梅雨の誕生日

今週のお題「雨の日の楽しみ方」

 

妻は6月に生まれた。誕生日の前後はいつも雨だ。

 


付き合っていた学生時代、インドアな私とは対照的に、彼女はアウトドア。

雨が降ると外に出れないからテンションが下がる、と言っていた。

 

 

 

 


雨の日は、雨が楽しくなるといいね。

 

 

 

 


ある年の誕生日、レインブーツをプレゼントした。

 


雨が降ったらいつも履いていて、黄色のかばんと赤いレインブーツが雨の中で踊った。

 


レインブーツは雨の日しか履けない。

妻は雨が少しでも楽しくなってくれただろうか。

 


今では少しインドアになった妻。

今年は何をあげよう。

 

文系と理系、実学と虚学、人と神

私は昔から進路において文系とか理系とかといった分け方に窮屈さを感じている。

 


中高生の進路選択においては、「数学が嫌いなので文系」や「文学で人の気持ち考えることに意義を感じないので理系」など、しばしばとりとめもない理由で文理が分かれたりする。そのことで数学を毛嫌いする文系や、人文学を軽んじる理系が生まれ、互いの分野へのリスペクトを失う機会になっているだけでなく、セクショナリズムを助長し、バランスのとれた知の獲得を妨げているように思える。

 


それが嫌でいたから、私個人としては大学で建築を専攻して幸運だった。建築学は、歴史やアートといった人文学的領域、構造力学や熱力学などの自然科学的領域、防災や災害復興などの社会学的領域と、幅広い体系からなる学問である。大学では文理ともにバランスよく学ぶことができたが、そのことでますます「なぜ文理を分ける必要があるのか」については疑問が深まっていった。

 

 

 

書店で「文系と理系はなぜ分かれたのか(隠岐さや香)」を見かけ、この疑問をスッキリさせたい!という思いが久しぶりに湧き上がってきた。

本書では、幅広く学問の歴史から最新の動向まで述べられているが、私の中で読後に印象に残ったことを記す。

 

 

 

実学と虚学」という観点の対立が、長らく繰り返し続いてきたことは強く印象に残った。自然科学は実用的な分野であり、人文学は実用性のない学問であるという見方は、私の短い人生でも度々聞いてきた気がする。国語では人の気持ちばかり考えて何になるのとか、実学とされる理系科目でも、実生活に数学は使わないから勉強する意味がわからないなどは学生時代に良く聞いた。

 


ただ、実学と聞いてそもそも思い浮かんだのは、「学校の勉強なんて社会じゃ役に立たない」的な典型的なおっさんの講釈ように、学校での勉強自体を否定するタイプである。

 


書内でも触れられている通り、文系理系の縦割りは産業界との関係も深く、文系出身者は大学の専攻が直接業務に結びついていないことが多いようだ。たしかに私自身がよく見る勉強自体を否定するタイプは、文系出身者に従事している方が多い気がする。

 


理系は実学だとはいうが、理系就職したとしても、自身の研究分野とドンピシャな仕事ができている人はそれほど多くないように思われる。

また土木建築や船舶、機械工学(も?)の分野などでは、技術を活かしたものづくりに向かい合わないといけない。そこでは時として経験がモノをいう職人の世界があり、「学校の勉強など役に立たない」論を聞く場面に遭遇する。

実学と虚学という分け方は、アカデミズムのなかでは自然科学が実学なのかもしれないが、そもそも学問自体が「虚学」として扱う人もいて、この問題はたとえ理系として就職したとしても常につきまとわれている話だという印象だった。

 


そもそも職人の技術の価値を評価できるのが、学問としての技術である。社会の諸問題を評価する人文学はさらに広い範囲をカバーする分野であるのだから、理系技術者はリスペクトするのが自然に思える。

学問に実学と虚学を振りかざして濫用することは、ある種滑稽な感じがした。

 

 

 

