計画を立てるための連休に

連休前に、まとまった時間をつかってあれをやろう、これも片付けよう、と意気込んだことはたいてい、実現しない。いや、実現「しない」というと、実現させる主体が自分にはなく、どこか他人任せなニュアンスが感じられてしまうから、使うのはやめよう。いつだって、実現させるのは他人ではなく自分だ。実現しないのではなく、実現させようとしていない。ただ、させようと思ってもかさせることができないのは、確かなのだ。

 

普段、忙しいときには時間を割くことができないから、こうした連休を使おう。そうやって計画すること自体は良いことだと思う。普段できないことができるのではないかというふうに気づいている、という点で。しかし、いざその時がやってくると、他のやりたいとが思い浮かんだり、なにもしなくても良いという安心感が何かをやるための気力を削いだり(これが一番大きな原因だ)して、結局手をつけられない。こうしたことをこれまで何度(何年)、経験してきただろうか。たいていのことができないと知っていながらも、懲りずに計画を立てたがるのだから、仕方がない。

 

ではどうしたら連休を後悔せず有意義に使えるのか。その一つにこれを書いている今、気づいた。何か自分がやりたいこと、行きたいところ、やり遂げたいことを実行するために費やすのではなく、それを計画するために費やすのだ。登山で山頂にたどり着いた瞬間よりも、山頂を目指して登っている過程に喜びがあると言われるのは、つまりはそういうことだ。計画を立てている時に、一瞬で消えることのない長期間的な興奮があるのであれば、それ自体を連休中のTODOにしてしまうのだ。

 

こうして連休中に計画したことを、連休明けの普段の日常を使って、仕事だとか家事だとかそういった日常的な制約をセットにして、実行する。何か月かかっても、何年かかっても良い。どんなに長くてもゴールデンウィークは10日程度、年末年始だって半月程度。それに比べれば実行期間ははるかに長い。これが自分にとっての有意義な連休の過ごし方であることに、連休最終日にようやく、気づいた。

 

雑草と

雑草をとるのが好きだ。生命力の強い雑草がどんどん延びてくる様子を見ると、「ああ、また延びてる」とうんざりもするのだけれど、同時に、「よし、取る雑草がまた出てきたぞ」と嬉しくも感じられる。言葉では言い表しがたい、なんだか複雑な感情が芽生えるのだ。

 

今日も、昼間、ジョギング終わりに家の周りをぐるりとまわったら、雑草が他の草木やフェンスに絡まって延びていた。つい先日、気づいたところは取ったはずなのに。こうして除草作業の時間が始まった。ゴミ袋も軍手も用意していないから、目立つところだけ簡単に。根元から引っこ抜き、その場に放る。こうしていると、なんだか家のために良いことを率先してしているようで、気分が晴れてくる。

 

雑草だって生きている植物。そうムキにならなくたっていいじゃないの。そんな他人の声が聞こえてくるようだ。こればかりは「気になるからやっている」としか言えない。他人に共感してもらうためにやっているわけではない。ただ、同じように感じている人も、いるとは思っている。

 

物欲

モノを買いそろえたい、という物欲がほとんどなくなった。ゼロになったわけでは当然ないのだけれど、だいぶ少なくなった。昔は、カッコイイ腕時計があれば自分の士気を上げる目的で買おうと決めて、お小遣いをためた。シンプルで大人っぽいスニーカーがあれば(今も好きで普段はいているスニーカーだ)何足か揃え、古くなって処分したらその分新しいものを追加しようとしていた。そうした気持ちがしぼんでいったのは、一つにはケチになったから、というのもあるのだろうけれど、もう一つは、希望のモノを買いそろえている充実した自分、という状態に飽きた、というのが本音だ。

 

