眞人はなぜ着替えるのか 「君たちはどう生きるか」ネタバレ感想文
ネタバレ全開です、OKだという方だけつづきをどうぞ
「肝心の場面に居合わせられない蚊帳の外の人の話」というのが「君たちはどう生きるか」のファーストインプレッションだった。
最初に違和感があったのは、冒頭の火事のシーン。
夜半に目をさました主人公・眞人が「もののけ姫」を彷彿とさせる階段ダッシュで2階にあがると、遠くで母の病院が燃えているのが見える。
これまでの宮崎映画なら主人公が一目散に飛び出していくはずの場面だが、眞人はわざわざ一度自分の寝床に戻って外行きの服に着替えてから病院へ向かう。
母より服、明らかに変である。
学校の同級生と喧嘩したあとに自分で頭を傷つけて流血するシーンでは、「誰にやられたんだ」と聞く父親に眞人は「階段で転んだだけ」と答える。
この2つのシーンは同じものを表している。眞人の卑怯さ・姑息さである。
必死なフリをしている自分に酔う姑息な少年
わかりやすい喧嘩の方から行こう。眞人は自分で頭に傷をつけるけれど、「同級生にやられた」という嘘まではつきたくないと思っている。同時に、そんな嘘をつかなくても、早合点した父親が喧嘩の相手を罰してくれることも当然わかっている。
つまり眞人がやってるのは「別に自分が罰してくれと言ったわけではない」と自分を正当化する言い訳の余地を残しつつ、親の力を使って喧嘩相手の同級生に仕返しを目論んでいる。完全な卑怯者ムーブである。
病院のシーンはもう少し複雑だ。眞人は病院の燃え方を見て、もう母の死に自分が間に合わないことを直観している。それどころか「間に合いたくない」とさえ思っているように見える。
母の死という重大な場面に居合わせてしまうことへの恐怖が、現実と向き合うのを邪魔しているのではないか。
そうだとすると、病院に向かって走るシーンの「いかにも必死」な演出の意味も変わってくる。あれは母を心配する眞人の不安と同時に、「自分は母を心配するいい人間だ」というセルフイメージを守ろうとする眞人の卑怯さを強調している。
この時の眞人はもう母に会えないことを頭では理解していて、服を着替えに部屋に戻るほど冷静である。にもかかわらず「まるで必死かのように」走ってみせる。炎もいかにも陶酔的に劇的に演出されている。
このとき眞人は、自分の卑怯さを直視しないために、必死なフリをする自分に酔っている。これまた姑息としか言いようがない。
眞人=「バルス」と言えないパズー
映画の後半で、眞人は自分が卑怯な人間であったことを認められるようになる。ではその内面的な成長はいつ起きたか。それはもちろん母親が遺した「君たちはどう生きるか」の本を読んだ時だ。
ただ、この映画を「わかりづらい」と感じた人が多い理由はまさにここにある。と思う。本を読んで眞人はたしかに変化しているけれど、ポイントは変化が起きているのは「内面だけ」なのだ。
つまり本を読んで以降の眞人は、世界の重要な場面から目を背けず自分も関わろうとする意志は持っている。しかし、世界を変える力は手に入れていない。そこが過去の宮崎作品と違うところだ。
過去の宮崎作品の主人公たちは世界の運命を変える力を秘めていて、劇的な瞬間に居合わせ、自分の意志と力で世界(と自分)の運命を変えて見せる。
ナウシカも、パズーもシータも、サンもアシタカも、ハウルも宗介もみんな世界を変える意志と力の両方を持っていて、劇的な何かを起こす。
でも眞人が与えられたのは意志だけで、力は持っていない。つまり眞人は「バルスと言えないパズー」「魔法が使えないハウル」なのだ。
この徹底した無力さによって、一見すると眞人は自力ではほとんど何も変えることができない人物に見える。それがこの映画のわかりにくさを形成している。
眞人が無力な存在であることを示す場面は数えきれないくらいある。
墓地の扉を開くのはペリカンに押されたからで、ペリカンの群れから助けてくれるのはキリコで、水飲み場やトイレの場所を教えてくれるのもキリコだ。
