頭の中が忙しい

自閉症スペクトラムと付き合いながら今日も育児をがんばる日記

地元の名士だった実家との縁切り

先日、兄弟の結婚式に参列してきました。

私の実家は超田舎で代々商売をしていて、今度結婚した兄弟はその後継ということで、それはそれは盛大な式でした。

久しく会っていなかった、たくさんの親戚の人や商売関係の人たち、近所の人たちと再会しました。

それで感じたのは、私が子供の頃に思っていたよりもみんながとてもいい人たちだということでした。

このブログでは何度か書きましたが、両親と私たち兄弟はもともと地方都市に住んでいて、私が中学生のころに今の実家のある田舎に引っ越し、父方の祖父母と同居することになりました。

東京出身の母は言葉も風習も違う田舎の文化に嫌悪感を抱いたようで、私たちにも「ここの人たちはおかしい。こんな土地に染まってはダメだ」と繰り返してきました。


一方で、代々その土地で商売をしてきた家柄の為、私たち家族は地元でちょっとした有名人でした。

その為、学校でもふらっと立ち寄ったコンビニでも、どこにいっても「〇〇家の人」として扱われました。

大げさに言えば、皇室とか歌舞伎役者の家のような扱いをされていたように感じます。


だから〇〇家の人間として恥を晒さないように常に緊張感がありました。

そんな背景があり、私は大人になるまで無意識のうちに地域の人や親戚たちを「愚かな田舎者」として認識していました。

だから学校の成績では誰にも負けるわけにはいかなかったし、地域のお祭りや冠婚葬祭といったイベントごとにもきちっと着物を着て参加し、「さすが〇〇家の子供だ」と言わせないといけませんでした。


今回の結婚式は、大人になり、自分自身が家庭を持って初めての地元でのイベントでした。

実家と物理的にも心理的にも距離ができて、改めて地域の人たちと関わってみると、拍子抜けするほど温かい人たちばかりだということがわかりました。

そこで初めて、私は親というフィルターを通してしかこの人たちと関わってこなかったんだと気づかされました。

一旦フィルターが外れてしまうと、礼儀を欠き、段取りが悪いのは寧ろ私の実家の方だということがよくわかってきました。

結婚式では数百人の出席者とお祝いに来てくれた近所の人たちを待たせて自分たちが遅刻してきたし(しかも会場は自宅なのに…意味がわかない)、披露宴の仲人の挨拶のあいだ両親だけが居眠りをしていました。

地元の民謡披露のあいだは、みんなが手拍子を打って一緒に唄っているのに、母だけが関係ない話を私にし続けてきました。

私はイライラしながら親たちを嗜めようとしましたが、親戚や近所の人たちがお酒を注ぎに来てくれたり、世間話で場を繋いでくれたり、さりげなく助けてくれました。

そこでようやく、自分たちの家は「名家」とは名ばかりで何一つ満足にできていなかったこと、それを地域の人たちがフォローしてくれていたことを悟りました。

親たちの無作法は自覚がない為、忠告をしてもまったくの無駄で、地域の人たちもそれをよくわかっているようでした。それでも敢えてへりくだって接してくれていたことで商売や地元の秩序を維持してくれていたことを知りました。


そのことに気づいて、私はやっと親と縁を切ることを決意できました。

鬱になり、自分の親が毒親かもしれない、と思い始めて何年も経ちましたが、可哀想な親をなんとかしてあげたい、私が見捨てたら悲しむにちがいない、とどこか踏ん切りがつきませんでした。

私が接し方を変えれば、本当の優しい親に戻ってくれるんじゃないか、愛してもらえるんじゃないか、なんて信じようとしていました。

でもそれは全くの無駄だったと割り切ることができて、今は清々しい気持ちです。


しかし、ようやく親のフィルター抜きで接することのできるようになった近所のおっちゃんや親戚のおばちゃんとは、また会いたい、もっともっと話してみたい、と今回お別れするときに本心から思いました。

