人生に目標がないと思っていた。
私は音楽が作りたい。私は絵を描きたい。私は歌いたい。私は誉められたい。私は自分を認めたい。私は美味しいご飯が食べたい。私は気分よく寝て、気分よく起きて、やりたいことがあって飛び起きて一日の始まりが希望でありたい。
この夜、そうこの夜が大事なのだ
今22:28である。
私は月曜の今日起きて遅刻して大学に行きバイトに行き家に帰り大体一時間半ほど飯や歯磨きネットの周回などで費やした。ネットとはTwitterやTwitch、ネットサーフィンである。
やるべきことをひとつもしていない。
やるべきこととは
- 前期末テストに向けての勉強。
- 大学の課題
- サークルの練習
である。
私は卒業研究までに毎期17.25単位必要なのだが、これ以上落としてはならない18単位までもうとれる単位がない。いや、
考えてみればそれだけとれば全くもって問題はないのだ!
故に今私がすべきなのは過ぎた単位を追うのではなく、取れる単位を死ぬもの狂いで対策し、全力で取りに行くことだ。
明日に希望を持て。
創作し発表するということ
私はかねがね創作することおよび発表することは外交的な人間がすることと思っていた。「思っていた」とあるがどちらというと今も思っている節がある。
私は、創作する人間の中でも陽キャ、陰キャというのが二つに分かれていると思っており、twitterやpixiv、youtube、その他創作物発表サイトに発表するのは陽キャのすることだと思っていた。私は陰キャ側を20年は続けていた。
ただ陰キャであろうと、創作し発表するべきなのだ。と私は思う。
後、作品を見る側に立ち続けられるのならば延々と批評し、その批評文ですら自分の心の中に保ち続けた。
まず創作というのは、自分の気持ちや妄想、想像を形にすると言う作業であり、それは見せる対象が前提とされていると私には思われる。ゆえに私のような自分が何よりも大事である人間は、自己評価より低く価値付けられるのならば他人と関わりたくないと思うので、発表の機会があればそそくさとその場から去る。
そして私は、創作物の燃料となる自分の気持ち、妄想、想像にこそ価値があるとしていて、この気持ちは、この感情は、この苦しみ、喜び、痛み、憂鬱は、ただただ私のものであり、これらの気持ちこそ私だと思っていた。
しかし今では考えが代わり、それらの思いを持つこと自体に価値があるわけではないと思っている。
創作物にする、つまり、その感情を整形して、人に見せ価値を認めてもらうことで自他共に自分を価値付けでき、自分の認知と世界の認知がかみあう。そして私も世界も幸せになる。
内向的な人間はただでさえ人を幸せにしづらいのであるから、その気持ちや想像を形にして、人に伝えないと価値がない。
自分ばかりを見つめてないで、人が心地よいと思う物をつくり、自分の存在を世界に大切にさせる動きが必要。
あなたはあなたが大切だが他の人にとって、何もしゃべらないあなたを大切にする理由はない。自分が大切だと世界にも思わせるために創作し発表しろ。
駄文
GWももう終わりに差し掛かっているが、どうだろう、満足出来た休暇期間だったろうか。
まず第一に感じることは、長期休暇を振り替えって、それが有意義であったと思うか否かを考える必要があるのか、ということだ。
これはつまり思い出を作るために人は生きているのではなく、思い出になるような経験、その瞬間楽しいという感情がもっとも優先されるべきであるという話だ。
実際にどうであったか、と振り替えるとその時の感情事態は既に無く、頭の中のアーカイブを開き、あぁあの時私は楽しんでいたなと第三者として観測するしかない。
つまり、今自分が有意義か否かを考えて満足げな心地になったり、何もなさなかったと暗い気持ちになるも、それ事態にたいした意味はなく、結局のところ今楽しいという気持ちになることをすることでしか楽しくはならない。
今布団の上でだらだらと文章を作っているが、この瞬間にこの自分を楽しませられるのは何だろうか。何となくゲームをして、楽しかったり苛立ったりして、時間は過ぎて、と思うと暗い気持ちになる。
はあ、何もわからない。ここで言う何もわからないは考えることを放棄して休むことだが、そもそも下手の考え休むに似たりと言うが考えることは休まることではなく、だらだらと疲れる。
走るべき、運動するべき、という言葉が最近ずっと脳内に渦巻いている。運動さえすれば頭の中はスッキリすると言うのか。やってみないとわからないが、するとしたら大学に朝早く行き、荷物を置いて、運動ができる服装で走ればよいか。
ただやはり私にとって文章を書くことは、ある程度脳がすっきりする行為だ。
