創価の火を消して

創価学会の家に生まれ、若い時はそれなりに学会活動をしてきたが今はヤル気全く無し。日蓮の教えの真実に迫りたい。

つづき 三身と三諦

三身について 
法身=己心の釈尊=真如の仮名である妙法蓮華経 
報身=法華経28品を説法する釈迦牟尼仏 
応身=十方諸仏を代表する多宝如来 
摩詞止観において 
一、菩薩・仏は縁因を相、了因を性、正因を体としている。 
二、応身は縁因、報身は了因、法身は正因より生ずる。 
三因を相・性・体、または仏の三身にあてはめています。 
この三因仏性は、真理の面からいえば、空仮中の三諦となる。 
正因仏性は、宇宙法界のすべての事象と存在に、十界互具・一念三千の中道の理が具しているので中諦となり、それが縁によって仮りに色々な形で現実の姿として表われるので、縁因仏性は仮諦となると。 
覚りの智慧である了因仏性は、それら事々物々に対して皆、正因仏性を覚るという平等性の意義から空諦となる。 
正因仏性は体にして中諦と捉え法身として己心の釈尊と観る。
了因仏性は性にして空諦と捉え報身として法華経と観る。
縁因仏性は相にして仮諦と捉え応身として爾前権経と観る。



創価学会は日蓮の教えに忠実なのか?

まず日蓮本仏論

日蓮が久遠元初の自受用報身如来であるというのが日蓮正宗創価学会の言い分。

それは、日蓮宗との違いを出したいが為と、成仏を説く日蓮大聖人が仏であるに違いないとの我見による論理の組み立てでしかない。

久遠元初がもしあるとするならば、また日蓮大聖人が自受用報身如来であるならば、なぜ法華経において釈尊により上行菩薩が結要付属を受けたのを自身の身に当てはめてるのか?疑問であり、ここで足りないものが出てくる。

応身である。

応身とは三身の一つで、

観心本尊抄

「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり、」

という御文がありますが、

この三身とは

妙法蓮華経見宝塔品第十一に

「爾の時に多宝仏・宝塔の中に於て半座を分ち釈迦牟尼仏に与う、爾の時に大衆二如来の七宝の塔の中の師子の座の上に在して結跏趺坐し給うを見たてまつる、大音声を以て普く四衆に告げ給わく、誰か能く此の娑婆国土に於て広く妙法華経を説かん、今正しく是れ時なり、如来久しからずして当に涅槃に入るべし、仏此の妙法華経を以て付属して在ること有らしめんと欲す」


これに依り

法身=妙法蓮華経

報身=釈迦牟尼仏

応身=多宝如来

の事で、三身が宝塔内に収まっている状態と云うのが釈尊ではないかと読み取れる。

そして、八宗違目抄にて日蓮

仏の三身と衆生の仏性を下記のようにお考えであった。


        ┌ 法身如来…正因仏性


仏=三身       ───┼ 報身如来…了因仏性衆生=三因仏性

           └    応身如来…縁因仏性


衆生の三因仏性とは創価学会の御書講義には、

正因仏性は一切衆生が本然的に具えている仏性をいい、了因仏性は法性・真如の理を照らしあらわす智慧をいい、縁因仏性は了因を助け正因を開発していく縁となるすべての行いのことになる。


その働きとして縁因は了因を助け、了因は正因を顕す。更に正因より勝れた縁因を起こすというように、三因仏性は互いに相由って、よく仏果を証する妙因となる。


この三身が輩となって体となす訳である。


つづく