転轍器

古き良き時代の鉄道情景

豊川放水路右岸から

 早朝の東海道本線は貨物列車が次から次へとやって来る。EF65117〔稲二〕牽引の下り貨物が豊川放水路橋梁を渡る。 東海道本線豊橋西小坂井

 重量貨物の先頭に立つのはモンスターEH10が良く似合う。EH10 64輛は稲沢二区と吹田二区に配備されて東海道山陽本線を闊歩していた。EH106〔吹二〕が長い編成を従えて轟音とともに通り過ぎて行く。 東海道本線豊橋西小坂井

 豊橋平野早朝の時間帯は下りは一般貨物列車が多いのに対して、上り東行はブルートレインのスジを追うかのような高速貨物が多数設定されていた。牽引機はEF66ばかりで、ワキ10000を従えたコンテナ編成の先頭はEF6651〔関〕であった。 東海道本線豊橋西小坂井

 2+4の6輛編成と会う。クモハ51+クハ68の2連とクモハ52+サハ75+サハ75+クモハ52の4連が手をつないでいた。 豊川行825M 飯田線下地~小坂井

 豊川豊水路橋梁は巨大な鉄骨を組んで独特な形相に仕立てたように映る。クモハ52002〔静トヨ〕とクモハ52003〔静トヨ〕両端でサハ48とサハ75をはさんだ4連は本長篠行629M。 飯田線下地~小坂井

 クモハ52003〔静トヨ〕は第2次流電の広窓タイプ。オリジナルの張上げ屋根で先頭のクモハ52002〔静トヨ〕とは印象がかなり異なる。

 クモハ52001〔静トヨ〕は第1次流電の狭窓タイプ。パンタグラフはクモハ52003が
PS11に対してPS13が装備されていた。

 クハユニ56002〔静トヨ〕+クモハ50002〔静トヨ〕+クモハ54002〔静トヨ〕 飯田線下地~小坂井

 押込形ベンチレーターが目立つクモハ54007〔静トヨ〕先頭の水窪豊橋行628M。 飯田線下地~小坂井

 飯田線名古屋鉄道本線の分岐手前に建つ信号機は「飯1場」の標記が見える。いわゆる場内信号機であるが、「場内」は平井信号場なのか平井信号場を統合した小坂井なのか気になるところ。2面の現示板は右が飯田線用、左が名古屋鉄道本線用と思われるが、その下の2灯の意味することにも興味がわく。

 名鉄パノラマカー7000系が下り線を行く。後方に見えるトラス橋が上り線。 名古屋鉄道本線豊橋~伊奈

 3枚窓の間隔が少し広く見えるクハ86と名鉄7000系の出会いは、まるで模型の線路上での光景のようだ。

 大垣発豊橋行524M6連 東海道本線豊橋西小坂井

 名古屋ローカルの80系は大垣電車区のクハ86・85、モハ80、サハ87・85で組成されていた。113系の投入で80系は昭和52(1977)年3月までに姿を消したようだ。

 前2輛はシル・ヘッダーが付いてないのでクハ86・モハ80の300番台であろう。ここで会ったクハ86はバラエティ豊かであった。

 東海道本線の複線と飯田線下り線の3線の豊川放水路橋梁の上流側に飯田線上り線の単線下路トラスが架けられている。

 上りブルートレイン最終ランナーの2レ“さくら”はEF65527〔東〕が牽いて来た。未明の大阪、京都停車の後は名古屋-豊橋-静岡-沼津-横浜と結んで終着東京に着く。 東海道本線豊橋西小坂井

 飯田線のEF10は中部天竜支区に投入されたのが最初で、昭和46年頃から豊橋機関区に配置が始まったようだ。単機でやって来たEF1020〔豊〕は一時期関門トンネルで活躍したナンバーで、丸みのある車体と一体鋳鋼台車が特ちょうであった。 飯田線下地~小坂井

 写真は全て:S51(1976)/3/26

早朝の豊橋平野

 「さんすうちい(347M)」と呼ばれた大垣夜行を下車、夜明前に着いたのがここ、豊橋から西へ数キロの所、東海道本線飯田線が並んで豊川放水路を渡る場所であった。何とも不思議なことに飯田線の線路を名古屋鉄道の特急電車が走っているのには度肝を抜かれた。ここに立っているとブルートレインからフレートライナー、名古屋ローカルの80系電車、飯田線の古豪たちと名鉄パノラマカーなど、さまざまな汽車・電車を堪能できた。 写真は全て:S51(1976)/3/26

 私が立った魅惑の鉄道地帯の略図。豊橋から東海道本線の複線と並んでいた飯田線の複線は、豊川放水路手前で上下線が離れ、下り線は土手を下りた辺りで名古屋鉄道本線下り線を分岐する。飯田線上り線は飯田線下り線をオバークロスした名古屋鉄道本線上り線と合流し、1線のトラス橋で豊川豊水路を渡る。