その後もインコの家でヒミに助けられ、ようやく夏子の部屋にたどり着いても「大嫌い」と罵倒されて失神、再び捕まっているところをヒミに助けてもらい、塔から落ちれば今度はアオサギが助けてくれる。
インコの王様に階段を切られるシーン、過去の宮崎作品なら眞人は大ジャンプしたり崖にしがみついたり、なんならルパンのように空中を平泳ぎしてでも上の通路にたどりつくはずだ。しかし眞人はいとも普通に落ちて、瓦礫の下に埋まる。彼にはアニメーションの魔法がかかっていない。
これほど助けられっぱなし、やられっぱなしな主人公もちょっと珍しい。
クライマックスの場面でも、積み木を崩して大叔父の世界を崩壊させるのは眞人ではなくインコの王様だ。
眞人は「僕は戻って現実の世界に向き合います」と意志だけは表明するものの、トドメのバルスを唱える役目は与えられていない。
夏子も(眞人の言動に影響は受けているものの)最後は自力で逃げ出してくる。
大事なことはいつも手が届かない場所で起きる
でも大事なのは、ちゃんと眞人が成長してないかということだ。卑怯だった自分を認められるようになり、現実と向き合う覚悟もできている。彼の内側では確かな変化が起きている。でも、それを世界に反映する力だけがない。
そもそも眞人は主人公のくせに、大事なことが起きる場面にほとんど居合わせず、蚊帳の外に置かれ続けている。
母は見えないところで死に、知らぬ間に新しい母ときょうだいができていて、父と夏子は視界のギリギリ外でキスをする。一家の裕福な生活を支える工場の中も一度も出てこない。
もっと言えばこの映画全体が、空襲が最も激しかった時期に東京に「いなかった」少年の話である。
東京が炎上する肝心の瞬間には居合わせられなかった。悲惨な運命を避ける力もなかった。それでも今度こそ現実と向き合って生きると心に決める。
だからこの映画のラストシーンは、一家がのどかな宇都宮を離れて焼け野原になっているであろう東京≒現実へ戻る場面で終わるのだ。
その眞人にとって、大叔父の世界が崩れる時、「何もできなかったけれど決定的な瞬間に居合わせることができた」のは特別な経験である。あの場面で眞人はやっと世界に「間に合った」のだ。
「風立ちぬ」はなりたかった自分、「君たちは~」は本当の自分
眞人が宮崎駿の分身であるならば、眞人が感じている「世界をどうにかしたいのに自分にはそれを変える力が全然ない」という無力感はそのまま宮崎駿自身のものということになる。
前作の「風立ちぬ」を観た時、私は「宮崎駿が自分のことを描いた」と思った。でも今から振り返れば、あれが「なりたかった自分」「格好つけた自分」の話だったことがよくわかる。その気持ちを抑えて本当の自分に迫ろうとしたのが「君たちはどう生きるか」だったのだろう。
戦争という重大な場面に居合わせ、現実に干渉する力を持ち、全力で世界と向き合った堀越二郎。
一方で宮崎駿は自分のことを「大事な瞬間に間に合うことができなかった、世界を変えることができなかった無力な存在」だと思っている。あれだけの傑作を作り続けてきた空前絶後の大天才が、である。
たぶんその無念さ・無力感には、戦争に間に合わなかったこと、学生運動が失敗したこと、アニメーションの世界で敵わない才能に出会ったこと、その筆頭である高畑勲が先に逝ってしまった喪失感なんかが、ないまぜになって含まれているんだと思う。
齢82になった宮崎駿が自分がずっと抱えてきた無力感をさらけだし、その中に「それでも自分は世界と向き合う意志だけは持って生きて来たんだぞ」という矜持を一匙しのばせたのではないかと気づいたとき、私は泣けて仕方がなかった。
だってこの映画はあまりにも遺言に見えすぎる。なんかもう、いっそ映画なんて作らなくていいから私が死ぬまで生きててくれないかなぁとさえ思ってしまった。本人はそんなこと全然望んでないのだろうけど。
「嫌いなことは何個もあるのに、情熱を持ってやりたいことは特にない」そんな現代人のための切ない物語 「EO」
中学生のようなことを聞くんですが「本当にやりたいこと」ってありますか?
