【ネタバレあり】2回目の鑑賞が10倍楽しくなるスパイダーマンファーフロムホーム感想

興行的にも作品としての評価としても大成功を収めた「アベンジャーズ/エンドゲーム」の直後に公開され、しかも「アイアンマンの後を継ぐ」といった展開が予告され、トニーロス・アイアンマンロスの真っ只中にいる僕らの期待を高めに高めまくっている『スパイダーマン:ファーフロムホーム」。 正直いって僕は、このハードルの上げ方で万が一コケでもしたら、エンドゲームの感動すら損なわれてしまうんではないか…と心配するほどだった。世界最速公開から約40時間後、土曜日のレイトショーで観たが、僕の心配は無事杞憂に終わったのだった。

掛け値無しに面白かった。ある部分ではエンドゲームより面白かった。エンドゲームが面白すぎたのは事実だが、3時間の間感情揺さぶられっぱなし、先の見えない展開と興奮、大きすぎる喪失感を味わわせてくれたエンドゲーム。それと比べてファーフロムホームはロードムービーかつ青春映画のようでもあり、少年が成長する奮闘記でもあり、現代的なギミックが飛び交うエンターテイメントでもあった。つまり、とっても面白かった。

特に僕が感じ入ったのはこの3点で、この記事ではこの3つを中心に好き勝手に書いて行きたいと思う。

これからはネタバレががっつり入るのでぜひ注意して進んでほしい。

謎の男ミステリオのミスリード

原作ではスパイダーマンヴィランであるミステリオ。ファーフロムホーム予告では、別の次元の地球からやってきたヒーローとして、共闘するかのような雰囲気だったミステリオ。あれ、これはひょっとして原作とは違って本当に味方なパターンかな?と思ったら、果たしてしっかりヴィランだったミステリオ。しかしこのミステリオ、いい仕事してた。本当によかったと思うミステリオ。

いままで単品MUC作品のヴィランの中では(つまり、サノスを除いて、という意味)(いや、別にウルトロンが魅力的でないという意味ではなく)、ブラックパンサーヴィランであるキルモンガーが一等魅力的なヴィランと、個人的には思ってたんだけど、これはひょっとして一二を争うヴィランになったかもしれない。

正体を明かすミステリオのシーンで物語が切り替わった

さて、最初は味方として登場したミステリオは、ヒーロー不在の地球に襲来した新たな脅威を退ける強いスーパーヒーローとして、スパイダーマンとニックフューリー、イタリアの街の人々に認知される(ミステリオはイタリア語で「謎の男」。イカス)。 アベンジャーズ不在以後の世界で求められた新たなスーパーヒーローとして信頼を集めるミステリオ。しかしそれは偽りの姿だった!ということが作品の中盤で明かされる。

ミステリオが正体を明かすシーン。自信をすっかり失ったパーカーが、トニーの形見でありパーカーに託されたハイテクARメガネ。パーカーから「トニーの形見を持つにふさわしい」として渡されたARメガネを手に、ニカっと笑って、「簡単なもんだったろぉ!?」というミステリオ。このシーン!このシーン。ミステリオの表情。現実に戻って行くバーのフェイク映像。大変よかった。 前半のコメディタッチなロードムービーから、明確に超えるべき敵を倒すための物語として転換する舞台装置として、このシーンは非常に印象的だった。僕も映画の脚本を書くときがきたら、敵役に思いっきりニカっと笑わせよう。そう思った。

超現代的なもので戦うミステリオ

正体を明かしたミステリオ、というか正体とともにミステリオの攻撃手段も明らかになる。それはめちゃくちゃ先進的な映像技術とドローンという、現代的なアイテムだった。原作のミステリオも、特殊効果と映像技術を駆使するらしいが、序盤の敵として出てきたエレメンタルが全て彼(と彼の部下達)の「演出」だったのは驚いた。フェイク映像を使って精神攻撃を仕掛けてきたり、精巧な映像に紛れ込ませたドローンで攻撃したりと、現代の世相にマッチした攻撃を仕掛けてくるあたり、とても面白いなと思った。

