貝殻って燃やせる…のか?

鴨川のイベントの手伝いにきています。

前回の手伝いのときはめいどふろーむプラスチックであるビニールは可燃か不燃かということを考えさせられたごみの分別集合ですが、

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今回はどっかの県の物産が貝の貝殻を使っていて、それがゴミとしてくるのだけど、貝殻って燃えるんですかね??という疑問が。

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見た目は固そうだし燃えにくそうではあるけど。

調べたら実は燃えるらしい。貝殻の成分のほとんどはカルシウムで、高温焼却によって安全に処理できるとのこと。

(ソース)

しかしそれにしても。もう三年目になるけれど、毎度ボランティアでごみ収集をやっていると思うのは、実際に行政がしている可燃不燃の区分けの判断基準の軸は、
◎燃やせるか燃やせないか(安全焼却できるかどうか)よりも、
◎燃やすか燃やさないか
にあるなということ。

たしか京大がその名称を構内で変更してるって話があったと思うんだけれど、、

この点もう少し展開したいけどこのごみを運ばねば……!あとで書こうかなー

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なんだかんだでごみ分別ははまると楽しい笑




 映画で時計じかけのオレンジをみました。精神治療はんたーい!と思い


 映画で時計じかけのオレンジをみました。精神治療はんたーい!と思いました。


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 観たことある人はわかると思うんですけど、日本でいう刑法39条、それにともなう措置入院などと密接に関わる精神医療(治療)のテーマが多分に含まれている内容です。

※第39条
心神喪失者の行為は、罰しない。
心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。


 ちなみに措置入院的な精神病者を“檻に入れる”ことの究極として、(SFだけど)サイコパスの潜在犯収容施設とかがありますね。

 サイコパスはSF的な管理社会だけでなく、精神治療と保安の究極モデルとしてみてもおもしろい作品だと思います。

 というかぼくはサイコパスは結構そこらへんのディテール気になるというか、社会の制度設計どうなってるんだろうというか、「これ潜在犯捕まえて牢屋いれてるけど施設足りてんか…?」とか考えちゃいます。

 さて、次は精神病つながりで『カッコーの巣の上で』をみます

え、みんなパンの耳って食べものなの?人前では一応食べます派?パン耳論争について


 まずはっきりと断言してしまうと、僕は基本的にパンの耳を食べない。

 具体的に。超熟という食パンがある。しっとりフワフワ系食パンの代表格であり(山崎製パンのダブルソフトもあるが、超熟のほうがよりしっとりしていて良い。逆にダブルソフトは少しパサパサしているあたり残念感がある)、コンビニで最も一般的な食パンである。

 超熟はパン部分(?)がしっとりフワフワしているので、耳を切ってパンだけにするのが最適な食べ方だと考えている。
 
 しかし、この食べ方に文句をつけてくる人間は多い。

 耳まで食べる派の存在である。

 食べる派の人間は、食パンは耳まで含めて食パンであると考えている。
 ゆえに耳を余剰生産物と考える僕たち(食べない派)とは根本的に相容れない思想を持っているといえる。

 そして、僕がよくないと思っているのが、食べる派の人たちは食べない派を人間として未熟と捉えていて、場合によっては(食べない派が親しい人である時など)僕たちを改宗させ、包摂しようとしてくる点にある。逆に、食べない派の人間が食べる派を糾弾したことは歴史的に見てもほとんどないはずだ。僕たちは食べる派という他者の存在を認めた上で、異なるスタンスを持つ人間として同じテーブルで肩を並べ、食事をとることに全く異存はない。
 その点で、食べる派は自分と異なる他者への寛容さのない、自己中心性をもつと指摘できる。

 その一方でここまで僕は、パン耳論争において食べない派が圧倒的に不利な要素をもつことを意図的にスルーしてきた。それはとてもかんたんな話で、食べる派と比べて僕らは食べ物をムダに、粗末にしているという点だ。食べ物を粗末にすることへの世間のバッシングは強く、場合によっては“ありえない、理解に苦しむ、人じゃない”といった人格否定にまで及んでくる。そして確かにそれらの批判が的外れだとも言うことはできない。
 
 僕の動物的な本心では、生産余剰と感じるパン耳は、切って捨ててしまいたい。不要と自分の感じるものを捨ててしまう自由がほしいと思う部分も大きい。
 ただ、やはり上の道徳的な面からの批判を完全に無視するほどの反社会性にコミットしたいとも思えない。実際に今は、切ったパン耳を取って置き、溜まったら揚げパンかピザパン(?)ピザトースト(?)(ベーコンとチーズを乗せチンするやつ)にして消費するというところで妥協している。
 もちろん、食べない派にも過激派はいるはずで、彼らはパン耳を捨てて生きているんだけれど、僕はそれはあまりにも極端に個人主義に寄っているのではないかと思う。「個人の趣向としてパン耳は切るけれど、捨てはしない」という中道をいくというのが論争を経たあとの僕のスタイルになっている。

 余談になるけれど、この話をサークルでしたところ、Nしーさんに「え、うち耳の方がむしろ楽しみなんだけど…」と言われたのには、本当にショックを受けた。寛容なつもりで、やはり異端への驚きは隠せなかったのでしたとさ。