ある、と自信を持って断言できる人は続きを読まないでたぶん大丈夫です。頑張ってください、応援してます。
でも正直、8割ぐらいの人は答えに詰まるとおもうんですよね。
まぁまぁ楽しいとか、惰性で無理なく続いてる趣味とか、生活のために仕方なくとか、そういう感じでやってること・できることは結構あっても、本当に情熱的にやりたいことって聞かれたら困りませんか。
「EO」は、そういうタイプの人に突き刺さる映画だと思います。泣けて仕方なかった私も、そっちのタイプです。
ざらっとあらすじを追うと、
サーカスで団員の若い女の子に可愛がられてそれなりに幸せにやっていた主人公のロバ。いろいろあって売られてしまい、牧場に収容されるんだけど逃げ出して、森の中を放浪して、街にたどり着いたと思ったらサッカークラブのファンに歓待されて、かと思うったらライバルチームのファンに殴られて、怪我して保健所に送られて、そこからも逃げ出して金持ちの放蕩息子みたいなのに連れ回されて、最後はブタの群れに紛れ込んで…
というもの。
一言でいえば「ロバが放浪する映画」。
もう少しちゃんと説明すれば「主人公のロバの目を通して、いろいろな種類の人間とか犬とか馬とかオオカミを見る映画」でしょうか。タイトルの「EO」はロバの名前です。
「EO」がやりたいことがない人に刺さる理由は、まさにこのロバが、人間にも他の動物にもなれない哀しさを抱えているからです。
「EO」に出てくる動物たちは、本能≒先天的な動機に突き動かされて生きています。
馬は鼻息荒く噛み付いたり走り回る。オオカミは獲物を狙う。犬はロバに吠えかかる。フクロウは木の上で鋭い目をしている。
馬の呼吸音は生命力に満ちているのに、ロバの呼吸音は単調で静かで何を考えているかわからない。目や動きの対照的な撮り方を見ても、他の動物が持っている本能による動機づけを欠いた存在としてロバは描かれています。
一方で人間たちは、慣習や文化≒後天的な動機に振り回されて生きています。
地元サッカーチームが勝った負けたで大騒ぎ。動物愛護という正義に酔ってデモ。スーツを着て牧場ビジネスでご挨拶。はたまた道ならぬ年の差近親恋愛に身を焦がす。
人間が持つそれらの動機をロバはもちろん持っていません。だってロバですから。
中には訓練されて後天的な動機で走っているように見える競走馬なんかも登場して実際はもう少し複雑ですが、何にせよみんな何かしら動機を持って生きています。
そんな中でロバだけが、やりたいこと≒内発的な動機をほとんど持たずに生きているように見える。これがあまりに切ない。
自分に危害を加えそうな人に蹴りを入れたり、うるさい音を立てて騒ぐスポーツバーから逃げ出したり、「やりたくないこと」「嫌いなもの」はいくつか出てきます。でもロバが自分の意志でやりたいことが全然見えない。
唯一あるのはサーカスで可愛がってくれた女の子を慕う気持ちですが、女の子の生活はもう恋愛>ロバになっていて、ロバを助けてくれたり牧場から盗み出してくれたりは全然しません。彼氏のバイクの後ろに乗って走り去っていくだけ。その後はロバの一方的な片思いです。
つまりロバが持っている唯一の「好きなもの」は、もう決して取り戻せない過去へのノスタルジーだけ。ロバがやりたいことはこの世界に実質的に1つも存在しないんです。
この出口のない迷路感。でも私にはこのロバの動機の不在がぜんぜん他人事だと思えず、なんともやるせない気持ちになりました。長年抑え込んできた本能はもう思い出せず、社会適応のために頑張ることにも疲れてしまったら、一体どんな動機が残るというんでしょう。
私が「EO」を見た映画館には新聞や映画誌に載ったコメントが張り出されていて、その大半が「ロバの目を通して見える人間の愚かさ」というテンションで書かれていたんですが、「EO」がそういう映画なのか正直けっこう疑問です。
ロバの目から見て、サッカーの試合や正義のデモで吹き上がる人間たちは確かに愚かに見えます。でもそれ以上にロバの「何もなさ」の方がずっと切なく見えてしまう。
というか「人間の愚かさ」系の映画って大体「いい結果につながらないことは薄々わかっていてもその選択肢しか選べなかったんだよね、人間って愚かだよね、わかる…」的な作りになっていて、愚かさを自分ごととして受け止めるわけですが、「EO」に登場する人間たちはあんまり感情移入先としては描かれていないように見えます。
むしろほとんどの観客はロバの側に共感しながら見ることになるはずで、人間はむしろ理解不能な他者として登場します。その人間たちを「あいつらバカだよね」的に遠くから見るのはやっぱりちょっと違う気がする。人間の愚かさを認めるなら、自分ごととして受け止めてこそでしょう。
