ちなみに広場について書いてます。

広場について綴るブログです。

しあわせの経済 世界フォーラム

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こんにちは。

 「しあわせの経済」世界フォーラム2017が

昨日一昨日都内で開催され参加してきました。

 

しあわせの経済」フォーラム公式パンフレットから

その概要を少し書き出してみます。

“貿易は常に良いことで、多ければ多いほうが良い”

“成長は常に良いことで、早ければ早いほうが良い”という

思い込みのせいで、 各国政府はこぞって、

グローバル市場の規制緩和を歓迎し、

その結果、私たちにとって本当に大切なものが

逆に圧迫されることになりました。

 

グローバル金融機関は今も、大規模でエネルギー浪費型の

テクノロジー開発のために、難聴取るという資金を創造する一方で、

環境破壊と失業を生み出し続けているのです。

 

 

私たちは、ローカリゼーションこそが未来への道であり、

同時に世界が抱える多くの問題を解決する鍵だと考えています。(中略)

 

 

 今、雨後の筍のように世界中に姿を現した

新しいプロジェクトの数々は、どれも、深い人間的なニーズに

答えようとする試みです。

何百万というローカル・フードのプロジェクトから、

ローカル・ビジネス連合、ローカル金融・ローカル再生エネルギーの

プロジェクトまで…。(中略)

 

私たちは確信しています。生態系を、社会的な絆を、真の民主主義を、

そして公正な経済を蘇らせるための、

最も手っ取り早くて、効果的な方法は何か?

 

それは、世界中でローカル経済を育て上げることなのです。

 

広場のブログになのに、なぜいきなり経済なのか?

それもしあわせの経済とは何なのか?

 

それは、だいぶ前、水野和夫さんの本をもとにエントリーを

書いた頃から、経済ってどういうことなの?と常々感じていたことから。

今でもこの本は、バイブル。

今がもう資本主義が終わる時で、次の時代の幕開けの時代なんだよ、

っていう鐘を鳴らしてくれたような、そういう本。

まだ未読の方は是非。目からウロコですよ。

 

www.machirunrun.jp

 

今、日本も、ヨーロッパも、アメリカも全部利子率が0%近くなっているのは、

単に景気が悪いんじゃなくて、

資本主義が成り立つ為の条件が消えかかっているから、ということ。

だから資本主義がダメになったとかそういうことではなくて、

行き着くところまで行き着いた、ということだそうな。

問題なのは、この行き着くところまで行き着いたはずのものを

もう一回延命しようとしているところ。

それをやっていくと、もう周辺国は無いので、

同じ国のなかで、中心と周辺を作らなくてはならないということ。

 

日本で非正規が増えてきた、とか

アメリカでは1%が99%の人の資産以上の資産をもっているとかいう話ですね。

資本主義を延命していくということは、

この格差をどんどん広げていくことに他ならなくて、

それは同時に、民主主義という社会の理念までも

曲げかねないものであったりするわけだそうです。

(それが歴史の危機という言葉に表れています。)

 

で、最後には、カンフル剤的なものを打って今の資本主義を延命するより、

定常状態の経済になっていくほうが幸せだということで論は結ばれています。

 

 そういうことを考えていた2年前から時は流れても、未だに主流は

資本主義経済な訳ですが、でもそれじゃもう本当にまずいし、

次の形に移行しようよ!って思って行動している人たちがたくさん集まって

きていたのが今回の「しあわせの経済」世界フォーラムでした。

 

 

1日目は、全体会で各国ゲストの講演、

2日目は分科会でいろんなテーマに分かれて、ゲストスピークを聞いたり

トークセッション。

 

いろいろお話はあったのですが、

今日は抜粋して印象的だった話。

 

1日目の講演でサティシュ・クマールさんという

イギリスの思想家の方の講演がありました。

 

ご存知の方にはもう十分知られた話だとは思いますが、

ガンジーがインドのイギリスからの独立運動を始めた時、何をしたかというと、

糸車(チャルカ)を回した、というのです。

その当時、インドは、自国で生産した綿をイギリスに安い価格で売り、

イギリスの工場で服にしたものを、再度買っていました。

イギリスは、近代化で大量の服を生産できるようになったため、

植民地としていたインドに売りつけていたのですが、これを

止めることができれば、イギリスからの経済的独立ができる、と

ガンジーは考えました。

そこで、使われずに納屋にしまいこまれてきたチャルカを

取り出してきて朝に夕にチャルカを回して糸を紡ぎ、布を作り、服を作りました。

自分たちで作った服を着るようになることで、

イギリスから輸入されてくる服を買う必要がなくなり、

そしてイギリスからの独立も勝ち取ることができたそうです。

 

まだガンジーのチャルカ運動についての本を読んだことがないので

ざくっとした理解ですが、

これをサティシュさんは、力説していました。

確かに、服はある程度の枚数あれば十分で、

それ以上買う必要もないですから、

このガンジーの思想はとても論理的です。

 

 

 サティシュさんは80歳を超えるご高齢の方なのですが、

とてもチャーミングで講演中ずっと笑い声が絶えず、

 そして、とにかく、「手を使いなさい、手を。手を使って

作れるものを作りなさい。」と言っていたのが印象的でした。

 

他にも、

ヘレナ・ノーバーグ=ホッジさんの話とか、辻信一さんの話とか

いろいろあったのですが、ちょっとまだ消化不良。

とにかくいろいろ感極まることの多いフォーラムだったな、っていうのが

感想です。現場からは以上です。

 

街のルールを変える術(すべ)

しばらく前から、公共®不動産で、

ルールから街を変える 「Rules & Commons」

というサイトがオープンしていました。パチパチパチパチパチ!!!!

 

街の中で何かをしようとすると、

気になるのは、「これはしてもいいんだろうか?」という疑問です。

 

道端でコーヒーを入れて売ってもいいんだろうか?

街の中でギターの弾き語りをしてもいいんだろうか?

街の中で大道芸をしていたらどうなるんだろうか?

 

そういうことをしたくなったら、ネットの中を歩き回って、

いけるかどうかを判断して物事を起こすわけですが、

ルールで許されているかどうか以前に、

そもそも多くの人は、

そういうことをする場所として街を捉えていない気がします。

 

 

 

私は1980年代に小学生時代を生きていたわけですが、

その頃の房総の外房線内房線は今は懐かしい113系という

青色の車両の電車が走っていました。

 

今となってはちょっと信じられないですが、

その車両の中にある4人席(向かい合って座る席)で

お母さんが赤ちゃんに授乳しているのもちょくちょく

見かけました。しかも今よくあるようなケープとかを

使うのではなく、隠さずそのままもろだし、です。

同性の子供でも、相席しちゃった時は、

どこ見たらいいんだろ…?とか思っていた覚えがあります。

潔い…。

 

その頃の駅の入り口の階段には

戦争で兵隊で出て負傷したから働けないので、

お金を恵んでください、という人もちょいちょい座り込んでいました。

 

そういう人たちは、80年代後半にもなると

だいぶ見なくなるのですが

見かけなくなった原因は、(兵隊さんは年齢的なものもあるでしょうが)

「こういうことをするのは、まあ恥ずかしいよね…」みたいな

暗黙の了解的なもののような気がします。

 

多分、そのちょっと前くらいのお母さんたちは、人前で授乳するのは

別に恥ずかしいことでもなんでもなかったのが、恥じらいの変化みたいなものが

あって、人前での授乳が恥ずかしことに格上げ?されたのでは?と思います。

 

 

あとは、例えば

小学生低学年のうちはクラスの全員がハイ!!って

手をあげるのに、

年齢が上がっていくにつれ

手を上げなくなる、というのにも似ているような。

なんか率先して手をあげるの、恥ずかしくない?みたいな。

大人になってもありますけども。こういう感覚。

 

 

街でコーヒーを入れるなんて普通やってないし、

街で大道芸するなんて普通やってないし、

街でギター弾くなんて恥ずかしい!!!