例えばこの映像。フェイスブックのCEOであるマークザッカーバーグが話しているように見せかけるフェイク映像。

こういった動画やフェイクニュースのように、ミステリオが仕掛けてくる攻撃はとにかくフェイク。フェイクフェイクまたフェイク。フェイクで物理的に攻撃されるし、騙してくるし、しんどい光景を見せてきたりする。ミステリオを通じて、現代のフェイクの攻撃性が見えたのは面白かったなと。

物語の終盤、敗れたミステリオがスパイダーマンに向けた最後の言葉、「人は信じることを求めてる」というのも、世相を反映していて大変良い。非常に現代的なテーゼを示してきたいいヴィランだったなと思う。

余談だけど、フラッシュのライブ配信で敵の居場所がわかるというのも現代的なギミックでとても面白かった。

マーベル・シネマティック・ユニバースの続編としてのスパイダーマン

ミステリオが今回ヴィランとして立ちふさがるのは、トニーのせいだ。まあアイアンマン関係の作品のヴィランは、だいたいトニーまたはトニーの父のハワードのせいだ。ミステリオもアイアンマン3アルドリッチ・キリアンよろしく、過去のトニーにコケにされたことから、ヴィランとして世界の前に現れることになる。

アイアンマンもキャプテンアメリカももういない。世間はアイアンマンの後継を期待している。次にサノスのような厄災が襲来したらどうなるのかと不安でしょうがない。ホームレス支援のパーティにゲスト参加した時、スパイダーマンはアイアンマンの後継を意識させられ、旅行先にスパイダーマンのスーツを持っていかないことを決心するほどにプレッシャーでいっぱいになった。

キリアンの時はトニー自身がケリをつけた。キリアンの時と違うのは、もうトニーはいないということだ。トニーが生んだ敵を、パーカーが倒さなければならない。ミステリオとトニーの因縁を、パーカーは最後まで知らなかったはずだが、トニーの残した敵との戦いの構図は、観客である僕たちに嫌が応にもスパイダーマンの成長物語を想起させる。パーカーはミステリオを倒すことで、トニーが残した負の遺産を乗り越えなければならない。

トニーの死による喪失感と、トニーが残した負の遺産を克服することで、パーカーは大きく成長する。それは同時に、僕たち観客がトニーがいない喪失を乗り越えることでもある。そのカタルシスが、ファーフロムホームという映画に興奮を与えたように思う。

ハッピーとパーカーの奇妙な友情

また、この項で外せないのがハッピーの存在だろう。 エンドゲームでの、トニーの葬式シーンでのモーガンとの会話、「お父さんもチーズバーガーが好きだった」。このセリフからはハッピーとトニーの友情が垣間見えたが、ファーフロムホームではハッピー自身の口からトニーへの思いが語られる。 「トニーは親友だった」「トニーはいつも悩んでた」でも、パーカーに託すことは迷わなかった。この言葉を聞いたパーカーは迷いを断ち切る。フューリーが言っていた、「覚悟」が決まったようだ。

思えば、パーカーとハッピーの関係には不思議な部分がある。前作の『スパイダーマン:ホームカミング』の最初のうちは、パーカーにとってハッピーは、トニーに認めてもらうためのただの連絡相手だった。ファーフロムホームでは、パーカーはハッピーとおばとの関係性に不審を感じながらも、しんどいタイミングで頼ったのはハッピーだった。ミステリオに一度は敗れ、見知らぬ土地オランダで目覚めたパーカーが電話をしたのはハッピーだった。ハッピーとパーカーの間には、奇妙な友情があるようだ。

スパイダーマンの部下?」と聞かれたハッピーは「同僚だ!」と答える。これが示唆するのは、彼らの対等な関係だろう。一方で、ミステリオとの最終決戦に挑むためにスーツを自作するパーカーを見つめるハッピーは、在りし日のトニーとパーカーを重ねているようだった。彼らの関係は、親子のようでもあり、友人のようでもある。今作で、パーカーの背中を押したのはメイおばさんでもベンおじさんでもMJでもトニースタークでもキャプテン・アメリカでもニックフューリーでもない。同僚のハッピーだった。