しかし実家と疎遠になるということは、自然と地元とも疎遠になるということです。

その点だけは寂しいし、心残りです。

また今回のことで、子供時代の人間関係って親の影響が本当に大きいんだということを強く感じました。

親がまともだったら、地元のことも好きになれたかもしれないし、もっと豊かな子供時代を送れたかもしれない、と思うと悔しいです。

でも今更どうしようもないし、せめて自分の子供にはそんな思いはさせないようにどうやっていけばいいかなぁ…と考えているのでそのこともまた記事にしたいと思います。

ママチャリがダサくて不便なのも少子化の一因だと思う

最近電動ママチャリを探している。
子供が保育園に通い出したら通園に必須だからだ。

しかし、街で見かける子連れ女性が乗っている自転車ってはっきり言ってダサい。

やたら可愛らしい車体にゴテゴテとチャイルドシートやら雨避けカバーやらをつけて、カラフルなヘルメットをかぶった子供達を乗せて、必死に自転車を漕ぐ姿は所帯染みていて、自分はこうはなりたくないな…と思っていた。

だから最初は、普通の電動自転車にチャイルドシートだけつけて乗ろうと思っていた。しかし、色々調べるうちにどうやら安全基準の適合車というのがあって、それを満たさないと子供を2人乗せてはいけないらしいということがわかった。

最終的に子供が何人になるかはわからないけれど、絶対に一人っ子!と決めていない以上、一応2人乗せられる自転車にしておきたい。

だから基準を満たした自転車にせざるをえない。

そうなると、驚くほど種類は限られる。

こんな感じの、タイヤが小さくて胴体が長いモデルが大半だ。

確かに最近はデザインもこだわったものが多くて、この画像の自転車も可愛いのは可愛い。だけど、いかにも「ママってこういうの好きでしょ!おしゃれにしといたよ!」という感じがして嫌だった。

それでタイヤが大きくてぱっと見普通の自転車に見えそうなものがないか探してみた。

それで見つけたのがこれだ。なんとおしゃれママ雑誌VERYとのコラボ。いいじゃんこれにしよう!と決めかけたけれどネックがあった。まず値段が高い。そしてタイヤが大きく高さがある分子供を乗せるのが大変らしい。そして、最大のネックが前に子供を乗せるとカゴがつけられないということ。

ママチャリのことを調べ始めて初めて知ったのだが、子供が2歳くらいになるまでは後ろ乗せはできないので前に乗せるチャイルドシートが必要になる。

こういう、あらかじめ前かご部分がチャイルドシートになったものを買うか、

フロントシートを買って後付けするのだが、車種によってはフットレストとカゴが干渉してしまう。VERYコラボはまさに干渉するタイプなため、小さい専用のカゴにするか、カゴなしにするか。

ママチャリなんて子供を乗せて買い物行くためのものといっても過言ではないのに、それはない。

(正確には専用パーツでカゴを前にずらしてつけることはできるみたいだけど…ママチャリなのにその一手間が必須なのはなんだかなぁ)

子供が2人以上になるかもしれない、とか、買い物して荷物もつみたい、とか、2歳未満の子も乗せたい、とか、条件を加えていくと結局街ゆくママたちが乗っている所帯染みたママチャリに行き着くんだな…と思い知った。

全くテンションが上がらない買い物なのに15万円近くする。

しかも子供たちを乗せて走るのなんてほんの数年なのに。

そもそも子供が2人以上産まれる保証だって全くないし、何歳差になるかだってわからないのに。

ママチャリなんて選択肢がめちゃくちゃ少ないのに、不確定要素が多すぎて、決めるのがとても難しい。ものは試し!と適当に決められる値段でもない。

チャイルドシートだって、ベビーカーだって同じような状況だ。

ただでさえ子供を連れての移動は大変なのに、法律や規則がどんどん増えて、必要な道具はどんどん重装備になっていく。

結局、各家庭が金銭的な負担を強いられるし、子供にチャイルドシートを装着する面倒さとか無駄に重装備で重たい自転車を漕ぐ大変さとかは母親たちが引き受けないといけない。

こういうことが積み重なると、「子供は1人でいいかな」と思うのが合理的で自然な判断と思える。


ママたちのことを考えました☆という謳い文句はママチャリだけでなく、車とか、いろんなところで見かける。

ママたちのことを考えてくれるのはありがたい、ありがたいけれど、それを企画した人たちに「じゃああなたたちはそれに乗りたいですか?」と聞きたい。

法律やルールを決めた人たちは、一度でもママチャリやファミリーカーで子供の送迎をしながら通勤をしたことがあるのかと言いたい。

私たちはママという生き物として突然湧いてきたんじゃなくて、普通の大人なんだから。

ママたちに特化したおしゃれ☆で高性能な自転車を極めてほしいんじゃない。

普通の大人が違和感なく乗れる普通の自転車が、手に入りやすい価格になってくれることの方がよっぽどありがたい。

ゴテゴテの安全適合車は誰も好きで乗るわけではないんだから、行政が子育て世帯にレンタルしてくれるとか、地域でシェアするシステムができるとか、なんとかならないものかなぁ。