っていうメンタルは大いにあると思うのです。

 

 

だからこそ、みんながやってる、っていう状況を作り出すことが

街が楽しくなる第一歩なのかな、と思う次第。

 

ってなんの話かわからなくなりましたが、

普通街で大道芸なんてしないよ!っていう

メンタルを作り出してるのはルールでダメって言われるから、

ってことだとしたら、

もっと街を使いこなしていいよ!っていう肯定的なメッセージが

発信されたらまた状況も変わっていきますよね。

 

 

良い広場作る時に守るべき5つのルール その5(2年半考えてました)

いやー、「良い広場を作る時に守るべき5つのルール その5」をね、

解説するのが難しすぎて、2年半書けなかったんですよ。

もうね、世紀の難問。

 

どういうことなんだ、と。

その5はね、「広場群」というタイトルなんですけども、

良い広場を作るために広場に群がいるとは、どういうことなんだ、とね、

考え込んでいたわけです。

羊か?羊の群れでもいるのか?と。

数えればいいのか?羊を?とね。

 

 

 

 

…嘘です。すみません。

 

そんなわけで復活のブログ。

もう二度と書かないかのような間を空けて復活する不死鳥のようなブログ。

年単位で放置するブログ。

 

 

一応ね、復活のブログなわけですし、

前切れ切れになっていた内容を仕上げておきましょう。

広場群。

広場はね、一種類の広場だけじゃダメなんだそうです。

もちろん街によって色々でしょうが、

 

「ドゥオモ前の広場」

ドゥオモは教会なので宗教色の強い場所。

ミラノのドゥオモ前広場とか、威風堂々たる感じの広場

「市場の広場」

市場の立ち並ぶ、生活のための広場。

「公園のような広場」

日本でいうと近所の公園のような、子供達がサッカーしているような広場。

小さい町だとありませんが、ヴェネツィアくらいの規模の町だと

ちょっとしたサイズの、子供遊び用&ちょっとしたカフェ併設

みたいなところがありました。

 

中規模くらいの町だと、広場群、というわけにはいかなくて、

だいたいドゥオモ広場+市場広場みたいに一緒になっていますが、

大きい都市だとそれぞれが別々にありました。

 

まあこの項目は、日本では現実味がないので

(一つもない日本にいきなり群れで広場を作れって言ってもあまりね…)

気にしなくていい気がします。

 

というわけで2年半ぶりの宿題書き終わりましたーーーーー!!!

 

良い広場作る時に守るべき5つのルール その4

さあ、このルールシリーズ、残りはこちら。

4、古い広場の不規則な形

これはね、ジッテ先生によると、真四角な形とか、5角形とか、6角形とか、

そういう規則的な形の広場はもう全然落ち着かない!んだそうです。

 

 

どうですか。このレクタンギュラー感。

なんかこう、取りつく島が無い感じ。形が整いすぎていて、

どこに自分の居場所を探したら良いのか

分からないというか。

 

 

それに比べて、こういう不規則な形の広場だと、

そこに自分が居場所を見つけやすいのかも。 

不規則な部分を自分で埋める感覚。

 

 

広場の舗装も不規則な素材の方がいい

形が整いすぎてて取りつく島がない、っていうのは

広場の舗装にも感じられます。

 

このローマのサンピエトロ寺院の前の広場は

広すぎるし、堂々としているし、どちらかというと

規則的な整った形の広場で、

人のくつろぎやすい愛らしい広場という雰囲気ではないけれど、

それでもこの舗装がラブリーなせいか、

ちょっと親しみをもてる。

 

 

それに比べて、この大きい舗装だと、なんかこう、ちょっと

自分に対する親密度が低い感じ。はねのけられる感じ。

(ええ、とても感覚的なものですが。)

 

この舗装の材料がちいさい方が親密に感じる話については、

広場や道を取り囲む建物のサイズの話と通じるところがあって、

巨匠ヤンゲールさんが、その著書の中で、

道路や広場を囲む建物の間口が細くて、たくさんの建物が連なっている方が、

人は飽きずにその前を歩くことができる。

反対に一つの建物の間口が大きくて、

歩いてもなかなか変化を感じられないような建物の場合、

人はその前を歩くことにつらさを感じる、ってあったんですけども、

その通りだな!って。

 

個人的に、お台場や、幕張や、品川や新宿の副都心なんかにある、

ビルとビルの間を歩くのが苦手だったのは、

この歩いている間に目にするものがあまりにも単調でつらかったんだな、

だからああいうところには人が集らないんだな、って

納得しましたよ、その理論を聞いて。

都市計画で作るとそういう場所ばっかりできちゃいますけど、

それはやっぱり、身体的な感覚だと苦手っていうのが正直な話なのですね。

うんうん。

 

 

良い広場作る時に守るべき5つのルール その3

すすすすぅすすぅぅすぅぅぅ、すすみませんでしたぁぁぁぁぁぁ!!!

 

って誰に謝るでもなく謝っておこう。

というわけでものすごい久しぶりのblog復活。

 

なんでこう、いきなり消えるかって言うとね、単純に言うとね、

ジッテ先生の解説し続けんの嫌になっちゃったんだよね。

書きながらね、もういい、そんな理論どうでもいい!

って思ったりするともうダメです。

 

広場が要らなくなったなんて思ってないし、やっぱり広場が

ほしいって言う気持ちがあるから復活してきたわけですけども、

義務感でこのシリーズを書き続けることに限界を感じて、

うっかり消えておりました。

 

とは言えね、このジッテ先生の話を尻切れとんぼで

終わらせるのもなんかこう収まりが悪いので、

よし、3行で書いちゃおう。

 

良い広場作る為の5つのルール、その3

3、広場の大きさと形

 

ちなみに残り二つはこちら。

4、古い広場の不規則な形

5、広場群

 

はい。これがまだ解説しきってない諸々の話。

 

3、広場の大きさと形

これはジッテ先生によると、広場の前には大抵その広場の主となる建物があります。

(これは主に教会と市庁舎です。)

この建物に対する大きさや形が良い広場になるためには結構重要、という話。

大抵教会前の広場は細長くなり、市庁舎前の広場は横幅が広くなります、

というのがジッテ先生の見つけた法則のようです。

 

とはいえ、日本に広場が作られるとき、教会や市庁舎があるから広場が

作られるわけではないので、いらないんじゃないの?そんな建物、って思いがちですが、

これに対して、重要な答えを日本の広場の大御所

小野寺康さん(大御所なのにさんづけ…)がだしています。

 

そう、広場に教会や市庁舎がある必要はないが、

 

広場には主景がいる。

 

きました。これですよ。これ。

これ大事。ものすごく大事。

 

 

日本の広場にも主景は必要です。

教会や市庁舎を持たない日本の広場でも、この主景になるものがある方が

人が自分の居場所を見つけやすいのです。

なぜなら、この主景を眺めつつ、自分の居場所を決めると、なんだか

居心地が良い場所になるんですってば。ほんとに。

 

 

例えば、富山の広場で主景となっているのは、大型のスクリーン。

大型のスクリーン?って思うでしょうけれども、

このスクリーンがあるお陰で、広場に来る人の視線が定まります。

どこをみたらいいか、っていう方向性があるのは、

広場に人を集める為には大事な要素です。

 

そして前回のエントリーに書いた姫路駅前広場。

この主景はそのサンクンガーデンの底を流れる川です。

段々になった階段に腰掛けている人たちが見つめるのは川の流れです。

これはもう間違いない。

 

このスクリーンや、川が主景になることの利点は

何かといったら、変化があること。

スクリーンは当然ながら流される映像が変化していくものですし、

川はその動きは少なくて分かりづらいかもしれないものの、川の水は

常に流れ続けています。

そして人は変化し続けるものをじっと眺めるのが大好きです。

 

例えば、焚き火の火を囲んだとき、そこを囲んだ人たちが

じっと見つめるのは、他人の顔ではなく、

変化し続ける炎の様子。

それがスクリーンや川でも主景になる秘密です。

 

小野寺さんは、山なども主景になると話しています。

つまりこういう浮世絵に登場する、

遠くにある富士山なんかもその良い例。

 

こんな富士山が見える広場があったらそれは当然

日本を代表するひろばになっちゃいそうですね。

 

とかわりと長い文章になってしまいましたが、

続きはいつになることやら。ではまた。

 

 

良い広場を作る時に守るべき5つのルール その2

さあ、どんどん続き行ってみましょう。

 

「守るべきルール」を再掲しておきます。こちら。

 

1、広場の中央を自由にしておくこと。

2、広場は閉ざされた空間としておくこと

3、広場の大きさと形

4、古い広場の不規則な形

5、広場群

 

今日はその2

 

その2、広場は閉ざされた空間としておくこと

さあ、これはジッテ先生の説を聞いてみましょう。

 

都市の中の空いている空間が広場と呼ばれるのは、

 

主としてそれがはっきりと限定され、閉ざされ、固定されていることから

 

来ていることは明らかである。

 

ところが今日では、四本の道路に囲まれただけの空間や建物の建設を

 

放棄した為に出来たバラバラの空き地を

 

勝手に広場と称している有様である。

 