ミステリオとトニーの違い

パーカーとトニーの関係について、もう少し触れておきたい。 トニーがいなくなった喪失を、ミステリオは少しだけ埋めてくれた。ヒーローのあり方に迷うパーカーに、ミステリオは父として師匠として(まやかしではあったが)ヒーローの先達としての顔を見せた。友達との旅行をヒーローより優先したいパーカーに、「やめてしまってもいいと言いたい自分もいる」と共感を見せるミステリオには、見てるこっちも「ミステリオの兄貴…」と思ったくらいだった。

しかしトニーは、パーカーを甘やかしはしなかった。前作ホームカミングのトニーの名言、「スーツなしじゃダメならスーツを着る資格はない」に象徴されるように、ヒーローとして厳しく接し、期待した。パーカーには荷が重すぎる期待だったかもしれないが、トニーはパーカーに「信じて全てを託した」のだ。結果的に、パーカーの弱音に共感を見せたミステリオと、トニーのどちらがパーカーを成長させたか。この2人の違いには考えさせられるものがあった。

映画スパイダーマンの系譜として

さて次に、過去のスパイダーマンの映画作品との類似点や相違点について書いて行きたい。もちろん、つながりのない別シリーズだから違いはいくらでもあるし、過去作をみていなくてもファーフロムホームは楽しめる(エンドゲームは観ておくべきかもしれない)。一番違いが大きかったのは、ヒロインであるMJだろう。

サム・ライミスパイダーマン三部作でのMJは、学校のマドンナで舞台女優を志す色気たっぷりのブロンド美女である。一方、こっちのMJは、ちょっと中二病が入っていて斜に構えたものの見方をしたり、素直に言葉を伝えられずトゲのある物言いをしてしまう不器用な女の子である。ピーターは「ダークな」部分に魅力を感じているようだ。サム・ライミ版のMJと違う点はキャラだけじゃない。過去作のMJは、スパイダーマンの正体を知らないまま何度も助けられて、最初はスパイダーマンに心奪われていくが、隣人としてのパーカーの存在を徐々に実感していき、最終的にはピーター=スパイダーマンを好きになる。一方、今作のMJは「ずっと見てたから気づいた」のだ。スパイダーマンじゃないただのパーカーを気になっていて何度も見ているうちに、ピーターの不審な挙動とスパイダーマンを結びつける(しかし最初は素直に言えないMJだった。かわいい)。つまり、順序が逆なのだった。 しかし共通点もある。サム・ライミ版MJとパーカーは、いろんなきっかけにキスをしていた。今作のMJは、言葉は不器用だからと、好意をキスで表す。なんだかこの辺が、過去作のMJとの共通点なような相違点なようなで、大変ほっこりしました。

他のキャラクターでいうと、サム・ライミ版三部作ではガキ大将的いじめっ子でMJの元彼ポジション、アメイジングスパーダーマンではピーターと喧嘩してから理解者になるフラッシュも、ライブ配信で承認欲求丸出しの健全な男の子って感じで、メイおばさんは若く綺麗な女性だ。そんなメイおばさんのことを、ハッピーは好きで、いま以上の関係に進むことを期待しているらしい。メイおばさんとハッピーが恋仲になるかどうか。MCUスパイダーマンでは、ベンおじさんは登場していないが、これはひょっとしたら次回作あたりで、ハッピーから、ベンおじさんの名言「大いなる力には大いなる責任が伴う」が飛び出す伏線だったりするのかもしれない。

そして何より「デイリービューグル」「J・ジョナ・ジェイムソン編集長」だろう。どちらも、スパイダーマンシリーズではおなじみの存在であり、いままで出てこなかったこれらが登場しただけでテンションが上がったが、J.Kシモンズがスクリーンに映ったときは映画館なのに思わず「おおお!」って言ってしまった。J.Kシモンズはサム・ライミ版三部作でJ・ジョナ・ジェイムソン編集長を演じていたまさにそのひとであり、流石にお年は召していたがその朗々とした威圧的な話し方は健在で、懐かしい気持ちになった(これが聞けただけで字幕で見る価値があった)。ぜひ、今回だけのファンサービスにとどまらず次回作でも登場して欲しい。というか最後の展開的に出るでしょ絶対。

スパイダーマン的に馴染みのある単語が出ると、一気にスパイダーマン感が出てくる。僕が個人的に一番好きなピーター・パーカーは、ヴェノムに乗っ取られかけて攻撃性に身を委ねてしまってるパーカー(あん時のトビーマグワイア、ホント名演だよね。ギャップがすごかった)なのだけど、もうヴェノムは出ないかな…どうかな。