子供への愛をポエムにしたり空の写真を他人に送りつける人の心情

SNSだけでうすーく繋がっている、学生時代の友人がいる。

彼女は安めぐみのような外見で、話しているとほわーんと癒し系で、学生時代からよくモテた。

それでいて勉強はよくできて、東大を卒業した。

それでもキャリアを追い求めることなく、あっさり結婚して今は子育て真っ最中みたいだ。

そんな羨ましい限りな人生を送ってきた彼女が、最近ちょこちょこポエムを投稿する。


きょうもムスメを叱りすぎた
いっぱいいっぱいなママでごめんと
ムスメをだきしめて
ママはムスメがだーいすきだよ
っていうと
ムスメもママがだーいすきだよ
と小さな手で私をだきしめてくれた
しあわせをありがとう
だいすきだよ

みたいな奴だ。

子育てでついイライラしてしまうことも、それで自己嫌悪に陥ることもある。子供に励まされることもある。シチュエーション的にはわかるのに、このポエムにはなぜだか共感するどころか、モヤっとしてしまった。

なんで平仮名連発?とかわざわざSNSにあげなくても…とか、ツッコミ所は色々ある。

でも私がモヤっとしたのはそこではない。

すごく賢くて仕事もできたはずの彼女が、こんなありふれた「いいママらしいポエム」を書いたことにがっかりしたのだ。

彼女は彼女なりに今幸せなんだろうけど、積み上げてきたキャリアを活かしきれていないもどかしさもあるんだと思う。

東大時代に出会ったスーパーエリートたちのうちの誰かと結婚していたら…と違う人生を空想することもあるんだと思う。

それでも、育児に追われてボロボロになりながら、ときには色んなものを諦めながら、繰り返される日常に折り合いをつけるには「大事なのは、キャリアでもお金でもない、愛だよね」「私は愛選んだの!幸せなの!」と主張するのが手っ取り早い手段だったんじゃないかと思う。

確かに自分の子供はかけがえのない存在だ。
何より大切にしたくなる気持ちもわかる。子供のために頑張る姿も美しい。


だけど、子育て期間って幸せな時期であると同時に、しんどい時期でもある。幸せを感じることもたくさんあるけれど、こんなはずじゃなかった!なんて思うこともたくさんある。

「子供を愛しているから私は幸せなの!」と宣言して、思考停止してしまうのは楽だ。

だけど、諦めなくてはいけなくて悲しかったこととか、本当はやりたいのにできないこととか、たくさんあったはずだ。そんな自分の気持ちを無視してしまうと、ゆくゆくは自分で自分を苦しめるだけだ。

そんなモヤモヤをママ友に話したら、案外わかるー!と共感された。

SNSにポエムと並んでありがちなのが写真の送りつけらしい。

ある人は、急にLINEで空の写真とか子供と自分の影の写真とか送ってくる友人がいる!と言っていて、その場合どう返しているのか聞いてみた。

すると、最初は意味がわからなくて、クイズかな?と思い選択肢が送られてくるのを待っているうちに既読スルーになってました★という強者すぎる回答が返ってきた。

結局、育児ポエムをSNSにあげたり、抽象的な写真を送ってくる人って疲れているんだね、という話になった。

ボロボロなときに「子供を愛しているから幸せ!」の一点張りで突破しようとするよりは、正直に「辛い」と対面で言える方が私はいいなと思う。

ごみみたいな子供服のお古問題

親戚から、子供服のお古が沢山送られてきました。
とてもありがたいのだけど、実際に着せられそうなものは3分の1くらいしかありませんでした。

3分の1は単純に私の好みではないものや、サイズが小さすぎるもの。

そして残りの3分の1は傷みが激しいもの。

洗濯を繰り返して毛玉だらけになったTシャツやゴワゴワになったフリースは、どうして捨てずに送ってきたのかな?元々高いもので捨てるのがもったいなかった?と思ってタグをみると見事にどれもユニクロでした。

わざわざ梱包して、送料を払ってまで、どうして着古した安物を送るのか。

膨大な古着の整理をしながら考えてみました。

①思い出を捨てられない
子供の成長は本当に早いので、ほんの数ヶ月前に着ていた服でも「こんなに小さかったんだ〜」としみじみすることがあります。
またお祝いなんかで服をいただくことも多いので、誰々からもらったという思い出もセットで付いてきたりします。
だから捨てるのは寂しくて、誰かにもらってもらおうと思うのかも。