それよりも本筋は圧倒的にロバの切なさだと思います。人間が愚かだとしても、じゃあこのロバが賢いかというと全然そうではなく、むしろ不幸にさらに近い位置にいて、しかも自分の生き方を変えることができない。でも人間だってほとんどの人はそうやって生きてる…というよりもそういう風にしか生きられずにいるんじゃないでしょうか。
ちょっと優しくされた人にふらふら付いてっちゃって、合理的な選択ができず、でも嫌いなものだけは一丁前に反発してしまう。そういう愚かで哀しい存在としてのロバ≒私たち。
「EO」が泣けるのは、ロバを愚かな存在として描きつつも、全体に「(難しいかもしれないけれど)どうにか幸せになってほしい」という祈りのようなものが込められているからでしょう。その諦念混じりの祈りに私は結構やられてしまいました。
新宿シネマカリテでまだやってます。ルフィや炭治郎のようには生きられないと感じる全ての人にオススメです。
仕事や勉強をクエスト的に攻略するゲーマーたちは幸せに近づいているか問題
それなりに人口が多いゲームで上位のプレイヤーたちには、共通したある特徴……というか「クセ」がある
彼らは、現実世界の課題(仕事や勉強)を、ゲームのクエストのように捉えて攻略方法を探す生き物である。
たとえばこんな感じ
・まず最初に勝利条件・数値目標を考える
・その達成に使えそうな効率のいい方法を考える
・禁止やペナルティなどのルールの枠内で、効率よく勝つ方法を考える
・自分の手持ち能力で優位な部分と弱い部分を考える
上位ゲーマーたちは、その試行錯誤がうまい。センスと量だけで上がる人もいるのかもしれないけど、上位5%くらいに入る人はだいたい自分なりの上達ルートを持っていて、ゲームの成功体験を現実世界にも適用しようとする。つまり、ゲームのクエストのように勉強や仕事と向き合うことになる
~余談~
5%はだいたいLoLならプラチナ3、VALORANTならアセンダント1、ストVならダイヤモンド、雀魂なら雀豪3、くらいのイメージ。学力だと同世代の上位5%は横浜国立大とか広島大くらいに相当する。偏差値で言えば66~67。
ネット上ではプロやチャレンジャーばっかり目にはいるので勘違いしそうになるけど、上位5%は十分に「ゲームが上手い」人たちです。誇ってください。
~余談終わり~
で、ゲームが上達する方法は実はちょっと前に流行ったPDCA(plan do check actionっていうやつ)によく似ていて、つまり現実世界でも有効なので結構うまくいく。その結果なにが起きるか。
上位ゲーマーたちは現実の仕事や勉強を効率良く攻略し、社会的成功に向かって走り出すことになる。
私が知っているだけでも、YouTuberやプログラマや編集者やビジネスマンとして成功した元ゲーマーたちがいる。彼らは単にゲームが上手いのではなく、「何かを上達することが上手い」という上位スキルを持っている。
だからゲーマーは現代社会におけるエリート候補生なのだ!
…という結論なら、こんな文章は書いていない。
私の問題意識は「与えられた課題を攻略するのは上手いはずなのに、息苦しそうに見えるゲーマーたちが結構いる」という点にある。
ゲームの次のハマり先として仕事にハマった人たちは、基本的にワーカホリック気味になる。次々にクエストを与えられる状況を望み、誰も与えてくれなければ自分で自分に次々とクエストを課すようになる。
達成する→クエストが降ってくる→達成する→次が降ってくる、というサイクルが回って本人がそれにモチベーションを感じている間のゲーマーは強い。何でもハイスピードで上達し、攻略し、成果を出す。
でも私の視界には、クエストのジャンルや種類が有限なことに気づいて「飽き」を自覚した瞬間に、立ちすくんでしまうゲーマーたちの姿だ。彼らはこう言っているように見える
「次は何を攻略すればいいですか?」
「全力を出しても報いられる次のゲームをください」
でもそう思うのの無理はない。だって、ゲーマーたちに成功体験を与えたゲームというジャンルは、現実世界よりも明らかに「よくできている」のだ。飽きないように、快感が持続するように誰かが調整してくれているのがゲームである。
ゲームを攻略・上達する方法は現実世界にも適用できるけれど、現実世界はそこまでプレイヤーのモチベーションを維持しようとしないし、親切に次のクエストも提示してくれない。一度やめた人への復帰ボーナスもない。
「なんで頑張ってたんだっけ?」と思った瞬間に立ちすくんでしまう人の気持ちはとても良くわかる
とりわけ理念や理想から生まれたモチベーションではなく、クイズやパズルを解くような上達の快感・攻略の快感をモチベーションにして快調に走っていたタイプほど、「飽き」は重い。
見たところ、その「飽き」は30台でやってくる人が多いようだ。そのあたりで人間は自分の人生の目的を考え直すタイミングがあるのかもしれない。ミドルエイジクライシスという言葉もある。