 飯田線下り線は豊川放水路を渡ると大きく右にカーブして25‰下りで東海道本線から離れる。豊橋6:20発中部天竜行623Mが通り過ぎる。中部天竜8:42着。 飯田線下地~小坂井

 名古屋鉄道上り線と飯田線上り線の合流点。飯田線下り線は東海道本線と離れて北西に進路をとり、名鉄下り線新岐阜方を左に分けて画面左、名鉄上り線の築堤をアンダークロスする。飯田線上り線は画面手前に進み、豊川放水路を単線橋梁で渡る。

 飯田線独自の形式、クハユニ56とご対面。  飯田線下地~小坂井

 リベットが並ぶウインドシルとウインドヘッダーのクモハ54001〔静ママ〕は威風堂々としている。 飯田線下地~小坂井

 EF6648〔関〕牽引のフレートライナー 東海道本線豊橋西小坂井

 静岡発米原行1527Mは265.7Kmを走る長距離電車だ。時刻表を見ると、行先は大垣・米原とあり、「米原行の車両は名古屋から連結」の但し書きが添えられていた。静岡からのユニットは大垣まで、名古屋で別ユニットを足して名古屋~大垣間は2ユニットで運用されるものと思われる。 東海道本線豊橋西小坂井

 153系だろうか、湘南色になった167系だろうか。 1522M 東海道本線豊橋西小坂井

 EF65537〔東〕の牽く6レ“みずほ”が通過。名古屋6:11発、次は静岡で8:33着。 東海道本線豊橋西小坂井

 独特なミュージュックホーンの名鉄特急は豊橋新岐阜間約100Kmを1時間20分で結んでいた。 7000系パノラマカー 名古屋鉄道本線豊橋~伊奈

 何とも奇妙な地面を這うような電車が通って行くのに驚いた。この不思議な電車は「いもむし」の愛称の名鉄3400系と称する昭和12(1937)年に登場した18m級2扉流線形電車で、当時の流行を採り入れた由緒ある車輛であった。 名古屋鉄道本線豊橋~伊奈

 名鉄キハ8000系は国鉄キハ80系をトレースして登場、高山本線は飛騨古川まで乗入れていた。先頭車6輛が入った8輛編成は何とも壮観だ。急行“北アルプス”は名鉄神宮前発着で撮影時の豊橋からのこの列車は何だったのかはわからないままだ。 名古屋鉄道本線豊橋~伊奈

栄枯盛衰唐津線 小城

 小城市民図書館のエントランスに掲示されていた「小城駅開業式の図」のまんがポスター。機関車といい、開業当初の駅名といい忠実に考証されていると感心した。機関車は唐津興業鉄道がスイスから輸入した1500形をモチーフにしているのではないかと想像する。

 東多久駅の開業時は「別府(べふ)駅」で大分県別府駅と混同しがちなため、明治44(1911)年6月に改称されている。ちなみに日豊本線別府駅は明治44(1911)年7月で、唐津線の方が先ではあるのだが。

 多久駅は昭和9(1934)年に莇原(あざみばる)から、岩屋駅は明治36(1903)年に本山から、西唐津駅は明治38(1905)年に妙見から、それぞれ改称された。

 小城駅は明治36(1903)年12月14日開業、同時に九州鉄道長崎線の久保田から大島を結ぶ唐津線の全線が開通した。落成式は大村旅団長、佐世保要塞司令官他地元有志を始めとして大勢が集まり、佐世保海軍音楽隊も来て大いに賑わったという。開通を喜ぶ人々と煙をあげる陸蒸気が愉快に楽しく描かれている。

 “おぎまんが”は小城市のホームページによると、『肥前狛犬の姿をした主人公が、女子高校生古里まひろと青春劇を繰り広げながら小城市の魅力をわかりやすく、おもしろくPRする漫画』とのこと。これを知った上で鑑賞すると、とても楽しく、なおかつ唐津線の歴史も見えて魅了される。

 小城は佐賀平野の北の端にあたり、久保田から乗ると筑紫山地の山々が段々と近くに見えるようになる。蒸機時代は2面3線の構内を有し、本屋側久保田寄りの貨物側線は貨車で溢れていた写真を見たことがあり、印象に残っている。
 駅から続く商店街は、その名を全国に知られた「小城羊かん」の看板が見える。鉄道全盛時代は、「かつぎ屋」と呼ばれる人々が大風呂敷に包んだ羊かんを背負い、小城駅から西は佐世保・長崎、南は熊本、東は博多・小倉辺りまで運んでいた、と郷土誌に記されていた。
 明治、大正の面影を残す駅舎は改修が行われて登録有形文化財に指定され、小城市が管理している。

