パシフィック・リム

2013年、突然未知の巨大生命体が太平洋の深海から現われる。それは世界各国の都市を次々と破壊して回り、瞬く間に人類は破滅寸前へと追い込まれてしまう。人類は一致団結して科学や軍事のテクノロジーを結集し、生命体に対抗可能な人型巨大兵器イェーガーの開発に成功する。パイロットとして選ばれた精鋭たちはイェーガーに乗り込んで生命体に立ち向かっていくが、その底知れぬパワーに苦戦を強いられていく。

シネマトゥデイより

という訳で一部界隈で大人気・大盛り上がりのパシフィック・リム観てきました。

特撮の文法・アニメの文法

 いわゆる旧世代のオタクと現代のオタクを隔てる壁の一つに特撮の文法というものがあると思う。あのズングリムックリでCGを使用しない「重たいプロレス」とでも言うべき着ぐるみバトルの味である。この特撮の文法はCGという技術革新の導入によって、既に失われた文化になってしまった(無論、多くの部分を継承しているが、それは恐竜は鳥に進化したから絶滅していないという議論である)
 一方、アニメの文法というものは壁にはならず共通言語として機能している。アニメにはCGという技術革新がなかったため、昭和・平成を通じてその言語が保存されてきたのだ(上述と同様、色々な部分で当時のアニメと現代のアニメの文法は異なるけど、特撮ほど大きな変化はないという意味で)
 そこに庵野という特撮の文法を愛してやまない天才アニメ監督が現れた。彼は既に失われた言語となりつつあった特撮の文法を巧みにアニメに取り入れ、そして完成したのが、あの新世紀エヴァンゲリオンである。

 ギルレモ監督のガンダム詣で、日本のアニメ・マンガの大ファン、アニメータにしか描きえなかった巨大ロボットのヴィジョンを実写化と報道されているけど、私はギルレモ監督が撮りたかったヴィジョンはガンダムではなくジャイアントロボでもない、特撮だったのではないかと思っている。

それはアニメというにはあまりにも大きすぎた。大きく、ぶ厚く、重く、そして大雑把すぎた

 実はこの映画の戦闘シーンはそんなに好みじゃなかったりする(ぉ。エルボーロケットもチェーンソーソードもかっこよかったけど、全体的に重すぎて…。
 もっとこう、ピカってカイジュウの口元が光ったらドコドコドコーッと市街地に光球が炸裂して赤熱したイェーガーがいて、次の瞬間にはイェーガーの眼が光るとブースターパックが起動して光球を避けたり弾いたりしながら四つに組んで殴り合い、二人のパイロットが行けぇーッって叫びながら力技で操縦桿を倒して必殺技が炸裂して上空で眩い光がきらめくと地上に降りてくるのは一体みたいなのを期待してたんですよ。まあ劇場予告でタンカーで殴ってた段階でそうじゃないんだろうなーと薄々は気付いてはいましたが。
 この映画の戦闘シーンは正しく特撮の文法のそれです、昭和のウルトラマンゴジラに通じる、ジュワァっと叫んで空手チョップが炸裂するあの格闘です。チェルノブがハンマーアタックと叫んでせーので二人で組んだ両手の拳を振り落とすあの感じ、正しくカイジュウプロレスの世界です。そういう意味においてこの作品は評価されるべきだし、非常に楽しめるものだと思う、けどさすがに今の状況は多少持て囃されすぎじゃないかなーと、特撮の文法、本当に皆さんそんなにお好きですか?私はアニメの文法のほうが好きです。