私が知る何人かの「立ちすくんだゲーマーたち」が、その後にどんな展開を迎えるかはまだわからない。
もう一度なにか別のモチベーションを見つけて競争社会を走り出すルート、
伝統的な価値観(家庭とか趣味とか)に回帰して別の人生を生きるルート、
新しい上達の快感を求めてジャンルやゲームをホッピングしながら生きるルート…
さすがにもうちょっとあるだろうけれど、意味的に分類すればルートは案外少なそうな気がしている。新しいルートを知ってるぞという人はぜひ教えてください。
要するに何が言いたいかっていうと、「最近ちょっと迷子だな」と感じるゲーマー気質の人は、自分がどんなモチベーションで動いていたのかを考えるとちょっとマシになるかもしれない、っていうことです。人生は意外と長い。
すずめの戸締まりは「無敵の子」だった ※ネタバレあり感想
以下、「すずめの戸締まり」のネタバレを含みます
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新海誠の新作「すずめの戸締まり」はぎょっとする場面が多い映画だ。
震災の風景や黒い日記はもちろん、「オマエハイラナイ」とか駐車場のアレとか。
中でも特に印象に残ったのが、2つめの扉を閉めるシーン。
愛媛の廃校に後ろ戸が開く。それを閉じようとする草太にすずめが迷わず駆け寄る。
草太はすずめに向かって「君は死ぬのが怖くないのか」と叫ぶ。
それに対してすずめは「死ぬのは怖くない」と即答するのだ。
見ていた瞬間も「いま変じゃなかった…? あれ、あんまりその話を深める感じじゃないのか…」と引っかかったが、後から考え直してもやっぱりこのセリフが「すずめの戸締まり」の出発地点なのだと思う。
死ぬのなんて怖くない、私の命なんていつ無くなっても構わない、もう失って困るような大事なものは1つも残っていない……そう感じる「無敵の子」としてのすずめ。それが日本を縦断するロードムービーの出発点だ。
「無敵の人」は2008年頃にひろゆきが言い出した言葉で、自分の将来に絶望し、もはや何も失うものが無いゆえに躊躇なく犯罪や社会的逸脱に踏み出す人たちを指す。
前作「天気の子」の帆高がどうみても社会から孤立した無敵の存在だったのに比べると、すずめは一見ちゃんと日常を生きている。
学校へ行けば冗談を言い合う程度の友達が2人いて、育ての親のタマキさんとも談笑して家を出る。
それでもすずめは、まったく躊躇せずに日常を捨て、家を離れてずんずん東へ向かっていく。その行動力はアクティブというより自暴自棄に近いものだ。
すずめが東へ向かう表向きの動機はダイジンの追跡だが、本質的な動機は「ここからいなくなりたい」であり、すずめはミミズや扉が放つ死の気配に惹きつけられて東への旅を開始する。
友人たちがすずめを心配して連絡してくるシークエンスが一度も描かれないのも、すずめと地元の間の距離を示している。宮崎にすずめの居場所はない(友人たちとの会話は、「千と千尋」の家族の会話に雰囲気が似てると思う)。
すずめは旅の途中、愛媛で千果と、神戸でルミと出会う。彼女たちは「無敵の子」であるすずめを現世と繋ぎ止める存在だ。新海監督は丁寧にも、愛媛と神戸で全く同じシークエンスを2度繰り返す。
・すずめと千果やルミは道路で出会う。多くの人が行き交う場所で偶然に、善意によって
・千果とルミはすずめに、生きるために必要なもの≒衣食住を与える。千果がくれるのは服一式(衣)、泣くほど美味しい焼き魚定食(食)、民宿の温かい布団(住)。ルミがくれるのは帽子(衣)、ポテトサラダ入りの焼きそば(食)、スナックのソファ(住)。
・すずめは衣食住の対価として、風呂掃除とスナックの手伝いという労働を提供する。千果やルミとの関係が一方的な「施し、施される」ではなく「持ちつ持たれつ」であることが示される。
・愛媛でも神戸でも、すずめは扉を見つけて急に駆け出し、ボロボロで帰ってくる。それでも千果とルミは暖かく迎え、踏み込んだ質問はしない。
・別れるときはハグをする。「持ちつ持たれつ」のさらに先にある無償の関係性。
すずめが2人と作る人間関係は、この映画における「完全な関係」のテンプレートになっている。助け、助けられ、食事をともにし、ともに眠り、服を身につけ、再会を期して別れを言う。
2回繰り返されるこの関係性のハッピーセットが、すずめと草太の関係の「不完全さ」を際立たせる。
旅をする中で、すずめは草太とも精神的なつながりを求める。そのためには千果やルミとそうしたように、衣食住を共にし、互いの役に立ち、ハグをする必要がある。
しかし椅子に変えられた草太は食事や睡眠ができない。船の上でパンを返されるシーン、愛媛、神戸と念入りに「草太と一緒にごはんを食べられない」「草太と一緒に眠れない」ことが繰り返される。
