「福岡νガンダム感想」ロングレンジフィンファンネル運用論とガンダム実物大立像にみる、現代の大仏信仰について

 

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【2024.03】『ロングレンジフィンファンネル運用論とガンダム実物大立像にみる、現代の大仏信仰について』

 

お台場初代ガンダムユニコーン、そして横浜ガンダムと見てきて、ようやく福岡にν(ニュー)ガンダムを見にこれた。

 

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2007年の30周年お台場初代ガンダムの時は股くぐりが出来たが、2017年40周年お台場ユニコーンからは出来なくなり、当然というか横浜ガンダムも福岡νガンダムも無理だった。

 

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しかし、20m超の存在感はやっぱり圧倒的で、ガンダムのことを知らない、通りがかりの一般客も立ち止まっては見上げていた。

 

 

それにつけても、この巨大サイズならではの“ただならぬ感”こそ、各地にある大仏が人を惹きつけ、観光地化する根本的な理由と通底しているだろう。

 


信仰心などなくても、人は大仏などの巨大建造物に畏怖の念を感じ、不思議とつい見に行ってしまうのである。


大仏ではないが、尾道で実物大の戦艦大和が公開されていた時は、短期間で百万人以上の老若男女の見学客が押し寄せたが、行ってみると驚くことに、むしろ女性の方が多かった印象がある。これはマーケティング論としても面白いテーマであるだろう。

 

 

それにしても、大仏そのものが美意識と直結していた千年前は、現代人が大仏を見るのとはまた違った感慨もあったかもしれない。

 

当時最先端のデザインとして、千年以上前の日本人に新鮮だった、仏像をはじめとする仏教への憧憬は、現代人が仏像を見る目線とはおそらく異なるだろう。

 

しかし、現代工学デザインの一つの最終到達点としてνガンダムを見る我々の目線、そしてそれが巨大化した実像を目の当たりにした、言葉にならないような畏怖感は、確かに重なるのではないかと感じるのである。

 

 

要するに、現代人で大仏や仏像見てハアハアする人は限られるが、ガンダムのデザインに心踊らされてしてしまう人は、世界各地にも自分を含めて一定数いると思われる。


時代時代の武器や兵器のデザインは、その時代を代表する機能美の極致でもあるからだ(ちなみに、ガンダムはアニメでありオモチャであるのは重々承知している)。

 

まあ、このあたりは心の平和や安寧を願って作られた仏像とは異なって、人を殺す道具を賛美するのはバチ当たりかもしれない。

 

しかし、たとえば古備前の日本刀は、千年経った今でもその美しさと、再現不可能なロストテクノロジーで、人を惹きつけてやまない。

 

現代の文明が衰退した遠い未来に、発掘されたガンダム実物大立像が、まるで巨大恐竜の化石のように、未来人の好奇心をくすぐるのを想像するのは、少し愉快でもある。

 

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そういえば、このガンダムパーク前で、ナチスSS帽みたいなサイクロプス隊?の帽子を被り、ジオン軍のパーカーを着た、40代くらいの南米系っぽい顔つきの外国人がいたが、話しかけて友だちになっておけば良かった。


自分も、物語としての完成度と、誰でもみれるという間口の広さでは、「0080(ダブルオーエイティ)」が一番と思うからである。

 

 

まあそれはさておき、最後にロングレンジフィンファンネルについての「勝手に考察論」を一つ。

 

 

⚫️ ロングレンジフィンファンネル運用論を勝手に考察

 

実は、最初にロングレンジフィンファンネルを装備したνガンダムffをネットで見た時は、あまり好きにはなれなかった。

今まではガンダム実物大立像ができると、割とすぐ見に行っていたものの、それもあって福岡までνガンダムを見にくるのが年単位で遅くなってしまった。

 

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というのも、劇場版の左肩だけにアシンメトリー(非対称)に装備したフィンファンネルと黒のカラーリングの組み合わせが、足し引きしようのない、シンプルにして最上であると思うからだ。青のカラーリングも違和感が半端なかった。

 

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実物を見てみて、ようやくカラーリングはしっくりしたものの、機能的にも「つっかい棒」に見えてしまうロングレンジフィンファンネルは、ディテールはともかく、オリジナルのフィンファンネルの方がはるかにカッコイイ。

とはいえ、現実的に台風対策とかを考えると、マント型の劇場版フィンファンネルはリスクが大きかったのだろう。

 

しかし仮に、こと実戦での運用に限っては、このロングレンジフィンファンネルという特殊な兵装こそ、アムロが本来必要としていた装備であり、アムロならその性能すべてを引き出していたのではないだろうか。

