特定秘密保護法案に反対するFAX
2013年12月6日に送った文章。
高校で理科を教えている者です。
特定秘密保護法案に反対します。
国民から国の情報を隠すのは、どんな理由があっても、民主主義の原則に反し、この国の国力を下げることになります。
平和を守る方法は、いたずらに秘密をつくることではなく、あらゆる方法で話し合いの道を探し、信頼関係をつくるための努力を続けることです。軍事機密をつくるのは、この国への不信感を増大させ、結果的にこの国の平和をおびやかすことになります。
どうかこのような重大な法律を、多数を頼みに成立させないでください。この国の自由と民主主義を守ってください。
何度も書いているが、政策の是非を判断するための情報が与えられなければ、国民が政治について考えることは基本的にできなくなるだろう。
逆に言うと、政府が何を言っても信用できないということだ。
情報を隠している政府を支持するのは、信頼ではなく一種の「信仰」になるだろう。
具体的な政策1つ1つについて是非を問うのではなく、政府の持っている特定の思想に対して、無条件に信じることができるかどうかが、政府に対する支持・不支持を分けることになるだろう。
日本の自衛隊がイラクに派遣されたとき、現地でさまざまなトラブルを起こしたが、それでも自衛隊はイラクの人々を直接傷つけることはなかった、らしい。
http://firefly1384.web.fc2.com/essay/e005.html
しかしもし今後自衛隊が海外に派遣され、現地で殺し合いに巻き込まれ人殺しを行ったとしても、そのような情報が公開されることは絶対にないだろう。
日本が戦争をしていても、日本人には知らされずにすんでいくかもしれない。
今後もし東京が放射能汚染され、実際に健康被害が出始めたとしても、それを「国家機密」に指定することは可能だから、政府は(少なくともオリンピックが終わるまでは)その情報を隠そうとするだろう。情報を隠しているかどうかすらわからないまま、現実が進んでいくだろう。
そんなことはあり得ないと言う人ももちろんいるだろう。
それが一概にまちがっているとは思わない。
しかし問題は、どちらの意見が正しいかということさえ、情報が隠されることによってわからなくなってしまうことだ。
つまり政府を「信仰」する人とそうでない人の間では議論が成り立たなくなり、前にも書いたように事実ではなく思想によって、この国の人間は分断されるだろう。
私にはそうなった国が、たとえば経済的に立ち直るとも思えないし、お互いに疑心暗鬼になった日本人同士が、幸せのために助けあっていけるとも思わない。
人間が自分の力を最大限に発揮するためには、信頼関係が不可欠だ。
しかし自分の思想と一致する仲間たちだけで集まって行動することは、政治団体や宗教団体以外ではできない。
つまり思想によって人間が分断されれば、この国のほとんどあらゆる組織の中で信頼関係がこわされ、世の中のことを深く考える人間ほどこの国では生きにくくなり、国力が下がっていくだろう。
しかし政治は、政治家だけのものではない。
どんなに私たちが無力に感じられても、できることはあるはずだ。
この法律の最大の問題点が、情報が隠されることによって人間が分断されることにあるのなら、人間を分断されないためのあらゆる努力を行い、それがどれだけ人間の幸せにつながるのかを世の中に見せていくことだ。
政府が信用できないのなら、起こり得るあらゆる可能性を考えて指摘し、この国で何が起こっているのか、起こり得るのかを、推測が混じっていてもあきらめずに議論し続けることだ。
どれだけ政府が情報を隠しても、政治の本質を隠し通すことはできないから、見える部分を頼りにして、何が起こっているかを考え続けることはできるだろう。
政府を信頼することができなくても、政府のしようとしていることの本質を見抜くことで、どんな情報が隠されているか、政府がどこに進んでいこうとしているかを考えていくこともできるだろう。
そのような意見は弾圧されるかもしれないが、逆にそのような意見が増えていくことで、情報を隠すことが政府にとって致命的に不利であることがわかれば、この法律はなくなるかもしれない。
私にもまだ、できることはあるはずだ。
デモや集会がいけないとは絶対に思わないが、それだけではこの国を変えられない。
この国をつくっているのは、政府ではない。私たちひとりひとりだ。
私たちが本気で「自分自身の尊厳」に目覚めれば、必ずこの国は変わるはずなのだ。
私はそのことを信じる。この国の人間が愚かではないことを知っているからだ。
秘密保全法案に反対するFAXを送る
2013年10月に各政党宛に送ったFAX
