密やかな結晶

医師を目指して勉強しています。常に一生懸命でいること。

過ぎた日々はどこか優しい

痛かったはずなのに、辛かったはずなのに、居場所なんて無かったはずなのに。写真に映る私は笑っていた。もう全く覚えていないような出来事。無防備な一瞬を切り取ったアルバムを、目が覚めるような思いで眺めた。

あの時の私は、本当に楽しくて笑っていたのか。そこは居心地の良い場所だっただろうか。過去の私へと思いを馳せる。過去の私がほんの少し救われたような気がする。私はここに居たのだと呟く。もう二度と帰れない場所だとしても。

どうしてその時を幸せと思えなかったのか。どうして今になって見つけてしまうのか。失ったものを後生大事に守っていく。

どうかこの先を、今を、愛せますよう。

日々を慈しみながら生きていけますよう。

思い出が私の中で輝きますよう。

凍える瞳

いつか幸せになれるかもしれない、と 心の底で希望を信じて生きてきてしまったので、希望の捨て方が分からない。諦めることができない。

今が幸せだと思えないのに、いつか幸せだと思える訳がない。要は私の気の持ちようの問題。私はきっと幸せを感じる回路がおかしいのだと思う。

彼と抱き合っている時が一番幸せ。ずっと一緒にいたい、と思う。ときめきと快楽で頭が溢れる瞬間。一つになる時。感情を共有する瞬間。愛されていると感じるから、私は一番幸せ。

愛情をお金で測る癖がある。どれだけ尽くしてくれたか、行動で判断する。具体的な事象を通して愛情を認識する。ちゃりんちゃりんと積み重なっていく私にとって都合の良い何かを私は信じている。

1人だと私は空っぽなので、幸せにはなれないのです。私に意味はないの。価値なんてどこにもないの。彼と居る時だけ私は生きています。彼と一緒に居たい、けど、それに慣れてしまったら、魔法が解けてしまったら、

私はどうしたらいいのでしょう。

日々を過ごすことが苦痛です。1日に何度も、死にたいと呟きます。希望を諦めて私は生きていけるのでしょうか。いつ楽になれるのでしょうか。

幸せになりたい。麻薬に溺れて泡になる前に。私に自信をくれたあの人が居てくれたら。どうか何も変わらずに私の前に立っていて下さい。

恋の花

人からの好意を素直に受け入れることができないらしいと、最近気付きました。私ばかりが好きで好きで仕方ないと思っていた恋人が、私に会いたいと、無理をしてでも会いに行きたいと言うのです。その時初めて、どうやらこの人は私のことがとても好きらしいな、と思い当たりました。

私のことが好きなのは知っていたけど、そんなに好きだなんて知らなかったわ。少し、驚きました。私に向けるあの笑顔は、強く抱きしめる癖は、私への愛情故のものだと、いくつかの点が繋がりました。思っていたより私は男の人の心理が分かっていなかったようです。

愛されるということ、愛するということを考える日々。彼の純朴で素直な性格は時に私の心を傷つけます。何も疑わず、誰を憎むこともなく綺麗なまま育った子。どうも、私が彼を騙しているような気がして後ろめたく感じてしまいます。ごめんね、と呟きます。許して、と零します。君のように一途でなくてごめんね。綺麗でなくてごめんね。清らかなものでなくてごめんね。

それでも私は、彼がいるだけでとても幸せ、です。彼と出会って、信じられないくらい心がときめく、あの感覚をまた味わってしまいました。幸せという感覚を思い出してしまいました。それは普段の私にとってはまざまざと現実の不幸さを見せつけられて辛いことでもあるのですが、取り敢えずは、今の1番幸せな日々を噛み締めています。

願わくば、今度こそこの幸せを失うことがありませんように。

枯れた泉

最近、早く死にたい、と思ってしまいます。しかし、本当に死にたいのか、と聞かれると返事に苦渋してしまいます。死んだら困る人がいるのも分かっています。ただ、いつだってこの人生を投げ出してもいいと思っています。消えてしまいたい、居なくなりたい、この漠然とした空虚さから逃れたい、と思っています。それらの気持ちは、死にたいという言葉がしっくり来るのです。

消えてしまいたいけど、現実的に消えることはできないから。居なくなりたいけど、ここから居なくなることもできないから。逃れたくても、逃れられないから。じゃあ死のうか。死ねたらなぁ。死にたいなぁ、と思っています。