だそうです。限定して、閉ざして、固定しているから広場と呼べるわけですね。

続きをどうぞ

 

これは衛生面、あるいは技術面ではまだがまんできるとしても、

 

芸術的な観点からすれば未建設用地に過ぎず、

 

とても都市の広場と呼べるものではない。

 

これに美しさ、意味、性格を与えるためには他の条件が必要である。

 

なぜかというと、同じ部屋にも家具・調度を備えたものもあれば、

 

がら空きのものもあるように広場にも明確に定義され、

 

秩序だてられたものと、秩序、整備というものをまるで書いているものが

 

あると言えるからである。

 

部屋の場合と同様に、広場の場合もその本質的条件とは、

 

いずれも空間がはっきりと限定され、閉ざされているとういことである。

 

以前、広場は街のリビングだ、と書いたわけですが、

ジッテ先生も部屋の例えをだして広場を説明してますね。

部屋である為には壁で囲まれている必要があって、壁で囲まれていなければ

そもそも部屋とは呼べないわけです。

なんで広場は部屋的でないといけないか?いくつか理由がありそうですが、

大事なことのひとつがこちら。

 

部屋的にすることで賑わいを引き起こすことが出来る。

 

ここで現代日本の広場の匠に登場して頂きましょう。

 

広場のデザイン―「にぎわい」の都市設計5原則

広場のデザイン―「にぎわい」の都市設計5原則

 

 

小野寺泰さんです。

この本の中で、このジッテの5原則に言及しているのですが、

この閉ざされた空間としておくことについてはこう述べられてます。

 

にぎわいを形成するには、ある程度囲い込まれた領域性が必要だ

 

というのは設計家の自分も実感している。

 

ベテランの匠がこうおっしゃってるわけですな。

 

 

 

 

そしてさらにもう一方ベテランを引き出してみましょう。

こちら。

人間の街: 公共空間のデザイン

人間の街: 公共空間のデザイン

 

ヤンゲールさんです。

ヤンゲールさんは、賑わいをつくり出すのは相互作用だ、と書いておりました。

 

hiroba.hatenablog.com

ここの時は、特に壁の話をしませんでしたが、

賑わいは相互作用なので、にぎわっていればよりにぎわうし、

廃れてくれば、より廃れるという法則が働きます。

小野寺先生は、広場が囲まれていないと気が抜けてしまう、という言い方で

広場が囲まれていることが重要という話をされていたんですが、

確かに囲まれていれば、

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こういう乱反射がおきますけど、もし広場を囲むものが無ければ、

もう抜けたい放題です。こんな。

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つーつーです。 

 

ジッテ先生は、この広場を囲うものがどんなものがあるか、という話の中で

一般的な建物という囲いの他に、

柱廊とか回廊、凱旋門を上げています。

うん、今の時代なかなか柱廊とか作るの難しそうだけども…。

 

 

 

現代だったらどうやって広場を囲うのか

小野寺先生は現代の日本で囲うというのをどうやって実現できるか模索していて、

木立を広場のまわりに配することでその場を薄く包んだり、

石やベンチをおいたり、というような手法を使っているようです。

うーん、そのものズバリの壁や建物で囲うのは条件が揃ってないと難しいんだな…

と思ってた矢先、知った

 

「姫路駅北駅前広場」

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(画像は神戸新聞NEXTさんよりお借りしました)

 

 

こ、これは、包んでる…!!!包み込んでる!!!!

カンペキに包んでる!!!

 

 

 

ここはねぇ…絶対気分良い空間だと思う。

だって、川が流れてて視線の方向が決まってるし、

座る場所がナチュラルにあるし、後ろの壁が包み込み感をもたらしてくれて

安定感があるし。うん、きっとここから歩いて10分の距離に住んでたら

毎日行くね。毎日広場ライフを送りにいく。絶対。

 

ということでだいぶジッテ先生のお話からはずれてしまいましたが、

囲まれてるってのは大事ですよ、ほんとに!!

良い広場を作る時に守るべき5つのルール その1

さあ、ちょっと時間が経っちゃいましたが、ジッテ先生の講義に戻ります。

 

広場の造形 (SD選書 (175))

広場の造形 (SD選書 (175))

 

 

 

今回はこの本のメインともいえる、

広場っていうのはどういうものなのかについてまとめてみます。

 

よい広場をつくる時に守るべき5つのルール

ジッテ先生によると、良い広場を作る為には5点のルールがあるそうです。

 

 

1、広場の中央を自由にしておくこと。

2、広場は閉ざされた空間としておくこと

3、広場の大きさと形

4、古い広場の不規則な形

5、広場群

 

この5点です。

1から順に粛々と説明をしていきたいところなのですが、

実は、このジッテの原則1番を読み込んでいて、

なんかどうも表題とその章で語ってる話がつながってないよな…

と思ってしまって、さらに考えて、はた、と膝をうった点がありまして、

今日はそれについて考えたいと思うのであります。

 

 

さて、先日から話してきた通り、この本のドイツ語の題の意味は、

「芸術的原理に即した都市計画」というくらいで、

都市は美しくあるべきだ、っていうどちらかというと

芸術的観点から都市を見た本です。

けして、この現代日本で昨今喫緊の課題である、

コミュニティが廃れてきてる、とか居場所が無いとか、

そういう類いの切り口から広場を語った本ではありません。

 

 

 1番目のルールの説明に矛盾を発見した。

5原則の中の1番目は、

「広場の中央を自由にしておくこと」です。

 

ただこの「広場の中央を自由にしておくこと」と題した章の中で

ジッテは、

・モニュメント(彫像とか銅像とか)と噴水をどこにおいたら良いか

・教会は広場のど真ん中にたてるべきじゃない

という2点からこの問題を論じています。

 

 

このモニュメントについてちょっと引用。ジッテ先生は歴史的に

広場のモニュメントは、広場の中心ではなく、外れたところにおかれた、

って言う話をしているんですが、なんでこうなったか、っていうのを

少し素朴なたとえ話で話しています。

 

そうした比較が出来るのは、冬の楽しみで人気のある雪だるまの場合で

 

ある。この雪だるまは普通、モニュメントや噴水が昔だったら作られた

 

ような場所につくられるのである。

 

それではどうしてそうした場所につくられることになるのであろうか?

 

それは非常に簡単なことである。

 

田舎の村の雪に覆われた何も無い広場を想像してみよう。

 

クルマがあちこちを通って自然に後を残し、その間に不規則な形に

 

分けられながら、汚れの無い部分が出来る。そしてそこに

 

雪だるまがつくられる。 というのは綺麗な汚れの無い雪はそこだけにしか

 

ないからである。

 

 この話は結構アフォーダンスだよな、と思って面白かったんですけれども、

ただちょっと、この点でこの

「広場は中央あけておくべき問題」を論じるのおかしくないですか?

だって広場の中央を自由にしておくといい、って言った後に、

なぜなら、って続けて

「モニュメントや噴水は広場の中央にあるよりも端っこにある方がいい」

って言われたら、ん?ってなりません?広場の話はどこへ?って。

そうじゃなくて、なんで広場の中央を自由にしておいた方が良いの?

って聞きたくなりますよね?

 

 

広場にモニュメント置こうと計画するとき、どこにおくと

広場が芸術的に一番美しくなるかって言う話だとしたら、

広場のど真ん中でも良いんじゃないの?