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秘密保全法制に反対します。
政府が国民に対して秘密を持つのは、民主主義の根本を否定する行為です。すべての有権者が政治に参加するためには、正確な情報が必要です。公の秩序を守ることを理由にして、政府が一方的に秘密をつくることは、それ自体が政府の独裁につながるものであり、民主主義に反するものです。
そもそも国民に隠さなければならないような秘密をつくること自体が、この国の政治のあり方として正しくないと考えます。
戦争を否定し軍事行動の起こりえないこの国で、安全保障のために最も必要なのは徹底した話し合いを中心とした外交努力です。軍事的な秘密を持つほど、この国が戦争をする意志のある国として疑われ、周辺国の一層の警戒と軍備増強を招く危険があります。スパイを防ぐ一番の方法は、秘密をつくることではなく、秘密の必要でない本当の民主主義をつくることです。
アメリカよりはるかに情報公開が遅れているこの国で、アメリカと同じように秘密保全の制度をつくり、政府に反対する人間を弾圧しうる法律を定めることは、国民が政治に参加する意志を失わせ、政府の意図とは関係なしに国民の自由を奪う結果になります。政府はこのことの重大性をあまりにも軽視しているようと思います。
この法案は、昨年の衆院選でも今年の参院選でも争点になっていないものです。このような重大な法案を国民の審判なしに決めるのは、国民の民意をないがしろにすることです。
どうかこのような、この国の国民の自由を奪いかねない法案を拙速に決めることなく、十分な議論の上で国民の審判をあおいでください。多数を頼んで強行採決をすることには、反対します。
以上、強くお願いします。
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反対する野党が一致して効果的な訴えや行動に出れば、それがきっかけになって国民運動が起こるかもしれない。
そういう趣旨の文章もまたつくってみよう。
楽観視はしないけど、できることをやっていこう。
古賀氏のインタビュー記事
昨日(6月2日)の赤旗日曜版に載っていた、古賀誠氏(元自民党幹事長)のインタビュー記事を載せる。
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私は、憲法改正の勉学、研究、学習は当然として、議論はやっていいが、実際の改正には慎重でなければならないという立場です。とくに現行憲法の平和主義、主権在民、基本的人権という崇高な精神は尊重しなければならない。なかでも平和主義は「世界遺産」に匹敵すると私は講演でも話しています。
いま、96条を変えて憲法改正手続きのハードルを下げるということが出ていますが、私は認めることはできません。絶対にやるべきではない。
憲法は我が国の最高法規です。他の法規を扱う基準と違うのは当然でしょう。一般の法規が「過半数以上」ということなら、憲法改正発議が「各議院の総議員の3分の2以上の賛成」という現在の規定は当然です。諸外国を見ても、憲法改正のハードルは高くなっているじゃないですか。
私は、自民党の政策グループ「宏池会」の4月の会合でも「今日の日本があるのは、平和憲法が根底に強く存在していたということだけは忘れてはならないとつねづね思っている」とあいさつしました。
憲法の議論は、現行憲法に流れる平和主義・主権在民・基本的人権の尊重という三つの崇高な精神を軸にしなければならない。とくに9条は平和憲法の根幹です。"浮世離れしている"と見られるかもしれないが、その精神が一番ありがたいところで、だから「世界遺産」と言っているのです。平和主義は絶対に守るべきだと思っています。
ただ、ここはあなた方と意見が違うでしょうが、自衛隊は9条2項を1行変えて認めればいい、というのが私の考えです。ここは国民的議論をすればいい。
私の父は、私が2歳の時、「赤紙」1枚で招集され、フィリピンのレイテ島で戦死しました。父の訃報が届いた時はまだ5歳でした。私には父の思い出がありません。
あの時代、母は自分の幸せなど、何ひとつ求めることなく、私と姉を必死で育ててくれました。子ども心にも母の背中を見ていて、戦争は嫌だ、二度と戦争を起こしてはならない、と思いました。この思いが私の政治家としての原点です。
戦争を知らない人たちが国民の8割近くを占めるようになりました。だからこそ戦争を知っている私たちのような世代の役割は大きいと思っています。