買いたかったモノを買うことができたその瞬間は、確かに興奮しているし、嬉しい。それ以降の毎日が輝いて感じられる。しかしその興奮にも限界があって、いずれ過去のものになる。それだったら、次から次へと新しいものを手にするのではなく、今手にしているものを長期間、大切に扱った方が、嬉しさが長続きするのではないか。誰もが考えることだろうけれど、そう思ってからは、物欲が急になくなった。それはつまらない人間になったとかそういうことではなく、端的に良いことだと思っている。一瞬感じる物欲しさに飲み込まれない忍耐力は、大人には必要だろうと思う。

 

迷ったら譲る

駅のホームなど混雑する場所で、他人をよけて歩くのが下手になったんじゃないかと思うことがある。最近は特にそうだ。相手がよけようとするその動作に合わせることができず、ぶつかりそうになる。横から他人が近づいてくるとき、立ち止まらずに済みそうかなと思っているとギリギリでぶつかりそうだと気づき、あわてて立ち止まる。そういう時は相手も立ち止まるので、お互いに気まずくなったり。なんでなんだろうな。

 

きっと自分本位で歩きすぎなのだろうな、と思う。迷ったら立ち止まる。迷ったら譲る。目の前だけでなく、少し先も見通しながら歩く。当たり前のことだし、何をいまさら、と言った感じだけれど、それができないから今日も他人とぶつかりそうになり、内心苛立ち、イヤーな気分になるのだ。

 

紳士のバンド

27日はTHE YELLOW MONKEYの東京ドームライブに行ってきた。2020年に活動を休止して以来。長かった。

 

「バラ色の日々」のキーボード音で一気に涙腺が緩み、これまでもがき続けてきた、出口の見えない窮屈さのようなものから解放されたような気がした。観客が一斉に歌うその歌声はいつ聴いても美しく、推しているバンドがある人生の豊かさを実感した。

 

中盤には「人生の終わり」が。喉頭がんの発症から復活した吉井さんの生きざまを示しているような歌詞で、心に響いた。脳梗塞で入院し、楽観的にふるまいながらも自分の命のことを真剣に考えた自分と重なる。

 

続くどこまでも続く この生命力

 

私にとって、今回のライブの一番の山場であり、ライブに参加できた価値を実感できた1曲だ。

 

僕が犯されたロックンロールに希望なんてないよ

あるのは気休めみたいな興奮だけ それだけさ

 

「気休めみたいな興奮を得たいから」ロックを愛するのに、これ以上の理由はいらないのだと思った。それに、せいぜい気休めみたいな興奮しかないのだから、「音楽がないと生きていけない」なんて安易に口にしてはいけないとも思った。

 

君の愛で育ったからこれが僕の愛の歌

 

家族にこんなことを堂々と言えるようであったら素敵だ。

 

今、私にとってのTHE YELLOW MONKEYを一言で表すと、「紳士のバンド」である。紳士になりたい。彼らのように、落ち着いた、しかし時に小学生のようなおちゃめな瞬間もあり、何かが憑依したかのような瞬間を持ち合わせた、大人の男になりたい。

 

文字を丁寧に書くことについて

手帳に今週の予定ややるべきことを書き込んでいく。その、手帳にササっと刻まれていく自筆の文字を見ながら、字を丁寧に書く、ということについて考える。

 

字を丁寧に書くことを意識するようになった、一番最初のきっかけは何だっただろうかと振り返ると、大学入試を思い出す。22年前、第一志望校の入試。その二次試験では小論文があった。赤本で勉強し、また市販の参考書も読みながら、論文対策をしっかりして臨んだ。その意気込みは、問題文を読んですぐに絶望に変わった。問題のテーマは今も鮮明に覚えている。江戸時代の不定時法を問う問題だった。それまで対策してきた私を足元からひっくり返すような問題に、慌てた。どうやって論文を書いたかはほとんど覚えていない。記憶に残っているのは、終了時間が迫る中で焦り、特に後半、自分でさえ判読できないくらい雑な文字になってしまったことと、パニックのあまり、尋常じゃない量の手汗で試験用紙を濡らし、書いた文字をにじませたことだ。

 

