手帳の話
ほぼ日手帳のラインナップが出てた。
うーん迷う。
今年は20代のうちにやりたいこと手帳を使ってたんだけど(使ってるうちに20代でなくなった……)
月単位週単位でTODOや目標書いたりできて、結構使いやすくて良かった。
去年までは数年間ずっとほぼ日のオリジナルだったんだけど、一昨年くらいに出た真っ赤な革のカバーを買うか悩んでた間に無くなってしまって、それがわりと悲しくて去年はほぼ日にしなかったんだよな……
体調とか書く用にweeksは使ってるけども。
TSブラックを何年か使ってるし、やっぱり革のカバーがいいよ〜〜来年のスカイブルーも綺麗だよ〜〜〜でもエナメル加工は嫌だよ〜〜〜
weeksは
このふたつのどちらかかなあ……
やっぱり小物は赤色のものが好きだな。
長年手帳を使ってるけど、未だにどんな運用をするかって定まってなくて、手帳に引っ張られてる感じが無きにしもあらず……
でも、マンネリ感はないし、そのためにテーマ性の強い手帳を使うのもアリかなと思う。
日記でもあり備忘録でもあり体調管理でもあり、って、全部詰め込めたら振り返るのも楽だよな、と思う一方で、
これを見れば自分の体調のことだけが分かる、これを見れば仕事のことだけが何でも把握できる、これは思い出が、これには目標に向かう姿が、って、そのときに欲しいものだけを得られる手帳がが1冊ずつあるのも、それはそれで面白いんじゃ無いかと思うんだよな。
最近ひとつ目標ができたので、それに向かうための手帳が一冊欲しいと思っているところ。
来年の手帳はまたゆっくり考えることにする。
同担拒否
ぼんやりしていたら、全然ブログを書かないままに数ヶ月経ってしまった。
特別に書かなければならないことがあったわけでもなかったけれど、そういうことがなくても何かしら書けたらと思って始めたのに、気負ってしまっていたかもしれない。
好きなものがたくさんあって、でもそれらのどれをも一生懸命好きでいられているわけではない気がしている。
何かを好きでいるとき、それを必死で好きでいるための理由が必要だと思っているからかもしれない。
何かをはじめるときに、それを必死で行うための理由が必要だと思っているのと同じように。
それが単なる家の掃除であれ、仕事であれ、趣味であれ、そうなのだから、下手くそだなあと感じる。
唯一、本を読むことだけは気負わずにいられているのだろうか?
前に本をたくさん処分したのに、また本をたくさん買ってしまっている。
装丁やタイトルや、たたずまいだけで買ってしまう。
それは浪費かもしれないけれど、買って読むだけで、(ほぼ)完結された楽しい思いができるのだから、三千円で10連回してドブを引くよりコスパも良いのではないだろうか?