って聞き返したくなります。

 

実はジッテは、モニュメントは広場のど真ん中におくよりも

中心を避けておいた方が芸術としてより効果的だと説明しているわけですが、

それはそれで良いとしても、

それはけして広場の中心はあけておくべきだっていう

この章の命題を論理づけたわけではありません。

(なんかめんどくさい話し方ですみません。)

 

そうして結局解答を頂けないまま章が終わってしまったのですが、

うーんうーん、なんだろうなぁこの説明が足りなかったもやもや感…

って思いながら他のページを見て行ったわけです。

 そしてね、思い当たった。ここです。

 

中世とルネサンス期においても、貴重な装いを凝らしたこれらの広場は、

 

それぞれの都市の誇りと喜びであった。まさにここにおいて

 

人の往来が一番激しく、生き生きとしていたのであり、公共の祝祭が

 

行なわれ、出し物が上演され、公式の儀式が催され、法律が

 

公布されたのである。

 

(中略)

 

かつてのように市庁舎脇の市場の雑踏や、毎日の商売の生き生きとした

 

動きも今ではなくなってしまい、人の動きも活気も他へ行って、

 

公共建築のあたりなど、昔は一番賑やかだったところが寂れてしまった。

 

つまるところ、昔の広場の壮麗な特徴はおおかた

 

失われてしまったのである。

 

 

ジッテ先生もコミュニティ喪失に嘆いていた

 そうなんです、ジッテは、都市が美しくなくなってしまうことに

危機感を持ってこの本を書いているんですが、

同時に、広場がその往年の輝きをなくして、人々の活気が

無くなっていくことも同時に嘆いているんです。

つまり程度の差こそあれ、現代日本の悩みである

コミュニティの廃れと同じようなことを嘆いてるわけです。

 

そしてジッテは(何度も言うように)この本の中では、

あくまでも往年の広場の芸術的・美術的特徴を捉えてそれを活かせば、

昔のような広場を取り戻せるだろう、と語っています。

 

ただ実は、この命題の1番だけは、

芸術的特徴というよりも、

実は広場が広場として機能する為のもっと本質的な特徴なのでした。

だから芸術的にうんぬん、って言う話でまとめようと思っても、

ピンと来ないんですね。

 

モニュメント、みたいな広場の付随物のことで語られても、

ぽかん、と口を開けてしまうわけです。

だって究極言ったら広場はモニュメントも銅像も無くても成り立つわけで。

何にも無い空間でも、まわりに大勢の人がいれば、

広場が出来ちゃう可能性も大いにあるわけで。

(ジッテ先生、めっちゃdisってすみません汗)

 

 

(2番目の教会は広場の中央に無い方が良い、なぜならその方が

教会の正面がよく見えるって話していて、そちらのほうが

まだうなずけるな、って感じなのですが。)

 

まあ別にdisるつもりではなくて、

ジッテは、芸術的に広場を美しくさえすれば

自動的に広場はまた活き活きしはじめるだろう、って考えたってことなのですね。

 

 

芸術的に美しいことと、広場が活き活きしているってことは、

関連する部分もあると思うんですが、イコールって訳でもないっていうのが

今の時代の実感です。そんな短絡的に上手くいったら訳ねーよ!みたいな。

 

ただ、ジッテ先生の時代にはまだそこまでコミュニティの場所が無い、

みたいな社会問題はでてきてなかったはずなので、

それはしょうがない話でもありますしね。

 

 

というわけで、ちょっと重箱の隅をつつきすぎたかな感もありますが、

広場は真ん中をちゃんとあけとけよ、じゃなきゃ広場って呼べねーよ!

っていうジッテ先生の一番目の訓戒は確かに正しい、というのが

昨今の事情にございましたですはい。

 

統一地方選の立候補者の苦悩を代弁してみる。

トピック「選挙」について

 

さて、先日は統一地方選の選挙日でしたね。

 

 

私も含め、統一地方選とはなんぞや、という方が

ほとんどだと思うので、調べてみました。

 

統一地方選とは

 

一般には当該年の4月に行われ、上旬(一般には第2日曜日)に

 

都道府県知事政令指定都市市長、ならびにそれぞれの地方議会議員選挙が、

 

下旬(同第4日曜日)に政令指定都市以外の市町村東京都特別区含む)の

 

首長・議会議員選挙が行われる。(by wikipedia)

 

すいません、選挙ってやつに全く詳しくなくて、

なんか3月の末頃からいろんなところで、選挙があるのねぇ、

みたいな感慨しかなかったんですけど、

なんか今回はどうも選挙活動が気になって仕方なくなって、

ついつい書いちゃいます。

 

さてご存知の通り、地方の大部分は車社会です。

東京圏に住んでると全く必要性を感じなかったクルマですが、

地方に住んでるとクルマがないと生活に支障が出まくります。

ま、それは致し方のないことで、粛々と受け入れているわけですが、

ここで統一地方選の立候補者の困難を発見しました。

 

都内だったら、選挙戦の時、通勤通学で人が溢れる駅ってのは

絶好の選挙活動場所な訳ですよ。

もう獲物がごろごろして釣り放題の釣り場みたいな。

入れ食い状態、みたいな。

選挙のビラ配り放題、みたいな。

 

 

いや、実際は全然足を止めてくれない状態なのもわかりますけどもね。

選挙ビラ配ろうとしても受け取ってくれないとか、

受け取ってくれても3歩先にあるゴミ箱に捨てられた、とか、

そうナイーブになりそうな状況があるのも分かります。

 

 

 

でも、でもね、そんな悩み、

地方のクルマ社会で選挙活動してる立候補者に比べて

贅沢な悩みなんですよ。

 

 

わかります?

 

 

歩いてる人がいるだって??

歩いてビラ受け取ってくれる人がいるんだって???

まじで!?!(驚愕)

 

 

ってなりますよ、地方の候補者。

 

 

 

だってね、地方の候補者が朝の出勤時に

演説活動するの、幹線道路沿い。

 

 

 

 

 

「わたくし、みやもね真面目は、地域再生を真剣にやっていく所存であります!!!」

 

 

 

 

 

クルマびゅーーーーーん!(60km)

 

 

 

 

 

「わたくし、みやもねは若い人も高齢者も安心して住める社会を実現します!!!」

 

 

 

 

 

クルマびゅーーーーーーーーーん!!(80km)

 

 

 

 

 

 

「わたくし、みやもねに清き一票を!!!!!!」

 

 

 

 

 

クルマ

びゅぅぅぅぅうーーーーーーーん!!!

(120km)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・誰もきいてねぇ。

 

 

 

 

 

 

そうこれが現実。これが、統一地方選挙の現実。

 

 

まあこれは一番悲しい場面ですけども。

もうちょっと人が接触するような場面だと、

結構人気のあるスーパーの入り口付近に張込んで演説活動する、とか、

学校のPTAの集りにお邪魔してご挨拶する、とか。

地域の集りにお邪魔してご挨拶する、とか。

 

でもまあとにかく、歩いてる不特定多数の人を

一網打尽にして十把一絡げできる場所なんて、ないのです。

ショッピングセンターの駐車場の入り口くらいが

たくさんの人に触れられる唯一の場所なんですよ…。

それさえも邪魔って嫌がられるっていうね。

 

 

確かに、選挙時期の選挙カーの名前連呼って騒がしいってのも分かるし、

名前だけ連呼したって、やりたいこと伝わらないよ、って言い分も分かるけど、

同時に、この立候補者の悩みも分かってほしい。

選挙大事っていってる割に、投票いきましょう、っていってる割に、

全然みんなが話聞いてくれるような場所ないじゃん!

作ってよ!そういう場所!なんなの行政!!!

って憤ってると思う。絶対。

絶対そう思う。

 

 

つまり、選挙活動みたいな社会的なことに使える、

街の中の結節点みたいな場所が本当にないんですよね…。

公園は公的な場所で、ひらけてもいるけど、立候補してる人が求めてるのは、

もっと人ががんがん集って来る場所。

 

だからみんな駅前で演説活動するわけで。

 でも駅前のない地方はどうしたらいいんでしょう…。

 

 

そうだからね、もう毎回毎回の繰り返しになっちゃうけど、

 

広場をつくればいいんだよ!

立候補者さんたち!

 

広場作れば、演説し放題だよ。

有権者に自分の想いの丈をありったけぶつけられますよ!

 

 

そうしたら、みんなクルマで行ったり来たりしてて、

だーれも話聞いてくんない(泣)っていう状況から抜け出せますから。

握手だってし放題ですから。

有権者、十把一絡げで一網打尽にしちゃえますからね。

 

というわけで当選された議員のみなさま、

自治体に一つ、広場を整備していこうではありませんか!

 

ジッテ先生のお説教。

ジッテ先生に聞いた現代の都市計画の問題点を現代訳&意訳してみます。

 

現代の都市計画に置いて、あきらめなければならない芸術上の

モチーフの数は想像以上に多い。繊細な感情を持っている人にとって、

それを認めることは確かにつらいことであろうが、実際的な芸術家は

そうした感傷的な弱さに引きずられてはならない。

 

今時、都市計画の中に芸術的なモチーフをつくりたいって思っても、

なかなかそれが許される時代じゃないんだよ。

ナイーブなやつにとっちゃ、それはちょっと厳しい状況だろうけど、

できる芸術家はそんなんでへこんでちゃだめなんだよ。

 

また、見た目に美しい計画によってえられる成果にしたところが、現代生活に適合していなければ、確実でも持続的でもないだろう。 

 

それに見た目だけ良く作っても、

今の生活に合ってるもの作らなきゃ、意味ないでしょ?

