就活終わりました
長い長い就職活動が終わりました。
というか終わらせました。
僕にはもう就職活動をする余力が残っていませんでした。
結果的には”近い将来の楽”を選択することになっていると思うし、
それが後々後悔することになるかもしれないけど、それはわからない。
最終的に決断するのは自分だから、決断したことに対して悔いは全然ない。
これからは自分が人生を楽しめるように、いろいろ勉強して考えて挑戦していきたいと思う。
就職活動の感想は、全部自分のためにやるべきだと思った。
どうしても、周りの目って気になるから。
親とか友達とかサークルとかバイト先とか。
みんなに「いいとこに就職したねえ、すごいねえ」って言われたいよね。
僕も今まで、勉強とかでいい成績とって褒められるのが快感だったから、
そういうのはめちゃくちゃ気にする。
他人のことなんか気にしないって言い聞かせてたけど、
それは嘘で、見栄だった。
それでも、誰もが知る企業で、収入も多くて、休みも取れてっていう反発があった。
なんだろう、それってつまらないって思った。周りに埋もれてしまう気がして。
もちろん、選考に挑戦して失敗する怖さもあったけど、入社したらそれなりに楽しいのだろうけど。
これは完全に偏見。
僕はどっちかっていうと幸せをはかる”ものさし”は短くて、それが自分の好きなとこでもあるし、僕は特別なんだって思えることでもある。
だから今の自分を僕は大切にした。
そうすれば道も簡単に決まった。
仕事だけが人生じゃない主義だから、仕事に疲れて仕事以外何もできない、ってなるかもしれない不安があるけど、そこに挑戦したい。いろいろやりたいことがあるから。
すごく楽しみと不安が入り混じっているけど、やったる感を忘れずに行こうと思います。
これから、ブログもちょいちょい書こうと思います。
ではでは。
僕の就活。
ちょっと予定的にも精神的にも落ち着いて、振り返ってみたくなった。
就職活動。
就活マニュアルに、
「なぜ就職するのか」ってワークシートがあって、僕にはわかりません。
それでも思うのは、
①子供が欲しい
②・・・ってだけやん。
別に派遣でもお金は稼げるし、生活していける。
人のために生きるのが立派な社会人というけど、電車で席を譲ったり、道端で倒れたベビーカーを立ててあげることも、小さなことだけど人のために生きてる。
電車で席を譲るのって違うか、当たり前なのか。
僕は、人を自立させたいって思う。
なんかすごい生意気。
自分だけで生きられるようにするって、結局、無理だと思うんだけど、
それでも、僕が何かを与えたことでその人が、できないことができるようになったり、
自分の選択に自信を持たせてあげたりそういう人になりたいって思う。
だから仕事は何だったいい。
自己成長ができて、それで学んだことを教えること。
それだけでいい。
「大変だよ?」っていう人がいる。
僕には、やるかやらないかだけだと思う。
怖いとか不安だからとか、そういう気持ちももちろん心の中で感じているけど、
やってしまえば、そんなの関係なくなっちゃうんだよね。
僕、自分の考えていることを伝えるの下手くそなんです。
って思ってたら、昨日二次面接で、一次面接のフィードバックがあって、
「相手にわかりやすい言葉で伝えていた」って言われて、
そうなの?って思った。嬉しかった。
自分の考えてることとかって、周りから見たらそれほど大したことではないんだよ。
就職って意識より、もっと何かこう・・・あるだろう。
今はよくわからないけど。
ではでは、実際に振り返ります!!!イエイ!
就活始めたのは、11月とかかな。
学内で企業説明会があってちょくちょく参加して、大勢のなか質問した。
なんかこのブログ、ちっちゃい自慢ばかりやなあ。
それでもね、就職するにはまず3人に1人内定がもらえない(2015年11月時点多分)状況をなくすためには、その6割に入るにはそういうこともしていかないとなって思いました。
大したことではなく、「それは文系の僕でもできますか?」
みたいなこと。
それが結構自信になったりするんだよね。アピール云々じゃなくて、自分から関わらないと何も変わらないからね。
それで、12月に合説参加して、1日のインターンシップとか企業の就活セミナーとか参加して、1月からは選考を徐々に受け始めって感じか。
なんかもう2月が終わると思うとあっという間だった。
今のところ結果は、
・A社 4次選考 落選(ここひたすら長い)
・B社 次回最終選考
・C社 2次選考結果待ち
就活は早めに終えようと思う。
最後に、面接で難しい。
人の話を聞いて答えるっていうのが難しい。
アピールではなくて、相手に伝わるかどうかしかないんだよね。
3月は大切な時期だから、頑張ります!!!