エンドゲームでは宇宙にまで行ってしまったし、サノスに比べるとスケールが小さくなってしまうかもしれないけど、ニューヨークを舞台にグリーンゴブリンやドクターオクトパスと戦ってくれる親愛なる隣人としてのスパイダーマンがみれると嬉しいなあ。

というわけで、早くも次回作への期待が高まってしまう『スパイダーマン:ファーフロムホーム』 の感想でした。僕は二回目を見に行く。ひとりでも行くが、ひとりではないと信じている。

孤独のスーパーヒーローが歌う、「俺たちの勝ちだ!友よ」の意味【映画ボヘミアンラプソディー感想】

個人主義の世の中。常に、わたしがやりたいことはなんなのか。あなたはどうあるべきなのかを、私たちは問われ続けています。

「みんな違う人間だ」と独立した自由を認められるということは、「誰一人自分と同じ人がいない孤独」を同時に意味しています。 

孤独に苛まれながらも強く輝くように生きたフレディ・マーキュリーの人生を描いた『ボヘミアンラプソディ』が、これだけ多くの人に受け入れられ大ヒットしているのは、誰もが孤独を感じているこの世の中と無関係ではないように思います。

 

フレディ・マーキュリーという、スーパー・マイノリティの物語

 

映画の大半の時間、クイーンという一つのバンドの成功と、並行してフレディ・マーキュリーが孤独に陥っていく様が描かれます。

映画を見ながら僕は、最近界隈で取りざたされる、「一つの分野で100人に1人の人材になって、それを3つの分野で行えれば、100x100x100で100万人に1人の人材になれる」という話を思い出していました。マイノリティの掛け算が、どれだけフレディを孤独にしてしまったのだろうか、と。

 

ペルシャ系の両親から生まれながらイギリスに生きたフレディはパキ野郎と揶揄され、さらにはセクシャル・マイノリティであることを自覚します。

ただでさえマイノリティであるのに、世界でも指折りのロックバンドのボーカルに上り詰めたことによってさらに孤独を強めていくことになります。世界の誰一人として彼に共感できる人はいなかったでしょう。誰一人として自分を理解してくれないとしたら、果たしてこれほど苦しいことが他にあるでしょうか。

何百万人に一人の成功者は、それだけで強いマイノリティと孤独を得ることになったでしょうが、それだけではなく出自とセクシャリティが彼をより強い孤独に導いたのだと描かれているように思いました。

映画の中盤、自分がゲイであることを受け入れ、口ひげと短髪の、私たちにはおなじみの風貌になったフレディが登場するシーンがそれを象徴しています。

豪邸を建てたフレディは、いやに明るくメンバーに食事をしていくように誘いますが、メンバーは「妻も子供もいる」とすげなく断ります。 

同じく「成功者の孤独」を分かち合うことができたかもしれないバンドメンバーは、妻と子供を得て家庭を築き、きっと成功者の孤独を味わいながらも、それでも家庭に帰ればマジョリティな世界に触れることができたのでしょう。しかしフレディは、セクシャルマイノリティだったことでそれすらも叶いませんでした。

ソロ契約をするとフレディがバンドメンバーに告げたときに、メンバーからは突き放されるように、「400万ドルで友達を買えよ」と言われます。これも、フレディの孤独を象徴するシーンでした。

メアリーの結婚指輪

それでもフレディは孤独に抗い続けているように見えました。その象徴が、ガールフレンドのメアリーとの関係です。メアリーに指輪を渡してプロポーズする時に、フレディは「何があっても外さないでくれ」と言い添えます。

その後もフレディは、メアリーに対し「運命の人だ」「人生をともに歩みたい」と何度となく口にします。

フレディにとってメアリーは、マイノリティである自分をマジョリティの世界に繋ぎ止めてくれる存在であるという風に僕には思えました。

 

フレディがメアリーに対して、自分のセクシャリティをカミングアウトするシーン。

 

「僕はバイセクシャルなんだ」

「違うわ、あなたゲイよ」

 

