心境の変化
先日、ついに転職後お世話になった会社を、無事に退社し、雇用をバイトに変えて貰いました。
それを契機に、色々始める事にしたんですが、このブログも、近々ワードプレスで本格的に文章を書き溜めていこうと思います。
本当は もうココに文章を書かない方が良いんですが、このタイミングで書きたいことなので、書いてみようと思います。
これをきっかけに、全部だし
ここではあまりプライベートは出していなかったですし、逆に、 プライベートでは自分がDV加害者とされた当事者だとは大きな声では言えていませんでした。
でも、それだと中々活動の幅が定まらないと言うことと、2つの顔を持って様々な事に取り組んでいくことが中々困難だと言うことで、全て自分の事を統合し、もう面倒くさいと、全部出しでやっていくことに決めました。笑
これからは、私はDV加害者とされた当事者ですと声をあげ、出したいことは全部出していくことにしました。
その第一歩と言うことで、未だハッキリとは公表できていないまでも、SNSなどで離婚して子供に会えていないこと、無理に会おうとはしないが、会いたくて仕方ない事などアップしてみたところ、中々の反応を貰えました。
全部出しによる心境の変化
私が娘に会いたいと言う気持ちを全面に押し出したことによって、最近また心境の変化が起きたようです。
正直な所、離婚してからこれまで、元妻に対しては、「やられちまった」とか「やっつけられた」などと正直あまり良い感情を抱いて居なかったのですが、自分の気持ちを正直にぶちまけた事で、これまで元妻に自分がしてきた事を振り返り、申し訳ないと思えるようになってきました。
もちろん、私がしたことは 悪いこともありましたので、申し訳ない気持ちは当初からありましたが、何というか、ちゃんとその事実に向き合って、心の根底から申し訳ないとの気持ちが持てるようになったんだと思います。
やりたいことをやっているからこそ思えるのかもしれない
何故このタイミングでそう思えるようになったのか考えてみると、やはり、仕事を辞めて、やりたいことを始められると言う期待感や言いたいことを言えている充足感がそう思えるきっかけになったのかなと思います。
この先やりたいことや、始めたいことを想像すると、何故かセットで結婚前の元妻との思い出を思い出します。
今私が抱いている感情は、結婚以前に持っていた、未来に対する期待感と似た感情なのかもしれません。
私の勝手な想像かもしれませんが、結婚前の当時は、その期待感を元妻と共有できていたような感覚がありました。
自分が将来やりたいことを語って、それに賛同してくれてついてきてくれる元妻。
今思えばかなりの共依存ですね。笑
でも、当時はそれがとても心地よく、気持ちが良かったです。
とにかく、今、未来への期待感が持てているからこそ、過去の自分と向き合い、蓋をしていた元妻への感情を消化出来たんだと思います。
これからどうなっていくかこうご期待
これから数年の自分は、フリーランスとして、とにかく自由にやりたいことをやっていくはずです。
それは全て自己責任で、稼ごうが稼げまいが、それは自分が出した結果です。
極論、数年後にフェラーリ乗ってるか橋の下に住んでるかって位の覚悟でいます。
けど、駄目だったら駄目だったで、この国には駄目だった人を再起させてくれるための素晴らしい制度がたくさんあります。
これまで国に尽くして税金をいっぱい納めてきた身としては、もし駄目だったら何の抵抗も無く国にお世話になるつもりです。笑
さらに、私がもし1円も手持ちが無くなったとしても、お願いしたら牛丼1杯くらいなら奢ってくれる友人知人は365人以上居ます。笑
と、言うことは、私は何があっても最低1年は生きていけます。笑
大丈夫です、フェラーリ乗ってても、橋の下に住んでても、多分私は笑って生きていられます。
そう思えるようになれたからこそ、まだ何も決まっていないのに、完全見切りで仕事を辞めてフリーランスとしてやっていくと決めました。笑
今後の 私が どうなるか、良かったら見ててやって下さい。暇つぶしにはなるかもしれません。笑
ふと思ったこと
書きたいことをダラダラ書いてみることにする。
最近、子供と関わる機会が増えて来ている。