異世界」を描くとはそういう過剰さを作家として「生きる」ことなのです

引用は伊藤計劃グラディエーター評より
M:I 2
 じゃあ特撮の文法で書かれたこの映画楽しめなかったの?というとまっっっったくそんなことないです、3Dで観て値段以上に満足しました。
 まず小汚い塗装の剥げたジプシーデンジャーのヘルメットにやられた、ああゆうウェザリングが入った小物に弱いんです、カーボンが付着したストームトルーパーの装甲だとかエイリアンのノモストロ号のディティールにも通じる一連のアレ、当たり前のことに思えるけどどれだけの映画がこれを表現できているか。
 続いて「壁」の描写とこれまたディストピア感があふれる小汚さ、「野郎ども、良いニュースと悪いニュースの2つがある、どちらから聞きたいか!?」の安定感のあるフリ、劇場予告でエリジウムを見ていたんで被りましたが萌えますよね。
 そして香港!香港といったら重金属酸性雨に包まれ常に夜であるべきなんですが、本作はそれを忠実に再現しております。ハンニバルと呼ばれるカイジュウの死体を売買する男も、その男がいる店舗も実にイイ!怪しく蛍光色に光るカイジュウの臓器が水槽に浮かび、漢方薬の箪笥が並ぶあの風景、私はこれをクーロンズゲートでしか見たことがない!
 イェーガーの基地も非常に良い、基本は打ちっぱなしコンクリートに錆びた金属。扉はバイオハザードに出てきそうな重厚な金属扉、各種危険箇所への警告は英語と漢字の並列表記でCAUTION/危険となっている、ネルフ本部のあれですよ!
 私的にはこのセットが実写で見れただけで、もう色々と満足だった。というわけでまだまだ盛り上がりを見せるパシフィック・リムお勧めです。

地方出身者には帰る故郷が無い

Vol.13 東京生まれ東京育ちが地方出身者から授かる恩恵と浴びる毒 〜前篇〜〜後篇〜
http://janesuisjapanese.blogspot.jp/2013/08/vol13.html
http://janesuisjapanese.blogspot.jp/2013/08/vol14.html

私は両親も東京出身なので、盆には帰省する場所がありません。

地方から大学進学と同時に上京したような人間には*1、帰省する故郷はあっても、帰ることができる故郷は無かったりする。
地方には大学を卒業したような人間に仕事は無い。
新卒でUターン就職をしないという選択が、残りの人生の全てを家族と別れて、家賃を払いながら生きてゆくという選択を意味する。

東京はまるでプロレスのリングのようです。
たまたまリングの上に生まれ育った東京人が茶の間でボーっとお茶を飲んでいると、
突然ドスーン!とすごい音がして床が揺れる。なにかと思って振り返れば、
恥ずかしくなるような派手なマスクをかぶった人がリングに上がってきて、
大技を極めたり派手なポーズを決めたりしている。
それに対してリングの外からウォーーーー! と歓声があがり、
似たような人がどんどんリングにあがってきて新たな大技を決める。

年代の違いか職種の違いか*2、上京した知人にプロレスラーは少ない。地元の大学よりは偏差値が高くて私立の学費を払える人みたいなタイプが一番多くて、一旗揚げてやるみたいなタイプは少数派だったと思う。

しかもリングの上で敗れた人は、
「東京は冷たい街…」と恨みごとを吐いてリングを立ち去っていく。

戦いたくないのにいつの間にかリングに上げられて、梯子を外され退場すら許せない人からすると、立ち去ることができる選手はまだ幸運だ。

「あいつらに私たちの気持ちはわからないし、奴らの気持ちもわからない!」
そう腐っていた私の考えが変わったのは
30代前半にNYへ出張へいったときでした。
それまでも観光でNYに行ったことはありましたが、仕事で行ったのは初めて。
たった1週間の滞在でしたが、マンハッタンのド真中にあるオフィスに通い、
アメリカの雑誌やテレビでしか見たことのない著名人や
荒っぽいニューヨーカー(という名の地方出身者。多分。)と対峙したりしていると、
いつしか「この摩天楼め! かかってこい! やってやる!!!」という気分になってくる。

『「いろいろしがらみあるけど、やっぱり落ち着ける地元」を残したまま、NYでやりたい放題やりやがって。』
っていう気持ちになったので、私にはジェーン・スーさんの気持ちがよくわかった。

