好きになんかなれなかった自分と、生きていこうと思えた一年

2018年を言葉にすると、こんな感じになる。

自分は自他ともに認めるネガティブ属性の持ち主である。以前からずっと、自分を嫌いながら生きてきた。

 

「自分を好きになる」ということは私の中の不滅のテーマであったが、今年分かったことは「別に自分は自分を好きになりたいわけじゃない」ということだった。

 

好きじゃなくても生きていけるし、好きじゃないことで生まれるエネルギーは負のものばかりではなかったと思うからだ。「好き」じゃないかもしれないけど、「まあ、こんなやつが生きていても、いいかな」くらいには思えた今年のハイライトを書いてみる。

 

 

 

タイトルにもあるが、私は自分が好きではない。

自分のことが嫌いな人は、大体過去に存在自体を否定された経験を持っている、とか、身体的特徴や自分の能力を過小評価しているとかそういう人が多いと思う。

 

今までは、自分が「デキない奴」だから嫌いなのだとずっと思っていた。

最近気づいたことだが、私の場合強く存在否定されたような経験はないし、自分の見た目やスペックを卑下しているわけではなかった。

そうではなくて、自分の中身が空っぽで世の中の誰にとってもどうでもいい存在なのではないか。ということに恐怖を感じ、自分を嫌いになっていたのだった。

 

 部活やサークルなどで中心人物になったこともない。クラスでみんなの人気者になったこともない。友達が多いわけでもないし、大して特技があるわけでもない。

『ザ・平凡』の自分の人生に強い不安と嫌悪感があった。

 

平凡なくせに、変なプライドは持っているし、自分のこと気にかけてほしいと思うくせに、人のことは気遣えないし。そんな矛盾を抱えた自分が苦しかった。

 

だから、自分の選択に対して自信が持てず、「自分で選んだ」と思い込みながら、周りの人の発言を常にストックしていた。誰かに批判されるのが怖かった。中身がないことがばれてしまうから。

 

何か選択の機会になると日ごろ集めていた「周りの意見」をジグソーパズルのように組み合わせてあたかも自分が選択したかのようにもっともらしい理由をつけて、レールの上を歩くような生き方をしていたと思う。

 

そんな自分は、物事の取捨選択がとんでもなく苦手だった。

今まで部活も中学、高校三年間続け、サークルも4年になる年に引退するまで辞めなかった。10年ほど続けた習い事も、「勉強が忙しくなるから」というもっともらしい理由をつけてしか辞められなかった。

 

そんな私は今年初めて、途中で何かをやめるという選択をした。

 

今まで周りの人から「文句を言われない」選択を無意識にとっていたので、今年自分がとった行動は相当レアだったと思う。強い意志や、自信を持ち合わせていない私にとって人や組織に自分からサヨナラを言うことはとても勇気のいることだった。

 

 

辞めることに関してもだが、始めることや誘うことに関しても、今年は自分の欲求に素直になれたと思う。

 

小学校の時、私は自分から友達に「遊ぼう」といったことは無かった。

その頃は単に家で遊ぶのが好きだっただけだったが、大きくなってくると「相手が自分と遊びたくなかったらどうしよう」という不安から誘えなかったこともあった。

だけど、今年は自分から会いたい人に会いたいといって、思ったことは素直に相手に伝えることが比較的できたと思う。

そして、かねてからやりたいと思っていた二つの習い事を始めることができた。ライティングと歌だ。文章を書くことは好きで、歌うことも好きだけど、それをおもてに出すことを躊躇していた。下手くそじゃん、と言われることが怖かった。

 

いろいろ頭の中でぐるぐる考えて最終的に、やりたいからやっている、まあそれでいいか。となった。

 

 

本来私は、自分を隠して猫をかぶったり、防衛本能で他人との間に線を引いたりというのを無意識にしてしまうのであまり人とは深くかかわることができないタイプだと思っている。自分の好きなこともあまり人には言えなかった。

だから、相手も悩みとか話してくれなかったりするのだろうなあと思ってそんな自分が嫌いだった。

でも今年は自分から誘えたし、好きなものを好きといえたので、少しはましになったはず!