それでも、すずめは草太との距離を詰めていく。
草太が御茶ノ水で要石になってしまった後、すずめは東北へ向かう決意をして草太のアパートへ向かう。そこでシャワーを借り(住)、靴を借りる(衣)。
「草太さん、借りるね」
さらに東北で再会した草太は、人間の姿ですずめに白い上着を渡す(衣)。別れの直前に草太はすずめにハグをする。
丁寧に衣食住のTo Doリストをこなすことは2人の心の接近と同時に、「まだ2人で一緒にできていないこと」の存在を際立たせる。
すずめと草太が一緒に食事をする場面は、ラストまで一度も描かれない。というか草太は人間の姿に戻る前も後も、何かを食べている場面がない。芹澤でさえアイスクリームを食べているのに。
この欠落はつまり、すずめの「いつか草太と一緒にご飯を食べるんだ」という未来への希望の裏返しである。生きていく目標と言ってもいい。
すずめにとって千果やルミとの関係は大切なものだが、映画内の基準ではいったん完成している。
一方で草太との関係にはハッキリした欠落があるぶん、進展の可能性が示唆されているのだ。
自分の未来に期待している人は、もはや「無敵の人」ではない。
いつ死んでもいいと捨て鉢になっていたすずめが、「いま一年、いま一日、いまもう一時だけでも永らえたい」と願うように変化したところで映画は終わる。
つまり「すずめの戸締まり」は無敵の子が無敵ではなくなるまでの話であり、未来への期待と、失いたくないものと、もう一度傷つく可能性を手に入れる話なのだと思う。
※一度観ただけなので細かいセリフは違ってもご寛恕ください
ソーがMCUの主人公である理由~なぜダメ男だけが生き残ったのか~
MCUの主人公はアイアンマンでもキャプテン・アメリカでもなく、個人的には断トツでソーである。
世間的にはおそらくアイアンマン主人公説が最大派閥で、次がアイアンマンとキャプテン2人主人公説あたりだと思うが、ソーこそが主人公だと考えるのには理由がある。
ソーは脳筋で、メンタル弱くて、精神年齢低くて、負けたら拗ねる、コーラ飲んで太っちゃう、スーパーヒーローというよりは普通のダメ人間だ。
でもそんなダメ男・ソーはなぜかアイアンマンやキャプテンと一緒にビッグ3扱いされ、しかも3人の中で1人だけエンドゲームを生き残った。なぜソーがそれほど特別扱いされるのか。それはソーが特別な役割を任された主人公だからだ。
ソーが主人公である理由を理解してもらうために、まず「アベンジャーズ=アメリカ」説を紹介する。
この説は文字通り、アベンジャーズという組織がアメリカという国の比喩だと考える。
最もハッキリした根拠は、アベンジャーズが2陣営に分かれて戦う場面を描いたキャプテン・アメリカの第3作にシビルウォーというタイトルがついていること。シビルウォーは奴隷制などを巡ってアメリカが2つに分かれて戦った1861年の南北戦争のことで、つまりはアベンジャーズの内紛をアメリカ最大の内戦に直接的になぞらえている。
ちなみにシビルウォーのポスターは赤と青と星、星条旗モチーフである。
そのアベンジャーズ≒アメリカの中で、アイアンマンとキャプテンは国を二分する巨大勢力をざっくり象徴している。アイアンマンが民主党≒北部≒進歩主義・個人主義リベラル派を代表し、キャプテンアメリカは共和党≒南部≒古き良きアメリカ・国家主義保守派を代表している。
その2人の価値観がすれ違い、交差し、混ざり合っていくダイナミズムがMCU全体の大きな流れを駆動するエンジンになっていた。エンドゲームまでの物語を動かしていたのは明らかにこの2人だ。
その2人の間で、ソーはいつもフラフラしている。アベンジャーズではキャプテン寄り、ウルトロンではアイアンマン寄りの立場を取る。実はこれは珍しいことで、MCUはファルコン&キャプテン、スパイダーマン&アイアンマンのように継続的な関係性が多く、ソーのフラフラぶりは際立っている。
その理由は、ソーが託されているのが「普通のアメリカ人」というポジションだからだろう。庶民の感覚を持ち、どの勢力に属するわけでもなく、頭も良くないしメンタルは弱いけど、家族や友人を誰よりも大事にする善良なやつ。そういう反実理想としての「普通のアメリカ人」がソーには託されている。神様なのに。
ソーが「アベンジャーズ≒アメリカのど真ん中」を託されていることは、シビルウォーに登場していない事実からもわかる。2つの価値観が正面衝突するシビルウォーに「ど真ん中の人」の居場所はないのだ。そして「ど真ん中」とはつまり主人公の席である。
2つの価値観を体現して物語を駆動してきたアイアンマンとキャプテンがエンドゲームで退場したとき、ソーには「普通のアメリカ人」として、2人が守ったこの世界でどう生きるかという宿題が課されたのだと思う。少なくとも私が「ラブ&サンダー」に期待していたのはその宿題に対する回答だった。