結果は当然ながら不合格だった。小論文の出来の悪さが不合格の原因だったのかは正直分からないけれど、悪い方に作用したのは確実だろう。採点者もさぞ不快な思いをしたはずだ。できれば思い出したくない、嫌な思い出である。それ以来、誰かに手紙を書くのであっても、自分しか読まないノートであっても同じように、最低限判読できで、読み手が不快な思いをしない程度に、整った文字を書くようにしようと意識している。

 

今では、汚い書きなぐりの文字を書くことに対して、罪悪感に近い感情を抱くようになった。それがなぜなのかをこのところずっと考えていて、つい最近答えが分かった気がした。読み手が嫌がるだろうから、という「読み手への配慮」ももちろんあるけれど、それ以上に、文字を今書いている、他でもない自分自身が、汚い文字を見て嫌な思いをするからだ。なにしろ書かれた文字を最初に見るのは、読み手ではなく自分である。自分という第三者が一番最初の読み手である、と言ってもよい。その自分が嫌がるような文字は、やはり書いてはいけないということなのだろう。自分を不快から守るために。

 

仕事柄、法科大学院生が書いた司法試験の論文式試験答案を読むことが多い。これだけの論を決まった時間の中で展開してすごいなあと驚嘆する一方、ほとんど読めないような雑な文字も中にはあるので、これでは採点者も読めないだろうに、読んでもらうための文章なのだから、ちょっとは意識して丁寧に書いてくれよ、とも思う。ただ、そうした答案を見る度に、手汗で鉛筆と答案用紙を濡らしながら「蛇がのたくったような」文字を書き、当時想い描いていた理想の進路を自らの手で断ったことを思い出し、「まあ、どっちもどっちか」と嘆くことになるのだ。

 

続けることの方が今の自分には重要

日課のジョギング。昨日は夜に食事会があって帰りが遅く、またお酒も少し飲んでしまい、そのあとに走ることができなかったので、少し足が重かった。一日サボっただけでこうなるのだから、毎日続けることの力は本当にあなどれない。

 

しかし最近は、体調不良や仕事で帰りが遅かった時など、それでも無理に走ろうと意気込まなくて良いと思うようになった。毎日欠かさず走っても、どこかで緊張の糸が切れてしまい、習慣が失くなってしまうのでは意味がない。それよりも、「ちょっと今日は・・・」と思う日に休んでも、習慣を10年20年と続けることの方が今の自分には重要だ。30年後、会社員が定年退職を迎えるような年齢になっても毎日ジョギングを続けていられたら、きっと清々しい毎日を過ごしていられるのではないか。

 

3月までは、手帳に毎日「ジョギング」と書いて、走り終わったらチェックを入れていた。後で手帳をパラパラとめくって、毎日走ってるね、と振り返って満足したいと感じていた。しかし4月始まりの手帳を先月購入してからは、書くことをやめた。気分が乗らない日は気にせず、走らない。ただ、誰にやれと言われているわけでもなく、ただ走るのが楽しくて走っているのだから、体調がすぐれなくても走る。そのくらいのラフな気持ちでシューズを履き、玄関を出ることが大事だと思った。

 

程遠い

駅のホームに着いてから電車が到着するまでの待ち時間が長かったり、ようやく来た電車が目的地手前で止まってしまう電車だったり。そうした「電車移動にまつわるイライラ」を、ここ最近特に強く感じるようになってしまった。以前はなんとも思わなかったと思うのだけれど、こういう感覚は研ぎ澄まされるものなのだろうか。いや、むしろ忍耐力が衰えたと言ってよい。

 

今日も、幡ヶ谷駅から明大前駅に行くのに、幡ヶ谷駅で待つ電車がなかなか来ず、来たと思ったら笹塚止まり。笹塚に到着したらドアが開く直前で各駅停車の電車が出発してしまい、次の電車を待つ。ようやく来た電車に乗って明大前に着き、またしばらく井の頭線の到着を待った。渋谷で東横線のホームに着いたら、止まっていた急行電車が満員で、隣の各駅停車で出発を待つ。しかし少し前に車両トラブルがあったようでなかなか出発せず、急行が出発しないことには各駅停車も出発せず、悶々とする。先に出発し、早く到着する急行に本当は乗りたいのだけれど、ぎゅうぎゅうだからとても乗る気になれない。こうして要所要所で立ち止まりながら、ようやく駅についたらクタクタになっていた。駅前では区長選の演説をしていて、拡声器の音量をこれでもかと大きくして叫ぶ候補者の声が耳に突き刺さった。おおげさでなく、吐くかと思った。