 

私たちの公共生活において、多くのものが取り返しのつかないほど

変わってしまったし、古い建物の形態もかつてもっていた本来の意味を、

全面的にせよ一部分にせよ失ってしまった。

 

もう昔の生活とは、公共的な生活ってやつが全然変わっちゃったし、 

昔の建物だって、もともとは使われてた理由とか意味とかあったけど、

そういうの今はもう全然変わっちゃったでしょ?

 

今日、公共の出来事は、古代ギリシャやローマにおけるごとく、

古代ローマ浴場や広場の柱廊の下で公共触れ出し人が公布するかわりに、

新聞が伝えてくれる。私たちはこの変化を認めることが出来るだけだ。

 

昔はさ、世の中のニュースは、浴場や広場の下で「お触れじゃ〜」って言って、

 貼り出されたもんだけど、今は、新聞が伝えてくれる。

 

たとえ市場がますます広場を離れ、ろくに美しくもない建物の中に

閉じこもったり、直接配達の方式をとるようになったとしても、

私たちには何も出来はしない。 

 

普段の買い物をするところが、広場じゃなくなって、全然綺麗じゃない

建物の中に入っちゃったり、自宅に直接配達されるようになっちゃても、

俺たちに出来ることは何もないわけよ。

 

 またたとえ水道設備によって水が直接、家と台所に届くため、

噴水に装飾的な価値しか無くなってしまい、

人々が遠ざかってしまったとしても、私たちには何も出来ないのである。

 

水道が普及しちゃって、蛇口ひねれば水が出るようになっちゃったから、

噴水のある意味が無くなっちゃって、

人が噴水にいかなくなっちゃっても、それもしょうがないわけよ。

 

芸術作品は広場と道を豊かに飾るかわりに、あの博物館という

牢獄に逃げ込んでしまう。興趣に富んだ民衆の祭り、謝肉祭の行列、

宗教行列、野外で催される芝居などもほとんど消えてしまった。 

 

芸術作品は広場とか道に飾られるかわりに、博物館に押し込められちゃうし、

いろんなお祭りや、野外で行われてたお芝居もみんな無くなっちゃった。

 

何世紀も前から、民衆の生活は次第に公共広場からひきさがり、

広場はその大部分の重要性と象徴的な価値を失ってきたのである。

美しい広場というものがどんなものでなければならないかということを、

おおかたの人が知らないのはこのためなのである。 

 

もう何百年も前から人々の生活は広場を使わないようになっていて、

広場が重要な役割を果たしてきたこととか、象徴的な場所だったこととか、

そういうのはだいぶ失われてきてしまった。

みんなが広場を使わなくなったから、美しい広場っていうのが、

どういうものじゃなきゃいけないかってみんな知らないんだよ。

 

(なんかジッテ先生、べらんめえの江戸っ子って感じの言葉遣いですね。)

 

(で、一通り嘆いているジッテ先生なんですけど、でもこれだけは

言っときたい、っていう名言がこちらです。)

 

このように多くの障害はあっても、今述べた試みを諦めるべきではない。

新しい建設方法や健康衛生上の必要、交通上の必要を考慮するあまり、

無数のピトレスクな(註:pittoresque=絵になる)美しさを断念し、

問題の芸術的解決を諦め、あたかも田舎道や機械製作でもあるかのように

純然たる技術的解決で満足するようにしてはいけないのである。

 

でもね、いろいろ問題はあっても、(美しい都市にするっていう)試みに

トライすることを諦めちゃいけないんだよ。

新しい建設のやり方とか都市は衛生的にしておかなきゃいけないとか、

道路の方が必要だとか、そういうのに重きをおきすぎて、

絵みたいな美しい都市や街をつくるっていうのは

どう考えても無理だって、はなから無理だって諦めて、

もうほんとに技術的な問題を解決するってだけのやり方で

都市を作ってくってのはダメなんだよ、ほんとに。

 

私たちの日常生活がいかに多忙だからといって、

完璧な芸術作品が私たちの中に呼びさます高尚な印象が余計なものだ

などと考えるべきではない。

都市計画においてこそ、芸術が最重要の役割を十分に果たすもので

あることを反省してみるべきである。

それは、毎日毎時間たくさんの人に教育的影響を及ぼすのである。

 

俺たちの日常がね、いっくら忙しいからって言って、

100%パーフェクトな芸術作品が、俺たちの心にひびくことや、

心の琴線に触れること、そういったものを余計なものだ、考えるに値しない、

とるに足りないものだ、なんて考えるべきじゃないんだよ。

都市計画の中でこそ、芸術的なことが

一番大事にされるべきだって考えたって良いくらいなんだぜ?

だって毎日、毎時間、ものすごいたくさんの人に、

影響を与えて、教育的な効果を及ぼすことができるものなんて、

都市や街よりほかにないだろう?

 

これに対して、音楽会や芝居のようなその他の芸術表現は、

恵まれた階級にだけ限られている。行政当局はこの問題に留意して、

芸術的観点から古人の原則と

現代生活の必要を一致させることが出来ることを

示さなければならないのである。

 

だってちょっと考えれば分かることだけど、

都市計画に対して、ライブとか、お芝居とかは

金銭的に恵まれた人たちだけしか享受できないだろ?

だから行政はさ、

芸術的に美しい都市を計画するっていう点にもちゃんと留意して、

古人の知恵と、現代生活の利便性を一致させた

計画を立てていく必要があるんだよ!!1

 

(ん、なんか最後女子っぽくなっちゃったよ。

べらんめえ+女子なジッテ先生でした。)

 

 

なんか、ジッテ先生の心からの訴えを聞いて最近感じたことを。

 

最近、もうすっかり桜が奇麗に咲きそろって、ここしばらくの雨風で

むしろ散りそうになっているわけですが、

今日、桜並木の中を歩いていて、

その桜色と芝生の緑とそこに咲いてる菜の花の黄色と、

もう全部が綺麗な色あいすぎて、

嬉しくて嬉しくて仕方なくなっちゃったわけですよ。

嬉しいな〜、嬉しいな〜、って連呼してたわけですが、

30代も半ばになって

涙腺が緩みがちになってるせいなのかもしれないんですけども、

嬉しさが過ぎて、今度は泣けてきちゃったわけですよ。

「綺麗すぎるぅぅうぅ…!」って。

 

つまりねこれがね、心の琴線に触れるってことだよな、と思って。

ジッテの言ってる“私たちの中に呼びさます高尚な印象”だよな、と思って。

 

確かに、街の綺麗さなんて見てもお腹がいっぱいになるわけじゃないし、

なんの物質的な豊かさももたらさないかもしれないけど、

でも確かにわたしの心を豊かにしてるよね、この桜並木の綺麗さは、と思って。

この綺麗さが生活を送っている街全体に拡がれば、

そこに住んでいる人たちの心がそれぞれ少しずつ豊かになるわけで、

それはある意味なにがしかの利益を生んでるじゃないの、と思ったのです。

(利益の問題じゃないですけど、そういう考え方もできるよねってことで。)

 

「広場の造形」は都市には美しさが必要だってことについて語った本だった。

うぉぉおぉぉ、のんびりしてたわけじゃないんですけど、

4月も7日を過ぎてしまいました。

春休みは慌ただしい。 

 

さあ細長い場所よりも、丸い場所の方が広場という機能に向いている、

という結論が前回出ましたね。

どこかへ向かうというベクトルが働いていない方が良い、ということも見えました。

 

 

さて最近、カミロ・ジッテに挑戦してます。

ブログの右側に貼付けてあるtwitterではちょいちょいつぶやいていたんですが、

カミロ・ジッテの「広場の造形」という広場本のバイブルに

チャレンジしてたんですけども、まあこれが難しい難しい。

読解力がもっとないとちょっと読み切れない。

というわけで決してすべての内容を100%理解したとは言い難い状態ですが、

 いろいろ書いてみたいと思います。

 

広場の造形 (SD選書 (175))

広場の造形 (SD選書 (175))

 

 

さてこの本を読み解いていったところ、

この私が広場をほしい、っていう理由とは違う所でジッテは

広場について語っているのがうっすらと見えてきました。

 

私はどちらかというと、

人として広場があった方が、より良く健康で文化的な生活が

送れるんじゃないか、っていうのが目的で広場について

考えているソフト面重視派なんですけども、

ジッテはもっと

都市は美しくあるべきだ、っていうハード面主義から

この広場の造形を著している感じなんですね。

 

ジッテが広場の造形を書いた時は、

広場が無い、というわけではなくて、どちらかというと

昔あった素晴らしい広場(もしくは都市)が今その姿を消そうとしている、

美しい広場を無くしてしまっていいのか、

都市が美しくなくなってしまっていいのか、

そういう危機感がリアルにあって、

それが彼にこの本を書かせた理由なようです。

 