あ、のめり込むように好きになると、お金を積まないと好きでいる資格も無いと思われそうと思っているから、というのもあるのかもしれない。
ソシャゲなら課金しないとダメ、
アイドルならCDを積まないとダメ、
舞台なら全通してグッズ全買いしないとダメ、みたいな。
欲しければ課金もするしCDも買うし生写真も買うけど、自分や他人のその部分ばっかりに気にかかって、楽しいだけで楽しむことをすぐに忘れてしまいそうだから、楽しむのが下手だなと思う。
もっとひとりで楽しむことに馴れないと。
だれかと比べることをやめて、自分だけで、自分の世界だけで楽しむことを忘れないようにするほうがいい。
何を楽しんでいたのか、すぐに忘れてしまうから。
そんなわけで、同担拒否でがんばろうね。
プラスチックのイヤリング
私はいま、東京でひとり暮らしをしている。
4年前の今ごろに、東京で就職するためにマンスリーマンションを借りて上京した。当時は前の職場の近くに借りていたアパートを引き払って、実家に戻りかけていたところだった。
引越しの荷解きどころか、家具以外の、書籍や服などのほとんどは段ボールに詰めて貸し倉庫に置いているような状況で、身体だけがこの家にいるという状況だった。無職だったことも相まって、20年以上住んでいた家だというのに、ひどく居心地が悪かったのを覚えている。
荷物をすべて実家に戻したら、とも言われていたけれど、来シーズンの服も鞄も靴も、大量の本も、そのままにしておいた。この家にはこのあともずっと居るわけではないのだろう、と思っていたからだ。
一度家を出て、よく分かった。私は、20年近くを過ごしたこの家からは、できるかぎり、離れていなければいけないのだと。
子供のころ、とにかく家が穏やかであるようにと、日々頭を働かせていた。
祖母と母の嫁姑間の仲が、どうしようもないほど悪かったからだ。
祖母は父と私のことを愛し、母と弟のことは疎んだ。母のことを「おかあさん」と呼ぶとひどく気を悪くするので、お母さんという単語を発することはなくなった。寝る時も私だけが祖母の隣だった。買い物も、出かけるときも、家で過ごすときも、私は祖母と一緒だった。家族としての単位で出かけることはあれど、私が母とふたりで過ごした時間はほとんどなかった。
祖母のことは好きだった。けれど私は、母のことも好きだったのだ。父のことも弟のことも祖父のことも好きだった。
それでも、祖母と父以外の家族を好きだと言うことも、笑顔で話すことも、祖母の目があるとうまく出来なくなった。しないほうが家庭が穏やかに保てるからだ。
食卓に離婚届が置いてあったことも、母が泣きながら家を出て行ったことも、祖母が家出しかけたこともある。怒鳴り合いになったこともよくあった。自分も含め、家族全員の怒鳴り声を知っている。怒鳴っても何の解決にもならないのに、怒鳴るしかできない。怒鳴らずにはいられない。それが嫌で仕方なかった。
いまでも私は、誰かの怒鳴り声を聞くとぞっとする。
小さいころは怖いと思って言うことを聞いていたが、それが哀れに思えるようになったのはいつからだっただろう。
祖母が死ぬまでに、「死ねばいいのに」と数え切れないほど思った。少なくとも祖母がいなければ、こんな諍いは起こらないのだからと何度も思った。けれど、18歳の夏、祖母の死に顔を見ながら、「死んでよかった」なんて、少しも思えなかった。
葬儀の折に、声を詰まらせて膝を折る父の背中を、目を腫らせて泣く母の頬を、180センチの身長を揺らして号泣する弟の横顔を見ながら、ようやく家に安寧が訪れるのだと思いながら、ただ、彼女に愛されていた18年間を思った。
愛する方法が下手くそだった祖母が嫌いだった。我関せずと何もしなかった祖父が嫌いだった。祖母と母の間をどうしようもできなかった父が嫌いだった。うまくやれなかった母が、そもそもこんな家に嫁に来てしまった母が嫌いだった。母に愛され、自由に育った弟が嫌いだった。
たぶん今も、だれのことも許せていない。だけど、家族だからそれでいいはずだ。誰のこともこれ以上嫌いになりたくなくて、そのために家を出た。正解だったと思う。
おかげで、みんな思い出として美化されて、いま家族に対して憤ることはない。穏やかでいられる。