地方出身者には、生活して、暮らして、生きてゆける故郷を無くしてしまった人もいる。
気持ちを理解して欲しいとまでは言わなくても、皆同じように見える「気負っている」地方出身者には、そうゆう人がいるってことには気がついて欲しい。

*1:こんなこと書いといてアレですが、私は東京で生活したことがありません。地方vs都市くらいの感じで読んで下さい

*2:偏差値かもorz

やったねたえちゃん!家族が増えるよ!が恐い理由

http://wirelesswire.jp/london_wave/201302010745.html
(リンク先は関連する記事の中で適当)件の動画は怖くて見ていないし、今後も見ることはないと思う。
あのサムネイルを見た瞬間、かわいそうとかひどいとかそういった感情がわかず、ただただ恐ろしかった。
例えるなら、アウシュビッツで薪のように並んだユダヤ人の死体をブルトーザで壕に落としているフィルムを見せられた心境(NHKシリーズ戦争の世紀のOPですね)。

この映像が世間ではワイドショーに流れて、やりすぎだとか可哀想だとか、あるいはハゲに謝れだとかプロレスとかいった形で反応されているのを見て、私は自分の感覚と世間の感覚のズレに驚いている。

これをもって、世界が狂っていて私が正気だと主張する気は無い。
けれど会田誠の展示会に人権団体が抗議するにも関わらず、こんな恐ろしいことが世間ではまかり通ってしまうということを不思議に思う。

と、いろいろ考えて自分にとって恐いものと恐くないものの基準を考えてみた
ブラッドハーレーの馬車→無理
人でなしの恋→おk
会田誠→おk
AKB→無理
やったねたえちゃん→無理無理無理

たぶん物語性なのかな、フィクションであれノンフィクションであれ、人物の背景が見えれば見えるほと怖くなる。
会田誠の画集に幸せな家族団らんの画の一枚も加われば、たちまち限界を超えそうな気がしてきた。

地方とか格差とか

ブコメやツイッタ程度の文書でもこっちに書くことにした。
http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/01/15/143959
店長さんの都会は日々の情報量が〜って話は前のブログでも読んだなあ。
店長さんが嫌いなセブンイレブンはまさしくジャスコの風景よね(正しくはイオンだけど)。
新陳代謝がない、選択肢がないって話も、コンビニの棚の話で読んだと思う。

昔、ザ・コンビニってPCゲームがあって、最終目標はコンビニの力で街を発展させることだった。
コンビニの経営で地方の文化レベルを向上させて下さいってのは無茶ぶりだけど、陳列を変化させること・客に選択肢を与えること、それだけでも十分貢献しているよなあと思いました。
(ブコメにどうして山内マリコさんの話題がないのだ!)

2026追記
書いてて沖縄の成人式が荒れるのがわかる気がしてきた。
http://d.hatena.ne.jp/hagex/20130115/p2
あそこは島なんだよなあ、本州の地方なんてどこも陸路が繋がっているのだから。
アメリカには海を見たことがない、生まれてから一度も自分の町を出たことがない人なんて珍しくもないと聞いたことがあるけど、沖縄を出るということは本当に覚悟がいることなんだろう。

第三舞台封印解除&解散公演「深呼吸する惑星」に寄せて、私の意識に安らぎあれ

 僕達は、生きている人と話すように、死んだ人とも話すことができるんじゃないかと思うのです。生きている人と話しながら、実は話してないことは普通にあります。話しているふりをすることも、多くの人と話しながら実は誰とも話していないことも、珍しいことではありません。
 だから、死んだ人とたくさん話すことも珍しいことじゃないと思えるのです。
第三舞台封印解除&解散公演「深呼吸する惑星」ごあいさつ、より

sledoniさんが良いタイミングで第三舞台の千秋楽ライブビューを告知してくれていたので、見に行って来ました。えーと、あらすじはsledoniさんにお任せします。
あまり、芝居や第三舞台のことを知らないながらも私の感想を。
冒頭で挙げた「ごあいさつ」がロビーで入場券と一緒に配られた時から、ずっと伊藤計劃さんのことがずっと頭から離れられなかった。