小学6年生の頃から「私は死んだ方がいい人間なんだ」と思いながら生きてきました。ちゃんと考えたら死ぬべき人間なのに、思考を止めて、考え逃れをして、生きてきました。何かミスをする度「やっぱり死ぬべきだなぁ」と思っていました。「大丈夫、大丈夫、大丈夫」と唱えていたおまじないが、「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」になり、「死にたい、死にたい、死にたい」になりました。

私が生きるには、東京という地と、友人とお金が必要です。美味しい食べ物と私を受け入れてくれる数少ない人達がいれば私は生きることができます。前の私は、死んでいるも同然でした。辛い環境を耐えるために、感情を殺して生きていました。表情を無くし、感情を摩耗させ、隣の芝を見ないふりをし、死んでいるのと同じような無為な生活をしていました。生きるためのエネルギーが枯渇していました。

今の私も少し、世界に絶望しかけているようです。社会は冷たくて悲しいもの。人は怖いもの。世界は灰色で、私は必死に身体を動かして光を求めます。一瞬の光はすぐに消え去ってしまいます。私の世界をカラフルにしてくれていた人は、いつも、去って行ってしまうのです。

彼女もそうでした。しかし彼女を責めることはお門違いというものです。もしかしたら私こそが悪かったのかもしれません。私はまた間違ったことをしたのかもしれません。よしんばそうでなくたって、彼女がどう生きるかは私が預かり決めることではありません。とはいえ、彼女と縁を切ってから私はとみに死にたくて死にたくて堪らないのです。

誰かと気持ちを共有できることがどれだけ嬉しいか。何となく寂しい時、人と話せるのがどれだけ気分を上げてくれるか。色々な話題を深めることができるのがどれだけ貴重か。でも私はそれを失ってしまいました。

頑張ることに疲れてしまいました。普通を取り繕って平気な顔をして精神を研ぎ澄まし力を入れて生きていくことに疲れてしまいました。どうせ報われないのです。私の行為は無意味だったのです。だから諦めろと言っているのに私はまだ諦めることができないのです。

空虚さを感じる度、彼女がいてくれたら、という考えが頭をよぎります。でももう無理なんだよ、彼女は私の好きだった彼女ではないんだよ、もう許せないんだよ、だから忘れてしまおう、と私は言います。1人で生きよう、と思います。でも、もう疲れてしまいました。

もっと頑張らなくては、勉強しなくては、本を読まなくては、焦燥と劣等感に駆られ日々を過ごしています。明日こそは頑張らなくては。

自分が許せません。彼女を許せません。両親を許せません。社会を許せません。

死んだら許してもらえる気がします。

どうか、自分で自分を許せる日が来ますように。

白と青の世界

大事な友人がいました。出会ってから1年ほど。彼女は、初めて私と同じ目線で世界を見てくれた人でした。小さい頃より孤独感と疎外感に蝕まれていた私にとって、それは初めての経験でした。「ああ、この子といると気持ちが楽だな」と思いました。やっと自分が他人を怖がっていることに気付きました。彼女といると、私は少しだけ光を放てるようでした。私は価値のあるものだと思うことができました。同時に今まで私が如何に冷たくて虚しい世界に生きてきたか、まざまざと見せられたようでした。

彼女のことを私は大事にしたいと思いました。身体、精神、経済状況、家庭環境、様々な問題を抱えた彼女を助けることができるのは、少なくとも助ける素養があるのは、現時点では私だけだったからです。彼女のために病院を調べたり、本を読んだり、日々のトラブルの解決方法を模索したり、私ができることは沢山してきたつもりでした。

彼女が生きるために楽しみを見つけることにも貢献しました。彼女の心の盾となりうる、現世への執着となる物を与え続けてきました。

生き続けることが負担となる人達にとって私は残酷なことをしているかもしれない、という自覚を持ちながら、同時に私は気持ちを焚きつけた責任を取らねばならないと思いつつ、どうか、彼女に幸せになってほしい、生きることを楽しんでほしいと願いながら、それらを続けていました。

けれど、彼女が私の忠告を聞かず道を誤った時、私は彼女を許すことができませんでした。私は彼女が不幸せになっていくのを見たくありません。私よりも劣っている人間に彼女を任せるのは、不安要素でしかありません。普通の人にとっての小さな刺激が、致命的に日常を崩す可能性のある人ですから、慎重に慎重に伴侶を選んで欲しいと私は考えていました。