毎日顔を合わせることがないと不満は生まれない。ただ、心配だけが生まれていく。身体を壊していないか、元気でいるか、喧嘩していないか、困ったことはないか。
そういうふうに思えると、少し安心する。
私は、家族のことが嫌いなわけではないのだ。
家族のことを愛している。
いろんなことはあったけれど、わたしの子供時代は、家族の中にいたわたしの人生は、しあわせだったのだと思える。
子供の頃、たまに、子供向けのアクセサリーの通販を使っていた。
今みたいにネット通販がない時代だったから、小さいパンフレットのようなカタログを見ながら、欲しいものを吟味してハガキに書く。到着を待ちわびる日々も楽しみのひとつだった。
あの頃からアクセサリーや雑貨を見るのが好きだった。すべてを買えなくても、きらきらしたものやかわいいものを見ているだけで楽しくて、幸せだった。
服やメイクに無頓着な母と違い、祖母はいくつも高い眼鏡を買ってきたり、カシミヤのコートやシルクのブラウスを何着も買ったり、出かける時は行き先が病院であってもきっちりメイクしていくタイプの人だった。
上質なものが好きで、自分を飾るのが好きで、革の靴が好きで、アイシャドウが好きで、いい匂いのする化粧水が好きだった。若い頃はこんな服を着た、歌を歌うのが好きだった、と話すときの祖母の顔は、女の子そのものだったことを覚えている。
私が「お揃いでつけよう」と言って、選んだ色違いのヘアピンを、銀色のような、美しい白の髪につけてくれていた。
ああなりたくない、と何度も思った祖母と、同じようなものが好きだ。
顔も似ているのだ。きっとそっくりな女に育っている。
祖母にいくつも買ってもらった、プラスチックのおもちゃのアクセサリーのように、心のどこかできらきらとしている。
いまは手元になくても、私にとって懐かしく、軽く、ただ美しく見える。
思い出に、似ている。
わたしにとっての家族とは、そういうものなのだ。
私も同じように、家族に愛されている。
こんなに傲慢でいられるのは、その自覚があるからだ。
だから、いつか泣く日が来ることも、分かっている。
Another Day of Sun
ラ・ラ・ランドを見てみぞおちのあたりになにかが突き刺さった元、夢追い人は多いのではないだろうか。
私もふつうに突き刺さり、えぐられて、序盤と半ばでぎゅうぎゅうと胃が痛んだ。
わたしの夢って、なんだったっけ?
小学生のときの文集には、アナウンサーと書いたのを覚えている。理由は覚えていない。
毎日のようにノートに漫画を書いていた時期もあったのに、なにがどうなってそうなったのだったろう。
話すのが好きだったからかもしれない。
中学生のときは、少女漫画家になりたかった。その夢は、高校の二年生まで続いた。
投稿用の漫画原稿用紙に書き、りぼんに投稿していた。少なくとも、10代前半の私にとっては本気の夢だった。
賞にはかすりもしなかったけれど、漫画を描くのは苦しく、楽しかったように思う。
大学受験を迎えるころには、私にはクリエイティブな仕事はできないのだと、どこかで諦めを感じていた。
高校二年生、志望校を決めるころになった。
まだ漫画を描くことも、絵を描くことにも希望があると思っていた。美大か、デザインの勉強の出来る学校に行きたいと思ったことが、たぶん、一応、おそらく、私にもあった。中学時代の友人にも、高校で出来た友人でも、美大やデザインの学校を目指す友人がいたから、私もそういう道にいく選択肢はあるのだと思っていたのだ。
けれど親には当たり前のように反対され、そして、私はそれに反論できるほどの情熱を示すことができなかった。
学費も高いし、美大を受けるには美術の塾に通い、デッサンが天才的に上手くないと受ける資格さえないのだという聞きかじった知識で、自分を納得させた。一度家で大暴れしたのを覚えているけれど、それでも具体的に親を説得させることはできなかったし、当時の私はデッサンや受験美術の知識も興味もない、ただ落書きみたいな漫画を描くのが好きな子供だっただけなのだ。
結果として入った県立の大学は、学費がすさまじく安く、金銭面で親に負い目を感じずに済んでいるのでそれはそれで良かったように思う。卒業後に普通の企業の普通の新卒として働き、普通の道を普通らしく歩めたことは、少なからず、損ではないと思っている。もしくは、いまだに、自分にそう言い聞かせ続けているだけなのかもしれないけれど。