私は、自衛隊をイラクに派遣するイラク特措法案の衆院採決の際(2003年)、議場から退場しました。平和を脅かすようなことをしてはいけない、と戦争を知らない世代に目に見える形で示したかったからです。
党幹部からはお叱りを受けましたが、退場したことは間違っていなかったと今でも思っています。今回、あなた方(赤旗日曜版)のインタビューを受けたのも、戦争を知る世代の政治家の責任だと思ったからです。
戦後の長い期間、国政の場で、自由民主党と日本共産党は、立場や政策は違っても、それぞれが自負も誇りも持って活動してきた、と私は思っています。離合集散する政党はたくさんあり、照る日や曇る日もあったが、その中でもぶれずにやってきた。私にいわせると自民党と共産党こそが「二大政党」だと思っています。
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素朴だけど、わかりやすくていい文章だと思う。
まあ最後の方は共産党へのリップサービスだろうし、9条2項を変えるという意見は今の自民党の意見と大きく変わらないので、この文章をどう読むかには微妙な面もあるだろう。
自民党の大物で赤旗に記事が出たのは、他に野中広務氏(彼も元幹事長)がいる。
この2人に共通するのは、戦争を直接経験し、戦争の悲惨さを身をもって味わったことだ。
かつては自民党にそういう政治家がたくさんいて、憲法改定にブレーキをかけていた。
戦前戦中派の政治家が減ったことと、自民党が戦争肯定・憲法改定に向かうようになったのは、無関係ではないだろう。
私は自民党の政治がいいとは全く思わないが、少なくとも保守政治と戦争を避け防ぐことが両立し得ることを、以前の自民党は証明していた。
今の自民党が戦争のできる国をめざしているのは、彼らの政治能力が前の世代よりも劣っていて、戦争への協力を望むアメリカからの圧力をかわすことができず、戦争を望む軍事産業からの要請をはねつけることもできず、戦争は絶対にダメだという観念を持てるほど歴史から学んでいないということの反映ではないか。
野中氏や古賀氏が赤旗のインタビューを受けたのは、おそらく最もインパクトがあり、自らの意志を広く知らしめることができる(日曜版は138万部出ている)からだろう。
もし古賀氏が民主党のインタビューを受けたとしても、これほどのインパクトはないだろうし、多くの人に知られるようにはできなかっただろう。そういう意味では自共が二大政党であるというのは、少し情けないような気がするが、正しい。
民主党は、古賀氏にこそ学ぶべきではないか。
共産党のように反自民の政策をはっきりさせることができず、かといって自民党の補完勢力になることもできないのなら、古賀氏の言っているように「憲法の原則だけは絶対に守る」という言い方で自民党に対抗するしかないのではないか。
人材がいないという前に、この党がどのような方針で動いていくのかをはっきりさせなければ、どうしようもないだろう。
水俣展を見に行く
この間ボランティアで準備を手伝った福岡水俣展に行った。
展示を見る前に、講演を聴きに行った。
川本輝夫さんのご子息愛一郎さんと、竹下景子さんのお話(写真は川本輝夫さん)
川本愛一郎さんのお話より
- 「救済」というのはおかしい。加害者が被害者を救済するというのは言葉の使い方がまちがっている。
- 水俣病というと、本人が悪いような感じがあるので、この言葉はなるべく使わない
- 自主交渉(輝夫さんは「自主交渉派」だった)という言葉が好き。受け身では何も変わらない。
- 小学生に「水俣病は傷害殺人事件だ」と言ったら先生に注意されたが、父親は「大量無差別殺傷事件」と言っていたので、笑ってしまった。
- 胎児性水俣病患者への補償金は「働けないから」5万円。人間を働けるかどうかでしか見ていない。
- 水俣病の公的健康調査は、今まで1回もされたことがない。今までにどれだけの患者が無視され死んでいったかわからない。
- 父がテレビに出ると、必ずいたずら電話があった。ほとんどが無言で切った。
- 支えてくれた(学生)ボランティアには本当に感謝している。
- 「熊本県 川本輝夫」あてではがきが来た。裏には「死ね」とだけ書いてあった。
- 父が歩いて個別調査をしていたのを見かねて、原田正純先生がスバルを買ってくれた。ドアがこわれていて、助手席に乗っていて怖かった。
- 「熱意とは、ことあるごとに意思を表明することに他ならない」(輝夫氏の言葉)
- 父は勉強家だったが、金儲けは得意ではなかった。宝くじをよく買っていた。
- 父は元々おとなしい人で、父の友人はテレビの輝夫氏を見ていると「別人みたいだ」と言っていた。父が訴訟を起こしていたので、息子には「訴えのテルオ」というあだ名がついた。