②汚れに麻痺している
子供は常に鼻水やよだれを垂らしたり、食べこぼしたり、本当にしょっちゅう洋服を汚します。

それから、着せやすい服って結局限られてくるので、お気に入りは毎日のように洗濯することも。その分、短期間で毛玉や色あせが進みます。

この合わせ技で、親たちはわが子の洋服の汚れに対し感覚が麻痺してしまっているのかもしれません。


③じっくり仕分ける暇がない
子供がいると毎日の家事を回すだけでも精一杯です。その中で古着をより分ける暇が捻出できないから、とりあえず着られなくなったものはまとめてどーん!と紙袋につっこむ。

袋ごと送る。

ボロボロの服が入っていてもそこに大した意味はない。

こんなところでしょうか。

わが家としては、ワンシーズンで買う洋服の量は決めて、シーズン終わりには惜しげもなく処分できるくらいたくさん着せる。

洋服をプレゼントするときは、新品にしろお古にしろ、ブランド物だけにする。(単純に生地がよく強度があるので)

という事を気をつけて、困った贈り物をしないようにしたいな〜と考えています。

それにしても子供服ってあっという間に着られなくなるので、自治体ででリユース会をやってくれたらいいのに、なんてよく思います。だけどゴミ同然の服が集まってきたり、断りきれずに要らない服をもらう人がでてきたり、と問題も起きそうです。

実際リサイクルショップでは子供服の買取不可のところも多いです。

しかし最近とあるブログで見たのは、要らなくなった服を家の片隅でお店のようにディスプレイしておき、遊びに来た人がお客さんになったつもりで選んで持ち帰る、という方法。

ディスプレイの手間やセンスの問題はありますが、貰う側が欲しいものだけ持ち帰れるのでいい方法だと思います。

支援センターなんかでも不要な服を一括して受け付けて、スタッフがディスプレイをし、欲しい人は一点100円とかお金を払って持ち帰る、みたいな仕組みができたら上手く回るかも。

売上金で売れ残りの洋服の処分代と、スタッフの交通費くらい出せれば継続できないかなぁ…と妄想が膨らみます。

忘れる方に悪気はなくても忘れられた方は傷ついている

育児のやり方について、夫に事細かに教えても、すぐに忘れられてしまう、ということが度々あってイライラしてしまいます。

例えば、電子レンジで離乳食用のふかし芋をおいしく作る方法を見つけたとき、私は夫にもできるようになってもらおうと思いました。

それで夫の休日に、一緒に電子レンジの前に立ち、芋を濡らしてラップして、ダイアルを9番に合わせて、スタートボタンを押す、と指差し確認をしながら丁寧に説明しました。

それから10日ほど経ったある日、夫にお芋ふかして〜とお願いすると、夫はガサゴソと鍋を取り出そうとします。

鍋じゃなくてレンジでやって〜

とお願いすると、夫は「?」という表情。

この間教えたやり方忘れちゃった?

と聞くと、そもそも教えたことすら覚えていませんでした。

さすがにびっくりして、あれ?教えたの覚えてない?と聞くと、曖昧に笑ってごまかすのみ。

芋くらいでカリカリするのも馬鹿らしいと思いもう一度説明しましたが、なんだかどっと疲れました。

百歩譲って忘れてしまうのは仕方ないにしてもせめて謝れよ、とか、忘れるならメモくらいしてよ、とか後から後からイライラが湧いてきました。

しかし私自身、新卒で入った会社では夫と同じようなことをよくやっていました。
その会社はお堅い業界であったため、書類の形式や書き方など本当に細かくルールが決まっていました。

わたしは発達障害の特性のせいか、一度自分の中で意味ないと判断したことについては、脳が拒否するかのように興味がなくなってしまいます。

私の中では、その会社の独自ルールはほとんど意味ないゾーンに入っていて、先輩が懇切丁寧に説明してくれるほど、猛烈な眠気に襲われ全く頭に入りませんでした。

ずいぶん悩んでカフェインを大量摂取したり、立って話を聞いたり工夫もしましたがだめなものはだめでした。


それで、いざ自分で書類を作ってみてと言われると、必ず簡単なミスをするので、何度も注意され、しまいに呼び出しをくらい、人格を否定するような怒り方までされました。

反省する一方で、このくらいのうっかりミスくらいで大袈裟な…と言う気持もありました。

しかし、夫に育児のやり方を教えては忘れられることを繰り返すうち、それがどれだけ相手に失礼だったか痛感させられました。

自分でやれば簡単に終わる仕事を、人にわざわざ説明するのには根気が要ります。それでも相手にミスなく1人でできるようになってほしい一心で、丁寧にわかりやすく教えているのです。

