忠義と武士道に生きた軍人・乃木希典
「乃木坂」と聞くと皆さん何を思い浮かべるだろう。
東京都に住んでいる人やよく行く人なら東京メトロ千代田線にある、港区の一等地でもある「乃木坂駅」
あとは女性アイドルグループの「乃木坂46」
最近元乃木坂の人が俳優と写真撮られてましたね。
世界一嫌いな話題が芸能人の不倫と熱愛と結婚と離婚と訃報なのでしらんけど。
「乃木神社」なんてのもあります。
1849年12月25日に長州藩の小さな武士の家に三男として生まれる。
父親は武家の男なのでとても厳しく、真冬に希典少年が「寒い」と駄々をこねた時には「寒いなら暑くしてやる」と言って外に連れ出し冷水をぶっかけるような父親であった。
今「ただの虐待じゃん」と思った人は正解なんだけど時代が違うんだなと思って下さい…
もともと身体も細くてひ弱な性格だったため、すぐに泣いてしまう少年だったが武士の子供として様々な教養を学んだ。
その中で学者の道に進みたいと思い、父に相談するも、父は武士になることを強要。
何と家出をしてしまう。
そして行くあてもなく歩き続けて辿り着いた家は父親とも縁戚の学者であった。
彼に「勝手に家を出てくるとは何事だ。武士が嫌なら農民になるしかないぞ」と叱責された希典少年は「農民は嫌だなぁ…でも武士も嫌だし…」と思いつつ、彼のもとで農作業や剣術をして過ごす。
何だかんだで軍人になるのは幕末の頃、世間では江戸幕府が二度目の長州征伐を企て、対する長州藩は薩摩藩と薩長同盟を結んで対抗していた頃だった。
希典も藩から呼び出しを受け各地で幕府軍や幕府方の諸藩の兵士と戦った。
そして軍人としてのキャリアをスタートした乃木は明治維新以降は新設された軍隊に正式に入隊する。
彼の最初の転機になったのは1877年に勃発した西南戦争への出陣であった。
この時、西郷隆盛率いる薩摩軍との激戦で乃木は敵に軍旗を奪われてしまう。
当時、軍旗は錦の御旗、つまり天皇それ自体であると考えられており、つまり天皇を賊軍に奪われたということで重大な失態と考えられていた。
軍人としては功績をあげたわけであるが、この軍旗を奪われたことを恥じて乃木は自害を決意する。
この時に乃木に自害を思い止まるよう説得したのは他でもない、明治天皇であった。
「乃木よ。死んではならぬ。お前の命、朕に預けてはくれぬか」と必死に説得したという。
これは乃木の生涯に多大なる影響を与えた。
そして日本は当時の欧米列強による植民地奪い合いの中で近代的な軍隊を作り、憲法や法律を作り、国内の整備も進めていよいよ世界史の転換点である日清戦争、日露戦争へと突き進んでいく。
この間に薩摩藩藩医の娘として生まれた静子さんと結婚して2人の男の子が生まれている。
静子さんはまさに薩摩の女で夫を立てて家を守り、気丈で聡明で美しい女性であった。
話を乃木に戻すと、1892年に勃発した日清戦争では朝鮮半島にある旅順で清王朝の軍を撃破している。
圧倒的兵数の清国軍に対して乃木は寡兵を持って僅か1日で陥落させる武功をあげる。
その後も数々の戦いで功績をあげ、評価も上げたわけだが、後述する日露戦争ではこの旅順要塞の短期間での陥落が彼を苦しめられることになる。
そして二度目の運命を決めたのが、まさに先述した1904年に勃発する日露戦争であった。
乃木は中将として第三軍の司令官として出陣。
攻略目標は以前日清戦争にて陥落させた旅順要塞であった。
この時清王朝は日清戦争で弱体化し、欧米列強は「眠れる獅子だと思っていた清王朝がたかがジャップに完敗するとは太った豚であったか」と次々に領土を分割占領していた。
ちょうど映画「ラストエンペラー」の冒頭シーン手前くらいの時期と考えてもらうといい。
西太后はまだ健在だが、各地で反乱が起きそうな気配を感じさせている時代になる。
そうした背景もあり、旅順もロシアの手に渡っていた。
ロシアの猛将ステッセルはこの旅順に堅剛な要塞を構築。
当時最新鋭でなかなか出回っていない兵器であった機関銃やガトリング砲をこれでもかと敷き詰め、コンクリートの防壁や有刺鉄線を張り巡らした。
ステッセルは「100万の軍勢でも落とせまい」と豪語した。
この時、大本営は「以前日清戦争で1日で陥落させている乃木ならば今回も楽勝だろう」と油断し切っており、乃木にもほとんど情報が与えられず、また物資や兵器も多くを回されなかった。
しかし現場で旅順要塞がまるで変わっていることに驚いた乃木は援軍や追加の兵站を要請した。
しかし、旅順要塞があることで日本海に船が浮かべられない海軍は執拗に「さっさと旅順を攻撃しろ」と陸軍に詰め寄った。
この時から海軍は文句だけ言って陸軍に汚れ役を着せるのが得意だったようだ。
乃木は仕方なく、旅順要塞の正面突破を試みて総攻撃を仕掛ける。
が、丘の上からは機関銃やガトリング砲の雨が降り注ぎ、有刺鉄線を張り巡らせた陣地は攻略が難しく、多大な犠牲を払って攻略は失敗した。
なお、のちの総攻撃でも失敗はしているものの、司馬遼太郎の言うようにイタズラに精神主義で正面突撃をしたのではなく、穴を掘り進めて地下から攻撃を仕掛けたり、十分な砲撃を加えた上での総攻撃であったりと史実は意外と理論的だったようだ。
しかし、そんな奮戦虚しく三度目の総攻撃も失敗してしまう。
徴兵された兵隊の戦死、それに引き換えまったく進まない旅順要塞の攻略。
「君死にたまふことなかれ」という弟の戦死を憂いた与謝野晶子の「みだれ髪」が発表されたのもこの頃だった。
国民の怒りは乃木に向けられ、彼の私邸には石が投げ込まれ、「切腹しろ」という誹謗中傷の手紙が多く寄せられた。
この3回の総攻撃の中で乃木の長男・勝典と次男・保典が戦死した。
2人の戦士の報を聞いた乃木は口では「よく戦死してくれた。これで世間様に面目が立つ」と言ったが、やはり父親だったのだろう。
涙を隠すように蝋燭を吹き消したというエピソードがある。
妻の静子さんも最初に長男勝典が亡くなった時こそ涙を流したが、次男保典が亡くなった時には気丈に振る舞った。
大本営の中でも「乃木を更迭すべきではないか」という意見が主流になった。
しかし、ここでも乃木を庇ったのは明治天皇であった。
明治天皇は「乃木を変えてはならぬ。もしここで乃木を変えたらおそらく自害をするだろう」と彼の続投を支持した。
またも明治天皇に救われた乃木は、攻撃目標を旅順要塞の重要地点である203高地と呼ばれる丘に決定。
最もロシア軍の守りが固い203高地の攻略決定で大本営もようやく事の重大さに気付き、乃木の盟友で戦略のプロである児玉源太郎を派遣して、最新式の大砲を送った。