それぞれの分野はゆるくつながっていくことは、技術と職人性がうまくマッチした時、魅力的に建築が生まれるように、良い効果を生むのだろうとばかり思っていた。

だから、優生思想に代表されるように、自然科学の歪んだ解釈によって危険な思想が生まれることを危惧する発想は、私自身意識したことがなく本書を読んで初めて感じた。

自然科学を評価するのには思想が伴う。自然科学の分野であっても、評価者の思想で結論は変わってしまう。

 


水素水のブームにしろ、東北震災後の福島や原発の問題にしろ、判断の元になるデータはある程度あるにもかかわらず、熱狂的なブームになった。本書にあるようにある種の全体主義的な思想になった。

 


西洋の学問の歴史は、聖書から思想的に離れていく歴史だったように思う。「人間の立場で考える」主観性と「人間の考えでとらえない」客観性の発展が人文学と自然科学を発達させた。

もしそれら文理が合体するような、新たな分野をつくるのなら、それは神の物語を作るのと同じように強い物語となる。

 

 

 

人が神になろうとするのではなくて、人としてゆるくつながっていけたら、と思った。

帰り道

今日は本屋に寄って帰った。

 


本屋を徘徊するのが好きだ。必ずしも本を買うわけではない。あれこれ表紙を見ながら、あれも読みたいこれも読みたいと、勝手に期待を膨らませつつ、時間の許す限り手に取ったりながめたりするだけ。

僕は本を読むのが遅い。それに仕事の残業時間は比較的多い方だと思う。いつも本を眺めながら、魅力を感じた本のうちほとんどは読めないのだと感じ、少し虚しい気持ちになる。

 


本を読むのは楽しいが、読むために生きているわけでもなく、仕事もそれなりに楽しいことはあるが、生きがいを感じるほどではない。

生きがいが無くても生きていたいしなんとなく。

 


生きがいを求めることって、自分を人生の主人公として、小説作るみたいなもんかな。

趣味や仕事に打ち込んだ、一本話の通るまっすぐな人生を長編小説とするならば、ふらふらなんとなく生きる短編小説集があったっていいじゃない。

 

 


なんかそんな風なことを思った。

 

 

 

 

 

自分は文系なのか理系なのかとか

電車で隣に座った人は何を考えてその席を選んだのかとか

このミスは自分のせいではないとか

黒Tにルイヴィトンのリュックが似合わない人いたなとか

塾帰りの小学生の集団が駅でダッシュしてたり

ツールブロックってちょんまげや辮髪の現代版かなとか

 


帰り道ではそんなことをいろいろ、頭に浮かんでは消えた気がする。

 


海に浮いたゴミが防波堤の岸に何度も打ちつけるみたいだなんて思って、でも実は自分のいるところも同じように海に浮いているのかもしれないな、ごみが波に削られて丸くなって、誰かが綺麗だって拾ってくれたらいいのかもなって、そんなことも思った。

 

 

 

 

〇〇の四面体〜建築の視点から〜

近ごろ、「料理の四面体」という本を読みました。

 

料理の要素を、水と空気と油の3要素+どの程度火を加えていくかという4つの視点から料理の原理を探られていて、料理がシームレスにとらえることができとても興味深い内容でした。

料理の本って大体がレシピ本になっているので、知識が断片的になってしまうんですね。豚の生姜焼きと、ステーキなんて、調理法としてはとても近い食べ物なのに、それぞれのレシピで紹介されているから、別物だととらえてしまう。

 


そもそも世界のモノゴトは基本的に連続的につながっているはずで、それを理解しやすくするために分類して細分化しているわけです。

実は原理としては繋がっているという前提を忘れないことが、モノゴトの理解を深めるのに必須なのだと改めて感じました。

 

 

 

この料理の四面体にインスパイアされまして、自分の仕事の四面体を考えてみたいと思いました。

仕事、例えば私自身は建築関係の仕事をしていますので、それにならって考えてみます。

まずベースとなる3要素として、「職人性」「ビジネス性」「学術性」の3要素に分けられないでしょうか。

 