「コンピューターの普及が、記憶の外部化を可能にした時、あなたたちはその意味を、もっと真剣に考えるべきだった。」GHOST IN THE SHELL 人形遣いより

落ち込んだ時や、心が落ち着かない夜は計劃さんのblogを読みに行く。そこには30歳から35歳までの計劃さんがいて、本当にしょうもないバカ話から、ガチンコ過ぎて鳥肌が立つ様な映画評論の話ができる。ちょうど、私が大学に入学してから卒業するまでの間blogを書いていてくれた(本当に暗く、友達も居なかった)。私は、一方的な一読者に過ぎないけど、計劃さんのことは師匠であり私のBIGBOSSだと思っている。
近い将来、私は計劃さんが日記をつけ始めた年齢を追い越してしまうし、計劃さんの享年を追い越すのもあっという間のことなんだと思う。それでも、30歳の彼は、35歳の病巣に体を喰い尽くされた彼は、その瞬間のまま、blogにあり続けている。
計劃さんのblogを読むのは時に辛い、あと何年か経てば私も覚悟完了した計劃さんのようになれるのかと思って。そして、余りにも自意識過剰で自分も他人も何もかもが許せなかった、計劃さんのblogだけが楽しみだった当時の自分のことを思って。


話が深呼吸する惑星の話から逸れました(一応これは単なる自分語ではなく前ふりで後で繋がるんですよ)。
芝居に出てくる記憶喪失の男,神崎が、記憶を失ってしまった理由としてこんなことを言っている(セリフうろ覚えなので意訳)。
 「この星に来て、(若いころ自分のせいで自殺した親友の)立花(の幻覚)が現れたんだ。あいつは何かをするわけでもなかったが、ある時ふと鏡に映る48歳の自分と21歳の立花を見た時、俺は何者にもなれない自分に気がついたんだ。」
この深呼吸する惑星は、半分は第三舞台の往年のファンに向けたような脚本になっている。そのファンには、おそらく舞台を演じる俳優や鴻上さん自身も含まれている。
私には、単なる鳥の着ぐるみや懐メロとしか認知できなくても、セリフや仕草の一つ一つに至るまで、ファンにとっては第三舞台の歴史を意味する特別なもののはずだ。
鴻上さんは、この脚本を書いた時、辛くなかったのだろうか?
昔の芝居のフィルムを見た時、恐くはなかったのだろうか?

フィルムには当時のままの役者たちがいて、永遠にその年齢のままそこに存在する。幻覚に「他人」の幻覚が現れて、「自分」の幻覚が現れないのは、演出上の都合というだけではなく、鴻上さんが脚本家で舞台には上がらないことに理由があるように思える。それは第三舞台の芝居を見てきたファンにも同じことが言える。
第三舞台の往年のファンたちは、昔のセリフや演出が引用される度に、何を感じたのだろうか?


私は最初それは絶望と諦めだと思った。
時が止まったフィルムを鏡に若いころの自分と今の自分を相対させたときに感じること、神崎が21歳の立花を鏡に21歳の自分と48歳の自分を見比べ、何者にもなれない自分に気がついてしまって、記憶を失ってしまったように。

絶望と諦めは、若いころの自分の「意識」から今の自分の「無意識」に向けられた殺意に他ならない。

親愛なる虚無様、
君が何も感じていないのは承知している。
君が何も意識していないのは承知している。
伊藤計劃 From the Nothing, With Loveより

初めて自転車に乗れたあの日、初めて好きな人と手を繋いだあの日、あの日の私の「意識」は既に死んでいて、今はもう何も感じない。
大人になって歳を重ねるのにつれて時間の感覚が早くなってくるのは、「意識」が死んで時間が抜け落ちているからだ、学年が進むに連れて辛い学校が楽になったと感じるのは、私の魂(=意識)が徐々に磨耗して死んでいったからだ。


