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「マンキュー入門経済学」③

 市場とは、財・サービスにおける売り手と買い手の集まりのことである。市場はさまざまな形態をとるが、時間を決め競りによって価格が決まり売買が成立するといったように高度に組織化されていないケースがほとんどである。アイスが欲しい人は決められた時間にアイス市場に行って競りに参加するわけではない。別々の場所で売り手は店を構え、自分で勝手に価格を決め、買い手がそれを見て買うかどうか決める。

 ただ勝手に価格を決めるといっても、本当に勝手に決められるわけではない。「競争市場」とは、多くの売り手や買い手が存在していて一人の売り手や買い手が市場価格に影響を及ぼさない市場をいう。売り手は価格に対して限定的な支配力しか持っておらず、相場よりも安く売ったり高く売ったりする理由はほとんどない。ただ売り手が一社しかいないような「独占企業」だった場合は競争市場とはいえない。

 完全に自由な競争市場は需要と供給のバランスがとれた「均衡価格」へと調整される。ただ””アイス愛好会””が政府に対してこの価格では高すぎると訴えて、上限規制を設けさせたとしよう。もちろん上限価格>均衡価格ならこの政策にはなんの効果もない。ここでは上限価格<均衡価格であるとしよう。はっきり言って売り手としてはこの状態でアイスを売りたくない。つまりアイスの不足が生じる。経済学者は同じ理屈を用いて、貧困層援助のために家賃上限を設ける規制に反対している。住宅を誰も貸さなくなってしまい、(しかし貸さないと儲からないので)《条件のいい借主》を求める方向へシフトする。結局貧困層は助けられない――――家賃の上限規制の反対は、””いろいろな意見がありなんとでもいいそう””な経済学者たちのほぼ9割が賛同している。

 では今度は下限規制を求めてみよう。すると今度はその財があふれる。均衡価格より高いものはできれば買いたくないのだ。たとえば最低賃金などがそうで、雇いたくないので失業者が生じる。特に均衡賃金が低くなりやすい若年者に対して優しくない。最低賃金法が労働者を守る法律であるかどうかには議論がある。たしかなのは「助けるばかりではない」ということだろうか。暮らし向きが楽になる人もいれば、そのぶん失業する人も出る。対象者がはっきりしないという点が、最低賃金法の批判される点である。

 生活に困っている人を救う方法としては補助金があり、こちらのほうが価格規制よりも優れているとされる。だが補助金には政府からお金を出す必要があり、税金を必要とし、しかも税金自体のために費用がかかってしまうというデメリットがある。税金は重要な政策手段であり、私たちの生活に大きな影響を及ぼすため何度も繰り返して考えていく必要があるだろう。たとえば課税は私たちから余計にお金を取り立てるぶん、取引全体の規模を縮小させる。経済はこの「需要と供給」と「政策」という二つのものによって支配されている。

 

 

 

「論理哲学入門」第一章

第一章 「論理学」とはなにか

 論理学は妥当な形式的推論(ただし、推論の妥当性がもっぱら言明の単なる形式にもとづくかぎりで)に関する学であるとするのが今日的な見解であり、その主たる主題は言語である。すなわち、論理法則とは言語の法則なのである。

  •  だが古来には論理法則とは存在の法則、あるいは中世においては思考の法則でもあった。ここで考えたいのはこれらの相違にかかわって現代的論理学が取り逃すものはないかどうか、である。結論からいえば現代的論理学はそれまでの成果を上に掲げた研究テーマにおいて十分に取り込むことができている。なぜなら推論について考えるためにはその推論において用いられている概念や判断について吟味することを迫られるからである。
  •  論理学は妥当な推論を漏れなく体系的に探究するが、これに対して論理学の哲学は論理学で重要とされっる種々の概念の分析を課題とし区別される。言ってしまえば論理哲学的探究は中世的な「判断の論理学」の枠内にとどまることになる。
  •  また「論理学」という言葉は理性を適切に導くための「方法論」としての意味合いでも用いられ、真理発見の術として考えられる場合もあるが、このとき上述してきた論理学は形式論理学と呼ばれる。これは真理を発見することはないが、真理の根拠づけを与える。ただ真理の根拠づけがすべて形式論理学において与えられるわけではなく、たとえば知覚などによって直接的に根拠づけられることもあるだろう。そして帰納的推論に見られるように形式的には妥当ではないが一体いかなる状況においてであれば認められるかという点で形式論理学的に問題となる。すなわち、一般に理解されている論理学は根拠づけの規則を探る形式論理学に包まれている。ただ論理形式をめぐる問題群に考察の的を絞る本書はこの広い意味での論理学には立ち入らない。