 

なんだか愚痴になってしまった。こういうささいなことに大きなダメージを受けるようになったのはいつからだろう。割と最近のことではないかと思う。電車が来るのを待つ時間だってせいぜい5~6分程度。そんな時間、目的地までの時間を思えば誤差だろう。実家暮らしの頃、東上線の駅に電車がやってくるのは15分に一本、当時はそれを普通に待っていたじゃないか。後で思い返せば冷静になれるのだけれど、その時はどうしてもイライラしてしまうのだ。

 

器の大きな、寛容な大人になりたい。そう思うようになってだいぶ経つ。しかし実際は、寛容とは程遠い、いつまでも狭量な自分だ。

 

朝、窓を開ける

「あさになったのでまどをあけますよ」絵本の読み聞かせで聞こえてくる声。朝、眠い目をこすりながらもベッドから離れ、まずブラインドを上げて窓を開ける。そうやって光と風を室内に送り込む自分の姿を想像した。いいじゃない。前日のムカムカが多少頭に残っていても、仕事がうまくいかず悶々とする日の途中であっても、朝、窓を開けてちょっとひんやりした空気が身体にぶつかってきたら、その一日に訪れる幸福の8割は、すでに受け取ったようなものだ。なんだかそう思えてきた。頑張ってちょっと早く起きて、熱いコーヒーでも淹れて飲めたら最高だ。そうしたらさっき言った8割が、9割になると言ってもいい。そう考えたら明日の朝が待ち遠しく感じられる、いつまでも単純な自分だ。

 

 

黄金の猿

SHINE ON SHIN ON

 

どこか懐かしくて安心感のあるメロディ。「うん、これだよね」と思わせてくれる安定のリズム。期待を裏切らずにそういうものを与えてくれる彼らの活動がとにかく嬉しい。映像の中の黄金の猿が一段と輝いて見える。

 

4月末には待望の東京ドームライブ。待ちきれず、そわそわしてしまう。

 


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ラーメンの誘惑

遅めの昼ご飯。久しぶりにラーメンが食べたいと思い、ラーメン屋に入った。緊張する仕事を終えた後だったので、解放感もあった。ラーメン大盛りと、サービスのご飯をたっぷり食べた。

 

つい最近まで、ラーメンとご飯をセットで食べても、食べ終わった後にほんのちょっとの物足りなさが残っていて、腹八分くらいの感覚で店を後にすることが多かった。今日もそう思っていたのだけれど、満腹感が激しくて、重い身体を力を入れて動かすようにして帰宅した。食べられる量がだいぶ減ったようだ。

 

いつだったか、夜にラーメンを食べた翌日に体調を崩したことがあって、しばらくラーメンは断とうと決意した。大好きなラーメンを食べずに過ごすストレスは思いのほか大きかった。それでもしばらく経てば慣れてきた。今は断っているわけではないけれど、リミッターを解除したら週に何度もラーメン屋に立ち寄ってしまうから、意識して、何か特別な日でない限りは食べないようにしよう、と思っている。今日、久しぶりに食べて、その想像以上の満腹感に、またしばらくは食べずにいた方がいいな、と感じた。

 

ダイジョブ、ダイジョブ

はなまるうどんで早めの昼ご飯を食べていたら、レジに並ぶ女性と店員さんとのやりとりが聞こえてきた。

 

店員さん「ねぎはお入れしてよろしいですか」

女性客「あ、大丈夫です」

店員さん「ねぎ抜きですね。かしこまりました」

 

