24thTVは右下がりなイメージ
今年のメインパーソナリティが決まったようだ。
嫌いなわけじゃないのだが、ああ、また24thTVは右下がりだなと思ってしまった。
24thTVのメインパーソナリティといえば、十数年間J事務所が担ってきている。
事務所において、紅白出場と同じくらいのレベルで「24thTVのメインパーソナリティ」はグループが世間に浸透した証拠だと思われているに違いない。
しかし、そのレベルが段々と下がってきている気がするのは気のせいだろうか。
パーソナリティといえば、超国民的アイドルのSやA、日テレのゴールデンタイムで不動の数字を誇っているTなど、キャリアがあり、かつお茶の間が顔を全員憶えているような、そんなグループが務めるものだという認識だった。
事務所が若手を売り出したいのは分かる。上は永遠ではない。いつかなくなっていくものだ。
だがしかし、HやN、今年のグループは、そんなにも認識されているグループなのだろうか。
1998年のVも全体的に若く、どこか頼りない雰囲気があったが。
ファンは喜ぶ。それは当たり前だ。
しかし日テレは、少し事務所に視聴率を頼りすぎではないか。
障がい者の方々が憤慨している、あのような番組の作り方ももちろん数字がよろしくない原因だろうが、僕が思うに、メインパーソナリティの使い方にも問題があろう。
チャリティと言いながら若手アイドルを世に送り出すための番組になってしまうのだろうか。
雲行きが怪しい。
一応言っておくが、僕は事務所や所属するタレントが嫌いなわけではない。
むしろ応援している人もいる。
あしからず。
ヂブンラシサ
此間の続きのようになってしまうが、「別に自分じゃなくたっていいだろう」という心がありながら生き延びている人が多いと思う。僕もそうだ。
矢面に立つのは自分じゃない方がいいし、たまたま自分が近くにいたから自分に頼まれただけの、ぶっちゃけ誰にでもできる仕事を毎日こなすような感じなのだ。
そんな中で「自分らしく」とか言われたって、の話である。じゃあ「〜らしい」ってなんなんだ?そう考えたことがない人って少ないんじゃないか?
まずもって、自分のこの悲観的に客観視する考え方はどこから生まれてきたのだろうか。
生きているこの環境はもちろん、親、きょうだい、親族、友人、それから自分が崇める偶像。プラス世界に溢れているtoo muchな情報。それらの考え方が良くも悪くも引き継がれて僕の脳内があるわけであって、決してなにもかもから独立したものではない。
じゃあ僕に影響を与えている人やモノはどこから影響を受けているのだろう?そうやって考えていくと、結局は人類の歴史を辿ったその先端にたどり着くのではないか。
そうしたら余計に「らしさ」は遠いものだと考えてしまう。少し話が横道に逸れたか。
「〜らしい」ってなんなんだ?そう考える人の「らしさ」というのは、自分じゃなきゃいけない場所、それを探して生きていること自体じゃないか?最近はそう思う。
だから逆に、自分らしさを独自で確立している人の「らしさ」は薄っぺらいものだと思えてきてしまう。自分で思う自分らしさは、その人の芯であり、時にその人を鼓舞したり安心させたりするものだから、悪い事でもないはずなんだけどさ。
他人からの「らしさ」に耳を傾け、自分の思うものと聞き比べ、ミックスして確立させよう。
実際問題、僕が昔思っていた僕らしさと、周りからの目は真逆であったのだから。
代わりの連鎖
人間というものは確かにonly oneだ。
ヒトという生物が生命を繋げてきて、その樹の枝の先に位置している「自分」は一人だけだ。
だがそれは社会では通用しないのは分かりきったこと。学校でも会社でも穴が空けば埋まる。言葉が一つ消えれば新しい言葉が生まれる。人が一人死んでその人が担っていた役割を担う人が一瞬いなくなったとしても、その刹那に誰かが入りこむのだ。
そうやって世の中は回っていく。否、回っていかなければならないのだと思う。
だから、壮大な社会を凝縮したような人間関係でも同じことは言えるわけだ。常に誰かは誰かの代わりであって、代わりと代わりがお互いに代わりであることを慰め、励まし、穴にならないように必死に噛り付いて行く。
だとすれば孤独というものは一番落ち着ける空間なのではないか。自分が自分であること、世界が自分のためにあるような誰にも邪魔されない空間。世の中の喧騒も少しだけ有名な人が起こしたスキャンダルも、この中だけはどうでもよくなる。
それはとてつもない至福であり、愉悦に浸れる場所じゃないのか。
それなのに人間というものは、孤独を怖がる個体が多い。こうして恰も人間でないかのように俯瞰で見ている僕でさえ、誰かに看取られたいという願望はある。
ただ一人の自分というものを有意義に過ごしたいという思いと、他人に嫌われたくない、独りにされたくないという恐怖という矛盾の交点を探して、今日も街を練り歩くのだろう。
みんながみんな、代わりのいないただ一つの「代わり」であり、代わり番こで代わりをする。
こんなにも同じ漢字を並べるとまるで図形のように見えてきたので、これくらいにしよう。