そして乃木と児玉という2人の名将が指揮を取り、激烈な攻防の末、ついに203高地を攻略。
203高地を奪われたことでロシア軍は総崩れして、旅順要塞はついに陥落した。
この時、乃木希典の人柄を表すエピソードとして「水師営の会見」というのがある。
今もそうだが、戦争になると世界各国のジャーナリストやカメラマンが従軍記者、従軍カメラマンとして同行する。
日本人だと有名なのは従軍カメラマンの宮嶋茂樹氏や渡部陽一氏であろう。
アメリカ人従軍記者が「乃木将軍。旅順陥落の様子を本国に伝えたい。乃木将軍と敵将ステッセルの写真を撮って記事にしたい」と申し出た。
当時は負けた敵の指揮官達を地べたに座らせていかにも勝者と敗者というように世界にアピールするのが欧米列強のやり方だった。
しかし、乃木は「例え敗軍の将といえどそのような恥をかかせるわけにはいくまい」と言って断った。
それでも一枚だけ写真がほしいと食い下がる従軍記者の熱意に折れた乃木は一枚だけ写真を許可するが、その様子にアメリカ人記者だけでなく、世界中が目を見張った。
これがその写真である。
先ほど書いたように、当時は敗軍の指揮官達は軍服を脱がされ、地べたに座らされていかにも「敗北者です」と言ったような待遇が当然だった。
しかし、乃木は負けたロシア軍の指揮官達にも軍服の着用と帯刀を許し、まるで同盟国と撮るように撮影した。
まさに武士道精神に生きる乃木を表すエピソードだ。
ステッセル将軍はのちに奉天会戦でも乃木率いる部隊と交戦して敗北。
ロシア皇帝ニコライは激怒して「ロシアが破れたのはお前のせいだ」と罵り、極刑を言い渡した。
ロシア国民も怒りに燃えてステッセルの家には投石が頻発し、家族も標的にされた。
そのステッセルの助命嘆願のために毎日毎日手紙を書き続けたのが乃木だった。
敵将、しかも勝者であるにも関わらず毎日毎日必死になってステッセルの助命を願う乃木の姿勢に心を打たれたニコライ皇帝はステッセルへの刑を禁錮に引き下げさせた。
それでも大黒柱を失ったステッセル一家は貧困に陥った。
そんな残された家族へ乃木は毎月お金を送り届けた。
明治天皇に救われたように、乃木もまたステッセルとその家族を救ったのだった。
乃木の活躍もあり、有名な日本海海戦の大勝利も経て日本は何と世界の大国ロシアに勝利した。
日本がロシアを破ったニュースは世界中を駆け回った。
世界の大国であり世界最強の陸軍と「海の狐」と言われた海軍を持つロシア帝国が負けただけでも大ニュースだが、それを破ったのがアジアの小国でつい少し前までちょんまげに刀を差していた日本だったのがさらに衝撃だった。
例えるなら、地元のリトルリーグの少年野球チームがニューヨークヤンキース相手に公式戦で勝ったようなものだ。
そして一番の衝撃は「黄色人種が白人を倒した」というこの事実であった。
インドのネール、ビルマ(現在のミャンマー)のアウンサン、中国の孫文や蒋介石、そしてフィリピンもインドネシアもタイも多くのアジア諸国で欧米列強の悪烈な植民地支配からの独立に燃える若者達に火を付けた。
映画「RRR」もそんな「我々も日本がロシアを倒したように、団結して大英帝国を追い払うぞ!」と志を持ったインドの若者達の物語だ。
「日本がやった。我々も日本に続け」「日本から学ぼう」と時には密入国をしてまでも日本へやってくるアジアの革命戦士が溢れた。
この時にインド人のラースビハーリーボースも日本に亡命して、中村屋に匿われ、その恩としてインドカリーを伝授。
これがのちの「中村屋のカレー」である。
話を戻す。
日露戦争の大勝利と旅順要塞陥落でつい昨日まで乃木を批判していた大本営のお偉いさんもメディアも国民も手のひら返しで乃木を軍神として持て囃した。
それでも乃木の心には旅順攻略戦で多くの若者達を死なせてしまったことへの後悔が渦巻いていた。
それを察知したのか明治天皇は「乃木に学習院の校長という役職を与えてやろう。乃木は子供を失ったので、若者達に囲まれる仕事をさせるのがよい」と学習院校長の役職を与えた。
そして乃木に「生徒達をお前の子供だと思って指導してくれ」と命じられた。
学習院は今でも皇族の方が通われる学校だ。
当時は皇族の他にも華族の子供などの身分の高い子供達が通う学校であった。
そんな乃木校長の学習院にのちの昭和天皇である裕仁親王殿下がご入学された。
乃木は例え親王殿下であっても他の生徒と同じように公平に、そして厳しくも優しくあたたかく指導した。
ある時裕仁親王殿下が車で通学されているのを見た乃木は「他の生徒が歩いて登校されているのに車で登校とは何事ですか」と叱責し、親王殿下は次の日から歩いてご通学なされた。
服がほつれてしまったから新しいのがほしいと言った時には「縫えばまた着れます」と指導した。
乃木の厳しくも優しい指導は裕仁親王殿下にしっかり届いており「校長閣下」と呼んで慕っていた。
昭和天皇となったあと、記者から人格形成について聞かれた時には乃木から教えられたことが一番の影響になっていると述懐なさっている。
そして1912年、明治45年7月。
以前から体調を崩されていた明治天皇がついに崩御なされた。
それでも乃木は残された裕仁親王殿下はじめ学習院校長として気丈に振る舞った。
1912年、大正元年。
明治天皇の大葬の礼が執り行われる。
学習院院長として本来はその場にいなければならない乃木は自宅にいた。
有名なこの写真を撮ったのはその時だ。
そして大葬の礼の儀式のひとつである砲音を聞きながら、妻静子さんと共に切腹して亡くなられた。
享年62であった。
西南戦争で明治天皇に命を助けられた日から、乃木はひたすらに明治天皇のために生き、そして死に場所を求めていた。
そんな乃木の辞世の句は
「うつし世を 神去りましし大君の みあと志たいて我はゆくなり」であった。
まさに死ぬまで江戸時代までの象徴であった武士道精神と忠義の精神を体現されていた人だった。
乃木の死をお聞きになられた裕仁親王殿下は呆然としてしまい、涙を流された。
新人の軍人として指導を受けたこともある阿南惟幾も号泣したと言われている。
乃木希典殉死の報を受けて、芥川龍之介や森鴎外、武者小路実篤といった作家は「前近代的だ」と批判した。
後年、司馬遼太郎も乃木の殉死や旅順攻略戦での正面突撃を「悪しき精神主義の象徴」としてこき下ろしている。
今を生きる大半の日本人もそうだと思う。
だが、わたしはそうは思わない。
彼の生き方こそ、我々が失ってしまった日本人としての正しい生き方なのではないか。