芝居のの最後で、記憶を取り戻した神崎は、地球の立花の墓前で踊るため惑星アルテアを去ってゆく、そこに絶望や諦めはなかった。鴻上さんや役者さんや観客であるファンたちも、みんなとても楽しそうで、誰も絶望したり諦めたりはしていなかった。
第三舞台のことはよく分からないけど、昔の鴻上さんはきっと今よりもギラギラして尖っていたはずだ、「祖国なき独立戦争」という言葉に象徴されるように。そんな芝居を見に来てた往年のファンたちもギラギラして尖っていたに違いない。第三舞台とファンは家族のように絆で結ばれていて、愛し憎しみ合った仲間なんだと思う。
そんな彼らが今回の舞台を見て、ギラギラしていた過去の自分の「意識」を真っ向から受けて笑っていられるのは、今の自分が過去の自分に支えられて生きていることを、きっと自覚できているからと、冒頭で引用したごあいさつを読み返しながら思った。

 そして、死んだ人との会話が自分を支えていることに気づくのです。それは、教祖や偉人の言葉のように強烈な信仰を伴うものではなく、生きている人間の力強く生臭い言葉でもなく、じつに淡く、遠く、ささやかな言葉です。やがては、時間と共に消えて行く言葉かもしれません。会話しようと決心しないと現れない、かげろうのような言葉です。
 けれど、そんな、弱く、淡く、小さな言葉が自分を支えているのだと自覚すること、そして、自分を支えるものの弱さや、はかなさに気づくことは、なかなか素敵なことなんじゃないかと思うのです。
第三舞台封印解除&解散公演「深呼吸する惑星」ごあいさつ、より


私もいつか、鴻上さんや第三舞台のファンたちのように、昔の死んでしまった自分の存在を認めて、今の自分が過去の自分に支えられて生きているといった実感が持てるのだろうか?
最後に、伊藤計劃さんの言葉を借りての失われてしまった私の魂に弔いの言葉を伝えたい。

ありがとうございました。

あなたの物語は、今の私の一部を確実に成しています、と。

あなたの言葉は、今の私の一部を確実に縁取っています、と。

かつてあなたの言葉が真実だと思った時期もあり、いまはその頃と考え方も変わってしまったけれど、しかしあなたの用意した道を迂回してここにたどり着けたことはやたり、幸福だったんです、と。
伊藤計劃:第弐位相 野田さんの思いでより

それでも読書で反社会を思う

Living, Loving, Thinkingさんから言及いただいた。
「世界の敵」? - Living, Loving, Thinking, Again
言及頂いて嬉しくありがたく、恐れ多いくらいです。比べて私は完全に勉強不足なんで、精進致します。
的外れになっていたら申し訳ありませんが、ご返答を。

「人間」も「社会」も「世界」も「目前」のものだけではない。私は私が今まで全然会ったことのない、或いは私が今後も絶対に会うことがないであろう無数の「人間」が存在することを知っている。「社会」は「目前」の他者たちだけでなく、そのような私が会ったこともなく、また会う術もないような無数の他者たちによって構成されているということを知っている。

私もそれは理解している。「恋人と観覧車で二人きりなのにメールを打つようなものだ。」と読書を例えたが、メールは常に相手がいて成立するわけで、必ずその先は社会と接続されている(相手がオバマやジョブスだったら、恋人と話すよりもよっぽど社会的だったりするかもしれない)。
たとえ相手が死者であったとしても、いや今に名を残すような死者ならばそれは死者及び幾千幾万の兄弟弟子と群をなすことであり、現代にコミットするよりも高度に社会的な行為かもしれない。
しかし、それでも私は読書は反社会的行為であり、世界の敵になるための第一歩だと考える。

