あけまして おめでとうございます
初日の出(4) #神奈川散歩2017 posted by (C)青衣
年が明けで1日が経ちましたね。
おひさしぶりです。
朝3時に起きて、初日の出を拝みに行って来ました。
今年は良い年でありますように。
後北条の足跡を辿って…~始まりの地・荏原編~
駅に到着すると…
この早雲公のイラストがステキ!
駅前には小田原駅前にある早雲像とは違った雰囲気のある像がお出迎えしてくれます。
早雲の里荏原駅前の早雲像 #岡山の旅2016 posted by (C)青衣
法泉寺
法泉寺の秘密 #岡山の旅2016 posted by (C)青衣
少年時代、通い、勉強したり、遊んだりしたそう。おじいちゃんのイメージが強い早雲公にも幼い時代があったのです。
住職さんがたまたまいらっしゃり、興味深いお話しをうかがいながら案内までしていただきました。法泉寺は新九郎の父・伊勢盛定が創建。ただのお寺ではなく、高越城が落城したときに逃げ込む場所としての機能があるのだそうです。
写真の階段上がるときに「段の高さが違うので気をつけて」と言われました。階段の高さをまちまちにすることで、攻めてくる敵を転倒させようという意図があるらしいです。
また、写真の石垣はお城の石垣と同じように隙間なく積み、上がってこれないように工夫がされている。
法泉寺は興味深い伝説や史実がいっぱい #岡山の旅2016 posted by (C)青衣
約600年経過している建物。新九郎少年がいた頃からあったとされている。
ちなみに写真上の赤い建物のお堂はお稲荷様が祀られている。早雲が伊豆修禅寺から摺袈裟をこの地に持ち込んだところ、老夫婦に変身した狐が取り返しに来たが、住職に見つかってしまい、伊豆に戻るにも戻れないので、この地にいさせてほしい願ったという伝説がある。
父子のお墓 #岡山の旅2016 posted by (C)青衣
早雲と父・定盛の墓。数ある早雲のお墓の中で一番古いものらしい。右が盛定、左が早雲のもの。早雲の墓石が足りないのは土砂崩れでどこかにいってしまったそうだ。
ちなみに右には代々の住職の墓、そしてさらに奥に行くと、木村重成の従兄弟の木村重宗の墓がある。大坂の陣でここまで逃れ、出家したそうだ。
ありがたいことに伊勢盛時(早雲)禁制と摺袈裟が入った箱を見させていただき、写真まで撮らせていただきました。
ちなみに、甲冑姿の早雲像があるのもこのお寺。傷みが酷いため、見せることができないとのことでした。
住職さんに「今立っているところに、少年の早雲も立っていたかもしれませんね」と言われて記念にパシャリ。新九郎少年の残像とか…写ってないか。
高越城
鎌倉時代末期に、蒙古襲来に備えるために幕府が宇都宮氏に命じて築城。
道に迷ったりもしたけど、法泉寺から高越城まで歩いたら1時間以上かかったから、子どもの足で通うのは大変だったんだろうなぁ。
高越城 #岡山の旅2016 posted by (C)青衣
高越城は早雲生誕の地と言われている。
↓一の郭跡。早雲生誕の地の石碑があるあたり。
高越城 一の郭 #岡山の旅2016 posted by (C)青衣
↓二の郭跡。
高越城 二の郭 #岡山の旅2016 posted by (C)青衣
↓三の郭跡。
高越城 三の郭 #岡山の旅2016 posted by (C)青衣
↓四の郭跡。
高越城 四の郭 #岡山の旅2016 posted by (C)青衣
五の郭もあったんだけど、撮り忘れてしまったようだ…。
その後の新九郎の動きは有名だけど、その後の高越城がどうなったのか。多分、伊勢氏の誰かがこの城の主になっていたはず。毛利氏の城になったそうだが、その経緯にすごく興味があるというか、すごく気になる。井原市史とか読めばわかるのかな。
↓行く前に読むと良いかも。高越城も法泉寺も登場するよ♪
↓その後の新九郎の動き
blue-ghost-girl.hatenablog.com
↓終焉の地その1
blue-ghost-girl.hatenablog.com
↓終焉の地その2
後北条氏の足跡を辿って… ~伊豆編~
後北条氏関連史跡、たくさん回ってきたような気がするけど、まだまだあるのでお散歩してきました\(^o^)/
後北条氏始まりの地、静岡の東側へ
レッツゴー☆⌒(*^∇゜)v
ちなみに、「北条早雲」って言ってるけど、北条姓を名乗るのは子の氏綱からなのであんまり正しくないことは有名。もとは伊勢氏でした。
修禅寺
早雲が韮山城で死去し、荼毘に付されたとされるお寺。早雲が奉納したとされる、血書阿弥陀経が見られる。もし、本当に早雲の血で書かれたものだったら、わかるかもしれないね、血液型が…?