言葉尻は多少違ったかもしれないけれど、こんな感じのやりとりだった。女性客の返事に対する捉え方が私と店員さんとで180度違っていて、驚いた。

 

どうやら女性客は「ねぎを入れますか?」に対して「ねぎは『入れなくて』大丈夫です」と返事したようだった。てっきり私は「ねぎを『入れて』大丈夫です」と答えたのだと思った。なぜなら、店員さんがねぎを入れるかどうかを聞くということは、その言外に「ねぎが苦手で抜く人が多いので念のためお聞きします」という意味合いがあると思っていたからだ。「ねぎは苦手ですか?」という暗黙の質問に対して「大丈夫です」と答えたら、それは「大丈夫です。食べられます(好きです)」という意味になるだろう。しかし彼女らのコミュニケーションは真逆の方向へと着地した。店員さんのあまりに滑らかなリアクションに、とにかく驚いた。きっと「大丈夫です」に対して私と同じように捉えて「ねぎありですね」と答えたところ、「いやいや、違いますよ。入れなくて大丈夫っていう意味に決まってるじゃないですか!」と言われた失敗例が、過去に何度かあったに違いない、と勝手に想像する。

 

日本語の難しさはこうした曖昧さにある。しかし言い換えれば、その、前後の文脈や微妙な発音、イントネーションなどによって真逆にもなりうるものの意味を感じ取るセンサーが日本人には備わっているとも言える。よくよく考えると、日本人ってすごいね、と思う。

 

「ダイジョブダイジョブー♪」小島よしおのギャグで私が一番好きなのが、これだ。「そんなの関係ねー♪」が一番有名なのだろうけれど、それよりも好きだ。まあ辛いこともあるだろうし、自分の不甲斐なさに吐き気をもよおす日なんてしょっちゅうだけれど、頭の上で手を叩きながら「ダイジョブダイジョブー♪」と声に出したら、たいていのことはダイジョブになるんじゃないかとも思える。もちろん、なんでもかんでも笑って済ませられるとは思わない。それでも、不必要な落ち込みは頭から消し去ってしまったほうが、うまくいきそうに感じられる。なにより精神衛生上よろしい。

 

大好きな言葉ではあるけれど、想像を超える意味の広がりをもった言葉でもあるから、その扱いには気を付けなければいけないと思った。

 

ほんのわずかな「チクショー」をなくす

大きな仕事が一段落し、ほっとし、急に緊張の糸がほどけた。帰り道、寄り道してケーキ屋に立ち寄る。シュークリームが格別においしいケーキ屋だ。節目だし、たまにはいいだろう、と思った。

 

夕方近い時間帯だったからか、目当てのシュークリームがなかった。聞いたら、ちょうど売り切れてしまったのだという。残念。ついそう口に出しそうになって、いけないいけない、と言いとどまった。

 

久しぶりに訪れたケーキ屋で、目当てのシュークリームがたまたま売り切れていたことを恨み、「残っているべきだ」と本気で思うならば、つまりはあるのが当然だと思うならば、たまたま自分が立ち寄らなかったら売れ残っていた可能性が高いということを意味する。ただでさえモノが多くひしめいている(ように見える)東京だ。たまたま訪れた自分が目当てのものをゲットできるのが当たり前と考える方が怖くないか。仮に買いに行くのが1か月に1日だとしたら、残りの29日は残るという事。本来はそう考えなければいけないだろう。

 

ケーキ屋に限らず、スーパーにしてもコンビニにしても、街の小さなパン屋にしても、とにかく並んでいる商品が多すぎるように感じる。よく言われる廃棄問題も、きっとなくならないんだろうなあと思う。ただ、その無駄に廃棄される量を多少でも少なくする方法があるとすれば、自分にできることはただ一つ。シュークリームがなかったことで心に巣食ったほんのわずかな「チクショー」をなくすこと。全て買い手に渡ったことを自分事として喜ぶこと。たまたま売り切れだっただけで、むしろそれが自然であるということ(シュークリームが買えなかっただけで、現に別のケーキを買うことができた。結果、チーズケーキも格別に美味しいと知ることができた)。まず自分がそう思うようにしよう。そしてそう思う人が増えていったら、つまり売り切れを嘆かない消費者が増えれば、店側が消費者の「チクショー」が顕在化することを恐れて過剰に仕入れたり、過剰につくったりすることが減るのではないか。

