記念碑が建っていた。
道路開通の碑、ダム対策協議会の碑・・・といった立ち並ぶ記念碑の中に、夕張東高という高校の記念碑が建っていた。調べると1983年に閉校とあるので、まだ南部鉱山は稼働しているときであり、炭鉱従業者もまだ結構な数がいただろう。
「意外と多いっスね」
「そうか?」おっさんの弁。
ほどなく、「これは少ないな~」またおっさんの声。
行って見てみると、小学校の記念碑。どうやらシューパロダムの立ち退きの時まで学校として機能していたらしい。
「1,2,3…13人スかね」*15
13人!一時期には2万人をも数えたという鹿島には、あまりにも小さすぎる数であろう。
http://www.ooyubari.sakura.ne.jp/homepage/oyubari/akasizen.jpg
同じアングル(東高校敷地)から鹿島明石町を眺めていると思われる画像。
参考
このダムの底に人口2万の、煤にまみれながらも活気のあったころの街の様子がひしひしと伝わってくる。
6.大夕張(鹿島)→シューパロダム
2人は再び車に乗り込み、南大夕張へと引き返し始めた。
「そういえば炭住行きたかったんだっけ?*17」おっさんは問う。
「もういいっスよ、もっといいモン見れたんで」
「いやいや諦めちゃいかん、おじさんが探すから」
南大夕張集落まで降りてきたおっさんは不意に左折する。すわ誘拐か?という失礼な疑念が顔を再び出した頃、車はGSに停車した。
「ここで待ってろよ」
おっさんは出て行ってしまう。何かと思ったら、GSのおっさんと会話をしに行っただけのようだ。私は安心した半面、今度はほかの疑念が浮かび始めていた。
(列車間に合うかな・・・)
この日はあいにく最終日で、当日はケツから2番目の羽田ゆきに千歳から乗る手筈になっていた。本来石炭博物館から一本後の1時間後のバスに乗れていれば普通に着けるのだが、、、
(このままだと・・・)
このとき、あえて見ないようにしていた腕時計に目をやってしまったのだ。
よくよく考えれば清水谷と大夕張は離れても5kmだろう、そんな寄り道で遅れる分なんてたかが知れている。地元のおっさんと会話できる機会より飛行機当日券代の方が安いだろう、だが、高3の春以来、受験と浪人、コロナ禍で2年半も一人旅をお預けにされていた私の身には、少しの誤差であってもナーバスにするには十分だった。
さらに間の悪いことに、新夕張に停車する特急は、予定していたものの後ろだと3時間も開くことになっていて、チェックインにすら間に合うかは微妙だった。
10分かそこらの会話を終えておっさんが帰ってきた。
「~なんスけど・・・」と事情を話す。
「大丈夫だそんなん、平気で帰ってこれるわ」とおっさん。
この1時間の小旅行を経て、私はこのおっさんに不思議な信頼感を覚えていた。このおっさんが大丈夫というなら大丈夫なんだろう。
「ダムこっちらしいで」
「あ~上がれるンすか」
シューパロダムの大眺望を楽しみ、2人は坂を集落まで降りていく。
「さっきのGSの人に聞いたんだけどさ」とおっさん。
「はい」
「さっき言ってた炭住はここいっぱいに広がってたんだってさ」
「こんな広いところいっぱいにスか」
それは、あまりにも広かった。人が何人も住んでいたのだと主張するものは、あったにせよこの広さの中ではないも同然だった。
「は~こんな広い空き地一杯に広がってたんスね」
「兵どもが夢のあとだな」
「ダム建てるときに、炭住全部壊さないと国から補助金出さないと言われたんだと」
「なるほど・・・残してくれてもよかったと思うんスけどね」
「黄色いハンカチ広場には残ってるらしいぞ」
「寄ってくか?」
「いや~そういう観光っぽいのは・・・」
私はあくまで生活の一部として機能していた炭住を見たいのであり、別にそういう文脈から切り離されたものにはあまり興味が湧かなかった。*18
「そうか」
おっさんも特に興味があるわけでもなさそうだった。