 

 

というのも、アムロがギュネイのギラドーガを撃墜したトリックショットが、ハイパーバズーカを利用して気を逸らした、アムロらしい一撃が大きなキッカケだったことにある。


相手が一瞬気を取られさえすれば、本命の攻撃が生きるからである。

 

 

この時、アムロはオトリでハイパーバズーカと損傷した楯をパージしているが、“そういう使い方”を予め想定していたことにまず驚かされる。

 

 

となると、まるで遠隔操作できるスナイパーライフルのようなロングレンジフィンファンネルは、アムロにとって願ったり叶ったりの武装だったのではないだろうか。

 

それに、ゴテゴテするのを嫌ったアムロは、戦闘前の早い段階でロングレンジフィンファンネルを射出して使用していただろう。


フィンファンネルよりも、はるかに大きいジェネレーターを内蔵しているので、無人の遠隔モビルスーツのようなものでもあり、推進剤も多く稼働時間は長い。

 

つまり、アムロは自身の分身であり、スナイパーでもある移動砲台を手に入れたようなものなのだ。

しかもそれは、相手に認識されない距離でも自在に使用できる点で、最上の切り札(ジョーカー)となる。

 

となると、アムロなら戦闘前から探知されない最適位置に置いていたはずで、どんな装備より心強かったに違いない。


なんなら、自分が直接戦わなくても、アムロならロングレンジフィンファンネルを単独先行させて、敵の痛いところを狙撃だって出来た。シャアだってサザビーに搭乗する前を狙われたら、イチコロだったろう。


もちろん、それでは物語としてはちっとも盛り上がらないが。

 

 

⚫️ 改めてのアムロの恐ろしさ

 

話は少し戻るが、ニュータイプ同士の戦いは消耗戦になりがちなのを理解して、アムロはハイパーバズーカを遠隔操作できるようにしたはず。


そして実際、バズーカの分離が、予想外の行動だったことに目線を奪われてしまい、ギュネイは一瞬の時間差で放たれたビームライフルの一撃をよけられず、即死している。


まるで達人どうしの剣戟が、素人では理解の及ばない、一瞬で決まるのと似ている。

 

アムロの恐ろしさは、達人相手にも、“初見殺し”と“ハメ殺し”のダブルコンボを成立させてしまえる、本能としか言いようのない戦闘センスにある。

 

正規兵でも習わない、よしんば習っても身につけれないレベルの極めて高度な戦闘センスを、自然と身につけている上、それを自身のニュータイプ能力と、これ以上ない相乗効果で使用できるのである。

 

そして、その気になれば、いつでもそんな鬼畜レベルの戦闘マシーンになれるという恐怖。

「背中にも目をつける」という次元の戦闘を、当然のこととして実行できるのはアムロだけだろう。

 

ニュータイプ能力では最高と富野監督に言われたカミーユでさえ、そんな戦闘は一度も披露してはいない。むしろ、いつの間にか背後に取り付かれるばっかりだった。

 

νガンダムは伊達じゃない」とアムロは言っているが、『連邦の白い悪魔』というアムロ自身の通り名こそ、ダテでも何でもなく、目撃した生き残れた幸運な敵パイロットの本音を、最も過不足なく表現している。

 

 

 

⚫️ ネオジオンの赤いカニ

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あ、そういえば、νガンダムのロングレンジフィンファンネルと対になる装備で、サザビーの両肩に、メガビームランチャーとしても手持ちサーベルとしても使える兵装が追加されていた。

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サザビーの赤色もあって、目を細めればほぼ茹でガニというか、まるでスポンジボブに出てくるカニ店長だったものの、それぞれの追加兵装のサーベルを伸ばして対峙するνガンダムサザビーはカッコよかった。

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アムロが近接戦闘になるまで、そんな重たい武器を装備したままかは疑問があるものの。

 

 

 

 

でもまあ、なんだかんだ言って、こうやってそれぞれ好き勝手妄想してしまえるのが、ガンダムというコンテンツの面白さであるし、奥深さだろう。2027年のガンダム放映50周年には、どんなことで驚かされるのか、今から楽しみでもある。

 

それでは最後の最後に写真を一通り。

人間サイズのνガンダムサザビーのライフルが売り出されたら絶対買うのにな〜。電動ガンを仕込んでサバゲーで使いたい。。

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個人的に一番ツボだった、まるでモヒカンなズゴック
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金子みすゞ、中原中也、種田山頭火の生家が50kmの直線上に並ぶ奇跡

