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かたが こる

棋譜をだらだら並べる人の話

家の中の重たいものをなるべく片付けてみた。夏の装いとまではいかないけれど、それなりに季節を渡る準備に取りかかれたはずだ。頭上を渦巻いている困難に関して授業で聞いて思った事があったので書こうと思う。

恋とはどんなものかしらと言った時に、相手の特別な存在になること、相手の物語の主要人物になりたい(あるいは私の物語の主要な登場人物になってほしい)と願う事だと講師が定義していた。なるほどそうだと思って、同時に何だか苦しくなった。自分は人から見られるというより比較されることについて大袈裟なくらいの恐怖を感じていて、それが相手に身を委ねきってしまうことを畏怖させているんだと思ってる。親から受けた愛情を誰かに体現しようとして、それが結果的に意味も有耶無耶な贈与の形になっている。傷つくのが怖いし裏切られるのが怖い、実際のところ告白さえしたことがないくせに。

考えていることがあって、自分は将来万が一子供が出来たとしても、絶対に本なんて読ませるものかと思っている。この妄想癖、取り越し苦労、臆病な自分の性が本当に憎い。物語のパターンを頭に染み込ませてしまったせいで。思い切って未知の状況に飛び込んでいく勇気があったら、人生は変わったんじゃないかといつも悔しくて悲しい気持ちになってしまう。

でも、三年後期から始めてみた「受けの良い」女子大生像は多分、自分は気に入ってないというか、きついんだと思う。そろそろ止めても良い。自分に素直な反応をしようと授業を聞いてから思った。相手が何を考えるかを読み取るのも必要だけど、でも上辺だけ取り繕ったってどうせぼろが出るから、それなら素顔で向き合った方が良いんじゃないかなあ。恋に関しても。友達に関しても。誰に関しても。

 

好意を履き違えがちなまぬけの話

最終面接の日に伺ったがらんとした本社ビルの一階で、他の就活生に取り残された自分はぼんやり観葉植物の葉の裏を眺めていた。時刻は16時過ぎで、大手町のビル群を貫く夕陽と言うには明るすぎる日差しが人気の無いフロアを満たしていた。目の前ではペッパーくんが虚空に向けてしきりに話しかけていた。私はそこには居ないのに。

六月になってから転換をしようと考えている。心の在り方、社会への目配せの仕方、ゆっくりとまた別の人になっていけたらと思っている。前半期の自分を振り返って特に何か大きな間違いを犯したとかいつもと極端にズレた行動をしでかしたとかそんなことは無いけれど、でも、何だか細かなミスが多かったような気がする。そろそろ八方美人も通じないし、周りが年相応に順応していく中で自分も流されなければいけない場面というのがたくさんあって、いつまでも不調な設定に固執していてはいけない。変えるなら今だ。

ももちろん新しく学んだ事もあるからそれを踏まえていければなと思う。例えば勉強は自宅以外の場所でなるべく継続的に通う形でやったほうが良い。初対面の人に対してもそんなに恐縮しなくても良い。相手は私の事を知らないんだから。独りよがりな感情で恋を始めないほうが良い。悲しいことに自分は人の事を好きになったり好きな人と断続的に関わる事が苦手だけど、でも今年も半分くらい来たし前向きな気持ちで次を探そうと思う。就活もまだ終わってないし。というか本番はこれからだから。

色々やりたいことはあって、それなりに時間も残ってるから、ちゃんと自分の中でなりたい自分の軸を決めて掛かれたらいいなと思ってる。優しい人でありたい、素直な人でありたい、思慮深い人でありたい、趣味に没頭できる人でありたい、少しくらいしんどくても顔に出さない人でありたい、まだまだあるけど大まかに言えばこんな感じ。

囲碁と水泳を頑張ってみようと思う。体力作りと、頭の体操のつもりで。とりあえず書いておいた方がやる気が出るかなと思って。

 

串焼き屋に入ってみたい人の話(閑話)

↓ 誕生日までにこれを心がけてみようリスト

 