※場所は違うが、鹿島の明石町の炭住の写真
http://www.ooyubari.sakura.ne.jp/oyubariten027.jpg。南部地区は開発が遅いので、もう少し近代化された炭住ではないかと思う。
※行く予定だった清水沢某所の炭住*19
7.シューパロダム→新夕張駅
「じゃあ、紅葉谷*20行くか」
あれだけビクビクして始まった小旅行ももう終わりか。少し悲しいような気持ちになる。
「道空いてるし余裕で駅着くと思うから」
「札幌はな~いっつも混んでるんだよな」
「碁盤の目だと逐一交差点がありますもんね」
「札幌も行くんスか?」
「息子が結婚して住んでるからたまに会いに行くんだよ」
正直、失礼ながら驚いた。失礼ながら車中泊で北海道中を走り回るこのおっさんに嫁さんがいたとは・・・。ここでふと拓銀破綻を思い出した。バブル崩壊後、北海道第一の銀行だった北海道拓殖銀行が、その極端な拡大路線が祟り1997年に破綻し、北海道経済に大きなダメージを与えた事件だ。このおっさんが今70歳なら47歳である。もしかしたら・・・ いや、詮索はあまり趣味がよくない。*21
自分から言ったのか聞かれたのかは忘れたが、●大生なんです~と言ったら、●大に通うような人にはわからんだろうけど~・・・~云々と言われる。いや、すいませんの一言。
「ここまでどこ行ってきたん?」
「札幌から稚内、旭川、網走、根室とかを通ってここまで来たんスよ」
「おお~じゃ北見も通ったんだな」
「北見に家があるんだよ」
車中泊なのに家があるんだ、と思ったが、逆に家という帰れるベースがあるからこそこういう放浪の旅もできるのかな、と思った。*22いや、車中泊をしたことがないので完全に推測だけど。
「ハッカとか有名ですよね」
「いや~ハッカは数人の趣味で細々やってるだけで大したもんじゃないんだよな、アレ」とのこと。北見といえばハッカではなく玉ねぎらしい。他にも、カーリングの4人娘にあやかって新しく2件目のカーリングの施設を建てたが、「誰が使うんだよ」との談。へ~と思った。いや、その後何も考えず新千歳でハッカ飴買ったんですけどね。
8.新夕張駅
そんなこんなで車は新夕張駅に着いてしまった。
「ありがとうございました。ホントに助かりました。」
「じゃあな」
そうして車は今晩の宿だと言っていた道の駅(すぐそこ)に向かって走り出した。そういえばあのおっさんの名前聞かなかったな、とちょっと後悔した。写真も撮らなかったので執筆現在顔も忘れてしまっている。元気でやってるんかな?情報あったら教えてください。
結局道の駅に入っていったおっさんを追いかけるように道の駅に入る。そしてまだ営業していた一店舗で夕張メロンアイスを食べた。甘かった。夕張メロンは炭鉱を失い、観光も失敗した夕張において、最後の種で咲いた希望の花のようなものだろうか。
新夕張駅では一人女子高生が迎えを待っているようだった。そういえば夕張に入ってから若者に会っていないな、と思った。地方、特に旧製炭地の過疎化は大きな問題になっていることは知っていた。夕張で見てきた施設で若者が集まれるようなものはいくつあっただろう?私と同年齢の20歳の青年は夕張で何をして、何を考えているのだろう?話がしてみたいな、と思った。
私の住んでいる千葉県の県中部の東京湾岸には、たくさんの石油コンビナートがある。私の地元の友人でも石油会社に親が勤めている人はたくさん居るだろう。50年前、エネルギー革命によって世の中を動かす主役は石炭から石油へと移り変わった。そして今、世の中を動かす主役は、石油から核融合や原子力、太陽光といった、次世代のエネルギーへと移り変わりつつある。こういった世代の革新はエネルギーだけでなく、社会を構成するいろんな要素に言えるんだろうと思う。
これは仕方ないことであり、歓迎されるべきであることは確かだ。でも、私は、消えゆくものにも、眼差しをむけられる人間でありたいと、そう感じた。