乃木は若い頃は芸者遊びや料亭通いが好きだったが、その後ドイツやフランスへ留学後に「軍人とは何たるか」を発表したのち、自分自身がその生活をしなければならないと料亭通いも芸者遊びもやめ、質素な食事や暮らしをし続けた。
昭和天皇はじめ教え子にも常に民衆と同じような生活を心がけ、贅沢せず、忠君愛国の精神を持ちなさいと指導した。
明治維新や文明開花の中で、豊かな生活と便利な暮らしを手に入れた我々が失ってしまった日本人の誇りや武士道精神、そして忠義の精神を乃木は体現し続けた。
現代に生きる我々も彼から学ばなくてはいけないと思う。
今回、わたしが近現代史の中で特に好きな人物である乃木希典について書いた。
また次回もご覧ください。
愚痴
元ナントカ坂のナントカさんが俳優の山田裕貴さんと熱愛が出た時に「ショック」とか言ってる人が多くてビックリした。
基本的に赤の他人の人生にそこまで感情移入したことがないので感受性が豊かだなと皮肉を言ってやりたかった。
それから最近はりゅうちぇるさんの訃報でショックを受けている人の神経が分からなかった。
この発言はめちゃくちゃ叩かれそうだが、だって別にあの人の親でも兄弟でも彼氏でも友達でもないから。
アイドルだって俳優だって人間なんだから生きてれば恋愛もするし恋愛したら性行為もするしいつかは結婚するし中には不倫して別れる奴もいる。
人は生きてれば必ず最後は死ぬ。
不倫でいえばYouTubeを観ていたらお笑いコンビアンジャッシュの渡部建さんがグルメ系YouTubeをやっていた。
なかなか面白かったが、コメント欄では不倫がどうのとかまだそんなこと言ってる奴がいた。
渡部さんが六本木の多目的トイレで不倫していたことがお前の人生にどんな影響を与えたんだと。
しかも刑事事件でもないわけで。
佐々木希や佐々木希の親が「この不倫野郎!YouTubeなんてやってないで反省しろ!」と言ったのならまだわかるが赤の他人がいちいち言うのが理解できない。
なぜそこまで家族でも友達でもない人のやることに一喜一憂できるのか。
あとアイドルの「恋愛禁止」も気持ち悪いと思う。単純に人権侵害だと思う。
アイドルなんて金稼ぎのための手段なのに何であったこともないキモいおっさんとかババアのために若い貴重な時期を恋愛せずに生きなければならないのか。
わざわざnoteにするほどのことではないのでここで書いた。
報道する奴らも低俗だしそれを話題にしてる奴も低俗。
喜び勇んで芸能ネタを話してくる人には表面的には話聞いてるけど心の中で軽蔑している。
科学は感情論を超えられるか
2011年3月11日に東日本大震災が起きた。
わたしは当時大学受験が終わり、第一志望はじめほぼ全ての大学に落ち、滑り止めのいわゆるFランク大学への入学を前にニヒリズムに陥って毎晩酒を飲み、昼間というのに爆睡していた。
その刹那東京に住むわたしの実家ですら大きな揺れで目が覚めた。
福島県や宮城県など東北の街は地震と津波で壊滅的な打撃を受け、テレビからはセンセーショナルでショッキングな映像が連日流された。
そして今回のメインテーマである福島第一原子力発電所がメルトダウンを起こした。
当時、政府も未曾有の大災害で二転三転して、官房長官であった枝野幸男氏の「ただちに影響はありません」という言葉が虚しく響き渡っていた。
それから12年以上の月日が流れた。
当時、新聞は別としてテレビやラジオをつければあれだけ東京電力がスポンサーをやって電子ちゃんのCMまで打っていたメディアがいっせいに原発は危険、原発をやめよと右向け右で報道し始めた。
テレビをつければ「東京のどこそれで脱原発デモが起きました」「大阪の△△で関西電力のお偉いさんがタウンミーティングで吊し上げられました」ばかり。
わたしは当時まだ18、19であったが得体の知れない気持ちの悪さを感じていた。
原子力発電はもともとアメリカのアイゼンハワー大統領が世界的な核兵器廃絶の動きに乗じて「核の平和利用」なる発言をしたことから始まった。
特に広島と長崎の経験から核へのアレルギーが強かった日本は「平和利用」という言葉に惹かれたのか中曽根内閣の頃に讀賣新聞社の正力松太郎氏などの活動もあって原子力発電の利用を開始する。
日本という国は土地がほとんど山であり、四季の動きが目まぐるしく、気候も変化が大きいので自然エネルギーの運用が難しい国である。
そうすると自ずと化石燃料に頼らざるを得ないのだが、中東情勢は今以上に緊迫しており、冷戦もまだ終わっていない中で安定的にエネルギーを確保する必要があった。
エネルギー資源が無いことの恐怖を日本人は実は一番痛感している筈であった。
それは原子力発電を導入した1950年台からしたらまだ10年ほど前の、大東亜戦争に日本が突入した理由がまさに資源であったからだ。
当時支那事変真っ只中の日本は中国大陸の奥地に攻め込み泥沼の戦いを進める中で、アメリカやイギリス、オランダは中国を巻き込み日本への石油や天然ゴムなどの資源輸出の凍結を発表した。
そうした資源の8〜9割をアメリカに頼っていたし、中東の資源はイギリスが押さえ込んでいるため、途端に安全保障上の脅威に直面した。
この状況を打破するために、ついに日本は1941年12月8日、ハワイの真珠湾を攻撃して大東亜戦争へと突入するのである。
いわば原子力発電は日本がエネルギー安全保障を考える上で唯一の安定的かつ安全に資源を確保できる施策であった。
各電力会社と各大学の理工学部や原子工学の学者達が研究を重ねてより安全でより安定した原子力発電施設の運営をおこなっていた。
しかし、やはりどうしても杜撰な管理や電力会社の驕りや怠慢は出てしまい、福島の事故も起きてしまった。
だが、果たして「事故が起きた。原発は怖い。だから全てやめてしまおう」と安易に決めてしまっていいのだろうか。
現在も多くの原発は稼働していない。
それは福島第一原発と同型の原発であるという理由から政府が及び腰になっている。
アレだけ福島第一原発はコントロールできたと発表しており、本人も原発推進派であった安倍元総理ですら原発再稼働はついに果たさなかったのである。
わたしはやはり、科学が感情に負けているとしか思えない。
1790年に「フランス革命についての省察」を発表して「フランス革命クソくらえ」と痛烈に批判をしたエドマンド・バークは「人間はinperfect(不完全)である。人間が考える理想は全てhypothesis(仮説)に過ぎない。
つまりそれは大いに間違える可能性がある。
不完全な人間の仮説に基づいて急激な革命や改革を設計主義的におこなえば必ず間違える」と指摘している。
そうなると原子力発電なるものも見方によれば人間の理想で核の平和利用などと言って作り出した賜物なので否定すべきだと思われるかもしれない。