#金子みすゞ#中原中也#種田山頭火

 

地上の星座 : 金子みすゞ中原中也種田山頭火の生家が50kmの直線に並ぶ奇跡」

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金子みすゞ中原中也種田山頭火山口県の生んだ三人の詩人は、自分が歳を取るに連れ、その味わい深さが、まるで彼らの肉声を聴いているかのように、心にその詩や句の全く古びない普遍性を響かせてくれている。時にはささやくように。時には慟哭するように。そして時には飄々とした風のように。

 

ファインアートの定義を仮に、「それを受け取った人の常識と捉えていた地平を揺るがし、新たな価値観を提示してみせること」だとすると、優れた詩人というアーティストは、例外なく新たな価値観を内包した世界観をもって、読者を魅了してくれるものだ。

 

現代詩人で私が好きな、谷川俊太郎や住宅謙信も、その世界観に触れた時のシャッフル感というか、自分の中の認識が新たな目線を獲得するのが、何よりもまず第一に心地いいのである。

 

それは金子みすゞ中原中也種田山頭火も同様で、彼らが時を超えて愛され、これだけの存在感を保っているという事実は、彼らの目線や世界観が少しも古びていなく、私たちの心を新たな地平に誘ってくれるからだろう。


「永遠に通じるものこそ常に新しい」という小津安二郎監督の言葉は、“普遍性”はどういうものかをもっとも平易に表したものだろう。それにつけても、彼らの言葉の力はやはりすごいものである。

 

 

地上の星

 

その「線」を引いてグーグルマップで確認した時の興奮はちょっとしたものだった。まるで、見えなかった星座が突然それと認識できたような、ひそやかな感興があった。

 

いや、実際それは地上の星座そのものだった。近代詩人の中でも、今なお際立った存在感を感じさせる金子みすゞ中原中也種田山頭火の三人が、山口県のわずか半径25km圏内、驚くことに三人の生家が、縦ぴったり50kmの直線上に並ぶという事実。何度も計測してみたが、縦横ともに誤差は1kmもない。

 

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それにつけても感じるのは、みすゞ(1903〜1930)・中也(1907〜1937)・山頭火(1882〜1940)が直接の交流はなかったにせよ、明治期の山口という片田舎で生まれ育ったという不思議についてである。もはや奇跡と言ってもいいだろう。

 

金子みすず記念館から山頭火生家跡への直線がちょうど50km強で、そのほぼ直線上に、中也生家跡にある中原中也記念館があるのだ。グーグルマップで検証してみて驚いたが、「才能は群生する」という極め付けの一事例のように感じる。

 

東京では根津神社の近くの同じ家に、森鴎外夏目漱石が前後して住んだり、マンガ黎明期の手塚治虫や藤子不二夫などの巨匠たちが住んでいたトキワ荘の例もある。

 

しかし、みすゞ・中也・山頭火の場合、あれだけの巨大な才能たちが、互いに影響を与え合った直接の事情もなしに(以後研究が進むかもしれないが)、“ほぼ同時期に”、しかも“自然発生的に”この世に存在した事実は、もう身震いさえ感じるくらいなのだ。

 

明治維新でまさしく、ホットポット(るつぼ)だった長州藩、今の山口県で起こったと思われる、歴史上まれに見る、著しい民意等の上昇。
高エネルギー帯で次々と新星が生まれるように、時代のそんな熱い空気の中、みすゞ・中也・山頭火の、今なお光を放つ恒星たちが生まれたのではないだろうか。


維新もう一つの雄、薩摩藩では、藩閥を考慮したとしても、軍事的な異才を多数輩出したことから、その土地ならではの才能の鉱脈みたいなものがあるのかもしれない。

 


さて、ここから長くなってしまうが、少し文章観を述べさせて頂くことになる。

 

例えば、詩や句を創る時に陥ってしまいがちだが、詩情という「清」を表現しようとするあまり、誰もが持つ「邪」を無意識の内に排除した、言葉遊びに終始してしまうことが多々見受けられるように思う。


むろんそれでも観察力が新たな刺激を獲得していた場合、人の心に残るということはあるが、ほとんどは物事の表層をなぞっただけで、同じく人の心の表面を、何の引っ掛かりも残さず滑落していくものが多いように思う。

 

つまりは、ナルシスティックな表現は、文学作品、特に詩作に関しては、ほとんど評価に値しない場合が多いと思われる。

 


・・・のだが、困ったことに中原中也はおそらく、というよりかなり重度のナルシストである。
それでいて永劫に輝きを失わない、誰かしらの心には刺さり続けるであろう言葉を獲得しているのが、中也が手に入れた普遍性と言える。