*1:夏休みなら埋まっていても不思議ではないが、若干オフシーズンの感のある9月中旬にしてはかなりの混雑率だったと思う
*2:これは何も私がJKのダンスを自発的に見ているのではなく、TikTokが勝手に私のいいね傾向を認識してJKのダンスをレコメンドしてくるだけなので全くやましいところはないのである
*3:夕張のメインルートは本町のあたりから西に由仁や野幌まで抜けるルートである
*4:夕張市は北から士幌加別川に沿って本町、鹿の谷、若菜、狭窄部を挟んで清水沢、そして新夕張駅のある紅葉谷の大まかに5つの地区があり、今回はバスで清水沢まで戻って観光する予定だった。本町までは多分1.5km程度。
*5:ちなみに当地の気温から言えば、9月中旬はもはや秋である
*6:よく考えたら車内にはラジオがつけっぱなしだったのでそりゃそうだろう。
*7:免許取り立てで知らない土地を運転するのは無理だと思ったのでバスにしたのである。
*8:https://goo.gl/maps/NdhywUDKYjggHPq26
*9:炭鉱開発から中小地元資本が駆逐され、東京大阪の財閥による経営になったことは、北海道経済の弱さをつくる一因となったとも言われる。
*10:脇を通るR452は、50km先の三笠というこれまた炭鉱街の小都市まで結んでいるが、道中民家は殆どない。
*11:夕張として命名される以前にもこの地に住んできた人たちの築いてきた歴史についても忘れられてはならないことは当然だが書いておく
*12:http://jappan.zouri.jp/konzetu/e-1bu-2.htm
*13:もちろん、これらの団地は大夕張以外の炭鉱従業員も対象としており、それゆえ、夕張には普通の地方都市と比べて尋常でない量の団地が存在する。
*14:もちろん、シューパロ湖計画を事前に知っていて、それよりずっと前に越した者はカウントされてはいない
*15:当時おっさんとの会話に夢中で写真を全然撮っていなかったのを今更後悔している。この碑は→のリンクに載っているのと同一のもののようなので、これを参考にした。http://haikouinspect.web.fc2.com/yubari-kashima.html まだ水没前の探訪記録のようだ。
*16:余談だが、後日、たまたまシューパロダムのレポートの呟きが目に入ったので見てみると、この記念碑群は横暴なるダム行政の犠牲になった”墓標”だと言う。私はなかなかうまいことを言うな、と感じ入ったとともに、何か得も言われぬ怒りも感じたものだ。この記念碑の後ろに書いてある人々の名前、その人たちが碑を後ろに鹿島を去っていったときの心情を考えると、墓標という2文字はあまりにもその想いに対して文字数が少なすぎるのではないだろうか・・・。
*17:駄文をぐだぐだと書いたので冒頭忘れたかもしれないが、そもそも石炭博物館からあの時間のバスに乗りたかったのは清水谷で炭住を見たかったからなのだ
*18:しかも内部は黄色い付箋で埋め尽くされているらしい
*19:どうでもいいけど、炭と住・・・炭、柱・・・
*21:ブログに書くのはもっと趣味が悪い。
ある二次元画像の出元を巡る一夏の冒険
まずは次のリンクを見てほしい。
https://www.google.com/search?q=%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%B3
スマホで見るとおそらく結果の一番上に画像検索の結果が横一列に表示されているだろう。*1
その一番左の画像をタップしてみてほしい。
かわいいね
-本題-
このかわいいカレンちゃんの画像を保存しようと思い立ったわけである。が、この画像、メチャクチャ解像度が低い。
こういう時、私は大抵Google画像検索をする。そこから他のサイズを探す→サイズ大を選ぶだけでとても品質のよい萌え絵を手に入れることが出来る。
そこで今回もこのプロセスを試みたのだが・・・
あれ?