誰かが人はインプットした分アウトプットしないと気が狂うと言っていた。大袈裟のように思うが、どこかで人は勝手に独り言でもアウトプットを重ねており、それで気が狂わずにいられる、もしくは気が狂っているものは永遠にインプットしていられる。という話かもしれない。アウトプットとは排泄行為に近いが、排泄と言う言葉から感じるあまりにきれいでないそれは一旦脇に置いておくとして、世に言うアートなどと並列に置くとしよう。それらは人からアウトプットされたものとして同じものだ。評価されるかどうかはその評価のものさしによるためあまり頼りにならない。
夜に何時から何時まで寝ればちょうどよいなと思ったり思わなかったりしているが、ちょうど寝れたためしは殆ど無い。私が制御できることじゃないのかもしれないし、制御しようとしてないだけかもしれない。
馬鹿馬鹿しい文章を延々と連ねている。
絵を描いているときに感じる本当に落書きの中の落書き、あまりに価値がなく、真っ白な紙の方がまだ価値があると思えるようなあの感覚を文章にも感じ始めてきた。
それは筆者が同じであるだけ、同じような文章が作られるのは道理であるが、成長を感じないからこの指を動かした時間も何もかも無駄だったと感じて吐き気がしてくる。
ある人は自分の中で勝手に評価したりする人は自己満足で終えるため絵を描くことも文章も続かないと言う。外からの評価でやる人は続くと言う。だからといって自己満足をやめるべきと言う話ではなく、そもそものはなし絵も文章も勝手にやって勝手にやめればいいのだ。
だがその話をしたいわけではなく、プロならば仕事をくれる人を満足させるのが仕事だと言う話だ。アマチュアなら本当に自由だ。何も制限もない。この差はなんだ、プロも交渉次第では自由が増える。自分で自分に課す制約が多すぎてアマでかくほうがかけないときも多々ある。バカか私は。
そらそうだ、絶対的にバカでありそれは直らないし直らなくてもいいし、そんなことはもうすでにわかっている。
文章を書くと言うことで何か新しくわかるかと言うとそうではなく結局人は集合知が強い生物で、人と関わることでパフォーマンスが上がるからって....支離滅裂な文章やめたらほんと...
自分が満足したいのなら一定のテーマを決めて、最初に大きく抽象的に結論書いて第一に第二に故に結論に戻るみたいな流れで書いたら良いのだろうか。
自己満足を人生の楽しみとして生きるには成長を感じるまで、時間がかかりすぎるかもしれない。だから定期的に外部から評価されるとき、大学ならば定期テストなどできちんと点数をとるべき、私なら他と比べてより取るべきなのかもしれない。
外部の評価で自分の評価をしない方が良いと言う論調が最近というか数年前と言うかネット上ではよくあるとおもうが、自分のなかで自分を楽しめさせられる能力が無いのならそれはやめるべきなのかもしれない。外部の点数を取るような評価はやればとれるものがあるし、内部の評価はじぶんでもとてもじゃないがわからない。そうなると向き不向きの話になりそうだ。(駄文)
どこにもない欲とその解消
昨日、早朝から大学にいく必要があった。ただ、夜に寝て朝に起きることができなかった私は、深夜に寝、数時間後に目を覚まさせられ、あまりにも苦しいのに布団からでる。そしてその苦痛と共に様々な準備をし通学することは到底受け入れられる苦しみではないと推測でき、また想像し脳にまた苦しむだろうと言う未来指向の苦しみが生まれたので前日の深夜の段階で大学へ向かうことにした。
寒い、苦しい、なんとなき眠気と体力がないことによる気持ち悪さがある。
しかしこれは起きなければならない早朝に、私は人間で社会に属しそこに生きなければいけないと言う諦観を持つという世界への防具を着ていない状況で朝であることを確認してこの苦しみを抱えながら通学しないといけないことをまた確認しそれを理解し、逃げてはならないと覚悟し、諦めながら苦痛を我慢し脳細胞を殺しながら冷たい水道水で手を洗い顔を洗い、他の準備をすることを思えば、
既に世界への諦めと分厚い外套という防具を着こんでいる私の自然の寒さと単なる疲れの苦しみと、明日の早朝の私の苦しみを比較すると今苦しむ方がよいと思った。
故にこの通学の一歩一歩は明日の自分を救う、この世界で唯一私を救える一歩なのだからと踏みしめていける。
その欺瞞的な前向き精神で大学にゆき、椅子に座り体に悪い机に突っ伏した姿勢で寝たりしていた。そこではどれだけ服を着ようと横にならずに布団を被らないとこれほどまで体は芯から冷えていくのだと分かった。
そして雑務をこなし数時間の人間を全うし、バイトに向けて大学を後にした。
ただこのバイトへ行く道は眠く苦しい。机に突っ伏して寝るのは長期的な眠気解消にならないのだと理解した....