- 父は東京で反対運動を続けていたため、通知表の保護者記入欄は空欄だったが、それが父が闘っていることの証明だった。
講演を聴いた後展示を見た。
自分は準備のとき何度も見ていたけど、何回見てもやっぱりすごい。
チッソとの話し合いの中での患者さんの言葉
坂本トモノさん
「わたしは3年間手もあてられない、崩れて病んだ娘を預かってきたんですよ、この手で。夜も夜中も親娘2人が泣いて……そんなことがわかりますか、あんた方には……」
「だからあの娘がもらったお金で、あんたの子どもを買いますから。ねえ、そんで水銀飲ましてグダグダになして、あんたに看病させますから……体全体膿が出てね、腐れて……」
浜元フミヨさん
「親の命がほしい、子どもの命がほしい、体がほしい。嫁ごも子も持っとるとか、あんたどま。」
「人間は何のために生きてきたち思うか。人間は何のために生きてきたち思うか!」
こんなに迫力のある言葉を、私は今まで聞いたことがない。
私は18才でこの患者さんたちの声を聞き、そこから生き方が変わった。
よかったのかどうかわからないけど……自分にとっては今でも大きな言葉だよ。
家族さんも真剣に講演を聴いていた。悲しいところでは自然に泣く。
家族さんの泣いている姿はかわいい。この人の才能だって思う。
あの人の泣いてる姿も信じられないくらいきれいだったよ。覚えてる……
他にも支援者さんのお話を聞いたりで、かれこれ4時間ほどで会場を出た。
疲れたけど来てよかった。
あんまり入場者が多くないとのこと、たくさんの人に来てほしいな。
本当は同じなのに
弁の立つ橋下市長とやりあってもしんどいだろうし、今の彼と話しあうのは虫酸が走るほどイヤだろうから(セカンドレイプになりかねない)、キャンセルしたお気持ちもわかるけれど、見ている側としては何とか話し合いをしてほしかった気持ちもある。
(元)従軍慰安婦さんたちを非難する意見も多くあるが、私はむしろ日本の多くの人だって、橋下市長よりはこのおばあさんたちの立場に近いことを言いたい。
戦争が起こって前線に行かされ、泥水を飲み上官のいじめに耐え、正しいかどうかもわからない(誰が天皇を生き神だと本気で信じるか?)殺し合いに命をかけ、その多くが戦死ではなく餓死や病死していった日本兵は、まぎれもなく当時の日本政府による戦争の被害者だ。
働き手を失って貧困に耐え、言論思想の自由を奪われ、空襲で家屋を失い傷つき、結果的に家族を失い、泣きくれた日本の女性たちだって戦争の被害者だ。
そして外国で、日本軍によって殺され奪われ強姦された多くの人々、さまざまな手段で徴用され日本兵の性欲処理のために性行為を強要された女性たちも、戦争の犠牲者だ。
あの戦争がなければ、日本が朝鮮や中国などアジア諸国を侵略しなければ、これらの被害はなかった。これらの被害の責任は基本的には日本政府にある。
日本が戦争を起こさなければ、この国にはそれなりの損失があったかもしれないし、アメリカ等の植民地になったかもしれない(ただ現状だってある意味アメリカの植民地と言えるが)。
だからといって、これだけの被害を及ぼした政府や暴走した軍部の責任がないとは絶対に言えない。
従軍慰安婦を利用して性欲を処理した日本兵は、加害者でもあるが被害者でもある。
教科書に慰安婦の記述をのせることについて「日本人が悪魔であるかのように記述するのは許せない」という意見があるが、人間は誰でも状況によってはそのような行為に及ぶ可能性があるので、日本軍のひとりひとりの人格が悪魔であるということではない。
教科書に慰安婦の記述を載せるとすれば、「戦争になればこのような異常な事態も起こり得る」という視点を持たせる意味があるだろう。これは歴史を教える上で重要な視点だと思う。
つまり大きく見れば、日本外国を問わず従軍慰安婦の人も、慰安所を利用した日本軍の人も、戦争によってそのような状況に追い込まれたという意味で同じであって(そのような形で性欲処理をするということが、男性にとっても屈辱であることを想像できないだろうか)、その日本軍の子孫である私たちが従軍慰安婦に偏見を持ったり反感を持つのは、悲劇と言うより喜劇であろう。
橋下市長が従軍慰安婦を必要だったと言うのは、前に書いた通り、彼が戦争を否定する意志が全くなく、上に書いたような莫大な被害が起こることを当然だと思っているからだ。
橋下市長や安倍首相は、自らが戦争に行って慰安所を利用することもなく、彼らの家族が慰安婦として(意志があろうがなかろうが)兵士の性欲処理の相手をする可能性もないと思っているだろう。
つまり彼らは被害者にならない「純粋な加害者」なのだ。実際に安倍首相の祖父は戦時中にそのようにふるまった。