しかも、この画像群、それぞれクリックするとわかるが全部同じ低解像度である。(※真ん中のサイトは詐欺スクリプトが動くようになってるのか、広告が悪さしてるのかわからないが、とにかく例のウザいポップアップ詐欺広告が出てきたので開かない方が良い)
ここに来て万事休すかと思われた。
が、適当にこの中の1つの画像を適当に選んで*2もう一回画像検索する。こういうときには粘りが肝心である。
が、出てきた画像検索結果はさっきと同じサイト3つだった。
またまた万事休す。が、諦めきれないので「すべて」タブを開く。下までスクロールする。すると・・・
「一致した画像を含むページ」なる謎のコーナーが出てきた。意味不明。一致した画像を含むページを発見したら画像の検索結果タブにも表示してほしい。社会人として当然のことだと思うんだが?*3
下までスクロールするとガッツリ高画質な画像を発見。この画像でサーチすると・・・
たくさん出てきた。これまでの経験も併せて踏まえると、おそらくGoogleの画像検索エンジンは、低解像度な画像で検索すると、例え同じ高画質画像から派生した画像群とマッチしなくなる傾向があるっぽい。理由は不明。*4
とはいえ、このサイト群をよく見ていくと、3分の一ぐらいがツイッターの生誕祭タグのツイートに載せられた画像、3分の一が萌え画像まとめブログ的なもの、残り3分の一が外国のまとめサイトのようだった。日本のアニメの海外人気を語るのは今さらジローという感じだが、それ故海外にもやっぱりこういうサイトはあるんだなとちょっと感動。英、中、韓、あとフランスとかタイもあるっぽい。余談だけど作者の意図なんてお構いなしにここまでコピーされるっていうのは、やっぱりインターネットって怖いね。ワイモバイル解約してみまもりケータイだけで生活しようかな
高画質な画像は獲得できたが、所詮これらは違法アップロード。車で左折の時は後方確認の後合図を送った上再度安全確認をしたのちに路の左端に寄るなど、遵法精神に満ち溢れた私としては、どうしても大元の作者のページからDLしたい、というのが遵法人(じゅんぽうびと)の性である。そこで、これらのバナーの中から、作者のアップロードしたであろうサイトを見つけようと試みていく。
海外の転載サイトは論外として、ツイッターのタグツイートも、いくつか覗いたが出典を記載した物は無く。
最後に残されたのは、イラストまとめサイトである。この中から、一番アフィ臭のなく、なんかいい人がやってそうなイメージのNAVERまとめを開く。スクロールし、問題の画像の所まで来ると、なんとそこには出典の2文字が。
ブロマガ?という所も作者のブログっぽくて期待大。
開いてみるが・・・
まあ予想の範囲内である。こういうときには伝家の宝刀WebArchive。
あっそ。まとめサイトでした。NAVERまとめに期待したワシが悪かった。
次に開いたのはこのサイト(。*5モロアフィサイトである。タイトルにエロ絵と入っているものの、普通に公式絵も入っておりかなり失礼なページである。
カスみたいなアフィサイトではあるが、謎の真摯さを発揮し、二次元画像詳細検索なるリンクを表示してくれている。ご厚意に甘えてクリックしてみよう。
なんかめちゃくちゃ有能そうなサイトに行き着いた。どうやら有志のエンジニアが運営している二次元画像の検索サイトらしい。
もの凄い精度である。二次元画像が挙げられがちなサイトを中心にクロールしている?のかわからないが、Google画像検索とは大違いである。最近低質サイトの氾濫でGoogle検索結果の信憑性が落ちggrksが成立しないというのがよく言われているが、これもその一例といえるだろう。世界規模だから正義とは限らんのである。
が
悲しすぎる。正直大学の入学式が中止になったより悲しいかもしれん。 やっぱ嘘。
これを見る限り、「犬。」もしくは「。」というユーザーが「カレンちゃん」という題でアップロードしていると推測できる。
で、オタク御用達Twitterで検索すると
やはりこの絵は存在したらしい。
これらのサイトをアーカイブにかけてみたが、やはりhitしなかった。まあ、よく考えれば会員登録しないと見れないサイトはクロールされないので、致し方なし。*6
ここで、一夏の冒険は突如終了を迎えてしまった。とはいうものの、もうツイッターできんモザはじめ女の子の絵を追って4?5?年、正直あの人かな?という予想はついた。まあ、あの絵が存在したということが確かにわかっただけでもヨシ!