映画を観たあと、大きな本屋さんに入って表紙を眺めた。前から欲しかった本と、表紙を見て気になった本を手にとって、レジに向かった。映画の時間が遅かったので、もう閉店間際だった。
「カバーはおかけしますか?」と聞かれて、つい「お願いします」と言ってしまったあとになって、蛍の光が流れていることに気付いた。ソフトカバーが二冊と、それなりに大きいハードカバーの本が一冊、さすがに申し訳ないなと思った。
「そのまま袋にいれてください、自分で巻けるので」と言った。
口に出してから、大学生のころに本屋でバイトしていたことを思い出した。
百貨店の11階にあるお店だった。百貨店が好きだったし、地元にはない大きな本屋だったから好きだった。
カバーを巻くのが好きだった。ラッピングをするのも。日曜日みたいな混みあう日に何冊もカバー巻きをお願いされると、大変だと思いながらもその中でさっさっと紙を伸ばして、本を包むように巻くのが楽しくて好きだった。
家に帰って、当時と同じようにカバーを本に合わせて折り、包む。
新しく買った本から覗く見返しが、とてもきれいな黄緑色の、柄の入った特殊紙だった。もう一つの本はパープルで、美しかった。
本を並べながら、こんな本を作れたら、と思ったことがあったことも思い出したし、これは今でもたまに思ったりする。
けれどそれは夢の形にさえならずに、終わっているようにも思う。
デザインやクリエイティブな仕事は、私には無理なんだと思っている。
多分、それを叶えてくれていたのが、同人誌だったのかもしれない。
仕事じゃないから楽だった。
変なデザインも、同人誌だから楽しくできていた。
変な文章も、同人誌だから楽しく書けていたはずだった。
なんだか今は、それがちゃんとした「作品」にならなきゃいけない気がしていて、
誰にも強要されていないのに、仕事みたいな気がしてしまっていて、作ることもできないでいるんだけど。
飛び込むことを恐れている。もう勝手に傷つくのがいやだった。だれかに、何かにおもねったものを書くか悩んだ。挑戦するのもこわくなった。つまらなく感じるようになった。逃げ出した。
逃げ出して、関係のない世界で生きようとしている。誰にも評価されないでいようとしている。
いきてるだけでも誰かに評価されているのに、おまけに、自分の評価が一番厳しくなっている。自分自身で、ばかばかしいほど息苦しくしている。
飛び込んでいくことは、こわい。
でも飛び込んでいかなきゃ、何も始まらない。
だからって、何も準備せずに飛び込めばいいってことじゃないから、日頃から、いつでもとびこめるようにしておかなきゃいけないんだ。どんなチャンスが、どんなひらめきが突然、あるかわからないんだから。
そう、思っている。思おうとしている。
この作品からは、夢追い人的な意味以外にも、腹の奥のあたりに沈み込んできたものがあった。
風に翻るきれいなワンピースや、ステップを踏むように地を叩くうつくしいハイヒールを見るのが好きだ。
それだのに、美しいものを着こなすことのできる美しい女からはるか遠い女であるわたしの、
誰かとの甘く淡く激しいふれあいをすっかりなくしてしまった女であるわたしの、
重い、ずんとした気持ちが。
次は、それに向き合わなければいけない。
何もかもが億劫になるとき
そういうときの心理状態はやっぱり、変わることや失敗することへの怖れなんだと思う。
いつから、何かを発言したり何かをつくったりすることがただ怖いことになってしまったのだろう。
自分自身も、他人の意見や作品を全て受け入れることが出来ないし、それでいいと思ってる。排他的な部分があるのに、自分のことはそれで許している。他人のことも、許せないわけではないはずだ。許す許さないという他者に向けた思いは、たぶんあまり無い。ただ怖い。何が怖いのかといえば、たぶん、傷つくのが怖い。ひどく主観的な感情だ。
だれも、私を傷つける意図はない。むしろ誰かが私を傷つけてるなんで思わない。そんな他者からの何かにさらされるほど、私は著名ではない。それを分かっているのに私は勝手に傷ついている。