しかし私たちの祖先の大多数は、加害者でもあるが被害者でもあったろう。
もしこの国がもう一度戦争に巻き込まれれば、私たちの大多数も加害者であり被害者になるだろう。
そのような立場にある私たちが、かつての被害者の代表である従軍慰安婦の方に偏見や反感を持つのはなぜか。
なぜそんな非合理的で自虐的な感情を持つのか。
それが朝鮮人に対する偏見、女性に対する偏見によるものだとしたら、私たちは自らの偏見によって自滅を選ぶことになるのではないだろうか。
歴史に学ぶとは、そういう事実を知ることではないのか。
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■「私は日本軍の奴隷だった」=元慰安婦2人が証言集会―大阪
(時事通信社 - 05月25日 17:01)
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2013052500217
信頼すること
>自民党の石破幹事長は21日の東京都内での講演で、憲法の前文について、「世界の人はみんないい人なので信用していれば平和で安全ですよ、と書いてあるが本当か」と述べた。
>北朝鮮による日本人拉致事件などをあげながら、「みんなが憲法などうそっぱちだと思うようになる方が危険だ」と訴え、憲法改正の必要性を強調した。
憲法の前文の該当箇所は、以下の文である。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。
ここには「世界の人はみんないい人」とは書いていない。諸国民が平和を愛すると書いてあるだけだ。信用と信頼も意味が違う。
どんな国にも、平和を愛し公正で信義に厚い人はいる。そうでない(ように見える)人も、公正でありたい、人間同士の信義を築きたいという気持ちを、程度の差はあれ持っているだろう。
そういう深い意味での人間の性質そのものが、国によってそれほど異なるとは思えない。社会制度や政治のありかたは違っても、そこに生きている人ひとりひとりの「公正や信義」が、国によって大きく異なるとは、私は思わない。
他国との政治権力同士の争い、また戦争によって利益を得る者の「企み」としての戦争は、常に起こる危険があるだろう。
そのような権力者ではない「諸国民」の大多数が平和を望まず、公正も信義もかなぐり捨てて戦争に突き進むというような事態が起こり得るだろうか。
もしそういうことが起こるとしたら、国民自らが政治権力と精神的に一体化し、一種の熱狂によって公正と信義を見失う時だろう。
そういう危険がないとは言えない。かつての日本もそうだったし、他国がそういう事態になるかもしれない。
しかしそういう国の人たちは、本来戦争を望んでいるわけではない。人間にはそういう本能はないし、人殺しを認め勧める文化は世界中におそらく存在しない。
だとすれば、起こり得る「異常な事態」を防ぐために、他国の国民と常に交流し、お互いの公正と信義を確かめ、それが平和に生きるために最も重要なものであることを認識し続け、そして自国の政府や死の商人が自らの利益のために平和を脅かすことを監視し反対し続けることが、私たちにできる、しかも最も安上がりで幸せな方法ではないだろうか。
それがうまくいかずに殺される危険もあるだろう。
しかしそういう危険を覚悟の上で、どんな国の人間にも平和を愛する心があることを信じ、その心に訴え続けることで平和を守っていけるとするなら、これ以上に勇気のある行動はないと私は思う。
このような行動が簡単にできるとはもちろん思わないが、憲法に書かれたこの文章は、世界のめざす方向としてまちがっているとは思わないし、実際にこのように考えている人は世界中にたくさんいるだろう。理想としてこのような考えを掲げる憲法を持っている国があることは、世界中の平和を望む人間に勇気を与え、実際に上のように活動している日本人は、心からの尊敬を集めるだろう。
軍備を持ち、相手がいつ殺しに来るかわからないと言っておびえ続け、他国の人間を信頼せず、偏見を持ち差別を容認し、そうして築いた「安全」は、本当の意味での平和とはほど遠いものではないかと思う。
石破氏が他国民を信用しないのは個人の自由だが、そもそも他国民を信用できない人間に、自国民が信用できるのかどうかも疑問だ。
おそらく彼にとっては日本国民ではなく、自分の信用できるような思想を持った人間、あるいは自分の権力によって従わせられるような人間だけが信用に足るのであって、それ以外の日本人は他国人と同じように信用せず、したがって本来の意味での「全体の奉仕者」とはなり得ないのではないか。