私にとって「世界」は三次元的ではなく四次元的な構造を持つものとして現れる。「世界」は〈現在〉のものだけでなく、(記憶や痕跡としての)〈過去〉や(予期や前兆としての)〈未来〉も組み込んだ仕方で存立している。換言すれば、「世界」には(「目前」かどうかを問わず)生きている人だけでなく、既に/未だ姿を現していない先祖や子孫も住んでいるのである。

世界が四次元的構造をとっているなら、それは無限に広がる四次元空間ではなく、過去を起点に未来に拡散するピラミッド型構造をとっているはずだ。ピラミッドは単なる時間軸だけではなく、物事の抽象度、上位概念、マイナ度、等で作られているはず。
ピラミッドの社会の中心と言えるレイヤは「本を読む暇があるなら野良仕事しろ」の少し上の新聞やテレビのあたりに位置している。読書という行為は、そのピラミッドの中心から遠ざかる行為のように思える。
例えば学問で言うならば、理系では数学>理学>工学、文系では文学>法学>経済学、の順番にの社会の中心から遠ざかり罪深いと言え、あらゆる学問の頂点に立ち最も罪深いのは哲学であると言える(もちろんそんなに単純なものではないけれども)。

基本的に読書はピラミッドの頂点へ向かう行為だ。

例えば、それまで資本主義経済を全く自然なものと感じていた人がマルクス主義の書物を偶々読む。それまで金正日将軍様の権威に全く疑いを抱かなかった北朝鮮青年が偶々〈韓流〉小説を読む。それは「目前」の資本主義体制とか朝鮮労働党体制にとっては「反社会的」ではあるが、同時に別の社会体制等へのイニシエーションでもある。

資本主義とマルクス主義は同じレイヤに属しているので、頂点に向かう行為とはちょっと違うかもしれないが、並列する社会を見てその上位概念を思うことは容易い。これは工学が理学の基礎研究によって発生しており、理学が数学の概念に裏付けられる関係にも似ている。
読書によってピラミッドの頂点に向かい、それを現実に応用させることでピラミッドの裾野を拡張させる。これは最初に引用したエントリに近い話だ。
生涯所得を数千万円変える“本当の”情報格差/若者よ書を求め街へ出よ? - デマこい!
しかし、読書の先にある社会に耽溺すると、社会の中心と言える、現実社会のレイヤまでなかなか戻ってこれない。
昔教科書で「人間の限りある頭脳では数学の発展は止まるので、科学の発展は止まるであろう」といった文書を読んだが、現実にはまだ数学は発展しており、もはや科学の発展では到底追いつけない領域にまで到達しており、依然としてその差は開くばかりであるように思える(すみません、現代数学とか物理学とか詳しくないので単なる印象です)。その意味において、数学は社会の中心から離れてしまった学問なのだ。


社会をピラミッドの内部とすると、世界全体はその辺や頂点を含む。
社会の敵とは、そのピラミッドの辺や頂点に属する人間だ。過去の偉大な思想家や芸術家達は、皆その上を歩いていたはずで、その人の歩んだ跡がそのままピラミッドとなり社会の一部となる。
社会の敵は、その時代においては「危険」とされて「社会の敵」と認定されるが、後の時代の人々からすれば単なる過去の思想にすぎない。
社会の敵によってピラミッド状の社会は広がり、人間の定義は拡張される。

それでは、世界の敵とは?
ピラミッドの頂点を突き抜け、ピラミッドの外側に単なる点として存在する「突破者」。
人間の定義を拡張するどころか、人間の存在そのものを危うくしかねる「何か」。
いつかそんなふうになりたいと憧れる。

いや、「フィクションの中でも最も罪が重いのは」私小説だよ。

これについては、まったくもって仰られる通りです…。(観覧車で恋人と二人きりで私小説を書く男は世界の敵かも)

