ふつうの人 なんでもない日
「ふつうの人」というのは、不思議な表現だ。みんなに当てはまるけど、なかなか100%ふつうの人なんて会ったことがないから。
大多数の人は、特別になりたいという願望を持つありふれた人。本当に変な人は、自分こそがふつうだと信じている。そんな気がする。
それらを考慮して「ふつうの人」とはなんでしょうか。主体の心のあり方でしょうか。周りからの色眼鏡を通した評価でしょうか。
似てる言葉で「なんでもない日」というのがある。ぼくは、この言葉が好きだ。この言葉を使うときは、ぼくは幸せな時を過ごしていることが多い。もっと言えば、幸せに気づいてる状態といえる。
日常の中にある、大小さまざまな幸せに気づくこと。ぼくにとっては、「なんでもない日常」というのは、そういった幸せに気づいている状態だということだ。
この写真は、ぼくのいう「なんでもない日」に撮った。吉祥寺にあるお気に入りの場所から。その日の中には、お気に入りの場所や、食べ物や、時間の使い方が溢れている。
毎日が「なんでもない日」だといえる。でも、そういった日というのは、とてもありがたい日なのだ。
だからぼくは、目一杯の感謝をする。祈りを捧げようと思う。明日も、なんでもない日でありますように、と。
2015.03.07
ヒッチハイクのうまい断られ方
ヒッチハイクしてて、直接ドライバーさんに乗せてくださいと、頼むことがある。断られるのには慣れたけど、全然こっちの話を聞いてくれない人が嫌いだ。
こっちの目をみないで「あっちいって。」ってあしらわれると、「こんなやつ、仕事できねーだろうなぁ。初対面でも人の目くらいみろよ。」とか思ってた。おれは傲慢だ。
でも、乗せて貰うのは当たり前じゃない。当たり前じゃないから、乗せて貰ったらありがたい。始めてヒッチハイクが成功した時は嬉しかったなぁ。
ドライバーに気づいて貰うために道路につったて、看板かかげて、大声をだしたり、飛び跳ねたり。「おれは乗せても安全だよ!」ってできる範囲のハッピースマイルを意識して。
そうやって、努力をしていると、載せて貰えるという結果が出てくる。何時間もやれば、誰かが載せてくれる。ありがたいことにそういうシステムになってる。
ただ、慣れてしまうと、ありがたみは減るんだなぁ。しっかり感謝するってどうやればいいのだ。
前までは、あしらってくるドライバーを「心に余裕のない人間」って決めつけてた。けど、そうじゃない。さっき、家に保険の勧誘の電話がかかってきた。その時に気付いた。「時間ないんで今度にして下さい。」って即効あしらう自分がいた。
ものごとっていうのは、ケースバイケースだろう。全てに同じものを当てはめようとしてはいけない。けど、ぼくにもしっかり「人をあしらう行為」が内側に備え付けられていた。
そんな自分を醜いとかは、思わない。けど、この前ぼくをあしらったドライバーの気持ちが少しわかる気がした。でも、やだったなぁ。やだったろうなぁ。うまい断り方、断られ方っていうのは、今後の課題。
2015.02.26
白黒の中の大阪
白黒写真の面白さを見つけました。形や影のことに目がいって、新鮮さがあります。大阪はぼくにとってアイディアの宝庫になりました。
というのも、中学の時に、修学旅行でみた大阪は、どこかケバケバしくて好感が持てませんでした。
しかし、今回根を張るように色々と歩き回ってみたことで、当たり前だけど、音が静かな場所や、様々な階層に住み分けられた人々の生活を感じました。
そういった絶対にあるはずの空間を、いつの間にか一方的イメージで埋め尽くしておりました。大阪は案外静かな場所です。昔と今のその認識のズレが面白くて、ふとした風景が"大阪"にあるという理由のみで、魅力的に映ります。陽気な気分で散歩をしています。
西洋建物の中の警備員、神社にお参りに来るキャバ嬢らしき女性、オフィス街のOL、いい声をしているホームレス、公園でキャッチボールをする小学生。これまで出逢っておきながらも、お互いにスルーしあっていた存在が、輪郭線を強調されてきました。
今まで「この土地はこうあるべきだ」という思い込みのせいで、意識の外側に追いやっていた存在が、被写体を探すという行為によって本来の姿に回復されました。
よくよく観察するだけで、こんなにも面白いなんて。もっともっと掘り出してみたいです。
2015.02.18
遊ぶことに比べたら、テストの点数なんて月とスッポンの関係だ
小学校のぼくに「勉強ができる」ということはたいした事じゃなかった。その世界ではドッチボールで上手く逃げれる子、側転を綺麗に仕上げる子の方が格段にカッコよかった。