当然娘には会えていないので、他人の子との関わりばかりだが、例え自分の娘に対してでなくても、子供と遊ぶ楽しさや喜びに気づく事は出来る。
だから、私は積極的に関わりが持てるように心がけている。
そして、関われば関わるほど気づくことは、私がいかに自分の娘と接していなかったかということ。
それと同時に、その楽しさや喜びを知れば知るほど、自らの娘に対して「申し訳なかった」との思いが募る。
三船美佳の件もそうだけれども、父子を断絶する母親が社会的に干される時代になってきた。
この件を自らに当てはめるつもりはさらさら無いが、いずれにせよ親のエゴで子供の権利を奪うことはとても悲しいことだと感じる。
しかし不安をあおって良いようにコントロールする支援(そこにお金や利権が多分に含まれている)の実情や、周囲の人間を見れば、元妻がそのような心情になるのもわからないでも無いし、そもそも、自らが行ったことでこうなった側面が強いこともよくわかる。
さらに、何度か書いていることだが、 私は 父子の完全断絶をされたことによって、考えの変化や回復の早さがあったと実感しているのも事実。
その点については本当にありがたい状況だった。
その分母子という所で、離れることの無い関係によって、過去の消化や気付き、変化という点では私よりはるかに難しい状況にあるのだと感じている。
だからこそ未だ私を責めることでしか自己を保てない状況にあるのも当然と言えば当然のこと。
現在の元妻のことはあまりわからないけれども、少なからず、人づてに聞く元妻の情況はそんな情況だから心が痛む。
だからこそ元妻に余計な葛藤を生まないためにも、私は娘には無理に会わないと決めているわけだが、だからといって大人のエゴで子供の権利を奪うことは暴力以外の何物でもないと私は思う。
母子の関係を考えれば、無理に会わせることでは無いのだが、大人の至らなさで子供が犠牲になっているとの見方は 避けられない。
それはもちろん私自身を含めての話なので、この事で私は自己を正当化して
「子供に会わせろ」
と声を上げるつもりは無い。
けれども、
「私は娘に会いたいんだ」
という気持ちがあるんだということは、声に出し続けるつもりだ。
それは今後私が家庭を築こうが、子供が出来ようが、変わることはない気持ちだ。
「母子と父子では違う」
とか
「他で子供が出来たらそんな事忘れる」
なんて差別的だったり、暴力的だったりする意見を押し付けられて傷ついた事もあるが、それこそ大人のエゴでしかない。
歪みが大きくなった社会的価値観に囚われた考え方と言って差し支えないと思うが、私はそんな社会的価値観や、自分が抱えた問題を娘に連鎖させたくない。
だから、いつか会える娘が問題を抱えているとしたら、そこに手をさしのべるスキルを身につけて行くための学びは今後も続けていく。
この辺りのことは、当事者のみならず、発達心理学を少しでも触れたことある、保育、教育に携わる人ならば少しは理解して貰える所かと思う。
いずれにせよ、今後も娘に会いたい気持ちに変わりは無いし、その気持ちは声に出し続けるつもりなので、私も社会的価値観の中に生きる者として、その言葉に説得力を持たせるためにも、しっかりと地に足着けて、社会的にも成功して、私の声をより多くの人に届けていきたい。
それが出来るようにわざわざ職を変えたんだから。
変化の時
しばらく更新していませんでしたので、現在の状況を書いておこうと思います。
娘と元妻の情況は変わらず
前回の更新以降、一切の変化はありません。
正直なところ、今はこれしか方法は無いのだと感じています。
無理に動いても 逆効果になるだけですし、目的は 私が娘に会うことでは無く、娘にとってすこしでも良い環境が出来れば良いとの思いからですので、それを考えるとやはり今ではありません。
また、以降にも書きますが、そうして完全に切り離されたことで、私は現状打破のため、積極的な行動がとれているんだと感謝すらしています。
動き出しています
前職を離れて まだ9ヶ月ですか、今月末には現在の職も辞めてしまうことに決めました。
正確には雇用形態を変えて貰い、アルバイトとして残るんですが、日数は極端に減らして貰います。
次にやることは、まだ明確に定められていないのですが、雇用されるわけでなく、 個人で何か出来ないかと色々と模索してみるつもりです。
