わたしのすきなもの

 

内容が醜くてとっ散らかってるからせめてタイトルだけでも明るい小学生の作文風にしてみたけど、いま現在、おれの好きなものが急速に全然わからなくなってきている。

 

そもそも好きというのがどういうことなのかがわからなくなってしまった。別に恋愛に限った話ではない。音楽でも映画でもなんでも。

それどころか、善悪やほかのものごとの境界線もものすごく曖昧になってきていて、もうどうしたらいいかわからない状態なのだ。とりあえず、なにかのとっかかりになるかもと思い、「好き」に関して考えていることを整理してみる。

 


大人や本や映画でもみんな「自分の好きなものを探せ」と口を揃えて言う。たしかにそれさえあればなにかを続けるためのモチベーションになり、それに付随して人生経験なんかも増えて、結果的に人間性が豊かになっていくのだろう。しかし、なにかひとつに絞って興じられるのってスゲーと思う。いまおれはなににおいても一つに集中して続けられる自信がない。

 別に「世の中にロクなもんがない、全部クソだ」と言っているわけではない。むしろその逆だ。好きかどうかわからなくても、すごいもの、いいものって世の中には本当にいくらでもあって、おれはたぶん何が好きかよりも前に、それぞれどんなところが魅力なのか、価値があるのかというのをなるべくたくさんちゃんとわかっておきたいのだ。

 例えば、これはどっかのサイトで解説されていた内容なのだが、今年グラミー賞を受賞した、チャイルディッシュガンビーノのThis Is Americaのビデオ。上裸のガンビーノが現代的なダンスに合わせて広い倉庫内でなんやかやするビデオである。ただ、そのなんやかやの中に様々なギミックが仕掛けられている。はじめに、拳銃で椅子に縛られた男性を殺害するシーン。ガンビーノが奇妙なポーズで発砲した後、男性は無造作に引き摺られて退場し、対照的に銃はいかにも高級そうな布に丁寧に包まれる。これは人命よりも銃が尊重されているというアメリカの現状への皮肉になっている。そして銃を構えるときの奇妙なポーズは、昔白人が演劇で黒人を演じるときに顔を黒塗りにしたとい、これに似たポーズのポスターを表していて、これは未だ根強く残る黒人差別の比喩である、など。他にも隅から隅まで色んなネタが仕掛けてあって、それぞれがなんらかのオマージュだったり、メタファーなのだ、という話である。こういうのってただ変なビデオだな~と思って見るよりもちゃんとそういうのを知ってて見た方が得られる情報が段違いで、そういうのをちゃんと拾えないで「変なビデオだな~」で通り過ぎてしまうのは、なんかとてももったいなく感じるのだ。

 価値があるとされるものは、自分の好みは置いといてまず先にキチンと価値を理解したい。そのあとで好き嫌いの判断をしたい、それを知らないうちに好きや嫌いの話に移りたくないのだ。小学生からロック一筋みたいな思考だったおれが今じゃどうだ、ヒップホップ沼に肩までどっぷり浸かっているじゃないか。たぶんこれからも音楽の趣味は次々と変遷していくだろうし、今はまだ理解できていないというだけで、今まで距離を置いてきたV系やアイドル文化にだってゾッコンになれるだけの要素はきっとあるはずなのだ。それがわかってきた以上、いよいよなにかひとつのジャンルに対してバンザイ三唱できる気分ではなくなってくる。ジャズやクラシックなど昔の音楽にだってまだ知らぬ心が震えるような名作があるのだとすれば、わざわざアタリかハズレかもわからない流行を無理やりお金をかけて追いかける暇なんてないのだ。なんか思考が村上春樹ノルウェイの森に出てきた、著者が死んで何十年以上経った本しか読まないという主人公の先輩に似てきた気がする。確かに、それだけの時間を経ていまだ名を残すというのはそれだけ多くの人が価値を認めてるわけで、ただ無造作にそこいらの無名の作品を手に取るよりは、自分の好き嫌い問わず何かしら読み応えのあるもの、価値のあるものである可能性は高いのだろう、という気がする。理には適ってるんだよな。

これが自分の中で無意識に「無知は恥だ」みたいな思考が働いているからなのか、ただ知的好奇心がほとばしっているゆえのことなのかも実はよくわからない。

とにかく、良さを理解できない自分が悪いという考えが強くなってきている。おれがまだ知らないだけで考え方によっちゃどっかにはおもしれーと思える部分があるはずなんだよ。あるものが苦手だと思ったときに、それの否定より先に自分に対して経験不足、知識不足、価値観が未熟であるという自責に近い感情の方が勝つようになったのだ。「ちゃんといいところもわかってもないクセに知ったようなクチ利くんじゃねーよ」という気持ちが勝つ。これはおれがヒップホップおもしれーと思ったときに良さを伝えきれなかった文字通りロック頭だった父や友人に感じた気持ちと同じだ。ネットでよく見るなんらかの批判にも近いことを思うようになった。その人にはおれたちの知らないその人なりのリクツや事情があるわけで、外野のおれがヤイヤイ言うことなんてほとんどねーな、と。たぶんこの意見自体、この記事自体も結局やってることおんなじなんだよなきっと。殴る相手が自分自身だけで周りにメーワクがかからないから波風が立たないってだけで。とにかくもう色んなことがわからない。

ひつじのあゆみさんが言ってたけど法律だって時間が経過と共にコロコロアップデートされてさらに国毎でも内容が全然違ってるわけで。国民としての誇りみたいな自覚があるならともかく、ただ何億匹いるうちの1匹の類人猿+αにとっちゃどれにだって諸手を上げて賛同といえるものはないだろう。どこかしらに引っかかりはある。人にも当てはまることで、確かに言ってることは面白いし的は得ているけど、ドッペルゲンガーでもなけりゃ違和感を覚える部分も必ずどこかにはある、もしくは今後発生し得るわけで。そうなると何かに全身全霊の信頼を置くということも難しくなってくる。大ファンとか〇〇命!みたいな言い切り方ができなくなる。

恋愛だってそうだ。音楽の趣味がコロッと変化したようにいつどんな人が好きになるかなんて誰にもわからない。一応おれはヘテロセクシャルだし、同性にそういった類の気持ちは感じたことがないけど、稲妻のように全身を駆け抜ける恋の相手が同性であることだって十二分にあり得る話なのだ。統計では割合が異性愛者より少ないってだけで自分がそうでないなんて確信はどこにもない。バカがこんな余計な葛藤を抱える前にさっさとお見合いで半強制的に男女をくっつけてた時代ってのはさぞ出生率が高かったんだろうな。

全否定もできなくなった上に全肯定もできなくなっちゃった。最近こんなことばっかり考えてる。何がYESで何がNOなんだ。もうわけわかんねー。人生はもう火の車。そんなん考えてる場合じゃねー。

たぶん留年生と半ニートを繰り返して社会の中心的な部分から離れてひとりで過ごしすぎたせいで、社会とか一般的な物事の基準みたいなのがかなりあやふやになってきちゃってるんだよな。もうダメかもしんない

無駄につらつら書いてきたけどブログのオトし方わかんねーよ議論の続きでも解決策でもいいのでだれか助けてくれ