このやりとりは、ボヘミアンラプソディーという映画を、ひいてはフレディマーキュリー という人物を象徴する会話であると思いました。

ゲイであるとメアリーに認識されてしまうと、一緒に人生を歩む理由がなくなってしまう。それはフレディにとって孤独を意味する。

しかし、クイーンがバンドとして成功する一方で、フレディはメアリーにボーイフレンドを紹介されてしまいます。指輪をつけていないことをフレディが聞くと、メアリーは「失くさないようにしまってある」と答えます。ここからフレディは本格的に自分を見失っていったように見えました。

出自、成功者、セクシャリティとマイノリティの極地に立ち、誰よりも強い孤独を感じ、さらには不治の病に冒されたフレディ。

そしてライブ・エイドへ!

映画ボヘミアンラプソディーのもっともエキサイティングなシーンが、最後のライブ・エイドのシーンであることに異論はないでしょう。ここまでの畳み掛けるような孤独と絶望から、ライブへ向かうカタルシスが、この映画を傑作たらしめていると僕は思います。

孤独と絶望の淵に立ちながらも、クイーンのボーカルとしてライブ・エイドの舞台に立つことを選んだフレディが、75,000人を前に激唱します。

狂気をも思わせるようなパフォーマンス(ピアノの前に座った時のラミ・マレックのイっちゃってる目の演技!)で会場を沸かせるフレディ。

75,000人の人々はフレディの声に、一挙手一投足に合わせて熱狂します。ライブ会場にいない人々も、フレディの歌声に飛び跳ねます。今まで離れていった人々も、テレビでフレディの歌声を耳にします。ライブの目的であったチャリティの目標金額は達成されます。

 

この、孤独から一体感への振れ幅!最後のライブシーンに凝縮されたカタルシス

 

フレディはなぜバンドに戻ってライブ・エイドに出たがったのか?

メンバーを説得するのに「死ぬその日まで後悔することになるだろう」と告げたくらいでその理由は、あまり描写されていないように見えました。

不治の病に冒され死を覚悟し、生きた証を残したかったのかもしれない。

父の教え「善き思い、善き言葉、善き行い」を成し遂げたかったのかもしれない。

それともただ稀代のロックバンドであるクイーンのボーカルを全うしたかったのかもしれない。

 

最後、ライブで演奏される数曲が、フレディの心境を演出しているように見えました。

Radio GaGaは、消えゆくものとフレディ自身を重ね合わせているように聞こえ、Hammer to Fallは来るべきその時を暗示しているようにも聞こえます。

そして、最後の曲「We Are the Champions」でマイノリティ中のマイノリティ、たった一人孤独の淵に立たされてきたフレディはこう歌い上げます。

 

「俺たちの勝ちだ!友よ」(We are the champions - my friends ) 

 

映画の中で丹念に、マイノリティの強烈な孤独に苛まれ続けたフレディ・マーキュリーの様子を描写しておいて、最後の最後に、世界中に向けて「俺たち全員チャンピオンなんだぜ!」と歌い上げたのです。

 

感想

「これだけヒットしたんだからそのうちテレビでやるでしょ」って思ってる人、すぐ映画館行こう。たぶんまだ間に合う。

ライブシーンの迫力は劇場で見たほうがもちろんいいけどそれだけじゃなく、ラミマレックの演技が良すぎる。「妊娠おめでとう」っていうシーンとか、病名告げられて俯くシーンとか、電気スタンドをつけたり消したりするシーンとか。

そして何より曲がいい。当然全編通じてクイーンの曲が使われているんだけど、いちいち感情揺さぶられる。映画見終わってからクイーンのアルバムしか聴いてない。普段洋楽を全然聴かないうちの奥さんが延々クイーン聴いてるから。劇場の音響で曲を聴くだけでも価値があるのに、物語と構成のとんでもなさよ。ああいい映画だった。もう一回観に行きたい。

 

孤独もマイノリティも超えて歌い上げる孤独のスーパーヒーロー、フレディ・マーキュリーLGBTの権利やや個人主義が取り上げられる今の時代に映画のテーマとして取り上げられるのは必然だと思いましたし、映画が大ヒットしている事実が世の中の孤独感を反映しているのかなとも思いました。