 

それこそ、「永遠に通じるものこそ常に新しい」という小津監督の定義する普遍性そのものではないだろうか。永遠につながる普遍性を手に入れたからこそ、常に誰かにとっては新しいのだ。


おそらく今後、ここまで思春期の共感を得れる詩人が現れる可能性は、ほぼないであろうとさえ感じる。
中也以降にいたとするなら、歌手の尾崎豊が唯一同じ種類の力を感じさせるが、それはまた別の機会に触れることにしたい。

 

ではなぜ中也はナルシストでありながら、人の心を揺さぶる力を手に入れることが出来たのかだが、徹底的なナルシストでありながら、苦悩もまた容赦ないものであったからだと私は考える。


黄昏の淡い光の中、音もなく青い炎に灼かれているようなタナトス(死そのもの)への希求。


もっと言えば、掛け値なしの希死念慮が透けて見えるからこそ、同じくそこまで考える思春期の苦悩がシンクロ率を高めるのだ。

私もまた若い頃、中也が囚われた、永遠の牢獄に共感を覚えた一人である。

 


金子みすゞは、やわらかな感性こそが最大の魅力であるが、子を持つ親の、真理に触れたかなしみ、あるいは子を喪った親の、かなしみを通り越した何か。主観でしかないが、そんな深さをみすゞには感じる。

 

そして何だろう。どこか寂しさを感じるのに、力をもらえる不思議。それは、母が子に伝えたかったことでもあったのかと、ふと感じさせてくれる。

 


そして最後に、実は三人の中で最も好きなのが、種田山頭火である。「酔うて こほろぎと寝ていたよ」と「朝焼け夕焼け 食ふものがない」の二句は、まともな人間では逆立ちしたって創ることはできない。

よしんば書けたとしても、必ず作為的なものが入ってしまうだろう。なぜなら、この二句は山頭火の、どうしようもないダメ人間の「面」をも表しているからだ。


そこまで晒していながらも、なお山頭火の句に惹かれるのは、山頭火のそんな「面」ではなく、「人」としての魅力によってではないだろうか。

 


優れた芸術家は例外なく、独自の宇宙を持っており、またその世界観の唯一無二の魅力によって、人々の心に灯をともしていく。

 

だが、いくら技巧が優れていようと、それだけでは大して人を驚かすことは出来ないし、心を動かされることも少ない。

 

自らが傾いていることを自覚できない個性の発露なぞ、闇をタレ流しているに過ぎず、極論すれば、壊れた人間がただ壊れている、寒々しい景色しか見えないからだ(ここでは自分のことは棚に上げさせてもらおう)。

 

私は金子みすゞ中原中也種田山頭火の三人が大好きである。

まだそれぞれの詩や句を、味わい尽くすまでには至っていないものの、間違いなく彼らは、自らの業や痛みを背負った天才である。

 

そんな彼らが東京から遠く離れた山口で、巨大な三連星のように同時期に生きていた事実に、この上ないロマンを感じてしまうのだ。


時間と心に余裕のある方は、のんびりと三人の生家巡りの旅に出てみるのをオススメしたい。

きっとまた違った彼らの詩句の、味わい深さに出会えることだろう。歴史と同じく、その地に行ってみることで見えてくるものが、多々あるからだ。

 

私?もちろん行きましたよ。中也の実家に行って初めて、中也と宮沢賢治との接点を知ったことは大きな収穫でした。

そして何より、山頭火が中也の実家を訪れて、中也の母親と会っていた事実は、驚愕と共に、とても良い発見になりました。山頭火なりの、中也へのリスペクトだったのだと思います。

 

そして、彼らが見ていた風景を、実際に目にできたのは、のんびりした旅の思い出と共に、今でも心を温めてくれています。
彼らの遺した言葉そのものが、古びれず、あたかも熟成していく芳醇さを感じさせるように。

宇宙スゴイ写真とミクロスゴイ写真

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ブラックホールをとらえた一枚(ナショナル ジオグラフィック日本版) https://u.lin.ee/EC1Rwwv?mediadetail=1&utm_source=line&utm_medium=share&utm_campaign=none

 

ジェームス・ウェブ宇宙望遠鏡が稼働し始めてからかは分からないが、とにかく最近の宇宙の解明の研究は加速してきているように感じる。

ブラックホールの形が、百年前に相対性理論で予想されていた姿と一致しているのも、最近分かったことらしい。まあ、文系としては、宇宙スゴイ、アインシュタインスゴイとしか感想が浮かばないが。