きちんと教えたから、次からは自分の代わりにやってくれるはず、と期待したのに相手が全くできないと、徒労感を覚えて精神的に大きなダメージをくらいます。

更に相手が悪びれもせず、改善する行動も取らないと、馬鹿にされていると感じ怒りが湧いてくるのです。

忘れた方からしたら、こんな些細な仕事くらいミスったからなんだ、という気持ちですが、教えた方にとっては些細な仕事だからこそ一発でできるようになってよ!と言う気持ちなので、溝は深まるばかりです。

私は仕事復帰したとしても、障害特性は変わっていないので、きっと興味のあるなしで仕事の飲み込みにムラは出てしまうでしょう。

ではどうしたらいいのかと考えていて、「教わったら即相手の言った通りにやってみる」ことが大切かな、と思いました。

例えばふかし芋の例だったら、教わったらすぐに一度作ってみる。
書類作成なら、一度白紙をプリントアウトして自分で記入してみる。

手を動かすことで記憶にも定着しやすいでしょうし、何より相手にやる気を示せます。

以前勤めていた会社に、体育界系の後輩が入ってきたことがありました。彼は持ち前の元気の良さで営業はこなすものの、電話応対の際に敬語がなってないとよく指摘されていました。


いくら言われたところで言葉遣いなんて習慣なので急には治りません。しかし彼はコピー用紙に指摘されたNGワードをデカデカと書いてデスクにベタベタ貼って電話応対のときは必ず見ながら話していました。

これによって「気をつけている」と言うことはよく伝わっていたので、みんなから温かい目で見られていました。

夫がもし、教えてすぐに蒸かし芋を作っていたら、コピー用紙に芋のイラストでも書いていたら、イライラどころかほっこりしいただろうな…。

結局教わる、と言うのも一つのコミュニケーションです。

納得いかなかったり、興味を持てなかったりすることも多々ありますが、まずは相手の言った通り動いてみることが、イライラさせない秘訣なのかなと思います。

ママのためのお教室がなんでイマイチなのか考えてみた話

ママ友に誘われて、産後ママのダンス教室やらベビーマッサージやら何度か「お教室」に参加する機会がありました。

どれも子育てを経験した女性が主宰していてるんですが、先生たちは口を揃えて「自分が子育てで苦労した経験から、ママたちが笑顔で子育てできるように応援したい!」と言う感じのことを言っていました。

子供を連れて参加できる教室は、気分転換にもなるし、ママ同士の交流のきっかけにもなるのでそれなりに楽しいのですが、どれも体験に行っただけで続けて通おうとまでは思えませんでした。

それはなぜなのかと言うと、まず第一に「本当にやる意味あるのかな」と思ってしまう講座がすごく多いでんす。ベビーマッサージも読み聞かせも子供は全然興味なさそうで、なんだか「私いいお母さんしてる」と言う自己満足な気がしてしまいます。

また、ヨガとかダンスとか母親のケアメインの教室では、子供たちが泣き出したり、危ないことをしたりするたび中断するので全然集中できません。集中していないから動きも覚えられず、全然できていないのに、先生からは「お子さんみながらだと大変よね〜わかるわ〜」と優しく流されてしまうのでやった気がしません。


子連れだから仕方ない部分も多いけれど、やり方次第でもう少しよくなる部分もあると思うんです。

例えば、子供が飽きないように挨拶とか前置きの説明を手短にするとか。子供が興味を持たなかったところはカットしてプログラムを変えるとか。ヨガやダンスなら「できなくてもいいよ」ではなくて、できていない人のところに行って動きを教えるとか。

素人ながらに色々思いつきます。

でも、こういう教室を主宰している先生って、産前は全く違う仕事をしていて、産後に資格を取って教室を始めた、と言う人がほとんどです。

経験が少ないのに、フィードバックをもらう機会がないからブラッシュアップされていかない、と言うことがすべての原因ではないかと思います。

せっかく熱い想いを持って努力して先生になったのに、なんだかもったいないな〜と思ってしまいます。

集客についても、個人ブログや手作りの名刺とかでやっていて、絵文字ゴテゴテで見にくくて結局日程や問い合わせ先なんかの大事な情報がわかりにくい、なんていう事もすごく多いです。