だが、思想とは別に20世紀後半から21世紀以降、世の中は勝手に変わってしまうのである。
ITなるものが現れ、科学技術も発展して、今日より明日、明日より明後日と目まぐるしく世の中は変わる。
そうなるとこの厄介至極な原子力発電なるものを我々は作り出した以上、向き合うこともまた文明の宿命なのではなかろうか。
エドマンド・バークはさらに政治論的な意味合いで「保守の改革はgradualism(漸進主義)的に進めなければならない」と語っている。
原子力発電は怖い。危ない。とにかく全てやめてしまえ。即時脱原発。自然エネルギーで地球に優しくエコで生きよう。
よく左翼というより怪しげな宗教に入っていそうな人達がネットで垂れ流している。
だが自然エネルギーなるものが果たしてこの国でうまくいくのか。
机上の空論と理想論、そして正義感の暴走で直ちに原発を止めて自然エネルギーというのはまさにフランス革命で王政クソくらえと言ってルイ王朝を引き摺り下ろし、ジャコバン派なるものが現れて王も王妃も貴族も誰それ構わずギロチンにかけていったあの時代と変わらない。
多くの著名な大学で原子工学や物理学、理工学を研究している学者達は原発は運用を間違えなければ問題ないことを語っている。
原子力規制委員会も問題ないことを主張している。
政治が決められないのは世論がマスコミに煽られて「原発は危険」という凝り固まった価値観を2011年3月11日からアップデート出来ていない証拠である。
これは1930年代に中国東北部の満州で関東軍という出先の機関が暴走して勝手に中国大陸で戦争をおっ始めて、中央政府はそれを止められないで、国民はマスコミに煽られて軍人さん頑張れと後押しをしてしまい、官僚や財閥は戦争で儲けるために政府に圧力をかけて結局ズルズルと戦争に突き進んでいったのと似ている。
当時も今も政府やベテランの官僚、東電や規制委員会の人間は原発を動かなければまずいと分かっている。
だが、よく分からないフリーの記者とか怪しげな団体が原発危険だと騒ぎ立ててマスコミがそれをセンセーショナルに報道して、野党もそれに乗っかり、太陽光発電その他で金儲けしたい連中がそれを焚き付けて政治が決められないのはまさに1930年代とまるで変わらない。
このままズルズルと原発を停止していたら電気料金は青天井に上がり続けて結局困るのは我々国民の生活である。
あとから「あの時こうすれば」といっても遅い。
1945年8月6日に広島に原爆を落とされ、9日に長崎にも落とされ、ソ連が裏切って満州に侵攻してきた時に「あの時こうすれば」と言って後悔した歴史を我々は思い出さなければならない。
今やるべきは1日でも早く全ての原発を再稼働して電気料金の値下げをおこない、国民の家計の圧迫を食い止めることである。
岸田総理は「決められない」「検討しかしない」と叩かれているが、安倍元総理の国葬や広島サミットへのゼレンスキー大統領参加、広島で核なき世界への声明など要所要所では決めてきた人だ。
ぜひここでもどんな反発があろうと原発再稼働を決めて、やはりやればできる人だとアピールするチャンスである。
科学は感情に負けてはならない。
わたしの映画遍歴
最近インテリぶって政治の話をしてきたわけですが、ちょっとそういう固いテーマではなく趣味のテーマで真面目に話してみようかなと。
わたしは趣味があまりなく、今までいろいろ手を出してはすぐ飽きるの繰り返しで30年生きてきました。
その中でわりと続いている趣味が映画鑑賞かなと思っています。
子供の頃はよくハリーポッターとかポケモンとか観ましたが、あまり記憶には残っておらず。
中学生の頃に友達と三池崇史監督の「クローズZERO」を観たのですがそこでは映画そのものにはハマりませんでした。
正直部活の仲間から誘われて暇つぶしについていったからというのはありましたが。
まさかこの時、この三池崇史監督の作品、しかもクローズZEROとはまるで違うおどろおどろしい作品にハマるとは当時厨房のわたしは思いもよりませんでした笑
月日が流れて高校2年生。
わたしはもともと日本史が好きで、特に大河ドラマでよく観ていた司馬遼太郎さんの歴史小説にハマっていました。
特に「坂の上の雲」はつい先日までちょんまげをしていた人達が明治維新と欧米列強渦巻く大波の中で懸命に抗い、ついに大国ロシアを破って文字通り坂の上の雲を掴む人達の群像劇で胸が熱くなりました。
そういった理由から読む本も城山三郎の「落日燃ゆ」だとか、大岡昇平の「レイテ戦記」のような歴史小説が多かった記憶があります。
合間に三島由紀夫とか夏目漱石とか大江健三郎とか安部公房とか坂口安吾とか読んで何となくかしこぶっていた時代でもありました…
でも今思い返せば高校、大学の頃は本を読んでいたし、その頃から友達がいなかったのでひとりでつらつら書いていたブログを見るとやはり当時の方が頭がよかったなと思います。
やはり読書量と頭の回転は比例します。
今度そのことも書きます。
自責の念を込めて…
長々脱線しましたが、わたしの高校では高校2年生で文系と理系に分かれます。
わたしは日本史と古典、現代文が大好きで、反対に数学や理科は何度勉強しても赤点ギリギリしか取れなかったので必然的に文系に進みました。
その時に出会ったのが日本史の井石先生という当時30代そこらの女性の先生でした。
まだお子さんが小さくて、よく子供の話を嬉しそうにする先生でした。
また、本当に歴史が好きな方なのがすごく伝わる人なので、周りが爆睡している午後の授業だろうが何だろうがいつも楽しみに授業を受けていました。
その先生がとてもキレイな人だったから楽しみに授業を受けていたのもあるというのは秘密です。
よく授業終わりなど先生と歴史の話をするのがとても楽しかった。
ある時、授業も急足になる近現代史の授業で先生が「満州国の溥儀さんは映画にもなっているので興味がある人は見てみてね」みたいな話をされていました。
当然わたし以外全員寝ていたか興味もなく聞き流していたと思います。
わたしはもうその映画のことが気になって授業終わりにいつものように先生に質問をしました。
すると先生は「ラストエンペラーという映画で当時すごく人気だったんだよ。坂本龍一さんも出ていておもしろいからTSUTAYAさんとかで探してみて」と教えてくださいました。
当時諸事情で部活も辞めていたわたしは授業が終わると一目散に自転車を飛ばして学校の最寄駅の近くにあったTSUTAYAで「ラストエンペラー」を借りてきました。