 

で、そのブラックホールの形だが、初めて撮影された写真で判明したのが、ドーナツ形であったのが、日本の研究者も関わった2019年のこと。

ドーナツ形なのは、ブラックホールシャドウといって、光を吸い込んでしまうブラックホールの性質によるもの。

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今回、異なる観測結果により、さらに詳しい構造が判明し、どうやらドーナツでもオールドファッションではなく、表面がねじれたフレンチクルーラーに近いらしい。

フレンチクルーラー好きとしては、宇宙グッジョブ👍とコメントさせて頂こう。

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それにしても、宇宙スゴイ写真は本当に絵になる。巨大プリントを額装して、壁に飾りたいくらい。

ピカソの絵の高尚さはサッパリ分からない朴念仁だが、この超巨大ブラックホールの写真なんかは、まるで前衛芸術のようでもあり、実際にはこの写真のまま見えないにしろ、宇宙の果てに“コレ”があると想像すると、とてもロマンがある。

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さて、宇宙スゴイのは異論の余地もないのだが、ミクロの世界もまた驚異に満ちあふれている。

ナショナルジオグラフィックは本当に良質の科学コンテンツであり、ドキュメンタリーも秀逸でずっと観ていられる。

 

人間の脳のニューロンの構造と、宇宙のほとんどを占めるブラックマターに浮かぶ星たちの構造が、ほぼ同じにしか見えないのを知ったのもナショナルジオグラフィックである。

 

そう、ミクロの世界の写真も、最近撮影技術が進歩していて、宇宙にも負けず劣らずの美しさや凄絶さで魅せてくれる。

 

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最優秀賞は「ネズミの目の中」、ミクロの驚異をとらえた顕微鏡写真コンテスト2023(ナショナル ジオグラフィック日本版) https://u.lin.ee/ksXJPA6?mediadetail=1&utm_source=line&utm_medium=share&utm_campaign=none

 

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まるで金子みすずの詩みたい

【動画】トリックなし! 巨大な月が沈む動画(ナショジオより)

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◯【動画】トリックなし! 巨大な月が沈む動画

https://youtu.be/afHfMMC-MJE

驚愕の美。そして素晴らしいBGM。ずっと見てしまう。

 

 

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/18/060800252/?ST=m_news

ということで、ナショナルジオグラフィックの記事をシェアします。合成じゃない事実に、ホント驚愕する他ない。

 

もし本当に肉眼でこんなに見えたなら、きっと人の精神にも、はるかに大きな影響を月は与えるに違いないだろう。

英語の表現にある、ルナティック(lunatic)は、まんま「気がふれた」とか「狂った」という意味で、オオカミ男が月を見て変身するように、西欧では月に対してネガティブなイメージが中世から定着している様子。

 

しかし日本人は、月が昔っから大好きで、短歌や俳句の季語としても多数詠まれ、名前に月の付く人も一定数以上いる。

 

日本人の月に対する、極め付けのイメージを表していると思うのが、「月が綺麗ですね」という表現で、英語の「I love you」を、よくぞ日本人らしい感性で訳したものだと、夏目漱石先生の業績には改めて感心させられる。

 

 

せっかくのナショジオの記事ですが、しばらく経つと読めなくなるみたいなんで、一部引用させてもらいます。

元動画ももともとはNASAのものということで、一部引用なら問題はないと思われます。



 以下引用部斜体

 

 

「この人たちに危険が迫っているわけではありません」。NASAのWebサイトに載った動画説明は、こんな一文で始まる。

 2018年6月1日、NASAがある動画を公開した。映っているのは、巨大な月が山の尾根に立つ十数名ほどの人々にぐんぐん迫ってくる光景だ。月は、まるで空から落ちてくるように、山の向こう側に沈んでいく。(参考記事:「宇宙からしか見られない『地球と月』のツーショット8点」)

 SF映画にありそうな光景だが、これはネットで見かける加工された映像ではない。100%リアルな映像だ。(参考記事:【動画】本当に美しい月を見ると人はこうなる)

 動画を撮影したのは、スペインのカナリア諸島を中心に活動する写真家のダニエル・ロペス氏。異世界を思わせるような光景は、2018年5月30日の朝、テネリフェ島のテイデ火山に近い高台から、太陽が昇り、空に浮かぶ満月が地平へと沈むときに撮影されたもの。

 ちなみに、5月最初の満月は、「フラワームーン」「コーンプランティングムーン」「ミルクムーン」など、様々な呼び名が世界にある。(参考記事:「人はなぜ、月に顔を見るのか」)

