心に刻まれた

 様々な相談を受けることがありますが、一瞬で気が楽になったり、考え方を変えることはできないものです。目から鱗が落ちるという表現がありますが、現実的にはなかなかそうはいかないものです。私なども20年も前の失敗や店員の態度まで憶えているものです。どのようなものであれ心に刻まれたものは残るのです。ですが、体の古傷はたまに疼くことがあっても、いつも痛いわけではなく、完治しているのに思い出したかのように疼くものです。心もそのようなものだと思うのです。


 すぐに楽になりたい忘れたいと思うものですが簡単ではありません。長く付き合っていかなければなりません。それはシワのようなものかもしれません。深いシワは苦労や苦悩そして人生の深さを象徴しているように思うのです。簡単には消えない失敗・怒り・悲しみなどは心に刻まれるシワのようなものです。それが人生の深さにつながるのではないかと思うのです。きっとこの経験が自分を大きくしてくれる。そう信じて付き合っていきたいものです。

 

苦しい時の頑張り

 大谷選手は様々なことがありながらも順調に活躍されているようです。海外での生活であり頼みの綱でもあった通訳がいなくなり、それでも結果を求められるプロの世界で期待に応えるのは大変なことだと思います。メディアには出ない苦悩や努力があるのでしょうが、言い訳をせず今やるべきことに向き合う姿勢は素晴らしいと思います。


 誰しも万全の状態で日々の生活を送れるわけではありません。体の不調や家族の心配をはじめ長い人生においては何事もなく専念できる期間のほうが短いのかもしれません。ですが、様々な不安材料があるなかでも最善を尽くしていかなければなりません。今日は調子が悪いので明日から頑張るというのでは、いつまでも頑張るべき明日は訪れないかもしれません。


 たとえベストではなくても、今できることは今やらなければなりません。その積み重ねが大事なのです。部活だけではなく、何事においても苦しい時に頑張ったことが自分を支えてくれるのです。できな言い訳は無限にあります。言い訳に負けず一歩すすむということが、その人を強くしてくれるのです。どこか遠い世界の偉人だけではなく、誰もが日々自分と戦っているのです。

 

枯渇の時代に

 住職になれば御堂や境内地を所有することになりますが、それだけではなくそれまでの借金や評判や人間関係も継承することになります。先代の評判が悪かったりすると、そのしわ寄せが新住職にくることがあります。今までの不満が若い新住職に向けられるのも、人の世というものです。これに対して先代を責めたくなりますし、文句を言う人間への怒りもわきますが、じっと堪えて自らの覚悟を磨くしかありません。


 ゼロからはじめる苦労もありますが、負債や不評を引き継ぐマイナスからの苦労もあります。自分の責任ではない苦労や苦悩は大変ですが、それを投げ出すことなく、逆に自らの信用や信頼に変えていかなければならないのです。そうして初めて継承したいといえるのかもしれません。ますます家業や事業を継承するのが大変な時代になりますが、それはさらに覚悟を求められるということです。


 覚悟さえあれば必要なものは後からついてきます。多くの人が覚悟ならあるといいますが、すぐに揺らぐような覚悟では意味がありません。相当な覚悟があってこそ、相当なことができるのです。何を言われようが、恥をかこうが失敗しようが、やり遂げるという覚悟は想いの強さによるものです。人の想いが枯渇している現代にあって、より強き想いが求められているのです。

 

腐敗政治の原因

 政治の世界では様々な問題や不祥事が起こっています。この原因は二大政党になっていないことにあると思うのです。もし与党が国民の信頼を失った時、それに代わる野党がなければ与党がそののまま国政を運営し、同じような不祥事が続くのです。野党に転落するかもしれないという危機感や緊張感がないため、自らを律するとか正すといった自浄作用が失われているのが現状なのです。


 物事が拮抗した状態はストレスともなりますが必要なことだと思っています。何事においてもライバルがいるから頑張れるということがあります。お互いに高め合うという関係が政治の世界にもあれば、日本はもっと発展していくことでしょう。人間は安定してしまうと停滞や衰退がはじまります。楽ができない安心できない環境も必要なのです。