この映画との出会いがわたしを映画という底なし沼に引き摺り込むキッカケになろうとはつゆ知らず。
家に帰って親のポータブルDVDプレイヤーを拝借して深夜にこっそり見たその映画は圧倒的なスケールと物語の濃さ、ラストシーンのキレイな終わり方と全てがわたしのど真ん中であり、鑑賞後も圧倒されてしばらく呆然としてしまいました。
それからはTSUTAYAに行って何となく知ってる人の映画を観るのがたまの贅沢になりました。
「水曜どうでしょう」にハマっていたのでミスターこと鈴井貴之さんの「銀のエンゼル」や「River」を借りたり。
当時は邦画ばかり観ていた記憶があります。
恐らくこの頃は何となく洋画のよさが分かっていなくて「字幕を追いかけながら観るのはめんどくさいしかといって吹替はその人が喋ってない感じがして嫌だしそれなら洋画はいいや…」という子供らしい理由だったような気もします笑
ラストエンペラー以降で洋画を観たのは正確にいつどこで何の作品だったかは覚えていません。
ですが、大学生くらいの頃にある2作品をTSUTAYAで借りた時に洋画というか映画がいよいよ面白いと思えた作品に出会いました。
それがクエンティン・タランティーノ監督の「パルプフィクション」と「キルビル」でした。
当時軽音サークルに入っていたのですが、同級生にBOØWYが大好きなギタリストがいました。
彼がよくサークルの部室で布袋寅泰さんのギターリフを弾いていて、その時にあるリフがカッコよくて「それは何の曲?」と聞いたら「名前忘れたけどキルビルって映画の曲じゃなかったかな」と言われました。
ファンなのに名前忘れたんかい!というツッコミを入れつつも「キルビルか…」と頭の中にあったわたしはこの日も大学が終わりバイトも終わった夜にまたもTSUTAYAに行って「キルビル」を借りようとしました。
しかし当時は旧作5本で1000円か何かの企画をやっていたのでそれならあと4本借りるかとパッと横を見た時に同じタランティーノ作品の「パルプフィクション」が目に入りました。
パッケージのミア(ユマサーマン)がタバコを片手に寝そべってこっちを見ているパッケージに何か惹かれて借りてきたその作品がまさにわたしの中のベスト映画になりました。
今まで観てきた映画は起承転結が分かりやすく何となくオチも分かりやすいものが多かった。
ところがパルプフィクションは時系列もバラバラで話もバラバラなのに最後にパズルのピースのように全てが繋がって「そういうことなのか」と圧倒される作風で強烈なインパクトを食らいました。
逆に「キルビル」はストーリー自体は分かりやすいのですが、和洋折衷がおりなす美しさや面白さに魅了されました。
そしてどちらも主演はユマサーマン。
なのに当たり前ですが全く違う顔を見せる彼女。
アジアンビューティな雰囲気を醸し出すリューシーリュー。
そして大事なシーンで存在感を発揮する千葉真一。
同じくまだ若手ながら味のある演技を見せた栗山千明。
この2作品、というよりもクエンティン・タランティーノ監督の魅了で映画に本格的にハマったといっても過言ではないかもしれません。
ただ、この時はまだ自分の中で好きなジャンルが定まったわけではなかったのですが、その後借りてきた映画によってわたしの中で「社会派映画とホラー映画」という好きなジャンルが確立された映画に出逢います。
それが「バトルロワイアル」「フリージア」「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」でした。
まず「バトルロワイアル」は「キルビル」を観た時に気になった栗山千明さんが出ている映画をネットで探していた時にヒットしました。
主演は当時すでに「デスノート」や「カイジ」などに出演して人気だった藤原竜也さん。
他にも今や国会議員の山本太郎さんやこれ以降その演技にハマった安藤政信さん、柴咲コウさん、そしてわたしが今でも大好きな俳優前田亜希さんなど錚々たるメンバーが出ていました。
そして特に尊敬する日本人映画監督の北野武さんも特別出演しており、監督は深作欣二監督。
内容は「国が崩壊しかけて自信を無くして子供達を恐れた大人達が作ったBR法という法律のもと、ランダムで選ばれた中学3年生の1クラスが無人島で最後の1人になるまで殺し合いをさせられる」という映画。
グロシーンや残虐シーンも多々あり、公開当時は国会を巻き込んだ論争になったそうです。
映画を観たあとは「なんかすごいもん見た…」という小並感といった感想を持ったのですが、深作欣二監督が気になって調べていたところこの映画に関するインタビュー動画を発見したのです。
そこで語られていたのは深作監督の子供の頃の戦争体験でした。
学徒動員で街の軍需工場で働いていた深作少年はある日空襲で目の前の友達が腕が吹き飛び足がちぎれて絶命するサマを見せつけられます。
さっきまで談笑していた友人が、ほんの一瞬でバラバラになって生き絶えるその描写は平和な世の中に暮らす我々には想像もつかないでしょう。
深作監督の映画表現はそこが原点であり、彼の中にある強烈な反暴力、反権力の姿勢と大人は嘘つきで綺麗事を並べる生き物だという意思だと思います。
まさに「バトルロワイアル」は学徒出陣で学生生活道半ばで軍隊にとられたり、赤紙一枚で無理やり戦争に連れていかれて大人達に死ねと言われた若者たちの怒りの声にならない声が深作欣二という天才の手によって声をあげているのだと感じました。
随分経ってから観た「仁義なき戦い」もそうですが、深作欣二監督は過激な暴力を生々しく描くことによってそうした反権力、反暴力、反戦平和の精神を訴えたのだと思いました。
同じような感想を持ったのが若松孝二監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」でした。
よく昭和の重大事件などで出てくるあさま山荘事件の様子は何となく観たことがあったし、連合赤軍が当時流行っていた新左翼の人達ってことは分かっていましたが、その裏で赤軍派と革命左派が警察の捜査で追い詰められ、それでも革命という理想のためにまとまろうとしたにも関わらず、最後は人間の嫉妬、妬みといった卑しい感情と猜疑心で「総括」の名の下に同志を殺害していく「山岳ベース事件」を起こすに至る崩壊の過程を初めて目の当たりにしました。
そしてこの時によくYouTubeや本で拝見していた西部邁が昔新左翼運動に身を投じていて、それでも左翼活動をする中でだんだん左翼の嫌な部分を見過ぎでフェードアウトしたという話を思い返していました。
たしかに当時、ソ連や中国に憧れて、北朝鮮を地上の楽園と信じて世界同時革命を起こすと燃えていた若者達の信念は冷戦の終結で間違いだったと証明されました。