遊ぶ中でのことに比べたら、テストの点数なんて月とスッポンの関係だった。ぼくは紙の上ではいわゆる"優等生"だった。だけど(高校受験のなかで偏差値という言葉を覚えるまでは)、点数をはやし立てる子らとは、しったことかの関係を築いた。小学5年生のとき、中学受験をしないぼくには、友達は"彼ら"になっていって、遠い存在になった。
そういったぼくのカッコよさへの感性は、思春期に入る前に身につけた。その頃に、ぼくは上手いこと「勉強がデキる」人を外れても良いと思えた。これは幸運なことなのかはまだわからないけど、今、私はこんな文を綴っている。
幸運なことに最近になって「勉強がデキる」にも関わらず、ずいぶんとカッコいい人たちがすいぶん周りに増えた。彼らの中には、ぼくがはずれた道をしっかり克服した人もいるんだろうなぁ。だからぼくは今は「勉強をする」人になりたいと思っている。すっかりと図書の時間が恋しいし、最近また知りたいが増えてきた。
小学生の時にサッカーの試合に負けた
小学校のとき6年間サッカーをやっていて、ある日、試合に負けた。泣けなかった。ちっとも悔しくなんかはなかったのだ。それは、相手への尊敬だった。
試合後、チームメイトとコーチと土手の上なんかで円を作って反省会をやっている。一番生意気だった男の子は、悔し涙を流していたかもしれない。チームの"みんな"が下を向いたり、悲しむことに力を注ごうとしていた。一人ずつ意見を求められて、立派に「悔しい」だとか、「次は勝ちます」とかなんとか言っていた(気がする)。
僕の番がきて、なんて言ったのか覚えてないけど、周りに気の使えてない事を言った覚えがある。それから、何度か今までの人生で、周りに求められているであろう感情ではないところに自分の心が置かれていることがあった。中学生の終わりには、そういった勝手に抱いてしまった周りへのズレに敏感になって、心が窮屈になった。自分は、なんて感情がないんだろうと思った。
そんな風に長らく思っていたのだけど、今日、なんだか、違う気がしてきた。おそらく小学校の頃の僕は、反抗的にその言葉を使ったのではない。その時、ぼく一人だけでも、ぼくに対しては真剣に向き合おうとした、その結果だったのだと今は思う。それは相手への尊敬だった、尊敬もあった。自分に「自分をなめるな、こんちくしょう」と言いたかったのだと思う。僕はきっと本気で、本当の態度をとったのだと思う。
2015.01.14
普段はなにをやっている方なのかー仕事観
「普段はなにをやられてる方ですか。」と肩書きを尋ねられ、ただただ困る。
普段の僕は、なにをやられている方なのでしょうか?
あなたは何をやられている方ですか?
普段の生活の中でたくさんあるうちの、
その中でもお金に繋がるところを答えれば良いのでしょうか。
大した事をいうつもりはないですが、それならば幾つかある。
ただ、幾つかあると困るのです。ああ、私はどれなのかと。
どれでもあるということで、納得してくれる相手ではないのです。
仕事というものを言葉で捉えようとした時に、私たちが無視してしまいがちなのは、その仕事をするようになるまでの経緯です。過去に敬意を払うことは大切です。そして、その過去の前提となっていますのは、疑いもなく私が今生きているということです。
普段の私たちの、何気なくの所作としての生命的行為が、なにより深くに根付く土台であり、そこには無意識に隅々まで張り巡らされた根毛があるのです。そんなことを考え始めても、何気ない最初の質問には、答えうることは出来ません。だからと言って、その問いは、私は私に対して私が何をしているのかを探るようにし向けます。
・・・こうやって、銀座線の端から端に渡るまでの時間を使っているうちに、緊張の糸が切れました。
私は、「あなたは何をしているの。」という質問に応えることはやめたいのかもしれません。それは、私の健康を考えてのことでありまして、生活への詮索を拒否することではありません。「何かをする」という行為よりも、私は、私がいまここに私としてあることに気づいて欲しいのだと思います。
することの主体から、あることへの主体としての認識の拡大が起こる事を願うのです。このことは仏陀がずっと言い続けてきたことらしいです。あなたの本質も私の本質は、することではなく、ただあることだと。
つまりはです。きっとおそらくこうなのです。私が他者から送られたいものは、「あなたはなにをする人ですか。」という問いではないのです。
「嗚呼、あなたが生きていてくれてヨカッタ。」という、私からの返答を要求しない、言葉が産まれたその瞬間に完結してしまう感嘆表現なのでしょう。
2015.01.13