職人性というのは言わずもがな、大工など各種職人に代表される分野です。自分の創意工夫によって、納得するまで自分で手を動かして作り込んでいくこと。

実際の仕事にはビジネスの側面はもちろんあるものの、お金に関係なく作業にのめり込んで納得するものに仕上げていくという部分は強いはずです。

また、それは設計でいうとアトリエ系の事務所に強く出る部分でしょう。

もっと小さなところでいうと、この資料を綺麗に作りたい、とかいう気持ちも必要合理的なものを超えた職人性と言えると思います。職人性があるからこそ、作られたモノに味が出て面白くなると思います。

 


ビジネス性については、簡単にいうとお金を稼ぐための側面です。不動産関係なんかは、ビジネス性がとても強い分野だと思います。建物をつくるにはお金が必要ですから、必然的にビジネス性は必要です。

設計や施工段階でも、コスト管理やグレード感を意識した仕事の仕方が重要になります。ハウスメーカーの住宅はそのあたりが徹底されているように見えます(私個人は業界のことは詳しく知りませんが)。

 


学術性は、大学などでの研究分野です。建築学生は多くが大学や各種学校を卒業しますが、そこでは実務ではなくアカデミックな内容を学びます。文化、哲学、科学、工学的な分野であり、特に電気設備構造では触れる機会も多いですが、意匠にせよアカデミックな文化的裏づけがないと、デザインに奥行きが出ないように思います。

 

 

 

これらの3要素ともう一つ設定したいのは、「前衛性」です。

 


巷にあふれる工法、材料で作った建物は、手をかけローコストで作ったとしても、側からみればありふれた建物になる可能性があります。

しかし、誰もみたことない形状のデザインで作り込むことは人をアッと言わせます。ザハの建築なんかいつも驚くものが多いし、隈さんのルーバーや安藤さんのRC打ち放しなんかはすでに個人のアイコンにもなっていますが、それは前衛性によるものだと思います。

 


またビジネス性からも、既存の法制度の新しい活用法、材料の流通などを工夫し、ローコストで合理的に建物を建てられたら、それは画期的なことです。建物の周りの街がさらに発展できれば、その建築のビジネスは社会にとって力を持つと言えます。それも前衛性と言っていいと考えます。

 


学術性についても、例えば過去の災害の避難行動統計に基づいたプランニングとか、新たな空調形式の発明、制振システムの開発などは前衛的と言えると思います。

 

 

 

建築は職人性とビジネス性と学術性、前衛性の中で揺れ動いていて、それぞれの分野の仕事によって形作られていると思います。

そういうとらえ方をすれば、建築の良し悪しの視点も少し変わってくる気がします。

 

変わらない毎日を過ごしていく勇気

 


NHKスペシャル「東京リボーン」おもしろかったー!

「いだてん」の続きで何となく観てたんだけど、映像、演出も力が入っていて、内容も興味深くて見入ってしまった。

 


 


東京の地下を特集するという内容だったけれど、私が1番印象に残ったのは、「日比谷線 虎ノ門ヒルズ駅」の掘削工事の場面。

地下の浅い所には通信ケーブルや電線、上下水管、ガス管などが無数に張り巡らされていて、図面での確認などできないので人力で掘削しないといけないそうで。それを専門に35年やってきた職人さんが出ておられました。

下水管から漏れるにおいに、「これだけは何年経っても慣れない」とその言葉が印象的でした。

とても重労働で、においもキツイけれど、起きて夜に地下を掘る昼夜逆転生活をずっと送ってこられて、その工事の掘削が終わったのは1年後だったそうですから、それを続けていく気持ちというのはどういう状態なのだろうと、非常に驚かされたのです。

 