何より、彼女には男を見る目がないのです。私があるとは言えませんが、少なくとも危険な匂いを感じる男を彼女に近づけたくはありませんでした。

私が必ず反対するだろうことを察してか、彼女は私に何の相談もなくその男と付き合いを始め、恐らく将来を共にする旨を宣言したのです。まだ自分の問題も解決できていない、社会生活から落伍した、職もない、精神障害者達が結婚したとして、一体どう生きていくつもりなのでしょう。共依存として健やかに生き続けることなんて、できるものでしょうか。

これは、彼女の私への明確な裏切りでした。私と築いてきたはずの日々を、彼女は全部壊してしまったのです。別に良いのです。彼女が何を選択するか、私には口を出す権利はありません。ただ、隠されたことが、将来を放棄されたことが、裏切られたことが、私にはひたすら悲しいのです。一緒に助け合って生きていこうと言ったのに、私が助けを求めた時に応えてくれなかった彼女を、私は憎く思います。彼女は、私との友情ではなく、男との共依存を選んだのです。私にとっての安全な居場所は、神聖な安全地帯は、彼女によってもたらされ、彼女によって壊されました。

彼女と男との関係を壊してやりたいと激しい怒りを燃やす一方で、彼女が幸せなら、と唱え続ける私がいます。葛藤を抱え続けることが苦しくて、全てを放棄したいと思う私がいます。ふとした瞬間に彼女を思い出し、憎悪と嫌悪を燃やす私がいます。受け入れてあげたいのに、許したいのに、それを阻む激情が私を駆り立てます。私の人を恨み、呪い続ける気持ちが強く強く駆り立てられます。人を恨むことは、自分自身の心を削ることだと私は思うのです。

どうか、どうか、私達にとって誤った道を選ばないで欲しかった。一緒に努力し続けて欲しかった。私に助けを求めて欲しかった。清く穢れなきようあって欲しかった。幸せになって欲しかった。

幸せになろうね、と約束しました。幸せにしてあげたい、と心の中で唱えていました。彼女を恨みながら、ただそれだけを願い続けています。

清らかで美しい白と青の世界で、私は祈っています。

みにくいアヒルの子

集団においての自分の立ち位置を何度も何度も確認します。

今は、勉強しなきゃ。勉強しなきゃ。もっと知識を付けなきゃ。私は頭が悪いなぁ、駄目だなぁ、と思って苦しい気持ちになります。

とても努力ができる人や、とても暗記が得意な人と比べれば、私は頭が悪い人間ということになります。何度も反復しないと知識は身につかないし、その場に適した知識を瞬時に引き出すことが私はあまり得意ではありません。

日々劣等感を感じています。それだけなら良いのです。私がきちんと力を入れて勉強を始めれば、コツコツと努力さえしていれば他人と比べてのその劣等感も和らいでいくでしょう。

問題は、その場においての人間関係です。残念ながら私は、人間関係を円滑に回すことがあまり得意ではありません。それはもう、小学生の頃からずっとそうなのです。私自身はそれは自らがグレーゾーンの発達障害であるからだと考えていました。他人からは、虐待による反応性愛着障害だと言われました。どちらでも良いと思います。両方あったとしても何も特別不思議なことではありません。ただ私にとっての問題は、

「どのような集団に居ても常に周囲とのズレを感じる」

「孤独感と寂しさが常に付きまとっている」

「集団への恐怖、対人への恐怖を持っている」

といったことです。人と仲良くなりたいのに人が怖くて近付けないというジレンマを抱えていました。底が見えない谷底を見下ろすような恐怖を感じながら他人と笑顔で話していました。そのようなメンタリティで、私には親しい友達というものはできませんでした。私の行動は他人にとっては変で、私の思考も変なようでした。私が当たり前にしていることは社会には受け入れられないことのようでした。

息を潜めて社会に潜り込んでいます。話をただ黙って聞いて、適切な相槌を打ちます。積極的な関与をしなければ案外、馴染めるものです。しかしそれは同時に、自分のことは理解されないという孤独を深めるものでもありました。

集団で孤立することに恐怖を覚えます。見下されることは責められることです。勉強ができない私は攻撃対象とされかねません。例え誰も私を攻撃しなくたって、私は自らの劣等感によって自分を攻撃することすらします。