 撮影された動画は100%現実で、加工もされていないとすれば、これは望遠レンズが引き起こす現象だ。

巨大な月の種明かし
 月が巨大に見える理由はシンプルだ。ロペス氏は、望遠レンズを使って撮影したので、前景と背景との間の見かけ上の距離が大幅に圧縮されて見える。

 いわゆる望遠レンズの「圧縮効果」だ。カリフォルニアの海岸から遠くを泳ぐクジラを撮影するときにも使われる撮影テクニックで、クジラが岸のすぐそばの水面に浮かび上がっているような写真が撮れる。

 動画で、豆粒のように見える人々は、15キロメートルほど先にある火山に立っている(月は約38万キロ先にある)。動画では、火山の山頂がちょうど輝く満月にかかる配置で撮影されている。

 月が早く動いているのは、タイムラプス撮影や動画の早回しに思えるが、これも違う。

 そう見えるのは、地球の自転だ。地球の自転速度は、時速約1700キロ。地表でくらす私たちは、地球が回転していることをふだんは意識しない。

 でも、上空の天体、あるいは地表の影を観察すれば、自転していることがわかる。月の動く様子も圧縮効果によるものだ。地球と月の距離が極端に圧縮されて見えるため、肉眼ではわずかな動きも、望遠レンズなら刻々と動き続けるさまを撮影できるのだ。

邪馬台国→大和朝廷への一大ニュース!

https://www.sankei.com/article/20230907-S3HPIEWGKNPNXPLWMFZUQNUTRA/

◯ 石室に銅鏡103面以上、国内最多 倭国王の絶大権力明らかに 桜井茶臼山古墳

 

さてさて、またまた大きな古代日本ニュースが舞い込んできたものだ。

なんと、ヤマト朝廷最初期の大王が、思われていたよりはるかに絶大な権力を持っていたらしいことが、発掘によって出てきた大量の銅鏡によって明らかになったのである。

 

以下、記事から引用

同古墳(桜井茶臼山古墳)では、平成21年の調査で「是」と記された三角縁神獣鏡の破片を確認し、「正始(せいし)元年」(240年)の文字のある鏡と同じ鋳型で作られたことが判明。卑弥呼が魏から金印や鏡を受け取った年にあたり、被葬者は卑弥呼の数世代のちの王の可能性も指摘されている。

 

これを前回の古代日本ニュースエントリの年表に当てはめてみる。

 

 

「正始(せいし)元年」(西暦240年・三世紀)の文字のある鏡と同じ鋳型で作られた。

卑弥呼が魏から金印や鏡を受け取った年にあたり、被葬者は卑弥呼の数世代のちの王の可能性も

「15代応神天皇皇紀

西暦270〜310年(三世紀後期から四世紀はじめ)

「16代仁徳天皇皇紀

西暦313〜399年(四世紀)

「盾形の銅鏡&巨大鉄剣の埋葬時期」

四世紀後半

「さきたま古墳群成立期」

西暦400年代後半(五世紀後半)

 

アレ?アルェェエエエ??なんかおかしくね?卑弥呼がちうごくから鏡受け取ってから、最短30年で第15代天皇?!

 

・・・そうなのである。さんざ古代ロマンとか自分で言っときながら、皇統については、どうやら継体天皇の時点でそれまでの皇統は途絶えたらしいという、実にフンワリとしたイメージしかなかったのである。

しかも、「天皇家のずっと前に卑弥呼の時代があり、卑弥呼天照大神という神話になってヤマト朝廷、ひいては天皇家へと繋がっていく」というイメージは、時系列からして、そもそも根本から間違っていたのだ。

 

 

は、恥ずかしい。。無知もいいところである。

しかし、言い訳させてもらうなら、そこんところの詳しい歴史ってのは、学校でもちゃんと習うことはなく、古事記日本書紀からなんとなく天皇家に繋がっていきますよ〜という、曖昧な知識しか与えられていなかったのだ。

 

 

自分を歴史好きにすることになった名著、というか絵柄は今だに古びていない傑作マンガ「旧小学館版 日本の歴史」(初版1975年)でもそこは意図的に触れていないと感じる。

 

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https://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/113656.html

 

まあしかし、正統性を主張したいがあまり、ちょっとばかしサバを読んでしまったり、誇張してしまったりというのは、この手の話ではよくあることである。

  

しかし、いささか遡り過ぎて、今年2023年令和5年で皇紀2683年とのことだが、今から1万3千年前から2300年前くらいまで続いていたといわれる縄文時代モロかぶりしてしまうのだ。