 

 

「現代哲学のキーコンセプト 真理」ch.5

真理とは何であるか②

 真理の認識説がテストをする私たちを重視していたのに対して、「真理の対応説」は世界の側を重視する。「対応説」においては、真なる主張とはその主張が実在に対応するということに他ならないとする。””いかに実在に対応するか””に対して整合説では他の信念と整合していること、プラグマティストは探求の理想的な極限における一致というだろうが、ここでいう対応とはそのようなものではない―――真理とは関係的な性質であり、主張はなにか他のものに対して対応関係を持っている。

 「古典的対応説」は主張と事実の対応を考える。:ある主張が真であるのは、その主張に対応する事実が存在するときでありそのときに限る。だが主張は文であり、事実とは実際の状況なのだから””一致””などするわけはなく、いったい何をもって””対応””なのかは説明しなければならない。最も自然な回答は《主張は、世界を特定のあり方にあるものとして表象する》である。主張は世界のある場面を描きだすもので、その様が事実と一致しているならば真だという。だが100の正の平方根は10であるという主張はどんな事実に対応しているのだろう。この主張は世界の特定のあり方を描写しているはずではなかったか。

  1.  事態(描写されているもの)と事実について満足のいく説明は?
  2.  主張が事態や事実に対応するとはより正確にはどういうことなのか?

 「因果的対応説」は文の真理を指示によって定義する。まずは「グランドキャニオン」などの語をグランドキャニオンを指示するものとして、同様に他の語も順々に定義していく。それらを元に文をつくり、論理結合子を用いて複合文をつくる。「白い」という””性質””を表す語はある対象がその性質をもつときに白いを「充足する」という。まずは単文にでる語の充足を真と定義し、それを複合文へと拡大していくのだ。つまり、ある文が真であるかどうかというのは究極的には、ある対象がある性質をもつかもたないかという話になっている。この利点は、””事実””””事態””というものを導入しなくて済み、《ある対象が性質を持っているかどうかだけ見よ》と、「対応」という言葉さえなくて済ませられる―――だが「彼女が図書館にいたから、彼は公園に行った」という主張はどうだろう。たしかに彼女が図書館にいたことも彼が公園に行ったことも見やすいが、図書館に彼女がいたことが彼を公園に行かせることになったのかはまったくわからない。

 

 

 

「現代哲学のキーコンセプト 真理」ch.4

真理とはなにか①

「主張が真だというのは、真であるかどうかのテストをその主張がパスすることであり、そしてそれがすべてである」

 テストをパスすることと真であることの差はない。これを真理の認識説という。代表的なものは「整合説」と「プラグマティズム」である。前者は、その主張が適切なかたちで整合的で包括的な信念の集合に含まれるというテストを求め、後者は実践というテストを求める。たとえばパースは《十分に偏見のない人々が十分に長いあいだ探求すれば疑いのない合意に意見が収束する》として調査や観察が行きつくし全ての人が受け入れることになる主張を真と呼んでいる(収束すると考えるべき理由はないという欠点がある)。一方、ウィリアム・ジェイムズは真理を””都合のよさ””だと考える。すなわち、「真理」とはその信念にもとづいて私たちは行為すると成功するだろうという意味である信念が役に立つことがわかったときに適用されるラベルである(だが真なる信念が都合の悪いことはありうる)。