 自分を律するとか高めるということは一人では難しいこともあります。仲間やライバルがいたり、追い込まれた状況にあれば、自然と頑張ることができるのです。スポーツの常勝校は選ばれた選手がしのぎを削り、また優秀な監督やコーチ陣がおり、さらには寮生活などで没頭できる環境があるからこその常勝なのです。切磋琢磨の環境が一人では到達できない世界へと導いてくれるのかもしれません。

 

胸に刻む生活

 【刻石流水】かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻めという言葉があります。相手に対してはいつまでも恩着せがましくならないように忘れてしまえということ。逆に相手から受けた恩はけして忘れることなく恩返しに励めということでしょうか。人の世にあっては逆になることが多いための格言です。人間の徳とは報恩感謝の気持ちから生まれるものであり、大切な言葉ではないかと思うのです。


 昔は大切なことは石に刻めといわれました。燃えることなく、腐ることもない石は後世に伝える格好の素材だっのでしょう。当山の境内地にも3基の碑文があり、歴史や当時の願いを今に伝えています。私は日々の生活を胸に刻んでいくことも大切だと思うのです。慌ただしく過ぎてしまう日々にあっては、意識しないと何も残らない一日になってしまいます。


 今日はどんな一日だったのか。何を学んだのか、何に感動したのか、何に感謝したのか、何を反省したのか。今日一日を確かなものにしていくためには、日記や帳簿だけではなく、人として得たものや失ったものについても考えてみることです。信用を得たのか失ったのか。失敗から学んだのか、自信を失っただけなのか。こういった反省が成長の糧となり、より良き明日につながっていくのではないでしょうか。

 

内面の充実とは

 些細なことにこそ、その人の個性や品格そして人間性が表れると思うのです。言葉ひとつでも配慮や無関心を感じますし、センスや教養を感じることもあれば、その逆の場合もあります。また、些細な行動にも、その人の信念や情熱を見出すこともあれば、偽善的態度に落胆することもあります。言葉や行動は人間の内面を表す鏡のようなものなのです。


 些細なことであるほど誤魔化すことができないものです。一日中すべての言動に注意を払うことはできません。そのため疲れている時や忙しい時ほど本心が様々な形で外に出てしまうのです。気づいていないのは本人ばかりで、周囲が引いてしまうこともあります。やはり偽ろうとするのではなく、内面を磨き充実させていくしかありません。


 いきなり大きなことはできないものです。積小為大といいますが、日々の小さな積み重ねこそが大きな力となります。些細なことを疎かにすることなく、心を込めていくことです。内面の充実とは人や社会を想う気持ちを持つこと、知識ではなく智慧を求め学ぶことだと思うのです。相手へと向かう慈悲、自分へと向かう智慧のバランスによって、偽ることなき人間性が育まれるのではないでしょうか。

 

時は命なり

 時間だけは誰にでも平等に与えられているといいます。たしかに今日一日という短期的に見れば同じ時間を持っています。その時間の使い方によって大きな差が生まれるわけです。ですが、人生という長期的な視点で考えれば不平等なものであり、誰がどれだけの時間を与えられているのかも分かりません。

 

 私達は生まれた時、それぞれに人生の時間を与えられました。その時間をどんどん使っていくわけです。増えることはなく、減っていくばかりです。しかもお金とは違って時間は見えないため、どれだけ使ったのか、どのように使ったのかも分かりません。日々、自分が持つ時間を切り売りして生きているのですが、その実感がありません。

 

 時は金なりといいますが、時間は無料でも無限でもありません。だからこそ大切しなければならないのです。自分の持つ時間を命と考えることができれば、時間の使いかたも違ってくるかもしれません。時間を無駄にすることは、命を無駄にしているともいえるのです。小銭でもコツコツ貯めれば大金となります。時間も大切に使っていれば、それだけ人生が豊かになっていきます。新年度を迎えるにあたり、時間に追われる生活から、時間を楽しむ生活に切り替えていきたいものです。