最低値賃金問題やら、不況やらについてもろもろ思ったこと。

最近は、最低賃金(または給料上げろ)問題が声高に叫ばれていますね。

選挙においても、公約として賃金上昇を掲げている方たちもいらっしゃいました。

 


是非はともかく、思ったことをつらつらと書いていきたいと思います。

統計等に基づくものではないので、こういう研究があるぞ!間違っている!というデータがあればぜひご教示ください。

 


それはともかく、

よく経営者層や大企業が私利私欲をむさぼるから、自分たちに利益が還元されない。

もっと賃金をあげろという意見を聞きますが、

それは正しくないのでは?と思います。

 


もちろんそういう経営者もいますが、

多くはの企業は賃金を上げるほどには利益を出せていないのが現状ではないでしょうか。

その利益が出せていない理由としては、次のことがあるのではと思っています。

 


①サービスや技術レベルの向上に対して売り上げの上昇が紐づかない。

 

②サービス・技術レベルが向上しても、すぐに追いつかれて陳腐化、低価格化してしまう(いわゆるコモディティ化)。

 

③そもそも技術を向上させる余地が昔よりも小さくなっている(戦後の日本の繁栄は、人口増と技術の飛躍的進歩が重なったため。三種の神器と呼ばれ、当時みんなが欲しがった商品は、現代ではちょっと働けば買えてしまうし高品質。企業努力のおかげで商品レベルは高まったが、これ以上機能を付ける余地がない。)

 

④購買層がそこまでのレベルを求めていない(商品・製品の技術レベルが通常に生活するうえで必要とするレベルを超過しているがゆえに、今あるそれなりの価格でそれなりの品質で、で満足しちゃう。)

 

⑤人口減少による需要減(政府の責任にしたがっていますが、本当でしょうか?原因はいろいろあると思います。

先進国となり、豊かな生活をするうえで子どもを持つことは面倒くさい。子ども一人育てるコストが大きい。結婚し、子供を持つことへの社会的な要求が明らかに減っている。)

 

⑥単純に、同じ品質なら安い方を買うため。(地元の商店で買うよりもamazonの方が安ければ、地元にお金が落ちないと分かっていながらもそこで買っちゃうよね。)

 

⑦労働投入量と、利益がもう比例関係に無い(もちろん人手が必要な仕事は多々ありますが、たくさんの労働者が投入されれば、沢山の商品が作られ、売り上げも比例して儲かる、といったことは減ってきました。)


といったことが考えられます。


話は少し変わりますが、将来(現代においてもですが)、

人間VS.機械(AI)となったとき、人間に勝てる要素は、人間でしかできないこと(創造性や、心の機微を読む力)です。

 

決められたことを正確に実行する力は必要ではありますが、VS.機械となると勝つ見込みはまずありません。

 

同じ作業をさせて、単純に機械を購入するより人間を雇った方が安い場合のみ人間が選ばれるだけです。

機械はさぼらないし、文句も言いませんし。


そんな中、最低賃金を上げた場合、当然ですが利益が人件費に持っていかれるので、生産性が低い人間は解雇され、機械やシステムに置き換えられ、失業率は高まるでしょう。

 

過去のそれなりのレベルであればそれなりの賃金がもらえていた時代が終わり、


それなりのレベルの仕事は機械やシステムに代替され、残るのは非常に高度な技術が必要とされる仕事でしょう。そして、全ての人がそれに対応する能力も持てるとは思えません。かならずこぼれ落ちる人がいます。

その後には、きっと良くない未来しかないと思います。間違いなくこの流れはやってくるでしょう。

 


長々と書きましたが、

言いたかったのは、日本の現状を、政府や経営者のせいにして、自分が苦しんでいるのはお前たちのせいだ!と責任転嫁するのは

無駄なのではないか?ということです。なんでもかんでも安いものを買おうとして、利益が減っているという現状は、自分たちにも責任がありますし。

 

そして、資本主義のもと、働いて賃金を得る構造が変わらないのであれば、

自分なりの、自分自身の、稼ぐための手段を考えなければならないということです。


ここまで偉そうに書きましたが、自分は間違いなく上に書いた「生産性が低い」「それなりのレベル」の労働者です。

将来大丈夫だろうか、、と思いながら働いている身です。

 

自分の好きなこと・得意なことを見つけて、それを仕事にできたらいいなぁと、つらつらと書いてみました。

【メモ】わかりにくい文章について

Books&Appsの記事にあった、「なぜ「分かりにくい文章」が生まれるのか。」の記事を読んで、大変きづきがあったので備忘録として。

記事はコチラ↓

https://blog.tinect.jp/?p=60953&fbclid=IwAR1WbRUBqgNuASh1a6mNzQDr4fhDDlii4RYFOBLvilgmMQqQboMFKRb8UQg

 

内容をまとめさせていただくと、

文章の分かりにくさには、①表現 と②文脈 の分かりにくさ、がある。

①は一般的ではない言葉の使用や、文章が長すぎたり主語と述語の関係がわかりにくい場合。②は、文章を理解するための読み手の前提知識、理解度を無視し説明のための表現が不足してしまっていることにより発生する。

 

解決策は①は、簡単で一般的に用いられる言葉を使用する。②は(文章が長くなってしまう可能性はあるが)、読み手の前提知識等のレベルを意識した書き方をするといったものであった。

自分もメールや口頭で伝える際、説明を端折ってしまったり逆に長々と話しすぎて伝えたい事柄が伝えられないことが度々あるため、意識したいと思う。

 