自意識過剰だ。失うものなんて何もないはずなのに。過去の自分に囚われて、過去の自分より良いものを書かなければいけないと思っている。いや、過去の自分より、だけならまだいい。でも違う、たぶん、現在の誰よりも、と思っているんだ。それを叶えるにはあまりにも他者が多く、そして基準も無い不安定なフィールドで「誰より優れている」なんて、望んでも絶対に手に入らない。
手に入らないことを知っているから、挑むことが嫌になる。
そもそも誰も、そんな目で作品を見ていないだろう。そのとき読んでるものが最高に楽しければ最高に楽しいし、一冊前に読んだ本が同じくらい最高なら、どっちも最高、で終わりだ。自分が読んでるときも、細かく一冊一冊に順位をつけたりしない。この本は特別に気に入った!好きだ!と思うことはある。でもそれが過去に読んできた何冊もの素晴らしい本より上か下かなんて、そんなことは考えない。
それなのに自分が作品をつくるときになると途端に、品評の目に晒されることが怖ろしくて仕方なくなる。
数字は怖い。ずっと数字で評価されてきたから、数字がよくなければ「よくない」ものなのだと思ってしまう。主観的な判断が出来なくなっているんじゃないかと怖くなる。食べログを見るし、Amazonのレビューを見る、映画のレビューも見る、ツイッターで商品名を検索する。他者がいいと言っているものは、おおよそ、悪くないものなのだろうと思っている。そんな他者評価に囚われている。
抜け出すにはどうしたらいいんだろう。自分が書いたものに星一つ付かないのではないかと怖くなる。星が五つ付いても、友人が情けで入れたのだと思うだろう。他者評価を望んでいないと言いながら、他の他者へ見える形で評価してほしい。あまりにもわがままだ。
何かを買ったりすることに対してはあまり他者に依らずに自分の意思で買っているのでは?と思うけれど、もしかしたら買い物依存になってるだけなのかもしれない。ツイッターに書かない限り、自分の買い物が無駄だとかいらないものだとか誰かに思われることは無く、買ったものは喋ったり私の部屋を評価したりはしないからだ。どれだけ私の部屋や収入や生活レベルに不釣り合いでも、誰も何も、知らないのだから。
誰も知らないところで、知らない名前で書けばいいのだろうか。やり直すつもりで。でも、それでもきっと、私の(おそらく変えることのできない)キャラクターでは誰にも何も言われないのだろうから、友人に何か一言でも言ってもらえた方が、ましなのだろうか。そんな虚しい葛藤ばかりをしているから、何も書き出すことができない。悩んでる間は、誰にも評価されず、何の心配もしなくていい。考えることを放棄しているから、たまに、頭が空っぽになって、ただベッドの上で携帯を握りしめながらぼうっとしてしまう。
30分で1500文字以上を書くのは、小説を書いているときならかなりのハイペースなのに、こんな馬鹿みたいな文章だけが書ける。
(全体を読み返したら、中学生のときに書いてた日記と全然変わらなくて、本当に馬鹿なのかと思った。結論としては、無くすものなんてやっぱり何もないのだから、前みたいにアドレナリンとプレッシャーで狂いたいなら、早く書け、ということだけが分かった。書くことは元々リラックスできる趣味でも何でもないし、そんなことは求めてなかったはずだ。)
AIに生活を管理されたい
朝はやさしく起こされたいし、今朝はこんなご飯を食べなよとか、雨が降るから傘を持って行きなさいとか、仕事えらいね休憩したら?とか、パフォーマンスが落ちてるけど大丈夫?帰る?おっぱい揉む?とか、お風呂あっためておいたよとか、そろそろ寝る時間だから蛍光灯消して間接照明にするねとか、おやすみ前にアロマキャンドルをつけて睡眠導入に良いヒーリング系の音楽を流してくれるとか。
たぶん一人暮らしでなければ、ある程度のことは「誰か」が言ってくれたり、その誰かがいることで張りが出て自分でどんどん行動したりするようになるのかもしれない。
しかしなにぶんひとりである。おはようおやすみいってらっしゃいおかえりを言ってくれる恋人もいない。圧倒的にひとり。
そのため、自分で自分をコントロールするしかないのだけれど、前述の通り、意思がマシュマロのようによわい。
コントロールされたい。人間の尊厳なんて良いから、やさしいAIのいいなりになりたい。
サイコパスのおうちAIみたいなやつ、はやく、たのむ。
(サイコパスはいいぞ)
だれか~~~~お世話して~~~~~!!!!