集団を憎んでいます。けれど社会で生きる上で私は必ず集団に所属している必要があります。集団に所属するということは、いざという時に守ってもらえることを意味しますが、私にとっては「枠からはみ出してはいけない」という嫌な制限のようなものです。

家庭に所属するということにも恐怖を覚えます。夫に支配されるのではないか、搾取されるのではないか、子供と折り合いが悪くなった時に誰か助けてくれるのだろうか。私は窒息してしまいそうな気がします。

風通しの良い自由な人間関係があること。他人に最低限の尊敬と、尊重がなされていること。被害者意識を抱かないこと。私を傷つける人やその思考から距離を取ること。傷つかないよう、鈍感であること。

今でもまだ、私はそれらを模索しています。

夢と、隣人の渇望

いつか、いつか、私の望む未来が手に入るとしたら、私は穏やかで暖かい家庭の中に居たいと思います。笑顔で溢れて、夫は優しくて、子供は幸せにはしゃぎ回るような、たまに友達と会って愚痴ったり惚気たり、両親を訪ねたり、そんな家庭を夢見ています。

私にそのような幸せは無縁のように感じます。どこにいても、誰といても、そこにいてはいけないような気がします。私は間借りした小さなスペースに、すぐに席を立てるようにちょこんと座っています。私はここにいていいかなときょろきょろします。ここにいさせてくれて嬉しいなと周りの様子を伺います。

どうしてそう感じるようになったのかははっきりとは分かりません。考えようによっては、私は小さい頃から仲良しの友達というものがいませんでしたし、家庭では諍いが絶えませんでしたし、「安心して存在できる場所」というものが無かったのだろうと思います。

存在を許してほしい、とよく思います。

守ってほしい、と思います。

何から許されたいのかよく分かりません。強いて言えば私を抑圧してきた社会から許されたいのだと思います。人は怖いものです。集団は私の敵です。人の中に当たり前のように私がいることが、私にはうまくイメージができません。いつも私はお客様でありコンパニオンです。何かしらの役割を果たしていないと存在してはいけないのです。更にその役割は完璧にこなされないとそれと認められないのです。私が許されるハードルはなかなかに厳しいものなのです。

人からの賞賛の言葉に飢えています。私は自分のしたことを良いことだと受け止めることが難しいのです。他人に言ってもらえて初めて私は役に立ったのだとほっとします。価値がなければ私は存在してはいけません。私にとっての価値ではなく、他人にとっての価値が大事なのです。他人からの評価は私の糧であり、毒でもあります。期待と恐怖は表裏一体です。私を安心させてくれる人をいつも求めています。私をただ肯定し、絶対的な安心を与えてくれる人を求めています。往々の場合、友人より彼氏の方がそれを求めやすいのです。惚れた弱みが、盲目が、私を批判から守ってくれます。私はその時々の彼氏を頼りに生きてきました。

しかし、盲目的な愛情とは怖いものです。嫌なことに目を向けないことは悪いことです。私を理想化させてはいけません。何もかも受け入れさせてはいけません。一方的な全ての許容は支配へ繋がります。私は自分を操作することで相手を操作し、自分に都合の良い偶像を作り上げていたのかもしれません。相手は相手で、私を全て許してくれる何かと勘違いしたのかもしれません。しかし、抱きしめられて愛していると囁かれても、私にはどこか空虚な部分が残っていました。どんなに注がれても普通の人では絶対に埋まらない部分がきっとあるのです。

私は私に心底ぴったりと嵌るパーツを求めていました。無意識のうちにざっと10年は。そんなもの無いと最近になって気付き始めました。私の考えを寂しさを私の人生を全て解ってくれる人なんていないのです。私も、誰かの人生を理解することなんてできないのです。

それでも私は自分以外の誰かの人生を解ってあげたいと思っています。私が解ってもらいたかったように。その努力は常にしています。私のために誰かの心の穴が少しでも埋まってくれたらそれで良いのです。

今は私は自分に課されたタスクをこなしながら生きることに精一杯です。社会で生きることはそれだけで私にとってハードワークです。誰か、誰か、私に寄り添ってはくれないかしら。少しだけでも私の味方になってはくれないかしら。私が安心できる場所を与えてくれないかしら。

私は願っています。