しかし実際の「ラブ&サンダー」は元カノ問題に決着をつけるフェーズだった。それもまぁ大事な問題なんだろうし、疑似的に父親になる展開は安易だが効果的でもあったとは思う。
ただエンドゲーム後初のソー登場映画で、アイアンマンとキャプテンの喪失感がほとんど感じられないのは正直寂しかった。ソーにはぜひ2つの価値観が対消滅した後の最大公約数を体現するという大きな仕事に挑戦してほしい。できれば疑似家族とは別の形で。シビルウォーやエンドゲームを監督したルッツ兄弟のMCU復帰が待ち遠しい。
追記:「普通のアメリカ人」という空想的な中立ポジションを、北欧神話由来のソーに託したのはMCUの発明だと思う。
おそらくあれは10~12世紀頃にアメリカに渡ってきたヴァイキングたちを、彼らもまたアメリカ先住民である(コロンブス以前という意味で)という形でチョイスしたのだろう。ヴィンランド・サガの世界だ。
ユーラシア大陸からシベリア・アラスカを経てアメリカ大陸に渡ったいわゆるネイティブ・アメリカンはインディアン戦争の歴史が強く刻まれていて、それより政治的な意味合いが弱い“使いやすい”属性として北欧民族が浮上したのだろう。
一度だけ弔辞を読んだことがある
一度だけ弔辞を読んだことがある。
父方の祖父の葬儀だった。他界した時点で80代半ばだったから、まあ大往生ということになるのだろう。祖父とは10代の数年間を一緒に暮らしたが、大学入学で私が東京へ移ってからは年に1、2度会うくらいの関係だった。それほど深い話をした記憶はない。
祖父の死の当日に連絡をもらったが何かの用事で通夜には間に合わず、葬儀の日の朝に東京をたった。いちど実家に寄って親や弟と合流し、サイズの合わない黒い服に着替えてタクシーで葬儀の会場へ向かう。ずっと暗い顔をしていたわけでもなく、車中では普通に近況などについて談笑していたような気がする。
母がタクシーによく知らないホールの名前を告げる。18歳まで暮らした町の、知らない地名。周囲を林に囲まれた白いホールに着くと、入口に見慣れた苗字が見慣れぬ筆文字で書かれていた。あれを見るのは2度目だ。
斎場についた私たちを見つけたのは祖父から見た娘、私にとっては叔母にあたる人だった。叔母はよくしゃべる明るい人で、少し目は赤かったが「遠くからありがとうね」と言う顔は笑っていた。
祖父の最後について少し話したあと、叔母はそのままの口調で「弔辞お願いね」と私に言った。そこは一親等の人の役目じゃないのと断っても「ああいうのは苦手だから、お願い」と譲らない。じゃんけんで決めようかと冗談で提案したら本当にじゃんけんになり、一回めで私が負けた。心からほっとした叔母の顔を見たらそれ以上ごねる気にもならなかった。
それから葬儀の間じゅう、私はずっと弔辞のことを考えていた。祖父の死そのものよりも、明らかに壇上で披露する作文に集中していた。始めの一言は何が効果的か、要素の順番はどうか、どこで間を取るか。頭の中で何度もリハーサルしては微調整を重ね、なんとか形が整った頃に斎場の進行係の人に私の名前が呼ばれた。
壇上に上がり、ほぼ暗記した文章を話しはじめようとした時、私はその日一番大きな悲しい気分の波に襲われた。何かしゃべると涙が出そうで、マイクの前で何度か深呼吸する。たぶん私は「今から悲しい話をする」というシチュエーションに酔っていたのだ。それでもどうにか気分を落ち着けると、リハーサル通りに頭の中の作文を読み上げた。
結果から言えば、私の弔辞は“好評”だった。ハンカチで顔を覆って肩を大きく上下させながら聞いていた叔母は、席へ戻った私の手を取ると「あんたに任せてよかった」と何度もうなずいた。
弟は「腕あるねぇ」と軽口を叩いたが、私は自分で作った陶酔感の余韻を引きずっていて、左腕をぽんぽんと2度たたいて見せるのが精いっぱいだった。
祖父が死んだのは何年も前だが、あの時話したことの半分くらいはまだ覚えている。いま思い出しても我ながら「よくできた弔辞」だと思う。
自分の作文が弔辞という思わぬ場面で有効に機能したことについて、私は明らかに達成感を感じていた。うまくやれたという誇らしい気持ちだった。
ただ同時に、後ろめたさも感じた。
仕事で身につけた文章技術を駆使して葬儀という場所で「うまいこと」を言おうとし、それが成功してしまったこと。その成功を誇らしく思ったこと。自分が演出した悲しい雰囲気に自分まで飲み込まれたこと。
弔事の中に嘘はひとつも入れていない。ただ少し言葉を選び、構成を組み立て、悲しい気分を強調するように、平たくいえば聞いた人が泣けるように演出しただけだ。
それのどこが後ろめたいのかと聞かれても私はクリアに答えることができない。誰かに責められる謂われもない。そもそも弔辞なんて大体そういう類のものだろう。