わたしはいまアラサーで、ゆとり世代を過ごしてきました。

これまで高校受験、大学受験、就活、結婚、出産(わたし自身が産んだわけではないが)を経験しましたが、ほぼ3~5年に1度は「どの学校に行きたいか」「どの会社に入って何をしたいか」「誰と結婚したいか」「子供はほしいか」などひたすら選択の岐路に立たされ、その都度選択してきたわけです。

そのため、自分自身の人生の時間単位が3~5年で変化が欲しくなるクセがついてしまったように思います。なので仕事のプロジェクトが長かったりするとモチベーションが上がらなかったりしています。また周りでは変化を求めて転職したり起業したりする人がちらほらいます。

それに年金がもらえるのが65歳と言われるわけですから、何となく人生での活動はその65歳がリミットである想定で考えてしまい、「変化を求めて生き急ぎたくなる気持ち」があるのかなあと思います。

 


それと比較して、人力での掘削を専門にしている職人さんはいままで35年間も夜な夜な地下を掘ることを続けてこられたわけです…!1つ掘り終えたら達成感はあるのかもしれないけれど、時間も長いし何より大変…!

変化なく毎日続けるという意味では、仏教僧が毎日勤行を続けるのにも似ている気がする。

達成より継続がメインになってくると、生活の中で小さな変化に敏感に喜びを感じられるようになったりするのだろうか。

変化を求めてしまう人生観からは想像できない、特別な感覚だろうと思いました。

 


変わらない毎日、終わらない(ように見える)世界がひたすら広がっているように感じて、途方もない気持ちになりがちですが、日々地面を掘って過ごしてこられた姿を見て、毎日を強く行きていこうと何だか勇気がわいたのでした。

 

 

 

 


また変わらない毎日を生き続けるという意味では、このツイートがとても気に入っています。

 


生きることは作ることと言いきっているけど、何かを作って達成するというよりは、何かしら作り「つづける」ことを人生で大切にして、楽しんで過ごしたいです。

才能と努力の関係を整理したい

少し前、Twitterでこんなツイートをみました。





よくある議論ですよね。
本田選手が言っていることはすごく大切なことなのですが、リプライを見るとみんな賛否両論です。
自分の中でも曖昧になってしまっているので、この機会に整理しておこうと思います。



まず、この発言自体は努力の素晴らしさを語っているので、基本的に良いことを言っているのですが、手放しで賛成しにくいような気持ちになってしまうのは、やはり本田選手が「成功者」だからです。

成功した人は、もちろん多分の努力はあったのでしょうが、他の人と比較して絶大な才能があったから成功しているのです。

努力こそが重要なのだと言い聞かせるために、というのはわかりますが、やはり才能があって成功している人が「才能の差なんて大したことない」なんて言うと、ちょっとムッとしてしまいます。



しかし、努力が大切なのは疑いようがない。成功には才能が必要なのであれば、努力は何をもたらすのか。それは成長だと思います。所謂のびしろですよね。



「努力は成長させるけれども、成功には才能も必要」



こう考えるとスッキリする気がします。
考えてみれば普通のことで、多くの人にとってはわざわざ言うことでもないかもしれないですけどね。



「努力は裏切らない」という言葉はありますが、努力すれば確実に何かしら成長しているものだし、そういう意味では裏切らないと思います。ただ、成長の幅や速度は才能によるところが大きいですが。

おそらく、マッチョマンたちからよく聞く「筋肉は裏切らない」も似たようなものなのでは…筋肉は努力と成長を可視化したという意味で。ぼくは筋肉ないのでわかりません。



一方で、才能は自分でどうこうできるものではないですね。もしかしたら才能がないのかもしれないし、いつどんなことをきっかけに成長するかも人それぞれでわからない。

受験勉強前には成績のよくなかった人が、勉強中に覚醒し、受験前には成績の良かった人を追い抜くこともあります。何かをつかんだり、そもそも頭の成長速度やポテンシャルだって、いつのびるかわからないんだなあとよく感じました。(「ドラゴン桜」でもそんなこと言ってたような)