ちなみに、源頼家の血書阿弥陀経もある。
韮山城跡
1441年に早雲が堀越公方・足利政知とその子茶々丸を滅ぼした後、ここを拠点として関東に進出。小田原を攻めた後も、小田原に移ることなく死去するまでいた。
なんとなく、お城の遺構っぽい。写真上の建物は熊野神社。早雲が和歌山の熊野神社を勧請して建てた。
↑本丸跡。
韮山城跡障子堀っぽい遺構 posted by (C)青衣
障子堀っぽい。
後に氏康の子で、氏政・氏照・氏邦の弟にあたり、河内狭山藩祖となる氏規が城主となり、小田原征伐時に数ヶ月持ちこたえたというお城。
伝 堀越御所
伝・堀越御所跡 posted by (C)青衣 ]
このあたりに堀越御所があったとされる。自分が苦手なヤツきた!!
足利義政の弟・政知が、当時、幕府の言うことを聞かず、やりたい放題(だったかは分からない)だった鎌倉公方(尊氏の子の代から続く)・足利成氏に代わり、鎌倉公方になるべく息子茶々丸を連れてやってきたが、足止めをくらい、このあたりに御所を置いたのが始まり。色んな混乱があって最終的に早雲に攻められて滅ぼされた。
だだっ広くて特に遺構とかはない。
願成就院
1189年頃に北条時政が娘婿の頼朝の必勝祈願のために建立。
1491年に早雲が堀越公方を攻めたさいに焼失した。その後再建されたが、1590年の小田原征伐で豊臣方によって再度焼失。江戸時代に河内狭山藩主の北条氏貞が再建している。ふむ、北条氏が建立したお寺を早雲が…ふむふむ…。面白いお寺。
運慶作の国宝仏像が5体残る。仏像の体内から、北条時政が運慶に発注したことがわかる木札が発見されている。
どちらの焼失時か不明だが、仏像2体焼失、本尊の阿弥陀如来座像の台座と手の一部が焼損している。
また、有名な北条時政像も見られる。
興国寺城跡
早雲が今川氏に仕えていたときに、初めて城持ちになった城。
興国寺城跡 posted by (C)青衣
↑早雲が興国寺城の初代城主ということだろうか?
興国寺城天守石垣跡 posted by (C)青衣
↑天守台石垣跡。おお!石垣があるの!?ってぬか喜びするじゃろ…?
↑立派な土塁跡!!ってぬか喜びするじゃろ…?
↑天守跡。礎石も残っている。
↑櫓跡。
櫓跡から見た天守跡。
↑堀切ではなく、空跡。この写真の左側ではすぐ下を東海道新幹線が走っている。と、いうことは、三島~静岡は興国寺城跡の下を通っているということだな!
さっきか「ぬか喜び」って言ってるのは、この城が武田や豊臣、徳川が治めていたから、早雲以降、いろんな人によって手が加わっており、早雲がいたころとだいぶ変わっているとされている。早雲が「そこにいた」ということしかわからない。
ちなみに、1604年くらいまで使われていたお城。
三島大社
三島大社の宝物館はぜひ行ってほしい!!
自分のBest of letterは「北条氏政願書₍天正10年3月24日₎」かな!!
書状の内容は「信長公と仲良くなれますように!叶ったら社殿の建て直しするからね!氏直が」というもの。可愛い!信長と仲良くなれるように祈願するとか必死だったんだろうね、「信長公」って書いてあるのもポイント高いよね。叶ったんでしょうか。
三島大社のそばにおしゃれなお店がいっぱいあるよ。
三島市立郷土資料館
三島市郷土資料館。山中城跡から発掘された資料も展示してある。 #静岡の旅2016
ここでは山中城跡から発掘された資料が見られる!
3種類の鉄砲玉が見つかっている。
青色₍鉛青銅₎=後北条方
白色₍鉛玉₎=豊臣方
赤色₍鉄玉₎=?
鉄砲玉、既に何種類もあったんだなぁと興味深いとともに?の勢力が非常に気になる。どっちかが2種類の玉を使っていたのか、他にいたのか…。
伝説がいっぱい!平泉
平泉も巡ってきました。
平泉駅前で自転車をレンタル!乗った自転車を撮ればよかったなー。
まずは…
柳之御所跡
柳之御所とは奥州藤原氏が政治を行った場所とされている。井戸や廃棄穴などが残っている。
柳之御所お堀跡 #岩手散歩2016 posted by (C)青衣
空堀跡なんだそう。
庭園もあったそう。
発掘されたものが展示してある。無料。
高館義経堂
1189年に衣川の戦いで敗れた源義経が自害した場所。建物の中には義経像が祀られている。
高館義経堂からの眺め #岩手散歩2016 posted by (C)青衣
ここからの眺めはきれいでした!目の前の川は北上川。盛岡市とつながってるんだねぇ。桜がかかっているあたりが衣川。
武蔵坊弁慶の墓
立往生で有名な弁慶。遺体は中尊寺足元に移され、埋葬された。
中尊寺
金色堂、すごく綺麗でした!本当に黄金づくし!