結局どの教室も、素人くささや野暮ったさが抜けていなくて、そこにコントロール不能な子供に混じることで、お教室ごっこの領域を出られないんだと思います。

それで最近は、もしも地域ごとにママ向け講座の告知と予約を一括管理するポータルサイトを作って、生徒からのフィードバックを取りまとめて先生に伝えるような仕組みが作れたら、「お教室」もどんどん洗練されていくんじゃないかな、なんて妄想を繰り広げています。


フィードバックがないといえば、主婦業全般がそうなのかもしれません。
家事・育児と言っても各家庭で方針も違えば難易度も全然違うのに、なんとなく「みんな大変だよね〜」の一言で片付けられてしまいます。
不味い料理を作っていても、杜撰な家計管理をしていても、他人の目にさらされる機会もなく、家族が文句を言わなければそれで通ってしまうので、長年主婦なのに全然スキルになっていないなんてこともザラです。

ある意味楽なしごとだけれど、それと同時に無駄な努力も多いし、張り合いもないと感じてしまいます。

だからと言って今日の料理は何点、掃除は何点、なんて評価されるのも怖いですけどね。

とりあえず私は有閑マダムになれそうにないです。

引き出物のパウンドケーキが不味くて本気でブチ切れた話

先週末、夫が結婚式に招待されたのですが持って帰った引き出物の中に美味しそうなパウンドケーキが入っていました。

わくわくしながら切り分けて、食べてみると見た目とは裏腹にくそ不味い。それがとても腹立たしくて本気でブチ切れました。

X JAPANYOSHIKIが若い頃にカレーが辛くてキレて帰ったという逸話は有名ですが、後から考えたらそれと同じくらい意味不明に気持ちが昂ってしまい、自分で自分をヤベー奴だなと思いました。


そこだけ切り取るとグルメを拗らせた美味しんぼの登場人物みたいなのですが、そこに至るまでには積もり積もったものありました。


まず、平日仕事の夫に代わり、子連れで銀行に行って新札を用意するのは地味に大変です。そして何でも手を伸ばしてくしゃくしゃにしようとするこどもを制しながら、ご祝儀袋に名前を書くのもこれまた地味に疲れます。

それから、日々100円単位で節約して生きているのに、名前も聞いたことのない女の同期の為に3万円ぽんと出さないといけないのが妙に癪障ります。

そして何より貴重な休日を丸々潰されて、1人で子供の面倒を見なくてはならないのもストレスです。
自分は家でこどもの機嫌を見ながらお茶漬けをかきこんでいるのに、夫は今頃ホテルで食事か、という妬ましさもありました。

それで持ち帰った引き出物を見てみると、一つはカタログギフト。男性用のカタログギフト。

確かにゲストは夫だったんだから、男性向けのプレゼントにするのは配慮が行き届いているのかもしれない。でも、ご祝儀は家計から出してるんだし、私がこどもを見てたから出席できたんだから、家族に還元されるものでもいいじゃないか…。と不満は最高潮。

ちなみに夫は、さっさと自分用のベルトを注文してました。

私のカタログギフトは、アイロン台とか袱紗とか思いっきり日用品に変わったのに。

それで、せめてパウンドケーキを食べて自分の機嫌を取ろうと思っていたところにまさかの不味いパウンドケーキでとうとう怒り爆発となったわけです。

ここまでツラツラ書いた不満はどれも言ってもしょうがないようなことだという自覚はあって、夫には言えませんでした。

それでもやり場のない不満をなんとか表現したかった私は「なにこのパウンドケーキ、まず!」と言う幼稚なキレ方をしてしまったんだと思います。

普段から怒り慣れていない私みたいな人が、頑張って怒りを表現しようとすると、こういう素っ頓狂なセリフになってしまうんだよなぁ。と自己嫌悪でした。

ちっちゃな不満を自分の中で溜め込んで、発酵させて、まとめて得体の知れないものとして噴出する癖ほんとなんとかしたいです。

怒りはフレッシュなうちに、明るく手短に表明できるようになることが課題だなぁと思います。

ただ、冷静になった今振り返っても、やっぱりあのパウンドケーキは不味かった!人に食べ物を上げる時は決してケチったり奇をてらったりしてはいけない、という事もしみじみ思いました。