叫んだところでひとりなので、コンピューターの力を借りたい。もはや、ハイテクノロジーしか頼るものがない。
近未来SFみたいなのはまだ無理でも、結構管理してもらえるしくみがあるのでは? というか、すでにかなりそういうサービスのお世話になっている気がする。
・いま導入している便利機能
◆テレビのオンタイマー
便利機能、という程のものではないかもしれないけれど、最近になってこの機能を使い始めた私にとってはかなり便利な機能だった。
ここ数年、テレビをほとんど見ていなかった。DVDレコーダーが現役だったときはアニメも映画もドラマも興味あるものは録画してたし、テレビで見ていた。でもそのレコーダーが壊れてからというもの、テレビは置物みたいになってしまった。
アニメはニコニコで、映画はhuluで見られるし、ドラマは全然観ていない。強いて言うなら年末のガキ使だけは見ていたけど、それもとうとうhulu入りした。ワイドショーも好きじゃないし、ニュースもそんなに熱心に見ていない(これは年齢的にまずい気もするけど)
それなのに、なんでいまオンタイマー最高!となっているかというと、朝の6時25分、NHKのテレビ体操のおかげで強制的に体操できているからだ。
身体を動かすのが好きじゃないけど、本当は毎日ちょっとしたストレッチや体操くらいはしたい。
でもスマホの画面や雑誌を見ながら体操するのは面倒すぎるし、見ずにできるほど定着するには継続するしかない。でも継続できない。
ラジオ体操なら、こどもの頃に何百回とやってさすがに身体が覚えているし、ラジオ体操は全身を使う効率の良い体操だと聞いたことがあるような気もする。
身体を動かすことに慣れておらず、習慣化も出来ない私が、唯一、寝ぼけたままでもできる運動がラジオ体操だ。
実は前にも少しの期間やっていて、そのときはスマホでyoutubeにあるラジオ体操をかけながらやっていた。
でもスマホでsafariを開き、youtubeにアクセスし、再生ボタンを押すのは、全部私の意志ありきで、ちょっとでもねむいとかだるいとかめんどくさいという気持ちがあれば、スマホはそっと裏返されて終わる。
テレビのオンタイマーなら、勝手にテレビは点き、タイマー自体は5分前にかけているのでフランス語講座の音声が流れ始め、そのうち体操の番組がはじまる。
5分間は起きたくない気持ちでもぞもぞしていても、さすがに起きねばという気持ちになり、結局起きて体操をする。
寝起きだし、そんなにちゃんとは動かせていないのかもしれないけど、とりあえず10分間、身体を動かす。
そういう習慣が本当に身に付いていないので、ラジオ体操といえど、平日は毎日続けられているのはかなりの進歩だと思いたい。
そのうち、あたたかくなった頃に、今度は歩いたり走ったり筋トレしたりを追加できたら御の字だ。
いまの自分はまだラジオ体操で十分!よくやってる!とほめることにする。
◆スマホの睡眠管理アプリ
これに睡眠導入の曲とか音声とか組み合わせている。睡眠の質が良くなったかは謎。
・導入予定の便利機能
◆hue
買いました。スマート電球、というものらしい。
あかりにこだわったことは、今まで特になかったように思う。実家で暮らしているときも、一人暮らしをはじめてからも、室内灯はもともと部屋についているもので、代替の出来るものではないと思っていたのもある。
ベッドサイドの間接照明は今の家に越してきてからイケアで買った気に入りのデザインのものだけれど、スイッチが電球の近くにあるから、寝たまま付けたり消したりは出来ない。
自分が明りに求めるものってなんだろうと思ったとき、最初に浮かんだのは、家に帰った時に真っ暗なのが少しさみしい、ということだった。
それから、寝る前に間接照明を切るためにベッドから身を乗り出さないといけないのと、目が覚めたときに起きあがって間接照明をつけないと部屋がずっと暗いままなのがつらい。遮光カーテンだから、どれだけ日が昇ってきていてもほぼ真っ暗なのだ。これでは二度寝をしてしまっても仕方ない。