 また、真理の認識説は一般的には反実在論にコミットすることになり、反実在論に対する批判をすべて受け止めることになる。しかも場合によっては主観的相対主義に陥ることもある。牛乳が冷蔵庫にあるかないかということが私にとっては真だがあなたにとっては違うなどということはバカげている。認識説のメリットは真理の価値を拾い上げてくれるところだが、反実在論のデメリットをすべて受けとめなければならないし、そもそもテストを通ろうが通るまいが冷蔵庫に牛乳があることはありうる。テストはよい測定器ではあるかもしれないが、それがずばり真理そのものであるという根拠は薄い。

 

(日記)めいげん

2024.04.21記

 いわゆる「名言」みたいなものに大した感慨を持たなくなってきた。なんかいい感じではあるのだがその域を決して出ることは無い。それよりはむしろ、ものすごい喧嘩した二人が仲直りした翌日に「おはよ……」と言い合うほうがよっぽど染みる。普通のことばでそれだけ取り出したら特に良くはないのだがなんだか深い言葉、は名言を吐かれるよりよっぽど思うところがある。名言はいわば欲しい人が手に取りたい””答え””みたいなもので、《それを名言と感じること自体》がその人の状況について何事か語っているという見方をすれば、多少得るところはあるだろう。そう思えば、芸能人やらスポーツ選手やらがなにかいい感じのことを言っていても、大した影響を受けずに済む。あの人たちとはそもそも住んでいる世界も価値観も違うので、生き方のモデルにするには特殊過ぎる。

 

 

 

「マンキュー入門経済学」②

相互依存と交易からの利益

 ここでは第五原理について詳しくみよう。取引が生活を豊かにするというが、なるほど確かにA,Bしか品物がないとき自分がAを作るのが得意で向こうがBを作るのが得意なら取引したほうがいいだろう。だが原理にくわえるほど「いつでも」成り立つものだろうか。相手が自分よりもAやBを作るのが下手だった場合でも取引したほうがいいのだろうか。自給自足を続けたほうがいいのではないか?

 まずAとBという品物はトレードオフに直面している(第一原理)。つまり片方に手をかければもう片方をそのぶんおろそかにせざるを得ない。最大限全力を尽くしてアルファ氏は8hあたりAを8、Bを32生産でき、ベータ氏はA:24、B:48生産できるとする。全力を尽くしてこれなので、8hという時間をどのぐらいA,Bに振り分けるかによって生産量は変わる。いまはたくさん手にするほうが「得」だとしているから、取引するのとしないのとで取引する方が多ければよいことになる。それが実際によくなるのは、アルファ氏とベータ氏がそれぞれ得意なこと(この例だと時間単位で生産量が多いこと)にそれぞれ着手したときである。それぞれが得意なことをして取引すれば、お互いの取り分が圧倒的に増加する。いくらA、Bのどちらもが得意でも、相手がやってくれる分こちらが別のものに力を振るだけで、全体としての利益は膨らむのである。

 このことは『各人が比較優位を持っている財の生産に特化すれば経済の総生産は増加し、すべての人の生活水準の向上に役立つ』とまとめられる。比較優位とはある財を生産するのに他の財を少ししか放棄しないことである。有名な野球選手は芝刈りをやらせても一級品で誰よりもはやく芝を刈るかもしれないが、CM撮影をすれば稼げていたであろう3万ドルを機会費用として支払うことになる。だから彼が芝を刈るよりも、CMに出演して芝刈りを雇ったほうがずっとよい。するとどちらも得をすることになる。

 このことは相互依存の望ましさについて説明する。ではどのようにすれば相互依存が可能なのだろうか。どのように人々の多様な活動を調整するのだろうか。アルファ氏とベータ氏は二人しかおらず顔を突き合わせていたが、普通の社会はそうではない。これを調整するのが需要と供給という「市場」の力であることを見ていく。