まとめ
このサイトすげえ
*1:Googleは、検索ワードの種類をAIが判別し、たぶん何かの人物なら画像が一番上に出るようになっている。これは簡単なようでかなりレベルが高いことである。
*2:執筆の途上で再現したが全部の画像で実行可能だった
*3:よくわからんけど天下のGoogleの縦割り的な何かなのか
*4:この仕様のために、200pixelの画像、400pixelの画像・・・と芋づる的サーチをこれまでよくしてきた。ガチで意味不明。
*5:http://nijinchu.com/anime/%E9%87%91%E9%AB%AA%E7%BE%8E%E5%B0%91%E5%A5%B3%E6%88%90%E5%88%86%E3%81%AE%E8%A3%9C%E7%B5%A6%E3%81%AB%E3%80%81%E3%81%8D%E3%82%93%E3%81%84%E3%82%8D%E3%83%A2%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%81%AE%E3%82%A8-2「金髪美少女成分の補給に、きんいろモザイクのエロ画像を集めましたvol.2」というサイト。しょーもないアフィなので全然見なくていい。
*6:クローズドなサイトのアーカイビングも、インターネット界の今後の議論の一つなのかもしれん。もうこの絵は消えてるので間に合わないんですけど
大変な途中下車ランキング編集後記
※この動画は次の動画の編集後記です。[http://www.nicovideo.jp/watch/sm33513602
:embed]
色々不手際申し訳ありませんでした…。
データ載せておきます。
pdf: https://ux.getuploader.com/Bayrin/download/1
※以上は2018年5/1時点でのデータです。PickUpは別個で6/10にデータを収集しています。
「大変な途中下車」シリーズの年別投稿数。
PickUpに時間の関係上載せられなかった動画をご紹介しておきます。
本当に旅行に行きたくなるMADですよね==紀伊半島行きたいです・・・
地下鉄合作の前にテーマ誰得動画で載せようと思ってました。ルノレさん(給湯器の人)の作品を載せられなかったのは痛恨の極みです…。2011年から動画の投稿がないのですが、当時の有名な作者さんが今何をしてらっしゃるのか、少し気になります…。
凄い面々が揃われてますよね…。
私の記憶に残る最古の途中下車MADなので思い入れも深いです。当時はメアドが作れなかったのでnicozonで見てました(笑)
…まだまだご紹介したい動画は山ほどあるのですが、紙面の都合でこの辺で。
今度は自分も作る側に回ってみたいですね。それまでは、作者様の素晴らしい動画を楽しみにしながら編集に励みます。ランキングも結構好評みたいなので嬉しいです。ではまたどこかで…
多田李衣菜とピーターパン
”I don't want ever to be a man," -Peter and Wendy, 1911, J.M.Barrie.
冒頭の一文は、かの有名なピーターパン(Peter)の発した言葉である。
-I dont want ever to be a man(僕は今まで、大人になろうとは思うことはなかった)。
この言葉は、ピーターパンとは何者なのかを端的に表している。
ー「大人ではなく、子供」。
或いは、その造形をこうなぞらえる人もいる。
ー「大人になりたくない子供」と。
*
*
話は変わるが、読者の皆様はアイドルマスターシンデレラガールズをご存知だろうか。私がそのデレマスと出会ったのは一昨年、高2に上がった時のことだ。
昔から音ゲーは嗜む程度には遊んでいたので、スマホでも音ゲーを遊びたいなぁ、と思いデレステをインストールしたわけだ。当初から高森藍子さんに惚れ込んで一応藍子Pを名乗ってきたわけだが、その話はまた今度。
しばらくプレイしていると石も貯まってきたので、ガシャを引いた。何回か引いた後、最初のSSRが出た。SSR[目を開けて見る夢]多田李衣菜。NもRもSRもそんなに引いてなかった時分だったから、あれが多田李衣菜との最初の出会いだった気がする。
それから半年経った頃、丁度5thのSSA公演があった。音ゲーから入ったものの、折角だしということで近所の映画館のLVをとって、始まるまでの間、コミケのアフターにふらっとSSAを訪れた。