金色堂は現在は上の写真の建物で保護されているが、以前の覆っていた建物も見ることができる。
中尊寺金色堂覆堂 #岩手散歩2016 posted by (C)青衣
↑それがこれ。金色堂ってこんなに小さいの?って思うくらいちょっと狭かったけど、かつてはこの建物で保護されていた。ちなみに覆い堂が建てられるようになったのは鎌倉時代で、藤原氏が栄えていたころは裸だったのだそう。
毛越寺
庭園がきれいなのだが、センスがなさ過ぎてきれいさが伝わらない。
おいしいものはいただきたい
からしソフト。甘くて辛い。
髢(かつら)石
悪路王という、この地にいた悪いやつが京からさらってきた姫君の髪を切ってその髪をかけたことに由来する。残念ながら髪はなかったけど、蛇がにょろにょろしてました。ヒィ。
姫待瀧
悪路王から逃げた姫君はこの滝で待ち伏せされ、再び捕らわれてしまう。
達谷窟毘沙門堂(西光寺)
達谷窟毘沙門堂 #岩手散歩2016 posted by (C)青衣
岩に埋まるように建てられた不思議な建物。元は悪路王らのアジトがあった場所で、朝廷の命令で悪路王らを討伐した坂上田村麻呂が建てた。清水寺をまねて建てたのだとか。
達谷西光寺境内にある姫待不動堂。姫待瀧の本尊だったが、ここに移された。
自分の計画では髢石から先は時間の関係で行けないつもりだったけど、少々巻き気味で周ったら行けた!
行きたいところに行けて満足!しかし、悪路王と姫君の伝説が良くわからなくて(お寺の解説の意味が分からなくて)、もうちょっと知りたいと思いました。
悪路王を知ったのって
この漫画のおかげなんだよね。悪いやつだけど憎めないかんじ。
東北攻めは岩手から
1か月くらい前に行ったから、ちょっと季節がアレだけど。
東京駅の駅弁屋さんは6時前でも既にオープンしててありがたい!
ひもを引っ張ると、新幹線の中でもあったかいものが食べられる、面白い駅弁。是非ともお試しあれ。
はやぶさって、北海道新幹線だったんだね。行先は新函館北斗行きでした。
大宮の次の停車駅は仙台だって!すっ飛ばすねぇ。
初めての東北は岩手!寒いかと思ったら、暑かった!
盛岡の市街地から。
盛岡城
盛岡城本丸と二の丸 #岩手散歩2016 posted by (C)青衣
盛岡城跡公園内にもりおか歴史文化館という施設があり、見学してたらガイドさんから面白い話をいっぱい聞かせていただきました。
盛岡城を築城し幕末まで藩主だった南部氏はもともと甲斐国出身。今でも山梨県南巨摩郡に南部町という地名が残っている。鎌倉初期に奥州藤原氏を滅ぼしたあと、頼朝の命で、青森県付近を中心に治めていた。
安土桃山に入ると豊臣秀吉の命でもうちょっと南の盛岡に拠点を移し、築城を命じられる。盛岡城の完成には30年以上かかり、完成した頃には徳川家康が天下統一していたという。
盛岡藩主へは筑前黒田氏や鳥取池田氏などの家からお姫さまが輿入れし、家紋入りの嫁入り道具が残っている。
ので、ぜひ盛岡城へお立ち寄りの際はもりおか歴史文化館へ。※展示替えで無い場合もあるかも。
上の写真は百名城スタンプに使われている景色。左が本丸、右が二の丸。
桜の川 #岩手散歩2016 posted by (C)青衣
本丸からの景色(4月下旬)。関東ではすっかり桜が散っていた頃、東北では見頃を迎えていた。すごくきれい!!お花見客がたくさんでした!今年は2回も桜が見られて得した気分♪
盛岡城で一番高い、二の丸の高石垣。
盛岡城二の丸の高石垣 #岩手散歩2016 posted by (C)青衣
下から見れば良かったと。
城内には大きな石がごろごろあり、取っ払われず、そのまま利用している。
その一つが櫻山神社の烏帽子岩。
盛岡駅に戻り、次なる目的地へ!