 

良い広場とはこうあるべき、っていう規則性を

見つけ出して語っているのがこの本の前編部分なんですが、

後半は、都市がいかに芸術的な美しさが必要か、

そりゃもう言葉を尽くして語っています。

 

そもそも邦訳は「広場の造形」ですが、

ドイツ語本来の題は「芸術的原理に即した都市計画」

というくらいなんですから。

 

さあ、ではせっかくなのでジッテの嘆きを生で聞いてみましょう。

この本が書かれた1880年代、建物そのものにはこだわっていろいろな

装飾物やら飾り立てるものにお金がかけられているのに対して、

都市には全然お金がかけられない、全然考えられてない、ということに嘆いている

ジッテ先生です。(ジッテ先生は都市計画家です)

 

ところが、都市計画家が柱廊(ちゅうろう)やアーチ門(もん)、凱旋門

 

(がいせんもん)その他芸術上必要な多くのモチーフをつくる段になると、

 

びた一文も見つからないに決まっているのである。

 

「建物ブロック」の間にある空いている空間を芸術的に形成するため、

 

都市計画家にまかせることはまずないだろう。

 

というのは、それ自身一文(いちもん)もかからない野外の空間は

 

土木技師(どぼくぎし)と衛生学者(えいせいがくしゃ)の管轄に

 

属するものだからである。

 

こうして、芸術的と指向性の優れたモチーフはみんな

 

一つまた一つと消えてゆき、ついには何一つ残らず、その記憶さえも

 

消えてしまうのである。

 

泣いてますね、先生。

もう一つどうぞ。

 

芸術作品としての都市計画について、今日では、もうだれも関心を

 

持たなくなってしまった。 関心があるのは技術的問題だけである。

 

(註:技術的問題というのは衛生的か、増えてきた自動車に対して

適切な都市設計になっているか、という点らしいです。)

 

(中略)現代の美術史では、どんなちっぽけながらくたでも

 

ことごとく扱うくせに都市計画となるとほんのちょっとした場所さえ、

 

一度も与えられないのである。これに対して、製本屋だとか、錫器師

 

(註:スズの器をつくる人のこと?)、さては仕立て屋さえ、フィディアス

 

や、ミケランジェロに近い場所を占めている有様である。

 

 恨み節全開(笑) 

 

そうそう、とにかく嘆きまくってるジッテ先生なんですけど、 

瞠目(どうもく)したのは、この考え方。

 

今の時代(この2015年ですよ)どこかの区画を建物やら必要なものを

建てて都市の一部にしていく、って話があったらまず、

建物の形考えますよね?

 

 

 

 

 

f:id:cheelee:20150407163326p:plain  ←こんな敷地があれば、

 

 

f:id:cheelee:20150407163535p:plain  ←こんな建物にしようかな、とか

 

f:id:cheelee:20150407164123p:plain ←なんならこんなんにする?とか。

 

普通は、そう考えるじゃないですか。

 

 

 

ところがですよ。ジッテ先生が言うことにはですよ、

違ったんですってよ。そう考えるのがそもそも違うんですってよ。

 

このように考えてくると、私たちは、問題の真の核心に近付いてゆく。

 

現代の都市構成の方法では、建物の建っている部分と空いている部分の

 

関係は逆転している。

 

かつて空いている空間(道と広場)は、しかるべき効果を与える為に

 

形をよく整えた閉ざされた構成を持っていた。

 

これに対して、今日では建物の敷地の方が閉じた規則的な形として

 

切り取られ、そのの頃が道と広場になるわけである。

 

昔は歪んだ角や醜いものはみんな建物の敷地の内側に見えないように

 

おさめられていた。ところが今日では、

 

敷地を切り取った残りの部分がすべて広場になるのである。

 

つまり、先に、建物を建てない空間の形をかっこよく決めちゃうんですって!!

すごいな。建物が建たない空間のほうが先に形が決まるなんて。

それで、その空間がちゃんとつくれるようにまわりの建物をそれに

あわせて建てていくっていうことなら、

そりゃあ素敵な広場がつくれるわけだわ。まず広場があるんだもんね。

 

うーん、この考えは目から鱗でした。

続く!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

細長い広場と、丸い広場で出来ることの違い。

道は広場であった、でもその広場的な機能は、

クルマの普及とともに、かき消されていってしまった。ということを丹念に

みてきたここしばらくだったんですが、

ちょっと前にでてきた

「日本の広場は細長く、ヨーロッパの広場は丸い」という話。

 

 

細長い広場(的な場所)と、丸い広場で出来ることの違い。

広場の形が細長いのか、丸いのか、でできることが異なるよな、と

考えたので、今日はちょっとその話を。

 

日本の道を広場的、と過程したとして、

その道をどういう風に人々が歩くかな、と図示してみます。

 

 

f:id:cheelee:20150330112239j:plain

 

こんな感じ。基本通り過ぎるので、多少通りの両側の店に立ち止まることがあっても、

最後は入って来た側と反対に抜けていきます。

もしくは、全く立ち止まらずに抜けていきます。基本、道ですから。

 

 

それに対し、丸いとこんな感じ。

f:id:cheelee:20150330112238j:plain

この丸い空間にいる時の歩き方は一定に前に進むわけじゃなく、この円の中で

ぐるぐる軌跡をえがくことになります。そのまま行きたい方向に抜けていくことも

あれば、ここで用をすませて、もと来た道を帰ることもある。

そしてここで立ち止まってかなりの時間を過ごすこともできます。

 

 つまり、

丸い空間は溜まる(たまる)ことができる。

 

日本の道が細長い広場だった、と結論づけてはみたものの、

道機能が主の細長い空間だとやりづらいこと。

 それが溜まること、です。

 

丸い広場が滞留できる場所でとしたら、

細長い広場は滞留できず、流れていく場、でありそうです。

 

 

巨匠の意見

さてここで、また一人パブリックスペース界の巨匠の意見を聞いてみましょう。

 

建物のあいだのアクティビティ (SD選書)

建物のあいだのアクティビティ (SD選書)

 

 ヤンゲールさんです。

ヤンゲールさんは、公共空間について長年、研究を進めていますが、

公共空間が人で溢れるにはいくつかの法則があることを

この本の中で記しています。

 

建物のあいだのアクティビティは、自己増殖(じこぞうしょく)プロセス

 

になる潜在的(せんざいてき)な可能性を持っている。

 

誰かが何かを始めると、ある時は直接の参加、

 

ある時は他人の行為を傍観(ぼうかん)するかたちで、

 

別の人がそれに加わる。

 

これはどこでも見られる明らかな傾向である。(中略)

 

このプロセスが一旦動き始めると、全体の活動は、

 

ほとんどの場合、それを構成しているココの活動の総計よりも

 

大きく複雑なものになる。

 

単純に言うと、人がいるから人が集ってくる、そしてその人が

さらに人を集める という循環が始まる、ということですね。

それを自己増殖(じこぞうしょく)=勝手に増えていく、という意味合い

で使っています。

 

前向きのプロセスでは、

何かが起こるから何かが起こる、

後ろ向きのプロセスでは、

何も起こらないから何も起こらない。

 

建物のあいだのアクティビティは、自己増殖(じこぞうしょく)プロセスで

 

ある。 この点を考えると、多くの新しい住宅団地に生気がなく、

 

人影がまばらな理由も説明がつく。そこでは明らかにたくさんの

 

ものごとが起こっている。しかし、人々と出来事が時間の面でも、

 

空間の面でも拡散しすぎているので、

 

個々の活動がいっしょになり、もっと大きく意味のある、

 

人の心に訴えかける出来事の連鎖を生み出す機会はほとんどない。

 

プロセスが後ろ向きになってしまう。

 

 何も起こらないから、何も起こらない。

 

屋外がひどく退屈なので、子どもたちは屋内でテレビを見るように

 

なるだろう。眺めるものがほとんどないので、老人たちはベンチに座る

 

ことを楽しみに感じなくなる。そして遊んでいる子どもがほとんどおらず、

 

ベンチに腰掛けている人がほとんどおらず、

 

歩いている人がほとんどいなければ、窓から外を眺めることも

 

そう楽しくない。そこには見るべきものがあまりない。

 

活動が互いに刺激し、もり立てあうことがないと、建物のあいだの

 

アクティビティが目に見えて少なくなる。

 

つまり、盛り上がっている場所をつくるには、いかにそこにたくさんの人がいて、

たくさんの出来事が起こっているか、もしくはたくさんの出来事が

起こっているかのように思わせることが大事、ということになりますね。

 

 

滞留時間が長いと賑わいがでる

そしてもう一つ大事な示唆。

 

 ある場所で観察される人と出来事は、

 

「出来事の数と持続時間の積(=かけ算)」

 

で表される。(中略)そして重要なのは、人や出来事の数より

 

むしろ屋外で過ごす時間の長さである。(中略)

 

これはある場所の活動水準を高めるには、公共空間を利用

 

する人の数が増えるようにしても、個々の滞留時間が長くなるように

 

しても、どちらも効果があることを示している。

 

 

 はい、聞きました?聞きましたよね?