どれだけ面倒くさがりなんだと自分でも思うけれど、そういう小さいイライラや葛藤(起きあがるかどうかとか)が積み重なっていくことが、なんかもやもやしている、と思ってしまうことの入り口であることに気付いた。
朝一にもやもやすることの悲しみといったらない。
それ以降の、顔を洗って化粧して着替えて仕事に行くという一連の日常が、全部面倒で億劫なものになってしまう。
だからそこで自分にストレスを与えないようにしたい。
ほんとうは、朝は好きなのだ。特に、いまみたいな季節の朝。日の出の一時間後くらいに駅に向かうと、凛としたつめたい空気と、のぼりはじめた太陽の光を浴びながら歩ける。
休みの日なら、7時から開いてるカフェに行ってのんびりできる。
だから朝が好きで、その朝に落ち込んだ気持ちになるとほんとうに一日ダメな気がしてしまう。思うように起きられなかったという、ただそれだけのことで。
寝るときには自然に明りが落ちて、突然真っ暗になった部屋に落ち着かない気持ちを味わうこともない。
起きるときにはだんだんと明るくなって、カーテンを開けなくても明るい時間なんだと認識できる。
帰ってきたらほんのり部屋が光っていて、足元にあるものを蹴飛ばさなくてすむ。
たったそれだけのために買った。
安い買い物ではないけれど、たぶん私には必要なものだと思う。
おもちゃとしても興味深いしね。しかも今睡眠管理に使ってるSleep Cycleとも連動可能みたい!
土曜に届くんだけど、楽しみすぎて待ちきれない。
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・導入してみたい便利機能
◆Qrio
スマートロック。hueの次に狙っているのはこれ。
家に近づいたら鍵開けてくれるとか最の高かな~~~。
疲れていると、鞄から鍵を取り出して鍵穴に差し込んで回すのがもう嫌なときさえあるから。
Qrio Smart Lock (キュリオスマートロック) スマートフォンで自宅のドアをキーレス化 Q-SL1
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◆IRKit
リモコンをまとめて全部iphoneから操作できるようにするやつ。
うちでリモコン使ってるものってテレビとエアコンくらいだから、あまり必要ないかもしれない。
IRKit - iPhone,iPadを使って外出先からエアコン等の家電を操作できる学習リモコン
- 出版社/メーカー: maaash.jp
- メディア: ホーム&キッチン
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◆AppleWatch
これぞおとなのおもちゃ。何に使えるかとかはともかく、ほしい。
いろいろ考えてみて、どれだけ面倒くさがりなんだろうと思ったけど、それを機械やお金で解決する方法があるならどんどん導入して、もう少しほかのことにこのちっぽけな頭のリソースを割きたい。
自分にとってプラスになる内容ならともかく、日常の動作の、ちょっとしたこと、どうでもいいことに迷うことは、あまりにも時間と労力の無駄なのだと、最近ようやくちゃんと自覚したように思う。
EVERY DAY
前に会社にいた方が、出張に行くたびになにかをお土産といって買ってきてくれていた。
ほとんどご当地のお菓子だったけれど、たまに、どこで買ったのかと思うようなよくわからない人形とかを買ってくることもあった。
その人はいろいろあって会社を辞めてしまったけれど、辞める前には「これ以上、会社を嫌いになりたくない」と言っていたのを覚えている。
この会社のこと、好きなんだなあ。そう、しみじみと思った。
私は今でも会社のことがそんなには好きではない。けれど、未経験で雇ってもらったのは感謝しているし、今もそこそこのホワイト環境で働いているように思う。