志波城古代公園
平安時代初期に坂上田村麻呂が築城した城。当時はここが朝廷の力が及ぶ最北端だったとされている。
志波城政庁跡から #岩手散歩2016 posted by (C)青衣
ここからも岩手山が望める。
志波城政庁跡からのパノラマ!岩手山もバッチリ見える。 #岩手散歩2016 pic.twitter.com/CE66111Pbr
— 青衣 (@99AB4E_5317178) 2016年4月24日
パノラマ撮影もしてみたのでこちらもドウゾ。
遅めのランチで盛岡名物冷麺をいただきました。
遅めのランチ!盛岡に来たら食べておかないと #岩手散歩2016
キムチが利いてておいしい。じゃじゃ麺も名物みたいで、そっちもいただいてみたかったです。
岩手旅、まだ続く…
一紙半銭
いっしはんせん【一紙半銭】
ごくわずかなこと。仏教用語では僅かな寄進のこと。
1567年 東大寺大仏殿の戦い
多聞(山)城跡 #奈良散歩2016 posted by (C)青衣
多聞山城跡から東大寺方面 #奈良散歩2016 posted by (C)青衣
つぎはぎの大仏 #奈良散歩2016 posted by (C)青衣
戦国期の修理
会いたい人
今ある東大寺の大仏と大仏殿は? #奈良散歩2016 posted by (C)青衣
二月堂から多聞山城方面 #奈良散歩2016 posted by (C)青衣
"一枝の草、一把の土を以て像を助け造らんことを情(こころ)に願う者有らば…"
後北条氏の足跡を辿って…~大阪狭山編~
1590年小田原攻めで四代氏政は切腹、五代氏直と子の氏盛は高野山で暮らした後、どうなったのか。その足跡を辿って大阪狭山市へ─
「狭山」って聞くと、埼玉県の狭山市が有名だよね。(関西の方にはそーでもないのかな?)でも大阪にも狭山市があるんだよ。
北条氏と狭山の関係は四代目北条氏政の弟・氏規が河内国の約7000石の所領を与えられたことから始まる。その子で五代目氏直の養子となっていた氏盛が父親と養父の所領を継ぎ、大名となって大坂屋敷にいたが、二代目の氏信のときに河内国丹南郡池尻村(大阪狭山市)に移り、狭山藩主となった。
狭山藩陣屋跡。城を持つことが許されなかったため、陣屋という形になった。竹中氏と一緒ですね。この辺りにあったのが上屋敷、もう少し南の方に行くと、下屋敷があったそうです。今は面影なし。ここにあった門が浄土真宗本願寺派堺別院というお寺に移築されているそうで。行けば良かったなぁ。
びっくりしたのが、この陣屋跡のそばにある小学校!
なんと校章が北条家の家紋、三つ鱗なのです!小田原城の遺構の上に立つ小田原高校だって違うのに!?
大阪狭山市といえば?
自分は後北条氏の末裔が藩主だったぐらいしか知らなかったけど、狭山池が有名。
今年で狭山池築造1400年を迎える日本最古のダム。飛鳥時代からあったんだね、古い!
狭山池はたびたび修理され、行基によるもの、重源によるもの、片桐且元によるものが有名。重源が改修した際に建てた石碑が出土し、重要文化財に指定されている。大阪府立狭山池博物館で見られる。行基とか重源とか聞くと狭山池について知りたくなりますな…。
桜が満開でお花見客もたくさん!
狭山池の北に大阪府立狭山池博物館・大阪狭山市立郷土資料館がある。
水を使ったおしゃれな建物。写真撮影のスポットになっている。
大坂まで来た最大の目的はコレ!!
早雲寺蔵の北条早雲像が4/3まで、北条氏綱が4/7までしかいないというので急いで新幹線を取りました。お陰さまで五代北条氏を揃ってお会いすることができて、もう感動しまくり!
五代北条氏の肖像画は早雲寺(箱根)にいらっしゃるんだけど、早雲寺に行ったって、神奈川県立歴史博物館に行ったってお会いできないのに、大阪で会えるという違和感!わたし、この像と同じ県内に住んでるのに!?って思った一瞬。
廃藩置県後、狭山藩の知事を命じられたが、辞退。その任命書に『北条相模守』って書いてあって、あぁ相模守を名乗らせてもらえたんだなぁと思いました。ちなみにこのころの藩主は他藩からの養子によって継がれている。
展示してある資料、どれも面白くて満足しました!こんなに素晴らしい特別展なのに、入館料無料とか、バチが当たるんじゃないかというくらい!
あと、小田原市をPRするコーナーがありました!ぜひ小田原市に来て来て♪
真ん中のパンフは後北条氏のことがよくわかる、そして全国各地の後北条氏関係地が載っている。しかし、大阪狭山市は対象外だ!そういえば北条五代観光推進協議会に大阪狭山市入ってない。五代の範囲外だからかな~?
図録は絶対買おうと思って!
こんなに立派で読みごたえがあるのに900円!
さてさて、今度はどこの後北条氏関係地に行こうか?
渋谷区広尾の祥雲寺が狭山藩の墓所になってるみたい。