セクシャリティはデリケートな話ですし、小難しいことを語るつもりはありませんが、マイノリティが抱える孤独の一端を感じることができたのも、この映画に出会ったことで得られた良いきっかけの一つであるように思いました。

 

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5分でわかる『転職の思考法』:置かれた場所で咲くのではなく咲く場所を探せ

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著者、北野唯我氏はハイクラス対象の人材ポータル「ワンキャリア」の編集長。
 
本書について、あとがきでこう述べています。
 
「なぜ、この本を書いたのか?」と問われたら、私はこう答えます。
全ての働く人が「いつでも転職できる」という交渉のカードを持てば、結果、今の職場も絶対によくなると確信しているから。

 

本文はストーリー仕立てで、主人公の青年が凄腕コンサルタントに転職の思考法を教わるまでを追う形式になっていますが、その作中でもコンサルタントがこう話します。
 
『辞められない』という思い込みの檻の中に閉じ込められたら、どんな人間も必ず自分に小さな嘘をつくことになる
 
勘違いするな。いつ辞めてもいいや、と中途半端に向き合うんじゃない。選択肢を持った上で、対等な立場で相手と接するんだ。
 
選択肢を失った瞬間、仕事は窮屈になる。

 

このように。「選択肢」を持つことが強みになると説かれており、本文中ではその選択肢を獲得するための「思考法」が描かれます。
 
タイトルを一見すると転職のハウツー本のように思えてしまいますが、本書で語られているのはキャリア形成の考え方。転職を考えていなくても、会社に身を置く組織びとであれば身につけておいて損はないと思いました。
 

転職の思考法の鍵は「ポジショニング」

 
さて、転職の思考法とは、どういったものになるのでしょうか。
これも作中のコンサルタントが語るところを引用すると、
 
「特別な才能を持たないほとんどの人間にとって、重要なのは、どう考えても、どの場所にいるか。つまりポジショニングなんだ。そしてポジショニングは誰にでも平等だ。なぜなら、思考法で解決できるからな」
 
特別な才能を持たない我々にとっては、どこにいるかこそが重要だと言います。では、咲くべき場所とはどこなのかというと、本文最後に、こうした結びの言葉が書かれています。
 
「伸びている市場に身を置け。そのうえで、自分を信じろ」
 
つまり、伸びている市場にポジショニングすることが転職の思考法のコアになると語られます。それを踏まえた上で、どう会社を選ぶかについては、3つの軸が提示されます。
 
  • マーケットバリュー
  • 働きやすさ
  • 活躍の可能性
 
マーケットバリューという言葉は作中に何度も出てくるキーワードです。
 
自分が身を置くべき伸びている市場(マーケット)において、自身が発揮できるバリュー、すなわちマーケットバリューを理解することこそが肝要であると。
 
それはそうですよね。どこに身を置くのかを考えるためには、自分がどこであれば実力を発揮しバリューを提供し対価を得ることができるのかを理解して置く必要があります。
 

自分のマーケットバリューの測り方

 
それでは、いかに自分のマーケットバリューを理解するのか?マーケットバリューは3つのポイントに分類されます。
 
  • 技術資産
  • 人的資産
  • 業界の生産性
 
技術資産は、自分が持つ専門性と経験です。文中では、「大事なのは、他の会社でも展開できるかどうか?」と言われます。つまり、汎用化できる自分の武器となる資産と読み替えて良さそうです。
 
専門性とはほぼ職種とニアリーイコールで、例えば、「法人営業の新規開拓のスキル」がこれに当たります。
経験とは職種に紐づかない技術で、例えば「プロジェクトリーダーの経験」がこれに当たります。
 
続いて人的資産は、仮に転職したとして、「あなた自身に」仕事をくれるような人の繋がりのこと。人脈と読み替えてOKでしょう。
 
補足的に、キャリアの中でこれらの資産を身につけていくタイミングとして、文中では「20代は専門性、30代は経験、40代は人脈」と語られます。
 
即ちは、経験は専門性に代え難いと。専門性は誰でも学べば獲得できるが、経験は汎用化されにくい技術になりうる、と。
 
得てして、面白い仕事は専門性の高い人間回ってくることになり、結果として得難い経験が身につきます。そういった意味で、まずは専門性ありきで身に付けることがキャリアの順番として「得」なのです。
 