それでも、三島由紀夫が全共闘の若者達に「わたしは諸君の思想には共感しないが、その熱量だけは信じます」といったように、彼らのその熱量はとんでもないものを感じました。
そして、この少し前に見たドキュメンタリー映画「天皇ごっこ 見沢知廉 たったひとりの革命」の中で見沢知廉を回想した活動家の雨宮処凛さんが語っていた「今の若者が半径5メートルくらいの中でガス抜きをしているが、国家に本気で喧嘩を売ってみろよみたいなことを言われているような…」と語っていたのを思い出しました。
今の若者はわたしも含めてみんな大人しい。
よく言えばお利口さんなのだが、エネルギーというか牙を抜かれている。
でも昔の若者達はたとえそれが誤りだったとしても本気で権力にケンカを売っていた。
それは国家権力に限らずもっと小さなコミュニティでもそうだったのだと思います。
そうしたエネルギーを若松孝二監督の作品からも感じました。
「フリージア」に関しては本当にたまたま手に取って借りたのだが、この映画で三浦誠己さんとつぐみさんの演技にハマりました。
また、主演は今や有名俳優である玉山鉄二さんで、同じく今や結婚しただけでロスが起きる西島秀俊さんも出演していました。
この映画も近未来の日本で死刑の代わりに「仇討ち法」が制定されている日本を舞台にしたマンガを原作にする社会派映画であるが、彼らの関係性はひと昔前におこなわれた核実験で人生を壊された若者達が大人になって奇妙な再会をする話です。
ここでも大人の都合で子供の人生が壊されていきます。
そういった若者の怒りを拾い上げてくれる監督にこの時はハマっていた気がします。
当時はまたもや邦画にハマっていて、やはり観ていたのは例えばグスーヨン監督の「ハードロマンチッカー」だったり、阪本順治監督の「カメレオン」だったり、崔洋一監督の「血と骨」、薗田賢治監督の「狂気の桜」、園子温監督の「愛のむきだし」「紀子の食卓」あたりに感銘を受けた記憶があります。
また、ホラー映画というかグロ系の映画で最初にハマったのはやはり「SAW」だった気がします。
そこから日本ホラーの金字塔「リング」や「呪怨」を観たり、洋画だと「13日の金曜日」や「エルム街の悪夢」なんかの名作を観ていた。
でも映画館で観るようになったのはずっと最近で、最初に映画館で観たのは社会人になった後の2017年か2018年だった気がします。
たしか白石和彌監督の「虎狼の血」だった気がします。
ちなみに「虎狼の血」はハマりすぎて2作目も映画館で観ました。
その次にスクリーンで観たのはまた1年後になるのですが、たしか「天気の子」だった気がする。
大人になってアニメーションの映画を観たのは久しぶりだった。
これに関してはまあ面白かった。
これ以上聞かないでください…
2020年以降はしばらくコロナ禍でいけなかったが、2020年後半から映画館で観ることにハマった。
そのキッカケはポンジュノ監督の名作「パラサイト 半地下の家族」、ドキュメンタリー映画である「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」、手塚眞監督、手塚治虫先生原作の「ばるぼら」、同じく手塚眞監督で原作はわたしが学生の頃ハマっていた作家坂口安吾の「白痴」であった。
やはりわたしを作っているのは邦画だったようです。
腐っても日本人なんだなと思いました。
映画=ヨーロッパやアメリカ文化が強いので、わたしも一時期「邦画なんてクソ。やっは洋画だよ」と思っていましたが、邦画も意外と無名の監督や若手監督の作品が面白かったりします。
わたしが注目しているのは「田辺・弁慶映画祭」や「MOOSIC LAB」に出品されている作品です。
この映画祭で藤原季節さん、根矢涼香さんなどを知り、野本梢監督のような若手実力派の監督も知りました。
2020〜2022年はわりと映画館も行きましたが2023年はあまりいけていません。
ですが、今年も時間を作って映画館で観たいと思っています。
主に邦画は「映画館でしか、しかもミニシアターでしかやらないような若手監督や無名監督の作品」
洋画や韓国、中国その他外国映画は特に縛りなく観るようにしています。
でもやはり原点は日本のバイオレンスだったり社会派映画であり、ラストエンペラーで観た歴史映画であり、パルプフィクションやここで急に名前を出しますがデヴィッド・フィンチャー監督の「ファイトクラブ」のようなドンデン返し系の映画な気がします。
そして長々と書いて結論は映画っていいぞっていう一言で終わる感想になります…笑
でもやっぱり突き詰めると映画は戦後まもない頃、何もない時代から人々を魅了し続けてきた最高の娯楽です。
今の時代、サブスクも増えてだんだん映画館に行く人も減ってきていますが、サブスクのよさもありつつやっぱり映画館で観る映画は最高です。
特に最近はTikTokやYouTubeショートの影響で映画に耐えられないという人もいるようですが、ぜひ一度でいいから映画館で映画を観てほしいです。
もしかしたら世界が変わるかもしれません。
これを機に映画好きな人たちともっと交流できたらと思い、こんなノート書いてみました。
あれから1年経ちました
2022年7月8日
1年前のこの日も快晴で暑い初夏の頃だった。
安倍晋三元総理大臣が銃撃されたニュースはテレビ、ラジオ、インターネットを通じて世間に知れ渡り、大きな衝撃をもたらした。
平和と言われるこの国で、戦前の大隈重信元総理の暗殺未遂や原敬元総理、浜口雄幸元総理の襲撃、そして二・二六事件のようなテロが起きるなど誰も想像しなかったであろう。
しかし、犯人の山上徹也容疑者が世界平和統一連合、いわゆる旧統一教会絡みであることを供述したことから世の中の関心が総理大臣の襲撃(暗殺)から政治と宗教の問題へとシフトチェンジしてしまった。
起業家の堀江貴文氏もYouTubeで語っていたように、仮に統一教会への罰則規定を立法して教団を弱体化させて信者を減らしたとしても一定数以上の信者は残る上、結局他の宗教へ救いを求めるのは人間のサガなのでこれほど無意味な議論はない。
そんなことよりもこの元総理大臣という国家権力に対するある種のテロというものを考えてほしかった。
戦前のテロは関東大震災が起き、社会が不安に呑まれていく中で日本は昭和恐慌に巻き込まれる。
当時、大正デモクラシーの時代で都市部は栄えていたが地方はまだまだ明治の名残が強く、俗にいう格差社会が顕著であった。
東北の農村では若い娘達が今風に言えば吉原のようなところへ身売りされる事案が発生した。