様々な苦しみがあり漸く家に帰ってきた。午後九時である。
暖房をつけ分厚い外套をそのままに冷凍のご飯を暖め、温めすぎて焦げた臭いのする味噌汁を揃え、取り敢えずの夕食をとった。
そして部屋が暖まり数時間振りに体の芯から少し暖まる安心感を覚え、私は気づかぬうちに寝てしまっていた。
3時間ほど寝ていただろうか、暖房をつけ疲れきり筋肉が弛緩しきり口がだらしなく空いたためかとても喉が乾燥していて、風邪を引きそうで自分の頭の悪さに苦しくなった。
もうこんな苦しい睡眠はすまいと風呂に入り布団に入るのだがまたこれが所在なき欲が自分のなかで渦巻いている。
これは自分は今日に納得してない感覚であると思う。解消方法は特に無い。ただこれにたいし大概の人はなんとなく気を紛らわすためにネットサーフィンをする。そしてなんとなく寝る。しかし今私は寝れない。
暇でないと喜びはなく暇であると苦しみがある。
仕事で寝る以外の時間のほとんどを埋めては食事は味が濃く刺激的なものを食べ、微かな時間に数万かけて遠くまで行き、またそこで数万かけて一般的人間の娯楽を行い欲求を解消する。
それは仕事でやめたいという四文字を渦巻かせながら働いた経験しかない私には到底無理なことなのだけれど、それをこなせる人間は夜に仕事の疲れと明日の仕事に向けて眠るしかない為に雑念がよぎることなく眠り、食べたいという衝動を抑えることも無く、また押さえる必要性すら感じることなく食べたいものを食べて、仕事がない貴重な微かな時間に迷うことなく娯楽を行い様々な欲求を解消する。
このような生活は、これまでの私を私が見てきて仕事への適正がないと思えた私にまず不可能であったしやはり仕事が苦しみに直結するためにそれしか考えられなかった。
それに対し、こなす仕事は少なく時間はあり、本を読んだりネットを見たり絵を描いたり歌を歌ったりして過ぎる日々にたまに灯る欲求はこの上なく他に代替できないもののように感じる。しかしそのような欲求は解消しづらいものが多く無意味に過ぎているように思う時間が連なり苦痛となりうる。
また適当につけたタイトルと反する内容だが、それはそうなると確認した。何が書きたかったのかがタイトルに合わせる気持ちが芽生えたために散漫になり自分のなかでよくわからなくなってしまった。
働くことを思うと反射でみぞおちの辺りが気持ち悪くなる
一瞬で体全身に嫌悪感、不快感が走り鬱屈とした気分になる。
だが実際のところ働いてみるとそれなりに苦痛なところは多いのだけれど、その苦痛は家にいるときに働くことを思った瞬間に走る嫌悪感程ではないのだ。
やってもいないのに感じる不快感は考えるだけで生まれ、後を引く気持ち悪さを精神から蝕み肉体へ届き残り続けるのだ。
それに加えてやってもないのに感じる不快感というものは未来に働くことが存在するということだけで即座に生まれることが可能であるから無限に生まれるものであり、それを考えるのも原始の不快感に比べたら小さいものなのだけれど、通常の心境と比べるとあまりに大きいものだ。
思うだけで感じる不快感は働いている時に感じている苦痛と働く時間の積と等しいかのようにも思えるが、そうでもなく、そもそも苦痛と感じる時間の積は馴染みがない感覚であり。
辛いそのときはただ辛くかけがえることのできない辛さなのだ。
辛くなったらそれはどうしようもなく辛く、ただ辛い。