弥生時代も挟まずに、縄文時代にイキナリ初代天皇が出現したというのは、いくら渡来人系であったとしても無理があるし、日本人の心情としても、それは受け入れ難い。

 

そして正直なところ、実在したかどうかもあやふやな初期天皇より、いつの時点で卑弥呼が皇統と関わりを持つか一点のみ、個人的に興味がそそられるのである。

 

いや、この表現では誤解が生じるだろう。卑弥呼も皇統も別々に同時期に存在していた訳ではないのだ。

これまでの自分の歴史知識を統合してみると、あまりに高名だった卑弥呼の存在を、創世神話に織り込むことで、その正統な後継者であることを大和政権、そしてその後つながっていく皇統が、暗に主張していると解釈することも可能になってくる。

 

もちろんこれは、可能性としての数ある仮説の一つに過ぎないが、卑弥呼天照大神(アマテラスオオミカミ)として象徴される、皇統の言わば「始祖」になったとする説は、かなり納得できる部分がある。

 

というのも、前にも触れたが、日本創世記である日本書紀の、今の宮崎県にある高千穂の、不自然なほどの存在感(プレゼンス)の高さが、その後の日本史での存在感の無さと比べて、どうもこうも説明がつかないのだ。

 

おそらく、宮崎県にあったと思われる邪馬台国が、中央集権国家である大和王朝に、言い方が悪いが「利用」され、ヤマタイコクの名称も、ヤマト国として引き継がれたのではないかと想像する。

 

まあ、何の決定的な証拠も出てきていない現時点では妄想に過ぎないが、近ごろ続く古代日本史大ニュースを、最近のスポーツ界の日本大躍進並みに楽しめている点では、少なくとも歴史ロマンもなかなか奥が深いと言えるのである。

 

 

https://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/pdf/keizu-j.pdf

 

https://www.sankei.com/article/20230907-FTC2HLS5XBK6FFEMQPTAFWPEJ4/

◯ 大量の銅鏡が写す絶対的権力 国家形成「連合政権」論に一石 茶臼山古墳

 

 

 

https://www.sankei.com/article/20230907-CCZDU7CCPJK3VEXUFB63ZQEHR4/


◯「一級の鏡ばかり」研究者も感嘆 邪馬台国に続くヤマト政権の王の実像に迫る

 

宇宙で最も明るい星が観測された記事を読んだ。

観測史上最も明るい宇宙の爆発現象を検出、1万年に一度の「信じられない幸運」(ナショナル ジオグラフィック日本版) https://u.lin.ee/OuPcQT1?mediadetail=1&utm_source=line&utm_medium=share&utm_campaign=none

 

 

一万年に一度レベルの宇宙の神秘が観測されたことに、宇宙スゲーとしか言葉が出てこない。

 

この一点で放出されるガンマ線放射のエネルギー量といったら、もし兵器転用されたらとんでもないレベルなのは言うまでもない。

まずもって、何光年どころではない超長射程で、なおかつ惑星を軽く消滅させてしまう、空前絶後マップ兵器となるのは確実である。

 

とまあ、宇宙スゲーを伝えるのに、ゲームのスーパーロボット大戦でしか例えれないところが、逆に対比として面白いのではなかろうかと愚考する次第であります✌︎('ω')✌︎

 

観測史上最も明るい宇宙の爆発現象を検出、1万年に一度の「信じられない幸運」(ナショナル ジオグラフィック日本版) https://u.lin.ee/OuPcQT1?mediadetail=1&utm_source=line&utm_medium=share&utm_campaign=none

 

#君たちはどう生きるか公開初日鑑賞

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230714
休日出勤の代休が、宮崎駿監督新作「君たちはどう生きるか」 の公開日だったので、池袋まで行ってくる。
ついでに金曜名物という、鰻屋「うな達」 のカレーも並んで食べることに。レビューは最後に。

 


#君たちはどう生きるか
エンドロールで驚愕。例によって声優が豪華。
てか、滝沢カレン柴崎コウあいみょん菅田将暉木村拓哉で誰一人分からなかった。
唯一、お父さんの声が、 シャアの池田秀一さんそっくりのイケボで、 多分キムタクだったんじゃないだろうか。
カレンちゃん何役だったんだろう。 早くラジオで答え合わせしてほしい。

 