*
…嗚呼、けやき広場のあの熱気!たくさんのプロデューサー!そして、LV会場に広がるコールと一体感、そして高揚アンド高揚の4時間……
もしあの日チケット代を参考書に回していたなら、未だにCDを買うこともサイリウムを折ることもなかったであろう……それほど私は感情を動かされたのを覚えている。
*
デレマスに触れ始めた私は、CDを買い集め始めた。確か、その内に多田李衣菜歌う"Twilight Sky"のフルを初めて聴いた。
私は泣いた。 いや、PCで取り込み作業中だったから涙は落とさなかっただろう。だが、確かに泣いた。俺が後生大事に思っている、卒業したくないと思っている「青春」が……甘酸っぱさ、将来への希望、そして幾ばくかの不安といった「青春」が、儚さもそのままに全部内包されている。体現されている。そう思った。
*
*
この時からだろうか。折しも三年生に入ったばかりの時であったから。私は、この”高校生"という尊い時間が、友人との時間が、「青春」がいつか終わる、そんな残酷な真実を、図らずも目の当たりにすることになってしまったのかもしれない。それ以来、"高校生”から変わりたくないというような漠然とした思い、郷愁のようなものを、ずっと抱えている。
*
話はピーターパンに戻る。ピーターパン症候群というものをご存じだろうか。永遠に子供のまま、大人になろうとしない未熟な成人男性のことを指している。それに類似して、永遠に子供と大人の間に漂流する大人は、”モラトリアム人間”と呼ばれる。提唱者小此木圭吾によれば、そんな人間が増えているのだという。
*
多田李衣菜はアイドルであり、”本物”だ。実際にそこにいるような感覚すらある。まさに、青春の”偶像”だ。そう思う。でも、彼女は、そこに留まろうとはしない。
未来永劫変わらない◇それじゃつまらないよね …Twilight Skyでもそう歌っている。
私は、ここに教えを得た気がする。青春の記憶をずっと内に持ちながら、自分を変えていく。成長していく。これこそが多田李衣菜の生きざまであり、俺の行くべき道である、と。ロックだなあ。ロックなアイドル、多田李衣菜の真髄だ。私はそう思う。
*
Peter and Wendy の最後では、ウェンディはピーターと別れ、ピーターパンはまた新たな子供のもとに向かう。そこから言えば、多田李衣菜こそピーターパンなのかもしれない。子供の成長の一ページに道標を括り付ける、そんな役割。一つ李衣菜がピーターパンと違うとすれば、多田李衣菜は自分自身も成長の途上にあるということだろうか。
*
私はピーターパンなのかもしれない。ただ、JMバリーの書いたピーターパンと今の自分が違うのは、自分に”大人”が迫っている、ならないといけない。という自覚と、多田李衣菜というアイドルだ。彼女を”青春”のシンボリックとして。”成長”の道標として。この先人生を歩んで行けたらなあ。と思う。
…まずは大学入試ね。来年の2月、卒業して成長できるようにしたいわね。あと半年、多田李衣菜と、高森藍子と、アイドルと、青春の記憶を胸に頑張ります。
(追記)多田李衣菜の誕生日は6/30なのになんでこんな時期にと思った方もいるのではないかと思いますが、誕生日を迎えた後、背伸びして日常を眺められる誕生日翌日こそ、このテーマにふさわしいと思ったんです。…てかっこいいこと書いたはいいものの、推敲してたら普通に翌々日になっちゃいましたね(悲しいなあ)
bus/S39年度版全国バス路線便覧をさがしています
これを言いたいがためにブログを作ったといっても過言ではないことですが
私は現在高校の部活で研究のようなものをやっているのですが、その過程で「全国バス路線便覧(昭和39年度版)」が必要になりました。本来なら籍のあるはずの運輸総合研究所図書室にもなく、国交省図書館も紛失中だそうで途方に暮れています。
そこで、お願いがございます。もし、この資料の千葉県の掲載されている辺りの複写をお持ちの方がいらっしゃったら、そのデータを頂けないでしょうか。それがなくても、何か情報がありましたら教えていただけると幸いでございます。
高2でまだまだ青二才でございます。皆様の温かいご支援を賜ることができれば、これ以上のことはございません。どうかよろしくお願いします。
(追記20170801)とある方のご厚意により、必要なデータは収集できました。どうにか見つかってほしいものです。