それも1件や2件、10件20件どころの騒ぎではない。
そんな中で政府は井上準之助大蔵大臣の経済失政もあり、深刻なデフレに陥っていた。
国民は政党政治への信頼を無くし、いつしか軍部へと期待を寄せていた。
その期待を利用して軍部(特に関東軍という中国東北部に進駐していた部隊)が暴走して張作霖爆殺事件や柳条湖事件、いわゆる満州事変を起こして中央政府はそれを止められなくなっていく。
国内では血盟団という極右団体が政府要人を襲撃し、五・一五事件や二・二六事件のような青年将校によるテロが起きた。
書いていて何故か今の世の中とほぼ同じだなと気付く。
違うところと言えば日本には軍隊はなく、国民が軍を嫌悪しているところだけだ。
東北大震災、政府の経済失政、年寄り政治家達の信用失墜、若者の荒廃と身売り(東横キッズやパパ活、立ちんぼをする少女など)、止まらぬ格差拡大。
まさに社会不安が起きるとこうしたテロリズムが起こり、世の中は血生臭くなるのである。
山上徹也が現れる前からいわゆる「無敵の人事件」は起きていた。
AKB48の握手会にノコギリを持った男が乱入したり、秋葉原で加藤智大が通行人を無差別に殺傷したり、池袋駅構内で無差別殺傷を起こす若者が現れたり、土浦無差別殺傷事件、相模原事件、京アニ放火事件、京王線ジョーカー事件、小田急線事件などいくつもの事件が起きていた。
彼ら犯人達のターゲットも目的も違えど、共通していたのは社会的不安によって「負け組」と言われてしまった人間達の抵抗であった。
日本人は以前はそういった人たちは自ら命を断つ選択をしてきた。
行政改革、構造改革という名の新自由主義、グローバリズムを推し進める政策により格差が拡大して経済はガタガタになり、人々は共同体を失ってバラバラになった。
そうして命を絶ってきた人達の中から「どうせ死ぬなら社会に牙を向いてやる。何人か道連れにしてやる」と言った者達が現れた。
それが彼らである。
上記の犯罪者達と五・一五事件や二・二六事件を起こした青年将校に共通点は、どんなに大義名分を重ねても根底にあるのは「このクソみたいな社会をぶち壊してリセットしたい」という願望なのではないか。
まさに映画「ジョーカー」でアーサーが最後に辿り着いた境地である。
よく五・一五事件や二・二六事件を「強烈な天皇主義者の右翼が起こしたテロ」と勘違いされる。
これを最初に言い出したのはどうやら丸山眞男らしい。
だが、わたしはそうは思わない。
特に二・二六事件がそうだ。
磯部や安藤ら主要メンバーは全員北一輝という思想家に傾倒していた。
北一輝は「国体論及び純正社会主義」や「日本改造法案大綱」の中で私有財産の制限や天皇機関説、そして資本家や地主の権力抑制などかなり社会主義に違い思想を持っている。
天皇という言葉がなければレーニンやマルクスが書いた著作と見間違えるほどだし、現に「国体論及び純正社会主義」に至っては当局に目を付けられて即発禁処分を受けている。
二・二六事件の青年将校も本気で天皇陛下バンザイとか天皇親政なんて言っていたのは磯部くらいで他の主要メンバーは口先ではやれ天皇親政だのやれ君側の奸を討てだのと言ってはいたが、とにかく国家権力にすくっている連中を排除して国家をぶち壊したい、作り替えたい、要するに革命を起こしたいという人間達であった。
こう聞くとやはり昨今の無差別殺傷事件や山上徹也の安倍元総理襲撃事件と同じにおいを感じざるを得ない。
なお、安倍元総理に対する評価はここでは書かない。
彼がおこなった政策の大半についてわたしはあまり支持していないが、それはTwitterによくいる「アベガー」的な連中とは違い、保守政治家として彼を評価した時に支持できない政策が多かったという話だ。
それを抜かせばいくらか支持できるところもあったかもしれない。
それはそれとして、こうして一国の元総理がいかなる理由があれど暗殺されるということがこの国でも起きた。
岸田総理も襲撃を受けた。
世が世なら国民は自衛隊を支持して、自衛隊にもっと権力を与えようとなり、それに迎合したマスコミに煽られて政治家も追認するといったことが起きたかもしれないし、ナチスドイツのように強いリーダーシップという名の独裁者を求めていたかもしれない。
独裁者はどこからともなく急に現れると日本人は思い込んでいるが、むしろ日本人がロクに意味もわからずありがたがっている民主主義の中から独裁者は生まれている。
ローマのカエサル。
フランス革命のジャコバン派の暴走。
フランス革命以降のナポレオンの台頭及び皇帝就任。
ロシア革命およびレーニンやスターリンの独裁。
イタリアのファシスト党およびムッソリーニの台頭。
ナチスドイツのアドルフヒトラー。
中国の毛沢東の文化大革命。
常に社会の混乱や不安に押し潰されそうになった国民がマスコミの強いリーダーシップという言葉に流されて民主主義を使って独裁者を誕生させてきた。
要するに、我々は社会が混乱したり不安になった時に「決められる政治が必要だ」「強いリーダーが必要だ」とつい思ってしまう。
だが、その思想こそが独裁者を生み、社会を奈落の底に突き落とす。
今回でいえば安倍元総理への評価やテロリズムが起きたことよりも「諸悪の根源は統一教会だ。潰してしまえ」という暴走した正義感が当てはまる。
民主主義が独裁者を生むのと同じく、正義感は暴走する。
暴走する正義感が束になった時に民主主義で合法的に独裁者が生まれ、国家は破滅へと向かう。
こういう時こそ我々は歴史を見つめ直し、学び直し、冷静に議論する必要がある。
最後に、安倍晋三元総理大臣についても近々書こうと思う。
実は暗殺事件の後途中まで書いていたが、諸事情というかわたしのミスで記事を消してしまった。
わたしのTwitterのフォロワーさんには安倍元総理を支持する人もいればアンチ安倍の人、中にはツイートを見るに「アベガー」の人までいて千差万別。
なのでなるべく客観的に、いいところも個人的によくなかったと思うところも含めてわたしが見た安倍晋三論を書きたいと思う。
今日明日明後日とかすぐには書けませんが、よかったら次回も見てください。
他にも「死刑制度について」「ウクライナ、ロシアから考えるわたしの戦争論」「日本は果たして本当に資本主義なのか」などいくつか書きたいトピックがあるので少しずつ進めていこうと思います。
ご精読ありがとうございました。
雑記
腐敗した組織に残る人間は、もともとそうではなくても一緒に腐敗する。
何でこの人こんな腐ったんだろうって人が目に付くところにたくさんいる。
人はいいんだけど、なんか臭うの。