とにかく、本当に自分がやりたい事を体現していくためにも、出来るだけ自由に動ける時間を増やして、効率よく動ける状況を作って行きたいと考えています。
このブログも、今後形を変えていくつもりです。
いつか自分が伝えたいことをしっかりと伝えられるように、これからはそのための勉強をしていこうと思います。
止まらないワクワク感
そんな事マジメに書いてみましたが、本当のところは、ワクワク感が止まらない毎日が続いています。
家庭を持ったことで元妻から頑なに拒絶されていた、「自分で何かをやりたい」という、10代の頃からの漠然とした思いが今叶おうとしています。
きっと苦しいことやうまく行かないこともたくさんあると思います。
雇用されないことで、すべては自己責任になってきます。
けど、自分のやりたいことを 自由にやってお金を稼ぐ。
こんなにワクワクすることはありません。
出来ることを楽しんで 、精一杯稼いでやろうと思います。
私の現状
先日は元妻の現状について知れた限りのことや、今後の私がしたいことについて書いてみましたが、今回は最近の私について書いてみようと思います。
私自身の力が、ある程度付いたからかどうか解りませんが、最近は、身近な人からの相談事の内容が重くなってきて、さらに相手が私をコントロールをしようとしてくる事が多くなりました。
今回は、最近私が体験した素晴らしい出来事や、それをきっかけにまたしんどくなってしまったり、自己と向き合う重要性を再認識した事を書いてみます。
相談に乗ることが多くなる
ここ最近の私は、身近な人の問題に寄り添うことが多くなっていました。
と、言うのも、ここ最近の私は、自身が抱えている葛藤や、それによって起きてしまった問題について、出来るだけ隠さずに居ようと努めていました。
そうやって私自身が自己開示をした結果、身近な人が私に当事者性の自己開示をしてくれる結果となっていたんだと思います。
私自身も、そのように相談をして貰えることで、新たな気付きや学びの機会が増え、更に力を付けるためにもなります。
ですから、相談をしてくれた方には本当に感謝しています。
相談や自己開示を受ける度に、これほどまでに多くの人がしんどさを抱えながら生きているのかと驚きました。
そうやって皆何かを抱えて生きているんだと感じる中で、私が力になれる人、なれない人が居ることに気がつきました。
私が力になれない人
そうやって日々を過ごす中で、私が寄り添い、力になろうとすることを拒み、逆に攻撃しようとしてくる人も居ることに気がつきました。
これは私の推察でしかありませんが、私の力不足から、信頼を得ることが出来なかったり、安心感を持って貰うことが出来なかった事が原因にあると思います。
また、その人自身がその事実を受け止める力が無いことから、私が伝えた事などを受け入れることが出来ず、自己防衛のための反発心をあおってしまった、等の理由があるんだと思います。
私自身も、加害者であることを完全に突きつけられ、もうどうしようもなくなった、と底打ちするような体験をしたからこそ、こうやって他の価値観を取り入れ、変化していく事を選択出来ましたが、それ以前の私ならきっと、そんな人と同様に私のような者を確実に拒み、攻撃していたと思います。
いずれにせよ、何も求めない人に対して私が出来ることはありません。
それでもしんどい思いをしている人には、何かのきっかけで気付き、楽に生きるためのほんの少しの変化が出来れば良いのになと感じています。
また、私自身もそうやった経験の中で、自身のスキルの不足や、今後の課題が見えてきたりと、大きな学びになりました。
もっともっと力を付けて、私の周囲に居る全ての人が楽に生きていける環境を、少しでも作っていければ良いなと思えるようになりました。
相談に乗れる怖さと喜び
相談事が増える事は、私自身の力がついていく証拠でもあるし、その内容も、やはり力が付くに応じた相談事の内容になっていくものらしいです。
そのためか、相談の内容が、段々と重く、難しくなっていきました。
さらに相手との距離が近くなっていき、より深い信頼関係が結べていると喜びに感じる一方、相手との距離が近くなれば近くなるほど、相手が私をコントロールをしようとしてくる場面に出くわすことが多くなりました。