1. 姿勢を正して生活する(前屈みになりがち、背筋ぐにゃりがち)

2. 人の好意を試すような言動を慎む(うっかりしがちだから会う前から気をつける)

3. 準備を怠らない(後々何も残らなかった感覚に落ち込みがち)

4. スマホをいじりすぎない(そんな暇があったら参考書を開こう)

5. お金の節約(お弁当を持っていく、外食はリーズナブルに)

6. 嘘をつかない(正直今もあんまりついてない・つけないから大丈夫だと思う)

7. 体調管理をきちんとする(色んな事の根本、除湿もやり過ぎはよくない)

8. 沈黙を守る人でありたい(難しいけど会話の半分くらいは黙っててもいいみたい)

9. 歯磨きを忘れない(忘れちゃうんだなこれが)

10. 気楽に過ごす(もちろんプレッシャーも私の最大の推進力であることに違いない)

 

とりあえず10挙げてみた。人間関係も自分の将来設計も勉強も、色んな事に意味を持つんじゃないかと書きながら思ってる。どうか22歳の私が、何かしら成長した姿でその朝に目を覚ましますように!

冬と眠る人の話

 どうしても眠れない夜は、自分がそのままベランダへ出て行って、塀を越えて向こう側へ墜落する想像ばかりしていた。思春期の私は二段ベッドから下りていく際の梯子のひんやりとした感触や、窓へ辿り着くまでに自らが普段使っている椅子の背へ触れる感覚、施錠を解いて裸足のままざらついた外気へ身を浸し、洗濯竿の無いところまで慎重に歩いていく様子を鮮明に頭の中へ思い描くことが出来た。それから暫し生まれ育った街の夜の姿を堪能する。頭の中で作り上げた満天の星空と月明かりに照らされて、下世話で騒々しいこの街はてらてらと発光している。余所者には碌でもないとレッテルを貼られがちだが、それでも確かに自分の両親が出会い、腰を落ち着け、自分たち家族の拠点となった土地である。しかし感慨は微睡みの中で大した意味を持たない。結局私は冷たく分厚いコンクリート塀へ手のひらを押し付け、力を込めて不器用にも自らをその上へ持ち上げ、躊躇も戸惑いも無く、最後まで引っかかっていた爪先をだらりとさせることで、逆さまになって駐車場の裏口へ続く人気の無い路地へ落下していく。

 そんなことを繰り返し念じていれば必ず眠気は私を抱き込んでくれる筈だと信じていたし、実際にその期待が裏切られたことはない。内容は何でも良かった。ただ、私はベランダというか、外の空間での物語のほうが好きだっただけだ。転落でなくとも、最終的に私が死んでしまうストーリー仕立てであるなら、それは自分を死と瀬戸際を共有する眠りの世界へ限りなく近づけてくれた。

 

 アラスカまで行って、その大地の果てに一体何があったのか振り返ると、結局、そこには何も無かったというのが一番正しい。氷点下三十度を下回る仄暗い闇の中で、街灯りに浮かぶ空を反射して光る雪の世界で、多分、私は文字通り思考を凍らせて、そして温かいロッジのキッチンで、意味の無いラジオ番組の流れる送迎の車内で、コンセントの見つからなかった列車で、凍り付いた大河を見下ろす飛行機の中で、全て一瞬のうちに溶かしてしまった。だから何も残っていない。二月、帰国したばかりの自分はそう記している。

 四月の私が漸く辿り着くように、自分の生活と切り離された何か、全く異なる生き物たちの息づかいを飲み込むためには、それなりの思索を必要とするのだろうと思う。私は夏のアラスカを見なかった。冬、大半の動物が休眠し雪原の深みへ身を隠し、凍えた木立の間を潜って雪の重みで不自然に曲がった枝を助けてやる毎日だった。だから私の中のアラスカは、多分次に訪れる機会がやってくるまで真っ白な景色のままだ。例えば柔らかな雪に包まれてひっそりと呼吸をする茂みだったり、線路の左右に引き裂かれたムースの親子が必死に膝までの雪をかき分けて我々から遠ざかっていったり、灰色と水色の境目くらいの色合いに凍り付いた美しい川の傍に残されたウサギの足跡だったり、その土地には確かに私の日常とはかけ離れたもう一つの時間が存在していて、彼の地から戻って以来、私は就寝前のひと時を今も変わらぬ生態を守り続けているのであろう彼らの姿を想像して過ごすようになった。