 寄棟屋根の木造駅舎は切妻屋根とはちがう趣きと奥ゆきの深さを感じる。古いTMSに、城端線城端駅をプロトタイプとした「雲竜寺鉄道祖山線祖山駅本屋」の16番原寸の折込図面が掲載されていたのを思い出した。転轍小屋が本屋脇に建つその図面の描写と味わいを、国鉄時代の小城駅本屋に重ねながら在りし日を思う。
 「小城驛」駅名板は小城市出身、明治期の書家の作品をもとに作られたとのこと。 R6(2024)/2/18

栄枯盛衰唐津線 5700と8550

 鍋島駅の待合室に掲示されていた「唐津線120年」のポスターに目が留まる。機関車の部分を拡大したのがこの写真で、8550とばかり思っていたその機関車は動輪が2つなので5700のようであった。
 このポスターに誘われて小城駅近くの小城市歴史資料館で開催された「唐津線120年」を観覧してきた。左上は登録有形文化財に指定された現在の小城駅駅舎、下両側は明治45(1912)年の小城駅庭園落成紀年、機関車は小城駅に停車する5720号機で年代は不詳とのことであった。

 唐津線の開通年代と国有化までの流れをまず押さえておきたい。
明治31(1898)年12月 大島から山本まで開業
明治32(1899)年12月 多久まで開業
明治36(1903)年12月 久保田まで開業 全線開通

明治31(1898)年12月 唐津興業鉄道
明治33(1899)年4月 唐津鉄道へ改称
明治35(1902)年2月 九州鉄道に吸収
明治40(1907)年7月 国有化 九州帝国鉄道管理局
明治41(1908)年12月 鉄道院 九州鉄道管理局
大正8(1933)年5月 鉄道省 門司鉄道管理局

 唐津線は明治36(1903)年12月に全線開通しているので、令和5(2023)年12月で開通120年を迎えている。5700は九州鉄道時代の形式から明治42(1909)年に鉄道院5700形として改番されているので、小城駅での写真は国有化以降の姿と思われる。

 私鉄時代の唐津線は1400や1500といった小形のタンク機関車が使われていたようだ。8620が登場し九州線に配属されるようになると、九州鉄道時代の機関車、5700や8550は8620との置換えで次の働き場所へと移動する。その流れの一環で西唐津に5700が流れ着いたのは大正10(1921)年頃のようだ。
 5700は軸配置2Bのアメリカ、スケネクタデイ製で明治30年から32年にかけて36輛が輸入され、鹿児島本線日豊本線(全通後の線名)で足跡を残している。

 8550はスケネクタデイ製1Cテンダ機関車で、明治31年から39年にかけて61輛が輸入されている。客貨両用として九州各地で活躍、古い写真に収まった機関車は大概この顔をしていたような気がする。イラストは右サイドに元空気溜や空気圧縮機が付いていないことに気づき、改めて空気制動化前後で仕様が異なることを学ぶ。
 大正10(1921)年頃は主要線区に6760や8620が普及し、置換えとなった8550は西唐津へやって来る。増大の一途をたどる石炭輸送に対応するため、12輛は加熱式に改造されて形式8500となった。西唐津に8620や9600が投入される昭和15(1940)年頃まで活躍していたものと思われる。

D60大分の12輛 昭和44年

 昭和44(1969)年3月時点で大分運転所には12輛のD60が配置されていた。小川さん撮影の写真から各機号の細部と個性を眺めてみた。

D6021 日田 S44(1969)/4
 改造前:D50226[川崎]
 改造:浜松工場 S27(1952)/5/30
 除煙板:小工式
 前照灯:LP403
 煙突:パイプ/縁取り無し
 ボイラ梯子:砂箱前
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席中央
 炭水車:8-20

D6057 日田 S44(1969)/4
 改造前:D5040[川崎]
 改造:浜松工場 S29(1954)/10/16
 除煙板:標準/点検窓有
 前照灯:LP403
 煙突:化粧
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席中央
 炭水車:8-20

 公式側には空気作用管と動力逆転棒が付く。美しい化粧煙突はとても優雅に映る。大分のD60の中で唯一タブレットキャッチャーを装備していた。大分運転所 S44(1969)/8

 1枚窓のすっきりとしたキャブはタブレットキャッチャーも見える。ランボード上の清缶剤タンクの位置は機号によって給水ポンプの前後で異なるようだ。 野矢~由布院 S45(1970)/8

D6058 日田 S44(1969)/4
 改造前:D5097[川崎]
 改造:浜松工場 S29(1954)/10/20
 除煙板:標準/点検蓋付/背高前斜め
 前照灯:LP405
 煙突:化粧
 ボイラ梯子:砂箱前
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席窓下
 炭水車:8-20

