折り畳んだソーダフロート

 

夏は死が近い、絶望は「死にたい」には近いけど死とは近くなくてむしろ生が近い。

不穏な話ではなくて、なんだろ、リゾートとしてデザインされただろう夏のデジタル模型に死を見る、夢を見る、夢を見るひとが夢に見る海だと思う、「南の島に行きたい、もう一度海が見たい」と呟くひとの瞼の裏を見る、どこにもない電子の世界でさえ「箱庭」と称される海のことを思う、どこにもない海に行きたい、わたしは海が好き

 

こういう話法でひとに何かを伝えることはきっとできない、それでもわたしはこの話し方で伝わって欲しいって願ってしまう。だいぶ、だいぶ譲歩してこうなった。このリズムなら、まだわたしの拍動に沿っているのを感じる。拍動からずれて酔うような言葉で誰かに伝わっても意味がない。

自分を抱いて心中するだけ、人生ってきっとそれだけのことだ。

なんて、悟った気になって喋ってるのがださい、言葉が止まらなくなるときはある、しばらく書かずにいたって勝手に来る。息継ぎみたいに文章を書いている。

 

この世界にあまたいる人間たちの語彙がぴったり重なることなんて有り得ないのに、わたしたちは会話なんてして、分かち合った気になって、「気でしかない」と思い悩んで、どうしてこんな不確かなことを続けていられるんだろうね。同じ速度で駆け抜けたいのだ、意味なんてわかってなくてもずっと同じ視界にいれば、それはもう、それで充分じゃんね。

死んだひとの魂が本当にこの世に残るのなら、もうそこここに折り重なって層を作っていて、わたしは魂の隙間で眠り呼吸をし魂を吸って肺で細かくしさえしている。そういうものを見たくてたまに目を眇める。重なる色やもったりした質感は美しい、見たことないけど見たことがある。その隙間にこの細長い肉体を埋めて、小さくなって、毎日意識を落としてゆく。今朝は耳下腺がひどく腫れていた。1日かけてまだ少し残っているけれど、いいってことにしようよね。

 

こんなことを考えていなくても生きてゆけるのにと言うひとはたくさんいる、でも言わないひともいる、助かるよ

 

自意識がずっとおかしい。気づいていないふうに話したらいいのか、気づいていることを全部詳らかにして話したらいいのか、何が失礼で何が失礼じゃないのか、失礼なほうがむしろいいのか、なんにもわからない。何を優先して考えたらいいのかいつもわからない。相手の気持ちもわかるはずがなくて、正解があるのかもわからない。できるだけ何気なく、自然に、微笑むように、って何をしても好ましくなく厚かましく醜い所作に見える。それは嫌。こんな自分は嫌。じゃあどんな自分ならいいの?って思い浮かぶのは、もう、じゃあわたしじゃなくてもいいよねって思うような集合体。わたしは誰にも発見されていないような気がする、わたしにすら見つかっていない。ずっと泣き声だけが細く細く響いている。

 

醜いことを書きたくないvs吐き出さないと腹抱え続ける羽目になるんじゃないvs吐瀉物さえ抱えるんじゃないの、なら体内外に大した差はないのではvs酔うな、酔うならやめなよvs

そんなの全部遅すぎる