また、私も、知らず知らずのうちに相手をコントロールしていた側面があったかもしれません。
一歩間違えれば取り返しの付かないところまで突き進んでしまう恐怖を感じる事もありました。
さらに、私の心と体が万全ならば何とか対応できる状況でも、仕事での疲労がたまっているときや、体調が良くないとき、更に時間的制約などがあるときに満足な対応が出来ずに私自身がしんどくなることも増えてきてしまいました。
それでも、そうなることなく身近な人の抱えた葛藤に寄り添うことが出来て、更に自己の学びになることはとても嬉しいです。
私がこんな事を自ら行っているのも、いずれは、問題を抱えている元妻や、問題を抱えるであろう娘にケアが出来るだけの力を付けたいとの想いからです。
あるいは、そうすることで自己の正当性を主張したいとか、そうする事による周囲からの評価を期待している側面もあるかもしれません。
それでも、私の身近に居るしんどい人が少しでも楽に変われるのは悪いことでは無いと感じています。
ですから、少ししんどさを感じつつも、それを超える喜びや感動があるからこそ、相談に乗ることを辞めていないんだと思います。
これからも、こうやって身近な人達の相談に乗ることで、自分自身の見つめ直しや学びにさせて頂こうと思っています。
あるイベントでの感動
先日、某男女平等じゃない参画のとあるイベントに参加しました。
私がお世話になっている方のワークショップに参加するために足を運んだのですが、それ以外にも、DVの被害者支援についてお題目を掲げた団体がワークショップをしていたため、これにも参加してみることにしました。
加害者とされた、共に学ぶ方々数人で参加したのですが、行政によくある、女性の被害者支援だけを掲げる団体のワークショップだったため、どんな事が語られて、行われるのか期待を高めて参加しました。
しかしそのワークショップの前半に行われたことは、これまでの活動功績を発表するような、当たり障りも無い活動報告会でした。
しかもその団体は、被害者支援者になるために興味を持って貰えるようなセミナーを年1回ほど開催しているだけで、実際の当事者支援は、被害者支援も含めて何一つしたことが無いような団体であることを知って、正直なところ、残念な気持ちになっていました。
後半になって間が持たなくなったのか、参加者一人一人に自己紹介と質問を求めてきたので、参加者からどんな質問があるかと聞いていたところ、やはり現場の実態を知りたくて来ている方が多いようで、前半の活動報告会にはご不満な様子でした。
さらに自己紹介を聞いていると、周囲の方々は行政の方やそれに関わる民間団体の方達ばかり。
もちろん加害者支援なんてものはほぼ存在しないも同然ですから、加害者は危険だ、との言説を信じて疑わない、加害者に触れたことも見たことも無い人達ばかりと言うわけです。
そんな中私達の自己紹介の順番がまわってきた際、私達が加害者であることを自己開示した瞬間に、その会場の空気が変わった事を感じました。
明らかに異質な者が紛れ込んでいると見られているような空気。
さらに、その後自己紹介の順番がまわって来た方の中に、「わたし実は被害者で。。」と申し出る方もいらっしゃり、「フラッシュバックが。。。」なんて言い出す状況に。
あの居心地の悪さは被害者、加害者とされた双方もそうですし、その場に居た皆さんが感じていたことでしょう。
相互理解が進めばそんな事はあり得ないのに、加害者だ、被害者だとラベルを貼り付ける事だけをしている現状があるからこそ、あのような事が起きてしまうのでしょう。
会場は一気に重い空気が流れ、ここでもし被害者の方の加害者性が顔を出して、加害者とされた私達を攻撃してくるような状況にでもなれば、場は一気に壊れてしまいます。
しかもワークショップを開いている方達は支援の経験が無い人達ばかり。
強いて言うならば、被害者、加害者双方に理解があり、その場を何とか収めるスキルを持ち合わせているのは、ピヨピヨの私達だけ。
誰も場を納めるスキルを誰も持ち合わせていない状況であの空気は本当に焦りましたし、怖かったです。
だからといってここて場が壊れてしまっては相互理解を深めたいとの想いから遠ざかってしまう。