 アラスカは東京とは違う。もっとずっと遠くで、何千年も前にアリューシャン列島を境に分たれた歴史の彼方で、今も我々とはかけ離れた生活が針葉樹林の向こう側に広がっている。彼らは極寒の試練の季節を、分厚い衣類に包まり、たまに狩猟へ出かけ、温かい家族の団欒のうちに古い伝承を語り継いで暮らしている。庭先では僅かな食料を探し求めてムースが古い雪を踏み分け、嘴の白い美しい鳥がじっと世界を見つめ、そしてその様子を、悠久の時を経て超人的な力に君臨するノーザンライツの光が更なる高みから見下ろしている。

 私が雪を払ってやり、不格好に立ち上がったあの枝はどうしているだろうか。ある日アジアの島国からやってきた観光客の一挙動で、これから数百年の彼の生き方が不意に転換されてしまったということはないだろうか。そうした数秒に思える瞬間の積み重ねで、彼らの長い年月は形作られているように思う。それは宇宙に似ている。砂漠にもにている。沈黙するデナリの影にも似ているし、凍り付いたユーコン川の静けさにも似ている。そんな事を考えながら、今日も私は眠りにつく。

 

 

車内で本を読む人の話


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文化の日の箱根


たぶん行きの列車で車窓を眺めつつ斜め読みしていたのがレイモンド・チャンドラーロング・グッドバイで、そのおかげでトンネルを抜けた先の集落の近くに聳える化学工場だとかひと気のないニュータウンだとか、果ては登山列車から覗く山道やスイッチバックの行き止まりの薄暗い駅、あたかも秘境であるかのように振る舞う温泉街なんていう風景を歩き回る背の高い探偵の影ばかり探す旅でした。

そもそもの目的は箱根で1110まで行われていたスイーツフェスティバルに乗っかって、季節の甘味をだらだら食べ歩きたいという何でも無い理由、それにたまたま降って湧いた休日が重なった感じで。

でもとにかく美味しい旅行だったのは間違いありません。強羅公園内の明るい洋式レストランの窓際で柑橘の香りのするスポンジケーキを頬張り、ケーブルカーの行列の手前で買った温泉饅頭を齧り、ロープウェイに並んで北条早雲始め戦国大名たちの複雑怪奇な対立事情を語り合う祖母とその孫の会話を背後に聞きながらチューインガムを転がし、早雲山の噴煙を横目に黒卵アイスクリームを舐め、遊覧船を降りた元箱根で箱根神社にお参りした帰りに木立の囲う静かなレストランで(食べれもしない)肉料理とチョコレートケーキを二つ注文して、箱根湯寮の温泉につかったあとでどこから出て来たかよく分からない蜜柑の皮を剥きました。こいつがどうしてこのタイミングで出て来たのか、どうして温泉の送り迎えサービスのバスの中で喚く親子連れの声を背景に焦ってうまく剥けない皮を引っ掻いていたのか全く思い出せないんですが、まだ寒くなりきっていないせいで少しだけ酸味の残る味を舌先に感じながら今日は楽しかったなぁと真っ暗な戸外を見て素直に思えたことを覚えているだけで満足です。

ちなみに小説は読み終わりませんでした。帰りの電車、到着してからも暫く居眠りしていたサラリーマンが出発十秒前くらいに慌てて飛び出して行ってから、列車が騒々しい仕事帰りの人びとを飲み込み、吐き出し、また飲み込み、腹が少しだけ膨れた状態で最寄りの駅に着くまで、喧騒を避けて活字に没頭する振りをしたり眠りこける振りをしたりいろいろやってみたんですが結局何を全うすることもなく私は帰路につきました。最高の一日でした。