(残業が多いのは、三割くらいは私の効率の悪さが原因だ)
でも、会社のことが好き、と思ったことはない。どうしても納得のいかないこと(そして私には変えようのないこと)があるから、それが解消されるまで、きっと私は会社のことを好きになることはできないだろう。
その人が在職中、いろいろ話を聞いた。どうでもいい話の方が多かったし、会社の話もすべてがいい話というわけではなかった。それでもこの人は本当に、「この会社で働いている」んだなあと思ったのだ。
私には「この会社をこうしたい」と考えることはあまりない。
自分の手元の仕事をもう少し効率良くさせたいとか、面倒くさいことを減らしたいとか、そういうことは思うけれど、この会社をよりよくするために何かを考えることは、あまりない。
振り返ってみれば多少はあるかもしれないけれど、やっぱり日々の業務に忙殺されていると、自分のデスクに収まっている程度の仕事のことしか考えることができない。
この歳で、その程度の意識で働いているのもまずいとは思う。
熱意を持って働いていないことへの少しの後ろめたさから逃れるために、無駄に残業しているのかもしれない。
この会社にこんなに自分の時間を割いていますよ、という、自分への免罪符だ。
もらったものの、捨てることもなんとなくできなくて、とりあえずデスクの引き出しにしまってある、どこで買ったのかも知らないアヒルのおもちゃが目に入るたびに、まだ免罪符を掲げたままでいたい自分に気まずくなって、引き出しを閉めてしまう。
毎日ではないけれど、そういう日を送ることもある。
余談
・お題求む
書きたいことがたくさんあるのだけど、仕事が終わったあとだったり、まだもう少し考えたい、ということを無理やりに考えることをまだしたくなくて、もう少し楽な気持ちで書けるものを探してみた。
とりとめのない日記を書くのがあまり得意ではなくて、テーマやお題が欲しい。
平日の夜に何かを書こうとしたら、つまらない仕事の愚痴になってしまいそうだ。(今回も結局仕事の話になってしまったけれど)
ブログの話題をつくる程度のオリジナリティーも無いのかあ、と少し悲しくなったけれど、テーマやお題、何か気に入ったフレーズやシチュエーションへのレスポンスに関しては、わりと良いと思っている。
友人がツイートしたちょっとしたネタから着想を得て本を書いたこともあるし、そういうときに自分の頭のなかで起こっている、際限なくイメージが広がっていくような感覚は気持ちがいい。
友人のネタの出しかたというか、そのオリジナリティーや世界観が素敵だから、魅力的な物語を作り出せるというのはもちろんだ。
でも、それを膨らませることのできる自分の力は認めてあげたいと思う。
・お題発見
たまたま手帳を探そうとほぼ日のサイトを見ていたら、日めくりカレンダーのページを見つけた。
実際の日めくりカレンダーと連動しているみたいで、印刷されたものと同じ写真の日もあれば、違うアングルの写真もあるらしい。
1/1から今日まで、13日間の写真を見る限りでも可愛かったので、会社に置きたいと思って実際のカレンダーが欲しくなったのだけれど、もう売っていないみたいで、どこも完売になっていた。
webで見るのもまた面白いかなと思って、数日前から見ている。
ただの一枚の写真。
被写体はもちろん、そこに添えられた文章に何かを思うこともあるし、その日の記念日に興味を持つこともある。
きっとこの写真を見なかったら思い出すこともなかっただろう出来事や、ふと思った感情、そういうのを書き留めておこうと思って、気が向いたらその日の写真で書くことにした。
いつまで続くかわからないけれど(明日は書けないし)、何も思い浮かばないけど何か書きたい!という日には、きっとありがたい存在になる気がする。
なお、明日は私の誕生日である。
なんてことのない1日だし、旅行の日だし、仕事の次の日だし、この日だけの1日だ。