加害者とされた者が、実際の支援の現場で働く人達に働きかけ、相互理解を深めるためには、ここでもやはり自己開示しか無いと、少しだけ勇気を振り絞って、私がこれまで経験した事や学んだことを積極的に発言させて貰いました。
・元妻と娘にに出て行かれて途方に暮れていた際、被害者支援の現場に助けを求めた時、「男性の加害者であるあなたの相談には乗れません。」と突き放されたこと。
・私が加害者とされた事は、幼少期に親から暴力を受けた経験が影響している事に気づいたが、その事実は、問題が表面化して気付き、変化をするまで認めることが出来なかったこと。
・現状の支援では元妻は必要も無いのに未だに逃げ回り、必要の無い引越しなどを繰り返していること。
私が前職で経験したDV支援の内部事情や、支援の現状は、当事者の本当の回復には繋がっていないこと。
多分そんな事を話していたと思います。
実は結構緊張していて何を喋ったかあんまり覚えていません。笑
でも、自分が発言した内容で場の空気が変わった事は感じ取れました。
その証拠に、ワークショップ終了後、実は被害者でと言っていた女性の方に握手を求められ、加害者とされた人の気持ちに触れることが出来てとても良かった、感動したと言って頂きました。
その他の方にも代わる代わる話しかけられ、握手を求められました。
何だか恥ずかしくてたまらなくて、その場は満足いく対応が出来なかったように思います。
あの場で私が感じた感動は、奇跡と呼んでも良いような、何とも言えない、とても嬉しいものでした。
けれど、その感動が、自分をしんどくさせる結果になってしまったんです。
奇跡をきっかけにしんどくなる
私は、前日のイベントで経験した奇跡体験により、簡単に言うと調子に乗ってしまったんだと思います。
力も無いくせに、変に自信がついたからか、受ける相談がさらに重くなってしまい、相談者からの依存を受ける状況を許してしまいました。
その結果、より要求が強くなる相談者の期待に応えなければ、相談者にとってより良い支援者になるべきだ、との思いが強くなって、かなりしんどい状況になったりもしました。
~しなければ。
~するべき。
この2つの言葉ほど苦しいものはありません。
そうやってかなりしんどくなっている私に、更なる追い打ちが襲ってきました。
追い打ちをかけるように悪化する群発頭痛
私は元々群発頭痛もちです。
群発頭痛と、偏頭痛と違い強烈な痛みが特徴のこの頭痛ですが、かれこれ10年くらいの付き合いです。
とはいっても、これまでは比較的軽い症状だったようで、群発期が来ても数回、発作を耐えれば終わってしまうような状況でした。
今回やってきた群発頭痛も、これまでと同様、大したことは無いのだろうと軽く見ていたのですが、今回は違いました。
昼夜を問わず1日に何度もやってくる激痛の発作は、仕事中でも就寝中でもお構いなし。
就寝中では、突然やってくる激痛のあまり飛び起きてしまうほどでした。
しんどくなっている状況に、さらに追い討ちをかけるようなこの群発頭痛で、睡眠時間や体力が削られ、本当に参ってしまいました。
そこで得た新たな気付き
そんな追い込まれた状況になれば、やはり見えてくるのが自分自身の問題です。
薄々気付いていながらも、どこかでだれかのせいにして、自己と向き合うことから離れていた事実に、真正面から気付かされました。
気づいたことで、また自己と向き合う時間がやってくる。
今まで蓋をしていたり、気付きながらも放置していた問題を真に終わらせるために自己と向き合う。
この時間が本当にしんどくてしんどくてたまりません。
それでも自己と向き合い、変化できたときの喜びは本当に大きいですし、少しでも変化できた実感が自信にも繋がります。
最近の私は、誰かの相談に乗ることで自分が価値のある人間だと思われたいと、周囲の人の価値観に依存したり、新たな職場での社会的価値観に依存して、徐々に染まっていっていたように感じます。
それは職場の同僚達からも気づかせて貰いました。
私よりも10歳近く若い同僚達の成長のスピードはとても早く、とても柔軟な考えを持っています。
そんな同僚達と関わることで、新たな気付きをたくさん貰えます。
まだまだ未完全な私にとって、同僚との関わりは、とても大切でありがたい貴重な経験になっています。
3歩進んで2歩下がる