マカロニ物語
僕はマカロニの穴から星を眺めていた。
「そんなんじゃ見えないよ」
遠くの方から声が聞こえた。辺りを見回すと川の向こう岸に人が立っていた。あの人が声をかけてきたのかと思っているうちに、川の上の橋を渡って近づいてきた。彼は白いニット帽を被ってピンク色のスウェットを着ていることが見てとれた。
「そんなんじゃ見えないよ」
白い息とともに彼は声を発した。よく見ると胸に白い名札をつけている。黒いマジックで太く「セロリ」と書いてある。セロリがなんでマカロニの小さな穴から星を見ていたことを川の向こう岸から見えたのかわからなかった。
「僕のちくわはねえ、遠くのものもよく見えるんだ」
セロリはちくわを片手に片目をつぶり穴から覗きながら言った。ハッとした。人の心の中も見えているのかと。セロリは次に空を眺めた。ちくわの穴から星を見ている。マカロニの穴からは星ひとつしか見えなかった。だからちくわの穴からも同じようなのだと想像した。
「月の上にはジャガイモがころがっている。月の上にはジャガイモがころがっている。」
二回言う必要があったのかという疑問と月の地表までも見ることができるちくわがあるのかという滑稽さが僕の頬を緩めた。
「君も見てみるかい?」
セロリは聞いた。そんなおかしなことがあるのかと思いながらも覗いてみたいと思った。そのとき、ニワトリがセロリと僕の間を横切った。
「トベナイ、タナカ、トベナイ、タナカ」
言葉を喋っていた。しかしあまりおかしいと思わなかった。ニワトリはタナカという名前らしい。ニワトリのタナカは羽が折れていてうまく羽ばたくことができないみたいだ。
「ドーナツノアナ、ホシヲミル」
何を喋っているのかよく理解できなかった。セロリは言っていることの意味を汲み取った様子で、
「お前は、ドーナツの穴から星を見るのかい?」
「コケッ、コココ、コケッ、コココ」
急に普通のニワトリになった。ドーナツ。そういえば、今日学校の帰りに買ってきたんだ。チョコドーナツを一つ学校帰りに食べるのがささやかな贅沢だった。僕は、ドーナツを手さげ袋から出して、ニワトリのたなかに差し出した。差し出したところで、ニワトリに受け取る手なんてないやと、おかしく思った。
「とさかのところにドーナツをはめるんだ」
「コケッ、コココ、コケッ、コココ」
セロリとニワトリのたなかは意気投合しているみたいだ。僕は、言われた通りにとさかにドーナツをはめた。その瞬間、赤いとさかが黄色くなり、徐々に光っていって視界が真っ白になった。眩しいはずなのに不思議と目は開けていても大丈夫だった。しばらくその光景を見ていると、光がおさまり、現実の世界が見えてきた。しかし、地面は大小さまざまなくぼみがあり、空は真っ黒だった。そして、平らな地面の上にジャガイモらしきものが2つあった。もしやここは月の上・・・僕は自然とそう思っていた。本当にジャガイモがころがっていたんだ。あたりを見回すと、白いニット帽をかぶり、ピンクのスウェットを着ているセロリしかいなかった。ニワトリのたなかはいなかった。どうやったら帰ることができるんだ。ニワトリのたなかのおかげでここまで来ることができたが、帰り方は知らない。僕は困っていると、
「このジャガイモを蹴るんだ、同時に」
僕は深くうなずいた。セロリと僕はアイコンタクトを取り、一つ息を吐いてから同時に走り出し、同時にジャガイモを蹴った。そうするとジャガイモは自分が思いも寄らないほど高く飛び、ニワトリのたなかのとさかのように黄色く光り、視界を白く染めた。
湊かなえ『母性』−母も娘もまた「娘」−
”母性”について考えたことはあまりない。
母親の立場にならないとわからないことだと思っていたから。
女性が好きな男性のタイプで「母性(本能)をくすぐられる人」という人をテレビでよく見かける。
僕にとって”母性”とは、何かと面倒を見たくなるといった意味で捉えていた。
生まれつき備わっている性格としても言えると思うが、明確ではない。
しかし、『母性』を読んでからは、その意味ははっきりと輪郭を表した。
話は変わるが、僕は、母親に何かをして欲しいなどと思ったことがない。
愛して欲しいだとか、大切に育ててとか、母親に喜んでもらうための行動などしたことがない。
自分が頑張った結果、母親に褒められることで喜ぶことはあった。
テストでいい点を取って、母親に見せる。褒められたいから頑張ったのではなく、頑張ったから褒められる。褒められなくても別に良かった。
僕は、自分のためにすべてやってきた。他人のためにやっても自分には返ってこないと思っているから。自分のためにやっていることが、他人のためになるとさえ思っていた。
母親の誕生日にプレゼントをあげることは、当たり前。見返りを求めるといううより感謝のほうが大きかっただろう。
なぜ自分は母親に愛されたいために生きないのかと考えてみる。
もちろん、母親のことが嫌いではない、大好きである。
それでも、母親のために生きるとはならない。
漠然と思っているのかもしれないけれど、優先的ではない。
結論からいうと僕には”母性”がないのかもしれない。
小説の中で「愛を求めようとするのが娘であり、自分が求めたものを我が子に捧げたいと思う気持ちが母性なのではないだろうか」とある。
愛されているなと思うことはある。
毎日ごはんを作ってくれるし、帰りが遅いと心配してメールをくれたりする。
これが一般的にいう母性という機能である。
『母性』の中で、母親(ルミ子)がうまく娘を育て、愛してあげられなかった理由は、母親(ルミ子)自身が死んだ母の娘で居続けたからである。そうすると、母親は常に愛を求める。死んだ母親に愛を求められない。とすると、娘に矛先は向くが、ルミ子が母に愛したようには愛してはくれない。見返りがないのである。
目に見える愛を感じなければ、宗教にのめり込む一因になるのかもしれない。
実際、ルミ子は宗教関連の詐欺にあい一旦は離れるが、その後も宗教活動をしている。
”母性”があればいい子を育てられるわけではない。
むしろ”母性”こそがそれを邪魔しているのかもしれない。
大切なのは、親の娘から卒業して母親になれるかどうかである。
いい子とはなんだろう。母親に付き従いうことだろうか。どんな人にも優しくして、いい子だね、いい子だねって言われることだろうか。
それはいい子でもなんでもない。母親の代わりでしかない。母親は子になってはいけない。自分が親にして欲しかったことを、押し付けてはいけない。
母親がいなくても生きていける。母性を必要としない。
それが「いい子」だと僕は思う。