・・・ちなみに今回紹介させていただいた↑の記事ですが、私が前に読んだ、

『学校で教えてくれない「分かりやすい説明」のルール 』

https://www.amazon.co.jp/dp/4334036163/ref=rdr_ext_tmb

にも近いようなことが書いていた記憶があります。やはり課題に対する最適な解決策(技術)というのは共通するものなのですね。

モーレツ時代を生きていない自分が「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」を観て思ったこと。

タイトルどおり、今さら「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」を鑑賞しました。といっても子供のときや大学生のときに何度か観たことはあるのですが、暇だったのと、なぜか観たい衝動にかられて。

 

レビューなどは特にしませんが、思ったことをつらつらと書きたいと思います。

 

今回が初ブログ投稿になります。プロフィールにあるように、地方住の28歳のサラリーマンです。地方の大学を出て、今年が社会人6年目です。「オトナ帝国」は2001年とのことですので、当時は10歳かそこらですね。

 

「オトナ帝国」のストーリーなどはgoogle先生で調べていただくとして、

今を生きる大人とその子供たち、

時代や中身は違えど「幼少期」というものを同軸として、大人たちのノスタルジー

思い描いていた未来と現実、その現実への逃避感情などを描いています。大人たちは過去にとらわれ、現実に対し負の感情を抱きながらも、最後は今自分たちが持っている「家族」という存在の大切さ、それらと一緒にこれからを生きていこうという形で物語は幕を終えた。と私は読みました。

 

【価値観の転換期?】

敵である、ケンとチャコの会話で「外の人達は、心が空っぽだから、物で埋め合わせしているのよ。だからいらない物ばっかり作って、世界はどんどん醜くなっていく。」というセリフがあります。

映画がつくられたときは子どもであり、そして現在大人である自分がこのセリフを聞き、違和感を覚えました。

 

「モノを買うことで心を埋め合わせる」??

 

乱雑な歴史考証であるが、戦争が終わり、高度経済成長期を経て、バブル経済とその崩壊、リーマンショックと、失われた10年はとっくに過ぎ去り、失われたまま。

私が物心ついた時にはすでに、モノを買うことで心を満たす、という試みは失われかけていた気がします。もちろんほしいものはあるし、当然必需品は買う。ものを購入するということをしていないのではないけれども、心を満たす手段としては薄れてきています。

 

戦争を経て、タイトルにあるように「モーレツ」に働き、金もある、頑張れば報われた(あるいはその希望が持てた)時代を生きた人々の価値観が、徐々に変化し、おそらく映画公開当初は、「心が空っぽだから、物で埋め合わせしている」という部分に共感を抱く人も多かったのでしゃないでしょうか。

 

時代はさらに進歩し、欲しいものはあるけれど、満足できる(あるいはそれなりの)クオリティのものが、ある程度金を出せば買える時代に、現代はなりました。

その一方、心を満たすために物を買う、といった価値観が、心を満たしたいという目的は変わらないまま、手段を追い求めて迷走しているのが現代なのでは?という思いを持ちました。価値観の転換期と記したのは、今と昔で一致しない価値観のある種の中間点を映画中に観ることができたためであります。

 

【現代版「オトナ帝国の逆襲」】

つらつらと思いついたことを書いてきましたが、

東京オリンピック開催に向けて、国をあげて盛り上がっていますね!そして、バブル期並みの好景気とのこと。

 

すごく違和感を覚えませんか?

 

何というか、某曲の歌詞ではありませんが、「あの素晴らしい時代をもう一度」的な。

 

無理ですよね??

 

このブログは、別に政権や経済政策を非難するようなものではありません。論述できる知識も持ちあわせておりません。

 

でも、何というか「オトナ帝国」でケンとチャコ、洗脳された大人たちがしていた現実逃避が思い起こされるのです。

 

 東京オリンピック大阪万博バブル経済...時代は違えど、日本が栄えていた象徴といえるキーワードです。

でも、それって戦争を経て日本がクラッシュ&ビルドするときのボーナスステージだったに過ぎないわけです。

私は経済(ひいては技術)の発展を否定するわけではありません。それらの発展無くしては、未来はないでしょう。

 

でもきっと、いやおそらく、過去のような栄華は日本には訪れない、特にもバブル経済のような好景気は、色々な指標数値上では訪れるかもしれませんが、それが一般社会を生きる私たちにも大きく還元されることはおそらく、ないのではないでしょうか。

当時と今とでは、社会も、経済の仕組みも、違ってしまっている。

 

「オトナ帝国」の最後の方で、ケンがひろしに対し、汚い現実世界ではなく、懐かしくて輝いていた過去に戻りたくはないか?と問い、野原ひろしがそれを拒絶し、愛する家族と生きていきたいと答えたこと。

 

人口は減り、少子高齢化は進み、経済は他国に追い抜かれ、日本はこのままだとどん詰まりです。

そしてその状況に対する、偽りの打開策のいくつもが、どこか「オトナ帝国」を想起させます。

 

でもきっと、野原ひろしの答えは間違っていなくて、大事にすべきものは時代が変わってもやっぱり変わらない。

同時に、ケンとチャコが言った「汚い現実」というのもその通り。間違っていない。

 

どちらも正しく、過去と同じ輝きをもう一度再現するのは難しい。現実において、私たちはそんなネガティブな状況に立脚しています。同時に多くの人々が、「どのように生きるべきか?」を見失っているように思います。

 

その問いへの回答は、

ひろし、そしてしんのすけのように、

現実を受け止め「生きる」ことを選択すること。

そして、ケンが言った

「お前達が本気で21世紀を生きたいなら、行動しろ。未来を手に入れてみせろ。」

 

なのでしょう。このアホみたいに辛く、苦しい現実で生きていくために。