最近の私は、変化のスピードを上げて、飛躍しているように感じていました。
しかしそれは調子に乗った勘違いでしかなく、実は大切な根幹の部分を置き去りにしていたんだと思います。
そもそも、自分自身の行いに、自己の変化が追いついていなければ、ただ無理に背伸びをしているだけですから、それでは全く意味が無い事です。
それでも、私は少しずつでも変化してきていることは自分でも体感できているし、周囲の方からもそのように言って貰えています。
まさに「3歩進んで2歩下がる」ように、小さな軌道修正を繰り返しながら、少しずつ変消していくんだなと実感しました。
そのためにも学ぶことをしっかりと続けて、これからも変化し続けていこうと思います。
共に学んでくれる人が居る心強さ
そんな時に共に学ぶ仲間がいて、集まる場所がある安心感は、やはり私にとってとても大きい事です。
何か問題が起きそうならば、相談できる安心感が、人との関わりを、恐れることなく積極的にさせてくれます。
そんな場に居られることが、とても有難いです。
これからもその場を大切に、しっかり学んでいきたいと思っています。
自然と見つかる解決策
そんな最近のしんどい状況も、自分が壊れない程度に向き合うことを辞めなければ、必ず楽になる糸口は見つかりますし、誰かが助けてくれるものです。
さらに時間と共に自然と解決することや、自分以外の誰かの力によって、自分は何もしなくても気づけば解決している事もたくさんあります。
しんどいときは肩の力を抜いて、余計な葛藤を遠ざける。
そんな事も重要な気がしています。
したたかに、楽しく生きる
ある程度のしたたかさを持ってうまく順応することが、うまく周りと調和して生きていくことなんだと、最近感じるようになりました。
自分の気持ちを大切に、自分が潰れることなく楽しく生きることが、周囲の人の笑顔や前向きな気持ちに繋がっていく事を実感して、いま、とても充足した気持ちになっています。
確かにしんどいことはありますし、色んな問題は山積みですが、少しずつ前に進んでいる実感が嬉しくてたまらないです。
そんな毎日を幸せに感じられる気持ちがあれば、きっと更なる幸せがやって来ると確信しています。
長く書いてみましたが。。。
今回は最近のことをだらだらと書いてみましたが、読み返すと自分でも読みにくくてしょうがないです。笑
前回の更新後からちょこちょこ書いていたんですが、書く度に新しいことが起きていて、記事がどんどん長くなっていくスパイラルにハマってしまっていました。笑
いつか伝えたいことをまとめるとして、とりあえずアップしますので、ご容赦下さい。笑
元妻の現状
最近になって、娘と元妻の現状が少しわかるようになったので、それを受けて感じたことを書いてみようと思います。
今回の件で、今私が唯一出来ることは、元妻の本当の回復をただ祈る事しかないんだなと再認識することが出来ました。
私からすれば、一刻も早く娘に会えるようになって欲しいという願いはありますが、焦ることなく時期を伺っていこうと思います。
いつものごとく、ひょんな事から情報が入る
毎度毎度よくもまぁと呆れるほどに、知るつもりも無いのに意図しない所から情報が入ります。
でも、それが本当に本当に、有難い事なんです。
前回、元妻からの電話があったときのように、こちらからアプローチをかけて連絡を取れるようにすると、元妻とその親族共々に、やはり余計な葛藤を与えてしまいます。
その余計な葛藤を与えてしまうことで、元妻は更なる不安妄想を生み、心の回復を妨げてしまいます。
今回のように、こちらからアプローチをしないで情報が入れば、私自身も余計な不安妄想を抱いて葛藤することもありませんし、元妻側も不安妄想を広げてしまうことはありません。
そんな事で今回も、全く意図しない所から突然情報が入ることになったんですが、本当に有り難く思います。
子の福祉に何が必要か、真の回復とは何なのか。
そういった私の真意を少なからず認めてくれて、共感して下さる周囲の方々が居るからこそ、今回のように情報が入ります。
本当に有り難いことです。
いつかこの真意が元妻や元妻の親族に届けば、少しは現状が変わってくれるのではないかと思うのですが、現実はなかなか難しいものです。