前に書いた、組織の中でいかに安全地帯から吠えられるかっていう術が見に染みてくると人間は腐るのかなと思っています。
世の中から求められてないものを世の中に売ってこいと言われて、わーいやったー売るぞーって勇んで会社を出ていく奴を見て、こいつほんと頭沸いてんじゃないの?って思ってしまう。
その人が好きであれ嫌いであれ。
あと、今の仕事ではそこまで成績出してなくても、ああこの人こんな会社いないで○○業界で○○職やれば絶対に今の倍稼げるのに…って人もわりといる。
結局のところ、一度入ったら最後、あの手この手(時に金で釣り、時に煽てて褒め上げて、時に劣等感かんじさせるネガティヴキャンペーンを貼ったり)で辞めさせない、ザ・日系企業の頂点みたいなことを長年やってるから弊社はこうなんだろう。
俺なんて散々上司からネガティヴキャンペーン貼られてる。
こんなものを売らなくて転職出来ると思ってるの?とか、俺は君より社会人経験長いんだから云々カンカンとか、辞めた○○は勘違いが酷過ぎるとか。
うちの上司も昔はこんな人じゃなかったんだけど、腐敗した企業でプチ権力握ると、プチ腐敗が始まるらしい。
まあこの先、波風立てず大人しく過ごしてればいい身分の人と、これから結婚だの子育てだの家のローンだの車のローンだのとあれやこれやと考える人は身分も立場も違うのでね。
上司の腐敗ばかり責められないってもんですよ。
最近上司とぶつかることが多いから、腹癒せに思いっきり手抜いて仕事したり、朝っぱらからDODAの担当さんと長電話してたら遅刻したり。
何ならいっそのこと転職しちゃえばいいんだけど、環境のせいにして申し訳ないけど、環境がそんな感じじゃない。
さっさと見切りをつけて辞めていった同期達は賢かった。
こんな腐った組織にいたら当たり前の決断なんだけど。
本当にこのまま行くと人生崖っぷち。
最初に辞める奴、ホント一番おいしいと思うよ。
今なら何の肩書きもなく、何の責任感もなく、何の罪悪感もなく、何の心残りもなく辞められる。
まあ、こんな会社に心残りもクソもねえか。
だいたい金曜の23時に電話かけてきて、今から六本木こいとか言い出して、その中の一人は社長ってあるの?
バカなの?
バカだった。
学が無い奴ってコレだもん。
普段三木谷さん三木谷さん持ち上げるのに、三木谷社長は社員との飲み会では一次会しか出なくて、お前らあとはこれでやっとけーって札パンと投げて帰っていくのしらないの?
ほんと。
バカ。
大バカ。
低脳無能。
ちなみに夏にこの会社辞める方向で動いてるので皆様よろしくお願いします。
仕事・学歴・人生その他混ぜこぜ…
とりあえずやりたいことを書き出す。
やりたいことに順番をつける。
上からひとつひとつ「これに関してはどうすれば解決して次に進めるか」を考える。
さらに細分化して枝分けする。
実行する。
やりたいことをやるべきことに置き換えてもできるんではないか。
実施している口ぶりで書いているが、
書いている本人が出来ていないので説得力は皆無なのだが…。
私の場合は、出来ていないのではなくやってないだけなのかも分からない。
物事はやるか、やらないかの二択でしかない。
やらない人は自分もそうだから分かるけど、
やらなくていい理由を無意識に探す。
だって時間がない。
だってそういう指示だから。
だって自分には無理だから。
会社やら上司先輩は神様ではない。
学校やら先生先輩は神様ではない。
指示する者と従う者。
指示されるのが嫌なら指示する側に回るしかない。
人は学歴じゃないよ。
人間性だよ。
個性が大事だよ。
周りと同じでいようね。
指示する側は、自分に都合の悪い芽は潰したいからこうやって従う者を無能にする。
綺麗事や美辞麗句を並べ立てて指示待ち人間を形成する。
学歴じゃないのはわかるが、学歴のある人は一部を除いてやっぱりそれなり以上の努力をしている。
東大の何が偉いんだ!
という人は、
東大どころか大学も出ていない。
私のように学業からドロップアウト組かそもそも大学行っていないか。
東大法学部を出て中央官庁や大企業、はたまた大手外資系企業に入り、文字通りエリート街道を進んでいく人々を叩きがちだ。
確かにいろいろと言いたいことはある。
でも彼等だって全員が裏口やらコネ入社なわけではない。
馬鹿が歌舞伎町の夜の街でギャーギャー騒ぎながら小汚い何処の馬の骨かも分からないオンナと情事に身を委ねていた頃、
彼等は猛烈に勉強した。
今に見ていろ。
お前は俺をガリ勉、オタク、真面目人間とバカにしていたな。
俺がお前らを従わせてやる。
そういう意味ではエリート官僚になってどこかの大学やシンクタンクや大企業の取締役に天下っていくあの人や、
マル暴すら操って不正を働き私服を肥やす検察官僚は全て悪なわけではない。
いかに瞬発的な努力ができて、
集中力があるか。
東大法学部に入るための数年間。
東大法学部を出るための4年間。
エリート官僚になるまでの10数年間。
ゴールを逆算して努力し続けたから今がある。
結局世の中は使う者と使われる者の二択でしかない。
会社や学校もそう。
現段階でいきなり変わるのは無理でも、
変わる努力は誰でも出来る。
勉強が嫌だなぁと思ったら、
国語数学物理云々ではなく、勉強そのものの行為に価値を見出せるか。
勉強をする→集中力が鍛えられる→脳が活性化する→物事を瞬時に判断し、最良の選択が出来て、合理的に物事を解決して、アイデアが膨らむ。
今の仕事が嫌ならば辞めればいいのだが、
そうはいかない方なら、
今の業務をいかに結果に結び付けるか→そのために逆算していつまでに何をしなければいけないのか→その何をするためには今現段階で何が必要なのか→分からないことはどの部門の誰に聞けばいいのか。
そしてとにかく人と会う。
営業なら顧客。
営業じゃないからそんなに人と会えないっていう人は、
異業種交流会でもいい。
学生時代の友人や恩師でもいい。
何なら、今まで交流のなかった知り合いでもいいのだ。
そしてとにかく聞きまくる。
恥を捨て、プライドを捨て、否定を捨ててスポンジのように聞く。いや聴く。
頭の中は常に「私の業務、私の仕事、私の授業、私の学校ならこのパターンはこうかな」と自分に当てはめて聴く。
やるべきことが完璧になれば出来ることの幅が増える。
出来ることの幅が広がればやりたいことがポンポン出てくる。
やりたいことが出来ることになるまでまたゼロからやり直す。
人生と一緒。
やり直せる。
柄にもなく意識高くて明るい話題。
躁鬱の躁状態なのかもしれない。
でも何でもいい。
ただ、言いたかっただけだから。
おやすみなさい。