 

いちいち考える

森田三和著「サンドイッチブルース」(ループ舎)が好きで、下線を引きながら繰り返し読んでいる。今日は行きつけのカフェで、久しぶりに読んだ。

 

自分に正直にいちいち考えて判断していると、きっと明るい未来がやってきます。

 

「いちいち考える」のはなんだか大胆さを欠くようで、あまり好ましくないように感じてきた。大胆さ、おおらかさを身につけていたいと思いながら、しかしそれができず細かいことをいつまでも引きずっている自分が嫌だった。そんな自分が嫌いであることは今も変わらない。しかし今日、「いちいち考える」ことは決して悪いことではないよ、と本書で励まされたような気がして、肩の力がふっと抜けた。コーヒーを飲みながらぼんやりしていたからだけではないだろう。

 

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じたばたしているときこそ「ふだん通り」に

内田樹「街場の大学論」を通勤の電車内で読んでいる。大学で働いているので、大学を取り巻く環境について少なからず考えなければいけない、という危機感があり、それが20年近く前の文章を読む動機づけになっている。

 

今日、そのなかで「ぐさっ」とくる言葉に出会った。おそらく初めて目にした文章ではなく、これまでにも読んだことがあるはずなのだけれど、いまの自分の境遇と重なって、反省させられたのだ。

 

少し長めだけれど、私の大好きな考え方を知ってほしく、引用する。

 

ゼミが始まる。

新四年生のゼミは初回から欠席者が六人というありさま。卒論研究計画の提出日だというのに。

就職活動というのは、そんなにたいせつなものなのであろうか。繰り返し言っていることだが、もう一度言わせて頂く。大学生である限り、就職活動は「時間割通り」にやりなさい。

諸君はまだ大学生である。いま、ここで果たすべく期待されている責務を放棄して、「次のチャンス」を求めてふらふらさまよい出て行くようなタイプの人間を私たちは社会人として「当てにする」ことができない。

当然でしょ。いま、ここでの人間的信頼関係を築けない人間に、どうしてさらに高い社会的な信認が必要とされる職業が提供されるはずがありましょうか。

(中略)

古来、胆力のある人間は、危機に臨んだとき、まず「ふだん通りのこと」ができるかどうかを自己点検した。まずご飯を食べるとか、とりあえず昼寝をするとか、ね。別にこれは「次にいつご飯が食べられるかわからないから、食べだめをしておく」とかそういう実利的な理由によるのではない。

状況がじたばたしていたときに、「ふだん通りのこと」をするためには、状況といっしょにじたばたするよりもはるかに多くの配慮と節度と感受性が必要だからである。

(中略)

まわりがみんなじたばたしているときに、とりあえず星を見るとか、とりあえずハイデガーを読む、というようなタイプの人間を「胆力のある人間」というふうに私たちの社会は評価する。そして、当たり前のことだけれども、まともな企業の人事の人間が探しているのは、業績不振というような風聞を聞きつけて「きゃー、たいへんよー!」とあわてて就業時間中に求人誌をめくって転職先を探すような社員ではなく、落ち着いてふだん通りに仕事をてきぱきと片づけてくれるタイプの社員に決まっているのである。

(就職活動は「時間割通り」にやりなさい)

 

どんなに忙しく、やるべきことの多さにめまいがする毎日であっても、その状況にただじたばたするのではなくて、そういうときこそふだん通りにご飯を食べ、きちんと寝る。コーヒーなんか飲みながら深呼吸し、窓越しに空を眺めたりして。忙しなさにイライラしがちな今こそ、心に刻んでおくべき考え方だろう。