今回の件で、元妻は未だに葛藤が続いており、必要も無いのに逃げ回り、必要な支援は何一つなされていないと言う事がよくわかりました。
私を痛烈に批判している元妻
批判内容まで表に出してしまうと本人特定に繋がる恐れがあるため、ここに出すことは控えようと思います。
ですがその内容は、断片的に伝わるこちらの情報を、不安いっぱいの妄想で繋ぎ合わせて作った虚構を元に、痛烈に私を批判するものでした。
私もその内容に、始めは落胆しましたが、それよりも何よりも、元妻は未だに私を責めなければ自己を保てない状況に追い込まれたままなんだと言うことがよくわかり、それを考えると心が痛くなりました。
未だ逃げ続けている元妻
さらに、完全な分離が良しとされる現状の支援ですから、元妻は当然、こちらからのコンタクトを頑なに避けようとします。
そうするとこちらの状況が伝わらず、元妻は私が追ってくるのでは無いかとの不安妄想から、逃げ続けることをしなければなりません。
元妻は、私が住所を知っているとの情報を何処かで聞きつけたようで、シェルターを出て住み始めた場所から、半年もたたずにわざわざ転居して、携帯番号まで変えたそうです。
こちら側の状況が適切に伝われば、その必要は無いと判断できるはずなのに、執拗に不安を煽られて、元妻は未だに私から逃げ続けなければならない支援の形が、疑問で仕方ありません。
元妻の回復を願う
今回の件で、元妻は未だ被害者のまま、私を批判することでしか自己を保てないで居ることがわかりました。
さらに、不可能な事であるにもかかわらず、完全な分離をしようとするあまり、元妻はこちらの状況を適切にうかがい知ることが出来ず、余計な不安妄想に駆られ、未だ私から逃げ続ける事をしなければならない状況です。
そんな事では元妻の中の私の人物像は、より凶暴で冷酷な加害者として創造されていき、元妻はより被害者性を強め、回復からは遠ざかっていってしまうかもしれません。
私を痛烈に批判するだけで、元妻本人が自己の被害者性と向き合うことが無いままでは、元妻の本当の回復は難しいように思います。
適切な支援を望むばかり
私が学んだ中で感じるDVの本質は、「コントローラーのコントロール欲求」と、「コントロールを受ける側の依存体質」だと感じています。
しかも加害性、被害性は、加害者、被害性両方の中に持ち合わせていて、一人の人間の中に加害被害の両者が複雑に入れ混じっているものなんだと理解しています。
それは私自身の変化の過程からでも感じることができましたし、共に学ぶ他の方達からも同様に感じることが出来ました。
問題の起きた2人がそれぞれの問題に向き合い、変化して行ければ良いのに、危険だからと不可能である強烈な分離しかしない現在の支援。
一時的な分離や、そもそも強烈な分離が必要な場合もあることは理解しているので、一概に否定するつもりはありませんが、分離するならせめて、被害者加害者双方に適切な支援の機会を作り、真の回復に向けたアプローチをして頂きたいと思います。
私は現在、奇跡的に繋がることの出来た数少ない適切な支援者に恵まれ、ほんの少しずつでも着実な変化を感じられる環境にあります。
ですから元妻も、誰かのコントロールに依存するのではなく、自己決定し自己主張し自己責任を引き受ける、一人の独立した人格として生きる力や他者と関わる対人スキルを身につけてるための支援に繋がって欲しいと切に願います。
まだまだ先は長い
元妻と娘が出て行って早1年半。
その間に様々ありましたが、この問題は私自身が生涯をかけて学んでいく課題なんだなと感じました。
前回の電話で少しばかり進展したことに喜んでいた私ですが、まだまだ道のりは長い、と言うのが私が今感じていることです。
私自身も少しずつ支援をする側の学びを始め、出来る身近な問題から少しずつ人に寄り添い、変化のお手伝いをすることを始めています。
その中で未だに苦しくなったりしんどくなることも多々ありますが、そうやって少しずつでも前進して行けたら良いなと感じています。
さらにここ最近は、現在の支援の場の外にも学びの場を広げていき、私の出来る支援の形を模索していければと考えるようにもなってきました。
いずれにせよ私はまだまだ葛藤の多い、無力な当事者でしかありません。
これからも少しずつ、着実に力を付けて行ければと考えています。