最後に、もっとも重要視されるのが、最後の業界の生産性です。
 
技術資産と人的資産をいかに高く装備していようと、そもそもの産業を間違ったらマーケットバリューは絶対高くならないと断言されています。マーケットバリューは業界の生産性にもっとも影響を受ける、とも。
 
つまり、マーケットバリューを高くするには伸びている市場を見極めることがもっとも重要である、ということになります。ここで、「どの場所にいるか(ポジショニング)がもっとも大事」という話に繋がってくるわけですね。
 

身を置くべき、「生産性の高い業界」をどう見極めるか

 

業界の生産性について、文中では「エスカレーター」と表現されています。
上りのエスカレーターのように、放っておいても勝手に売り上げが伸びていくような業界が、生産性の高い業界であると。
一方、下りのエスカレーターのように利益を削って競合がシェアを奪い合っているような業界を、生産性の低い業界と表現されています。
 
自分が登っていくことを考えたとき、上りのエスカレーターに乗るべきか下りのエスカレーターに乗るべきかは自明ですね。
 
では、どの業界が「上りのエスカレーター」に当たるのか?
それを見極めるためには仕事のライフサイクルを見よと説明されます。
全ての仕事にはフェーズがあり、いつか終わりを迎えます。そのフェーズを見るための軸は、「椅子の数の多さ(雇用の数)と代替可能性の高さ」です。
 
文中では各フェーズをこう名付けています。
 
①ニッチ→②スター→③ルーチンワーク→④消滅
 
仕事が汎用化されきって、人的資源を投下すればなんとかなるような状態(ルーチンワーク)になっている場合には、業界の生産性が低く極まっている状態であり、一方で、椅子(雇用)が少なく、代替可能性が低いニッチな市場こそ、伸びていく市場であると語られます。
 
ニッチの業界は、今でいうと人工知能やIoTの業界になるでしょうか。
 

「最強の思考法」ピボット型のキャリアとは

 
さて、ここまでみてきたように、転職の思考法とは、自分の持っている資産を伸びている業界に投下することだと言えそうです。そして、伸びている業界とは、仕事のライフサイクルの中で、雇用が少なく代替可能性が低い業界のことであるということでした。
 
こうなると、一つのジレンマが生じます。人生100年時代と言いますが、仕事人生は多くの人にとって少なくともあと数十年は続きます。一方で、仕事にはライフサイクルがある。
 
当然のことですが、ずっと伸び続ける業界はなく、永遠に伸び続ける会社は存在しません。つまりは、まさにいま伸びている業界であれ、コモディティ化ルーチンワークのフェーズになることが、半ば約束されているのです。
 
よって、一度転職して伸びていく業界に身をおいたとしても安心はできないということになります。それでは、どうすればいいかというと、文中では「ピボット型のキャリア」が提唱されます。
 
つまり、業界の賞味期限が切れる前に新たな強みを手に入れ、軸となる強みを掛け合わせることであると。
自分の強みを正しく認識し、それを軸として、周期的に伸びている業界に身の置き場所をピボットすることこそが、「最強」であると説明されています。
 
絶対やってはいけないことが、10年前と全く同じサービスを同じ顧客に選ぶ会社を選ぶことであるとも言われています。
 
ここで意識しておきたい重要なポイントは、転職を単なる職場の変更ではなく、大いなるキャリア形成の中で、いま自分がどこに身を置くのが最適であるのかを見極めることだと言えるでしょう。
 

感想

 
本文中はストーリーで展開しましたが、中盤若干冗長でした。ストーリー仕立ては入って来やすい反面、読み物としては退屈になりがちですね。
 
「このまま今の会社にいていいのか?と一度でも思ったら読む」というタイトルは実は秀逸で、そんなこと思わない人はこの世の中誰一人としていないでしょう。つまり本書の対象は、転職したい人ではなく、著者があとがきでいうように「全ての働く人」であると示唆しているんですね。
 
この記事では割愛していますが転職エージェントの活用法や注意点、面接で聞くべきポイントなども紹介されており転職の指南書として使えそうです。
 
また、文中で語られていた、仕事を面白がれる「to do型とbeing型」について非常に示唆に富んだ内容だったので、機会があれば別の記事として紹介したいと思います。