 運転席はナンバープレートと「大」の区名札、D50時代の「大14 川船」、「D5097」プレート、改造工場「浜松工場」の銘板が整然と並んでいる。積・空換算標記板は積:13.0、空9.5と読める。

 昭和43(1968)年8月に郡山から大分へ転属となったD6058は、当初シールドビーム2灯の郡山装備で稼働していたが、昭和44年の秋頃までにLP403へ換装された。 大分運転所 S45(1970)/3

D6060 日田 S44(1969)/7
 改造前:D50152[川崎]
 改造:浜松工場 S29(1954)/11/16
 除煙板:小工式
 前照灯:LP403
 煙突:化粧胴伸
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席窓下
 炭水車:8-20

 側窓の肘かけの位置にスティック状のバーが渡されている。非公式側の運転席下部中央に給水配管をつなぐ板状に見える二子三方コックが付けられている。

D6061 豊後森機関区 S44(1969)/4
 改造前:D50282[汽車]
 改造:浜松工場 S29(1954)/11/24
 除煙板:小工式
 前照灯:LP403
 煙突:化粧
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席裾
 炭水車:12-17 

 D60のサイドビューは美しい。汽車会社製の角ばったサンドボックス、砂撒管の細かいディテールがよくわかる。架線注意標識は砂箱とボイラ梯子上部に、発電機下部にも小さい標識が付けられている。 久留米 S44 (1969)/8

D6062 日田 S44(1969)/4
 改造前:D50229[日立]
 改造:浜松工場 S29(1954)/12/17
 除煙板:標準/点検窓有
 前照灯:LP403
 煙突:化粧
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席窓下
 炭水車:12-17

 D6062は公式側、非公式側ともエアータンク上のランボードが真っすぐではなくて前方に向かって上向きに反り返って取り付けられていた。 田主丸~筑後吉井 S44(1969)/3

 ボイラ周りのクローズアップ。ランボードに沿う暖房管とエアータンク上のランボードとの角度が違うのがよくわかる。 天ヶ瀬 S44(1969)/4

D6063 鳥栖 S45(1970)/7
 改造前:D50351[川崎] 
 改造:浜松工場 S30(1955)/1/10
 除煙板:小工式
 前照灯:LP403
 煙突:パイプ
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席窓下
 炭水車:12-17

D6064 鳥栖機関区 S44(1969)/8
 改造前:D50283[汽車]
 改造:浜松工場 S30(1955)/2/1
 除煙板:小工式
 前照灯:LP403
 煙突:パイプ
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:2枚窓
 区名札差:運転席裾
 炭水車:12-17

 D6064を正面から見ると非公式側にリンゲルマン濃度計が付き、公式側はまるでリンゲルマン濃度計を撤去した後のような何の用途かはわからないステイだけが上を向いていた。短いパイプ煙突は63・67と同様に縁取りが施されている。

D6065 鳥栖 S45(1970)/7
 改造前:D50191[日立]
 改造:浜松工場 S30(1955)/2/14
 除煙板:小工式
 前照灯:LP403
 煙突:化粧
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:2枚窓
 区名札差:運転席中央
 炭水車:12-17

 原形2枚窓を持つD6065は元D50191。大正から昭和にかけての優雅な外観を醸し出している。 由布院 S44(1969)/4

D6067 恵良~引治 S44(1969)/4
 改造前:D50228[日立]
 改造:浜松工場 S30(1955)/3/19
 除煙板:小工式
 前照灯:LP403
 煙突:パイプ
 ボイラ梯子:砂箱前
 運転席窓:2枚窓
 区名札差:運転席裾
 炭水車:12-17

D6069 野矢 S44(1969)/7
 改造前:D5033[川崎]
 改造:浜松工場 S30(1955)/9/9
 除煙板:標準/点検蓋付/背高前斜め/ステイ湾曲
 前照灯:LP403
 煙突:化粧
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席中央
 炭水車:8-20

D6071 豊後森機関区 S44(1969)/4
 改造前:D5095[川崎]
 改造:土崎工場 S30(1955)/10/7
 除煙板:標準/点検蓋付
 前照灯:LP403
 煙突:化粧
 ボイラ梯子:砂箱前
 運転席窓:2枚窓
 区名札差:運転席中央
 炭水車:8-20/外観12-17スタイル

 前照灯は郡山から大分転属後にLP403からLP405に換装された模様。フロントデッキのスノープラウ取付け穴は郡山時代の名残りか。テンダ外観は12-17スタイルに見えるが20立方米形である。 大分運転所 S44(1969)/8

 写真は全て小川秀三さん
 (D6058 3枚目のみ転轍手)