現実問題、成功するためには自分に才能があると信じるなり、本田選手のように才能の差なんて大したことないと思うなりして、努力して成長することしかやれることはないんですね。




ぼく自身はどう考えているかと言いますと、端的に言えば「成功することをやめました」。

今の仕事を始めて、最初は若気の至りで自信もあったのですが、仕事進める中でボコボコに怒られることが続き、意気消沈して努力しようとかそういう気持ちを失ってしまいました。

それからしばらくくさって、仕事をやめるでもなく惰性で過ごしていました。今の仕事をやめてもやりたいことはなかったですし。そうして過ごすうちに時間が経つと不思議なもので、考え方も前向きに変わってきています。


その結果「自分にはどうやら才能が無いようなので、成功することはやめよう」と思い至りました。


ただ一つの成功ではなく、仕事に限らず今の状況からアップデートし続けることに全力を注ごうと思ったのでした。アップデートするとは自分自身が成長すること。成長を成功のための手段ではなく、自己目的化することにしたのです。


そうするとやりたいことが明確になり、わりとポジティブに過ごせています。成功したい気持ちだけが強いと、うまくいかないときに気持ちが保てないようです。ゴールへの意志がそれほど強くない人にオススメです。


成功なんてしなくても、普通の人生でも、みんなそれぞれ成長しながら楽しく生きていけたらいいじゃん。



もちろん、成功することあきらめたって、成長さえしていれば成功するかもしれない。

富士見と江戸見

今週の東京はとても寒い日がありました。雪が降るおそれがあり、通勤に注意とのニュースが前日に出ていましたが、残念ながら(!)電車はいつも通り動き、僕は予定通り会社に運ばれていくことになりました。少し残念でした。

 


私の家の玄関は西を向いています。朝ドアを開けると家々の三角屋根の間に富士山が見えました。真っ白になっていて、こちらは雪が降りませんでしたが、富士山にはあたりでは大雪なのでしょうか。

 


富士山を見ると、ずっと前に「アースダイバー(中沢新一)」を読んだとき、「東京の中心は富士山」というのに衝撃を受けたのを思い出します(本当にこんな言い方だったかは定かでない、おぼろげな記憶の範囲で)。普段平たくて山の見えない東京で、澄んだ空気の中浮かび上がった富士山は、はるか昔から特別な存在だったのだろうということも納得します。多摩川沿いの古墳群に眠るかつての豪族たちも、高台から富士山をみつめていたのでしょう。

 


私の住んでいる所の近くに、「富士見坂」という場所があります。西の方へ高くのぼる坂で、昔からよく富士山が見えたのでしょうね。また、「江戸見坂」というのもあります。江戸がよく見える高台だったのでしょう。私の住んでいるところは富士山と東京都心の間にあり、両方の間だということが強く意識の中にあったように感じます。

 


少し前に「世界ふしぎ発見!」で、富士山-明治神宮-皇居-スカイツリー-鹿島神宮レイラインの話が特集されてました。霊的な力についてはよくわかりませんが、何か記念になる建物建てるときは江戸も富士山も見えるような場所につくりたいなと思っても納得できます。鹿島神宮から日が昇り、富士山に沈んでいく。最高に映えますよね。大きな陰謀論的な話ではなく、シンプルにそうしたかった、ということなんじゃないのかな。

 


私は関西出身で、盆地の山に囲まれた地域で長らく過ごしました。そのせいもあって、東京に引っ越してきたころは、周りに山がないことで漠々とした雰囲気に不安になったものです。

 


でも今は西をむけば富士山があって、東を向けば都心の超高層ビルが見えます。昔から変わらない「富士見」と、超高層ビルが「江戸見」の役割を果たすことによって、自分の住む街としてのベンチマークになっている気がします。

 

過去から現在の時間と場所に思いをはせつつ。

 

 

 

 


どうでもいいけど、山を「さん」て言うのっていいよね。富士さん。