大事なこと言ってましたよ。賑わいがでるには、

 

個々の滞留時間が長くなるようにしても効果がある

 

なんだそうです。

 

ってことはつまり、先に書いた、溜まることができる丸いかたちのほうが

賑わいが出やすいってことになりますね。

たとえ同じ数の人が歩き回るにしても、

滞留時間が長くなる傾向があるこの円のかたちのほうが、

賑わいがでやすいという結論になりました。

  

f:id:cheelee:20150330112238j:plain

 

 

道の細長い空間に人が留まりにくい、というのは、もう一つ理由があって、

道なので当然なのですが、

全体的に一つの方向に向かうベクトルが働いています。

ここにいるとゆっくり佇むよりも、この矢印に押し流される方が自然です。

f:id:cheelee:20150331050436j:plain

 

それにくらべ、丸い空間ではこのどちらかに向かう、という力が

働いていないので、そこで佇んで立ち話をしても、問題ないのです。

 

以前、渋谷のハチ公広場の話を書きましたが、

あそこも広場とはいえこのベクトルが強烈に働いているところで、

JRの駅から出てくる人たちの流れ、もしくは駅に向かう人たちの流れで

その場に佇むことさえなかなか難しい場所です。

 

 

細長い広場(的な場所)でできることと、丸い空間でできることとの違いは

留まれるかどうかにあったのでした。

クルマが浸透していく様子を写真で追ってみる。

さて前回、クルマによって日本の広場である道が蹂躙(じゅうりん)

されていってしまった、という話を書きましたが

ここで昔の写真から、まだ日本の道が広場であった片鱗を探してみましょう。

 

 

これは、1910年の東京。明治の終わりです。(明治時代は1868年〜1912年)

広場的、というよりも広すぎて持て余し気味の道

ですが、クルマはほぼ通っていないですね。人力車の方が多いくらいです。

 

1924年銀座。1923年の関東大震災後の道の様子。路面電車が、結構走ってますね。

クルマもちらほら。うーん、戦前で既に大通りはもうクルマに

占められていたのかもしれません。

 

1930年の浅草です。うん、これくらいの道の幅くらいの方が、賑わいがあって、

広場っぽさを感じます。きっとこんな感じが江戸時代からずっと続いている

日本の広場的雰囲気だったんだろうな。道幅は7mくらいか??

 

こちらも同じく1930年代。子どもたちが道でスキーしてます。

クルマも走っているみたいだけど、スキーが許されるならまだまだ大丈夫。

 

 

そして戦後。1952年なので、戦後7年。

もう都心は広場って言ってられない交通量ですね。

 

こちらは1955年、神田。路面電車走ってますね。

 

こちらも同じく1955年、上野。これくら細い道路だと、まだクルマよりも

人の方が強い感じです。

でもど真ん中を歩くというよりも気持ち両端を歩いてますよね…。

これはちょっと戻りますが、1950年。道路で遊ぶ子どもたち。

郷愁をもってよく回顧されるのは、こういう風景なんじゃないのかしら、うん。

 

 

そして1960年代、高速道路の完成。

 

 

 

うーん、こうして見てくると、クルマが日本の道に入り始めたのはもう明治の時代で、

大正時代(1912〜1926年)くらいには、東京のど真ん中の大きな通りはクルマの

ために道がつくられている様子もうかがえます。

 

そこからじわじわとクルマはクルマが道をメインに使うもの、っていう感覚は、

100年くらいかけて浸透したんでしょうね。

クルマをもつことがトレンド化した1960年代以降、

道路で子どもがメンコをしたりするような余白さえも、

消えていってしまったようです。

いわゆる道に面した縁側でスイカかじる、みたいな風景が消えたのも、

きっとこのころに違いない…。

 

道は広場だったのに、どうしてなくなっちゃったのか。

ということで、日本には広場的なものがあったし、

それは道だった、という説を私の中で認定した一昨日でした、こんにちは。

毎日連続更新記録がストップしてしまいました。くぅぅ、残念。

これにのって、これからはぼちぼち更新にします、と方針変更。

 

ということで、今日はそれに続く考察。

 

日本の道に3つ目の役割が課せられたとき、日本の広場は消えた。

日本の道が広場だったという説から

日本の道に課せられていた役割を図式してみましょう。

江戸時代から、明治、大正、そして戦争を経て戦後すぐくらいまで

日本の道には、2つの主な役割が課せられていました。

f:id:cheelee:20150326112234j:plain

こうですね。

大きな通りには、道という機能の他に、にぎわいの場という機能が

割り振られていたのです。これは前回までの考察。

 

ところが、1960年代半ばに、新三種の神器の中の一つであった、クルマが

普及し始めると、道には新たな役割が課せられてきます。

(ちなみに新三種の神器はカラーテレビ・クーラー・カーだそうです。)

つまりこんな感じ。クルマの通る道、という役割です。

 

f:id:cheelee:20150326114251j:plain

おお、賑わいが、随分と小さくなってしまっている…。

クルマを通す、という役割が課せられたことによって、

賑わいの場、という要素が駆逐されてしまったのですね…。

 

 

ヨーロッパの賑わい機能は分離していた

f:id:cheelee:20150326121013j:plain

それに対し、イタリアやヨーロッパの都市では、

クルマの普及は日本より少し早い時期に本格化しましたが、

たまたま道の機能と賑わいの機能が完全に分離していたので、

クルマが導入されてもこの賑わい機能が衰えることにはつながらなかったのです。

 (とは言いつつも、ヨーロッパの町は町で道路が狭すぎて、

駐車場問題がものすごいことになっていそうです。最近は中心市街地に

クルマの乗り入れを制限している都市もありますよね。)

 

内田本に見るクルマが普及した時代

内田樹先生が、

東京オリンピックで失われたもの、ということを以前書かれていましたけど、

東京オリンピックはまさにクルマが普及した時代とかぶっています。

(というか東京オリンピックがあったからこそ普及したんですかね…。)

 

北京オリンピックに思うこと (内田樹の研究室)

 

友人のビジネスマン平川克美くんは

 

「中国人が北京オリンピックで失うものは、日本人が東京オリンピック

 

失ったものの10倍規模になるだろう」と予測している。

 

私の実感もそれに近い。

 

中国の人々が北京オリンピックで失うものは

 

私たちの想像を超えて巨大なものになるだろう。

 

こういう国家的イベントによって失われるものは

 

「かたちのあるもの」ではない。むしろ、

 

「かたちのないことが手柄であるようなもの」である。

 


日本の場合、それは「何となく風通しのよい敗戦国の脱力感」であった。

失ったのは、 敗戦国の脱力感、とありましたが、

賑わい機能をこの時代に失ったんだとしたら、

失ったものは、戦争の時代よりもっと前から連綿と続いていた、

人と人が日常的に接する技法や、

場を作る方法みたいなものだったんじゃなかろうか、

と思い至るわけです。

 

内田先生の場合は、同時に、

オリンピックと前と後で、人の心の持ちようが変わった、

という話をされてましたけども、

空間が心の持ちようを変えることもあると思えば、

この道から賑わいの要素が駆逐されたことによってもたらされたのが、

人の心の変化だったのかもしれません。

 

 

同じく内田先生の昭和のエートスの中には

もうちょっと具体的にクルマに関することが書かれていましたね。

高速道路が1964年開催のオリンピックに向けて

整備されている様子を書かれてます。

 

首都高速日本橋の上にかかった写真を見た時には、

 

子ども心にも深い衝撃を受けた。

 

そこまでしなければならないほどのものなのか、といささか

 

暗澹たる気持ちになった。けれども、口に出しては言わなかった。

 

小学生のそんな感懐を聞き届けてくれる人はどこにもいなかった。

昭和のエートス

昭和のエートス

  

 クルマ、憎し!とわめいても仕方ないのですが、

(クルマの恩恵にも、ばんばんあずかっているのです…。)

賑わいも取り返したい。うーん、やっぱり広場か…。

 