くがぬま?蓮沼?駅名が読めなかったが、 日本的な田舎美に早くも涙ぐんでしまう。


7人の小人ならぬ、7人のババア笑


アオサギ、ワラワラ、インコ軍団。 やはりパヤオの天才的なキャラクター造形。攻めながらも、 絶妙な親近感を抱かせる。


印象的な車輪柄の着物で分かる、 パラレルワールドのキリコ婆さん。 キリコはパーフェクトソルジャー。


インコ先生ならぬ、インコ大王ナイスキャラ。 カリオストロの伯爵みたい。
インコ軍団の3歩歩くと忘れる感も、ミニオンみたいでカワイイ。

 


宮崎駿監督自身の心象風景であり、集大成。 色んなモチーフやオマージュが散りばめられている。
不思議な国のアリス、カリオストロの城ラピュタ。 多分他にも多数。

 

寝てるときに夢を見るように、 ややテーマが拡散しているきらいはあるが、 夢とは本来的にそんなもの。

何より宮崎駿監督自身の夢や心象風景を、 夢見心地に浸りながら楽しむのは、悪いものではなかった。


この映画は、シナリオ的論理的な「答え探し」 を楽しむものではない一方で、モチーフの「答え探し」 を楽しむものでもあると感じた。


宮崎駿監督自身は、理詰めで物語を紡いでいくのを、 ある段階かで辞め、「ポニョ」からはハッキリと、 無意識に語り掛ける物語作りへと転換していったと思う。


宮崎駿監督の無意識に語り掛ける手法は最早、 評価ですべて言語化できるようなものではなく、 神話的な人類共通の潜在意識へのアクセスすら、 可能になってきているのではないだろうか。


そしてそれは、 おそらく子どもの反応を見れば一目瞭然になると感じる。

 

ということで、自分の感想としては、「概ね納得」の出来。作ってくれたことだけでも感謝しかない。

ただやはり、ポニョの時にも感じたが、この映画はミニシアター系映画を観る時のように、世界そのものにダイブしていくことが何より大事と思える。

枝葉の倫理性や意味とかにとらわれていては、本当の映像体験は出来ないのでは。

 

その意味で、ポニョは子どもが一番コミットして食い入るように観ていたし、おそらく「君たちはどう生きるか」も、子どもが一番楽しんで鑑賞できるだろう。

 

だから、たとえ楽しめなかったとしても、それは大人になった証でもあるし、まっくろくろすけが見えなくなった大人になっただけのことだろう。

 

崖の上のポニョ」勝手に考察レビュー

https://movies.yahoo.co.jp/movie/327529/review/3587/

 

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#金曜カレー

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休日出勤の代休が、宮崎駿監督新作「君たちはどう生きるか」 の公開日だったので、池袋まで行ってくる。
ついでに金曜名物という、鰻屋「うな達」 のカレーも並んで食べることに。


うな達に着いたのが11時ちょい前。もう30人近い行列。
11:30オープン。1巡目は無理かもと思っていたが、 座敷に端から詰めていくので余裕で座れた。


オーダーも一度に訊いていくスタイルで、中盛り(470円)赤( 福神漬け)多め。みそ汁(50円)を頼む。

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まずみそ汁到着。汁物でほぼ料理人のセンスと配慮が分かるが、 あまり好みではないかな。開店したばかりなのに、 ワカメデロデロに近いし。


カレーも予想通り、 うまい人が作る家庭のカレーの方がおいしいと思った。


日本的なカレー作りで何よりも大事なのが、「 カレー粉やルーを入れる前段階で、 どれだけおいしいスープを作れているか」だと思うが、 そのベースが弱い、というか実にフツー。辛さは意外とある。


しかしやはり、香味野菜の存在も感じないので、 どうしても旨味が足りなく、印象が薄い。

 

あと個人的には、いくら客が多いとはいっても、 真夏なのにピッチャーの水が常温なのは、 店側の本音が垣間見えて好きではないかな。 安いことには素直に感謝しかないが。

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まあでも、そのごく普通のカレーライスを求めて、 わざわざ行列が出来ているのも事実で、 これまた有名な新潟バスセンターの黄色いカレーも、 味は大したことはないが行列は途切れない。


それはもはや、ノスタルジーの中の昭和そのものを、 その場ならではの雰囲気と味で、 追体験しに行く儀式のように感じた。

 

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この「うな達」という、場末感著しい地下の店も、 絶滅危惧種の昭和店そのものだし、まさしく「食の文化遺産」 であるだろう。一度経験すれば良いかな、程度なものの。


なので、“味”を求めるならオススメしないが、 ここでしか出来ない“体験”を求めるなら、 アリなのではないだろうか。
少なくとも、30分並んで待つほどの味ではない。


ちなみに食べ終わって地上へ出たのが11:57で、12: 10の上映に間に合いました。


#並んではいけない行列店
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