読書は世界の敵になるための最初のレッスンだ

徹底的に中2を書く、全力でだ。

「この世もこの世の人間も、全部消えていなくなれ。自分の夢でない世界は消えてしまえ。―そういうことじゃねぇのか」
小野不由美魔性の子」より

承前
生涯所得を数千万円変える“本当の”情報格差/若者よ書を求め街へ出よ? - デマこい!
本筋の読書と経済格差の話は「ヤバい経済学」と「賞金で高校生の成績が伸びるのか」でググればよろし。
私が語りたいのはこっちの話。


読書は反社会的行為である 読書猿Classic: between / beyond readers

 読む者を所属する社会から引き剥がし、帰って来れなくなるかもしれない世界へと導く魔笛であり、その魂に現世(うつしよ)にまで溢れるほど夜の夢を注ぎ込む邪な水差しである。

私も読書は反社会的な行為だと思う。
読書するとは目前の人間を社会を、そして世界を無視することに等しい。
本に耽溺するとは、恋人と観覧車で二人きりなのにメールを打つようなものだ。
故にノンフィクションよりフィクションが罪が重く、フィクションの中でも最も罪が重いのは、嘘で世界を演算し、あり得るorあり得たかもしれない世界を演算するSFであると考える。

誤解のないように言うが、読書(映画、ゲーム、夢、妄想etc)は現実逃避だから反社会的なのではない。現実そのものだから反社会的なのだ。
私は士郎正宗や押井作品に親しむ、伊藤計劃信者である。
私の体験したことは全て現実である。どれだけ夢を見たところで「夢を見た」現実に過ぎない。現実と虚構の2つの次元があるのではなく、現実∋虚構が正しい。
「現実と虚構の区別がつかなくなる」という言葉の現実とは社会のことを意味している。
真の意味での現実は各々にしか存在せず、社会とは各々の端数を切り捨てた現実の最大公約数である。


冒頭では小野不由美魔性の子から引用した。
少々長いが引用部の前の会話を含めて引用しよう。

「お前は人を恨んだことがない、と言っていたな。消えてしまえと思ったことはねぇってさ」
「―言いました」
「俺はそれを嘘だと思う。あの世に帰る夢を見て、それで心を慰めておいて、他人のことは恨まずに置く。それは表裏だよ、広瀬」
「…表裏?」
広瀬は眉を顰める。たしか後藤は前にもそんなことを言っていた。後藤はうなずく。
「表と裏だ。その思考には裏がある。帰りたい、ここは自分の世界じゃない。その思考はな、ひっくり返せば消えてしまえということだ」
広瀬は瞠目した。
「この世もこの世界の人間も、全部消えていなくなれ。自分の夢でない世界は消えてしまえ。―そういうことじゃねぇのか」

子供に教育のために本を与えるのなら、自分が読ませたい本を巧妙に本棚に配置して、子供の自発的な読書の欲求を抑制することだ。本は別途お小遣い支給というのも良い、どんな本を買うか報告の義務が生まれるので、自然と親が喜びそうな本しか買わなくなる。
読書とはフォースのようなもので、正しく使えば生涯所得を何千万も増やすことができるが、一度暗黒面にとらわれると先祖代々の知的階級としての資産を一代で無にしてしまう側面も持っている。
本を読まないガキが読むようになるまでのこと - 関内関外日記

読書の暗黒面にとらわれる子供は、どれだけ注意を払ったとしても逃れることはできないだろう。子供はあなたを、そして世界を無視し始める。
あなたが、自分の子供が社会に全く貢献しない、あるいはテロリストになったとしても、ただ幸せでいてくれたらばそれで良い、というならば読書の習慣はきっと有効なはずだ。
少なくとも私にとっては有効だった。

子供の頃、学校にいけなくなって社会から外れてしまうことに怯えていた時はいつもこう考えて自分を勇気づけていた。
「図書館さえあれば生きていける」
この気持ちは、何千万という生涯所得の差よりもずっと大切な生きる希望だと思う。