基底細胞母斑症候群=ゴ―リン症候群

患者として体験してきたことをブログにします。同じ病気で悩んでいる患者や家族のために、後世のために。

遺伝する病気

祖父、父、私、亡くなった弟、その後生まれた弟に基底細胞ガンが認められます。

父は八人兄弟でした。

半数くらいの叔父・叔母が受け継いでいると思います。

従妹を入れると結構な人数になりそうですね。

こうして遺伝するのが基底細胞母斑症候群(ゴ―リン症候群)です。

 

基底細胞ガン自体は、切除手術をすれば重篤になることはありません。

命にかかわるのは、乳幼児期に発症する髄芽腫(脳腫瘍)です。

これも症状の一つで、年子の弟が亡くなった病気です。

 

私は三十歳で結婚して、愛する妻との間に二人の娘を授かりました。

その娘の一人が受け継いでしまったのです。

 

 

 

母のこと

母は小樽のひとです。

小樽は札幌より、雪深く寒さも厳しい、ちょっと寂しげな土地でした。

子供心にそう思いました。

そういう環境で育った母は、父の後ろをじっと付いていく、辛抱強く、

実によく働く人です。

 

弟が脳腫瘍で亡くなったことで、母は自分を責めたにちがいありません。

子育ては母親がするのが当たり前という時代でしたから。

共働きであってもです。

父方の遺伝性疾患が原因であることなんて、当時はわかるはずもなく、

母はつらい思いを長年抱え込んだように思います。

 

それから三年後長女が生まれ、

五年後、弟の生まれ変わりのように似た三男が誕生しました。

私、長女、三男の三人兄弟です。

 

父のこと

とにかく厳しい父でした。

分厚い手のひらが、しょっちゅう飛んできた。

なぜ怒られているのか全然記憶になく、ただ怖い父という思いだけが残りました。

だから六十二歳という早い年齢で亡くなってしまい、もったいなかったですね。

いろいろ教えて欲しかった

もっと素直になりたかった

心の壁を壊したかった。

父との間には、やり残したことが沢山あるような気がします。

でも闘病中に私だけに見せた完全な笑顔が、今までの一切の事を救ってくれました。

 

死因は、胃がんから多臓器への転移でした。

胃がんが見つかってから一年ちょっと程でしたので、進行がとても早かった。

白装束の旅支度の時、体のあちこちに基底細胞がんが見られました。

 

 

祖父のこと

私は完璧におじいちゃん子でした。

札幌の自宅の隣に父方の祖父母の家がありました。

自宅の目前は野球場三つほどの野原が広がり、時折り牛や馬が放牧されて

いました。

裏は他人様の畑になっていて、山ブドウの木で仕切られていました。

秋になると酸っぱい山ブドウをつまみ食いしたものです。

両親は朝から晩まで働いていたので、祖父母が面倒を見てくれました。

冬には餅つきや雪まつりに、春には近所で一番大きな鯉のぼりを上げてくれ、

夏には大通公園でトウキビを食べ、秋は一緒に冬支度をした思い出があります。

 

おじいちゃんは私が高校一年の時、がんで亡くなりました。

初めは、側頭部の皮膚がんだったように思いますが、はっきりとしません。

ただ、放射線治療をした側頭部がケロイドになってしまい、それが辛そうでした。

それがどこかに転移して亡くなったのか、直接の原因は分かりませんが

可愛がってくれた祖父もがんで亡くなりました。

 

多発する基底細胞がん

24歳の時、こめかみにできた基底細胞がんを切除しました。

基底細胞がんと言うのは、表皮の最下層の基底層にできる悪性腫瘍で

皮膚がんの一つです。

最初はホクロと見分けるのが難しく、時間とともに大きく深くなって行きます。

他の組織への転移は少ないと言われており、腫瘍の周りを大きく深く切除する

治療法が一般的です。

 

今55歳ですが、この30年ほどの間に胸・腹部・股・背中・額・ほほ・鼻・頭部に

多発し、その都度切除してきました。

腫瘍が小さなうちは局所麻酔の日帰り手術で済みます。

でも、小さいとホクロか腫瘍か見分けるのが難しいので、

ダーモスコープというルーペを使って診療する経験が豊富な大病院の皮膚科専門医

に診てもらうのがいいでしょう。

 

         http://kompas.hosp.keio.ac.jp/file/000356_02.jpg

 

おとうとの死

弟の思い出は古くなってしまった白黒写真のなかに生きています。

SLに乗って海水浴に連れて行ってもらったり、チャンバラごっこをしたり、

冬には雪玉をぶつけあったり。

二人しか兄弟はいなかったし父母は共働きで忙しかったので、記憶は遠いけれど

二人でよく遊んだように思います。

そして入院中のベッドの上での白黒写真。

私がもの心ついてから、小脳のガンだったと聞かされました。

よろけたり、よく転んでいたのはそのせいだったのではないかと。

 

父母は葛藤の毎日だったと思います。

かわいい我が子が幼くしてガンで入院するのです。

それも治る見込みのない脳腫瘍なのです。

でも毎日希望をもって前を向いていたに違いありません。

私も同じことが起きれば必ずそうであるからです。

 

よく分かっていない私が写ったお葬式の白黒写真が一枚。

余白には母の「ごめんなさい、ごめんなさい。」とペンで書かれた跡がありました。

 

奇形

私は札幌の郊外、月寒(ツキサム)という所で生まれ育ちました。

クラーク博士像のある羊が丘展望台や今では札幌ドームがある地域で、

土のにおいや風のゆらぎや牧草や林の緑が私にはちょうど良い環境でした。

 

両足の人差し指と中指がくっ付いて生まれてきたので、幼い内にかい離する手術

をしました。そして両手の小指が関節から内側に曲がっています。

人によって目が大きかったり鼻が高かったりという身体的な特徴だと思っていた

ので、子供の時からこれらの奇形は全く気にしていませんでした。

 

そして私が五歳の時、一つ下の弟が脳腫瘍で亡くなりました。