それでも親族の死を「作文スキルの披露場所」として利用した事実は、整理できない気持ち悪い記憶として今も私の中に残っている。
獣道4のときどvs.カワノで「負けないでほしい」と「勝ってほしい」は似ているようで結構ちがうと気づいた話
獣道4のときどvs.カワノ戦を見た。2人は私にとっていわゆる”推し”なのだけど、同じ推しでも「負けないでほしい人」と「勝ってほしい人」って結構ちがうなと感じたので、その話をしてみたい。
私がときどさんを気にしはじめたのはスパ4の頃で、AEが家庭用にまだ来ていなかったので2010年か2011年あたりだと思う。自分が豪鬼を使うようになって参考動画を探していて、ニコニコ動画で前投げや大足からのセットプレーをドヤ顔で披露するときどさんを見つけた記憶がうっすらある。
当時のストリートファイター界は今とは比べ物にならないくらいゲームセンターの…つまりヤンキー的な雰囲気が強かった。その中でときどさんは笑っちゃうくらい威圧感ゼロで、その雰囲気にすぐに好感を持った。
それから10年以上、ストリートファイターの大会を見る時は大体ときどさんに肩入れしてきた。2013年のトパンガリーグも、2017年のEVO優勝も、2018年の獣道も。
Punk戦やウメハラ戦までは「勝っちゃえ」という攻めの気持ちで見ていた。それが最近はいつの間にか「負けるところを見たくない」という守りの気持ちが増えていった。
活動歴が長いアイドルやミュージシャンのファンには「派手に売れなくても、●●くんが元気で幸せそうならそれで十分」勢が結構いる。気づけば自分も、ときどさんの「それで十分」勢になっていたのだ。
ときどさんはこの10年であらゆるものを勝ち取っていて、今の立場はどう見ても挑戦者というより王者側だ。それも、さらに多くのものを勝ち取ってほしいという希望より負けることへの心配の比重を増やした遠因だろう。
ちょっとおもしろいのは、自分の気持ちの変化にこれまで気がついていなかったことである。たぶんそれに気がついたのは獣道の対戦相手がカワノさんだったからだと思う。
カワノさんはここ1~2年、私にとってもっとも「勝ってほしい」プレイヤーだった。
強い印象を持ったのは「波動拳対策を死ぬほど考えた話」(思えばこれもときどさん絡みだ)で、追いはじめるとプレイもしゃべりも魅力的だし、大会でも「ここで勝つと大きいぞ」という場所できっちり勝ちきるスターのムーブ。
2020年には若手プレイヤーの中で頭ひとつ抜け出し、2021年はトパチャンとEVOAsiaEastを優勝して日本一の場所まで駆け上がった。そのサクセスストーリーをリアルタイムで追うのはとても楽しかった。
だから獣道で2人の対戦が発表された瞬間は「どっち側で見るか決められない」と思った。でもそう思ったのは一瞬で、「やっぱりときどさんに負けてほしくないな」という気持ちがすぐに上回った。ときどさんは負けて失うものが大きすぎたし、PVの強気発言さえフリに見えてきて「負けた場合の地獄絵図」を想像してしまい、それを避けて欲しい気持ちがどんどん湧いてきた。
「勝ってほしい、手に入れてほしい」という前向きなパワーは、「負けてほしくない、失ってほしくない」という後ろ向きなパワーには及ばなかった。少なくとも今回は。
カワノさんのことを結構好きなつもりだっただけに、その結論があまりにすぐ出たことに自分でも驚いた。これがプロスペクト理論か(人は利益よりも損失を大きく感じる、というアレ)みたいな。
もっとシンプルに言って、これが積み重ねた時間の重みなんだろう。人は肩入れする相手をそんなに簡単に乗り換えられない。
ただ面白かったのは、獣道4での2人の対決を見ている自分が、最初はシンプルにときどさんの勝利を願っていたのに終盤には「カワノさんにも負けてほしくないな」と思い始めたことだ。この試合でときどさんを倒してほしいとまでは思わなかったものの、カワノさんが負けるところも見たくないな、といつのまにか思っていたのだ。
ファンというのはなんて身勝手にプレイヤーたちを後押ししたり保護したりしてる気分になっているんだろうと、自分の心情に気づいてちょっと笑ってしまった。
そもそも、彼らは競技者である。
ミュージシャンなら「売れなくても幸せそうに自分の音楽を作る」ことができるかもしれないけど、彼らは常に負けるリスクを背負って勝負の場に立ち続けることでしか生きられない人たちだ。その彼らに「負けてほしくない」と思うこと自体がそもそも変なんだろうとも思う。頭では。
それでも自分が無意識に「負けてほしくない」と「勝ってほしい」を使い分けていたのは事実で、誰かのファンを長く続けている人はこれをやってたのかと、実感を持ってはじめて理解することができた。そういう意味で、個人的にはとても興味深い獣道だった。