広場が日本に出来なかった理由3〜道はやっぱり広場だった〜

 

広場が日本に出来なかった理由シリーズ。

なんとなく道が怪しいんだよね…と当たりを付け始めているのであります。

 

広場のデザイン―「にぎわい」の都市設計5原則

広場のデザイン―「にぎわい」の都市設計5原則

 

 

西洋と日本、にぎわいの形の違い

 槙文彦(まきふみひこ)が著書「見え隠れする都市」の

 中で、西欧の都市構造を「中心ー区画」になぞらえ、

 日本のそれを「奥ー包摂」と表現した

 オーギュスタン・ベルクも「空間の日本文化」で

 この著述を惹きながら、さらに、

 「伝統的な日本の都市における広場の欠如」と

 「日本の都市の場合、西欧では広場で繰り広げられる活動が、

 一般に街路を舞台に行われる」点を指摘する。

 (中略)

公共性の高い拠点的な施設があり、

 そのまわりに人間活動(アクティビティ)が収斂(しゅうれん)する

 舞台的な場の代表が、欧州では広場だとして、

 日本の空間文化でそれに相当するのは

 大路(おおじ)(つまり広い幅員の街路)や

 寺社の境内、あるいは名所と呼ばれる景勝地(けいしょうち)や

 河川敷(かせんじき)や橋詰(はしの終わっているところ)であったろう。

  

 

ここ数日間、広場、なんでなかったんだろうな〜、

広場っぽい賑わいは、江戸(日本)にだってあったはずだよな〜、

と考えていたんですよ。

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(この間載せたこのイメージとかね)

(↑広重の名所江戸百景ー猿わか町夜の景(さるわかちょう よるのけい)です。

どうですかこの良い感じに栄えている様子。めっちゃ広場の香りがする。)

 

 

イタリアの道と、日本の道の幅の違い

で、「道」が広場になっていた、という説。

うーん、うーん、と考えていたところに閃きが。

広場って、こんなですよね。

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カンポ広場 

 

真ん中の黄色い部分が広場。そして、細い道がその広場にくっついています。

イタリアは広場以外の街区は基本的に狭いです。

大好きなシエナのカンポ広場周辺道路は、3mくらいが平均。

(上の図の青く塗ってある細いところ全部ですね。)

 

それに比べて、江戸のメインに使われる道路はどうも広い。

今googlemapで調べられるわけじゃないけれども、

うーん、なんで広いんだ?と思ってたら、

火事のせいでした。

 

明暦(めいれき)の大火っていうのが

大変な火事らしくて(てきとう)

そのとき江戸にあった60%を焼いちゃったんだそうです(てきとう)

 

その反省を活かして、

道路幅を広げて、火が燃え移らないようにしたのと、

広い空間をつくっって(火除地、ひよけち)

これも火が燃え移らないようにしたり。下にリンクしたページを参照すると、

こんなことを書いてあります。

http://museum.city.kawagoe.saitama.jp/ippan/pdf/67.pdf

その明暦の大火の後、幕府からお触れでこう指示してあるそうです。

 

道は、京間5間(きょうま5けん)、あるいは、6間(6けん)

 

日本橋通町の分は、田舎間10間(いなかま10けん)、

 

本町通りは7間(7けん)

 

道っていうのは、なんだろう、多分江戸の割と中心的な道のことか?

京間1間は1.96m、つまり約2m。

なのでわりと中心的な道は、10mから12m。

 

参考まで、江戸一番の通りといってもよい日本橋通りが田舎間10間。

田舎間1間は1.82なので、日本橋通りは、18m強。

同じく本町通りは7間なので、13m弱。

うん。広い。

 

 

道路の幅を比較してみよう。

さっきのイタリアの図と縮尺を揃えてみるとこういう感じ。

 

 

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こちらイタリアの道路。

 

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こちら江戸の道。

一番上の12mっていうのがそこそこ大きな通りの標準的なサイズ。

うーん、なんかこんなに広々してたら、この通りがもう広場だよねぇ。

しかもその頃は自動車も馬車も走っていないとしたら、

歩いている人しかいないわけで、そりゃあ広場だよねぇ…。

 

しかも火除け地、っていうのはこの道路よりさらに広かったそうで、

そうなったら、もうそりゃ広場で、

しかも火除け地というのは、防火対策が進んで行った江戸後期には

完全に盛り場として栄えたそうです。

どうですかこの下の写真。もうこりゃ広場だ。

 

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 道が広場説、かなり信憑性がありますな。

 

 

イタリアの広場は丸く、日本の広場は細長い。

つまりまとめますと、

イタリアでは、石造りだったので特に延焼の危険などなかったので、

家々は隣り合ってたくさん建ち、道は細くとられて、とても狭い代わりに、

都市のそこここに空間をとって、開放感やイベントをする為の

場所をつくり出していた。

 

日本では、木造だったので、火事を避ける為に道を広くとり

延焼を防止した。

ただ、道が広くなったので、たくさんの人がそこを行き来できるようになり、

そこが日本での広場的な空間となった。中心は無いし、元々は道なので

(立ち止まったりせずに歩き続けないといけないし)

細長い空間ではあるけれども、役割的にはとても広場っぽい。

 

ってことで良いでしょうかーーーー!!!!!

 

 

 

 

広場が日本に出来なかった理由2〜都市のなりたちの違い〜

さあ昨日ググった中から、諸説あるんですけど、

これはそうかも!っていうのを、あくまでも主観で書いてみます。

 

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

 Q、西欧と比べ日本は民衆が集う都市広場が圧倒的に少ないと思います。

 

Wikipediaでもいまいち理解できません。

 

日本の支配階級や宗教が民衆を集うことを嫌う風土があったのでしょうか?

 

 

 

 

A、wakka_obgy07さんより

 

ヨーロッパの都市の多くは、ローマ時代に起源を持ち、

 

中世後期の商業の復活とともに商業都市として成立したものが多いのです。

 

もちろん、大規模な教会などを中心に成立した都市も存在しますが。

 

いずれにせよ、支配者である領主などの騎士階級は都市ではなく、

 

郊外の荘園などに立地する城壁などに居を構えていた訳です。

 

つまり西洋の都市は、少なくともそこを構成する上級市民、中級市民の

 

ための場所であったわけです。

 

やがて近世に至り、絶対王政が成立するとともに、

 

都市は、その国家の支配の拠点としての役割も生じてくるのですが、

 

その前に都市は商人や市民のものであったという成立過程が

 

あったわけなのです。

 

日本においても、都市の成立期とも言うべき戦国時代末期においては、

 

交通、輸送、商工業の拠点に都市が築かれ、実質そこを支配する豪商たちの

 

勢力が際立った時期もあるのですが、

 

戦国末期に城下に都市を再編成する動きがあり、日本の都市の多くは、

 

江戸であれ、大阪であれ、名古屋であれ、軍事都市としての

 

側面をも併せ持った性格のものが中心となるのです。

 

 

都市における空間や場は、必要に応じて構成されてゆくわけなので、

 

市民が中心であった西欧の都市と、武士階級が中心であり、

 

城塞を支える機能が求められた日本の都市では、広場なるものの

 

必要性が異なったということだと思います。

 

 

明治以降は、城に隣接した都市では、城の多くが毀損され、

 

公園や広場になっていますよね。

 

あるいは防災の意味で、広い空間や幅の広い大通り

 

(広場の代用も可能なレベルの)なども作られました。

 

市民の都市から始まったのか、

 

城下町として始まったかのちがいなのではないでしょうか。

 

 なるほどねぇ…。成り立ちが違うわけか…、と思って

イタリアの中世の都市の成立についていろいろ調べていくと、

イタリアの都市は、中世の商人、しかもかなり裕福な大商人、という人たちが、

自分たちの住んでいる都市の自治権を封建領主に抵抗して獲得していった

という経過があります。

 

商人たちが主に運営する都市=コムーネが作られていく中で、

広場も都市を形成する大事な要素として、必ずとりいれられるようになった…、

という訳でしょうか。

 

反対に、日本の都市では、城塞としての要素が強かったので、

都市を守る機能に重点が置かれて、広場的な要素が必要とされなかった、

ということのようです。

 

 

引用の最後にも書いてありましたが、

なにかが出来る、なにかが流行って定着する、というのは、

必要があるからこその話な訳で、それは古今東西変わらないんですね。

 

日本の都市の出来た時代には、敵から町を守る、

という機能がまず第一に必要だったんでしょうが、

必要とされるものががらりと変わった現代、

広場って言う機能を町に埋め込んでいくのは、悪くない選択肢な気がします。