 

今でも「自分が好き!」と何のためらいもなく言うことはできない。

だけど、生まれてこなければよかった。とは思わない。

 

平凡で何も持っていないけど、心に素直に生きようとして、傷ついたり喜んだりする人間が一人、生きていてもよいのかな。と思っている。

 

 

今年は上記に紹介したように、心情の変化の面でいいこともたくさんあったが、悲しいこともあった。今年、私は人生で初めて祖母とのお別れをした。

父方、母方あわせて4人いる祖父母のうち最初にお別れしたのが、今年亡くなった父方の祖母だった。

 

彼女はとても健康な人で、明るくて面倒見がよく、活発な人だった。

かなり健康に気を使い、元気に過ごしていたのでいつまでも元気なんだろうな、と何となく思っていた。

 

だけど階段から落ち、腰の骨をおる大けがをし、歩くこともできずとても痛くてつらい思いをしたはずの祖母は、父や母に心配をかけたくない一心で、救急車を呼ばず、病院にもいかず、自宅の床で寝たきりで過ごしていた。その間に菌が体内に侵入し、気づいた時には、かなり状態が悪かった。

 

その後入院して約一年、本当によく耐え、今年の10月にこの世を去った。入院している間、話すこともできず、ほとんど体を動かすこともできなかった祖母が何を思っていたのかは今でもわからない。

 

だけど、枕元で父が「もう家族のことは心配しなくていいから」というのを聞いて涙を流し、その後すぐ亡くなったと聞いて、ずっと家族のことが心配でたまらなくて必死で生きようとしたのだろうと思った。

 

そんな祖母がつないでくれた命を今自分は生きている。

思い通りにいかないことの方が多いけれど、前を向いて必死に生きようと思った。

 

来年は、社会人になるので、大変なことしかないと思うし、何もできない情けなさをこれでもかというほど感じる一年だと思う。良く見せよう、なんて考えず出来ないことは出来ないと素直に言って、腐らずに、貪欲に吸収していく一年にしようと思う。

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最近の悩み

自分が悩んでいることを誰に相談したらいいのかよくわからなかったので、SNSを使ってみました。最近もろもろ悩んでいるのでその解決策を知っている人がいたら教えて頂きたいです。

 

(1)生活習慣

生活週間の問題なのですが、朝起きれないです…。そしてその原因として、夜寝れないです。理由として、日中あまり体を動かしていないからです。(当たり前ですね笑)

 

そして、寝るときに眠れないままただ布団で過ごしているとネガティブなことを考えてしまうので、それを防ぐために漫然とスマホをいじったり、テレビで録画した映画やドラマを見たりということをやっていてどんどん眠れなくなってる気がします…。

体動かせばいいんでね?ってなると思うのですがあんまりその気力ないのが自分の課題です。心もそうですが、体も疲れてる感じがします。比較的時間は今たっぷりあるので休養はしてると思うのですがどうやったら疲れが取れるのか分からないです。

 

(2)ネガティブ問題

他人は何も言っていないのに自分の事を悪く思っているのではないか?とかってに思ってしまうというのも悩みです。

誰かが、こういう人っていいよね!って言ったとすると、自分は全部当てはまらないなあって思ったり、誰かがこういう人って無理だよね。って言ったとすると、ああ、それ自分だわ。ってなります。客観的に見て、そんなわけないでしょ。馬鹿なんじゃないの?って思うし、冷静に考えれば自分が全部ダメなわけがないことは分かっているのですが、そんな風に考えてしまいます。

未来や他人などの自分から見えない事柄について全て悪い方向に考えます。どうせこのまま生きてても楽しくない…とかみんな自分の事嫌いだ…とか。

 

(3)自分の軸問題

今まで人に怒られないためだけに動いてきたので、自分の中のこだわりがあんまりないです。だから何かをやるにしても全然楽しくなくて、どうやったら楽しめるのか本当にわからずにいます。

自分の中に何もないから誰かと接するときも全然自信なくて、それもまたネガティブ思考に繋がってる気がします。

それもあって、今あまりすべての事に対してやる気がなくなりつつあります…(まずい…!)責任感はかろうじて残ってるので与えられた仕事はこなそうとするのですが、自分の中でこうしたい、ということが浮かんでこないです。

 

ネクラ感満載の投稿ですみません💦

もし解決策知ってる!とか自分もこんな感じだった!とかあったら教えてください。

時間よりも大切なもの

最近、ふと違和感を感じることが多くなった。

 

今まで感じることの多かった、「自分と比べてあの人はあんなにすごいことしてる!自分このままで大丈夫なのだろうか?」という違和感ではなく、

ただ単に、自分の人生がこのまま進んでいくことに対しての違和感だった。

もしかしたら自分はどこかに大切なものを忘れているのではないか?とさえ思った。

 

その類の心の声が大きくなるのは、自由に思うがままにレールに乗らずに生きている人々を見る時だった。

自由気ままに自分の快楽を目的に過ごしているのでなく、自分で道を作ってそこを走ってる人たち。そしてその道は自分のために走っていながらも、人の事を幸せにすることへつながる道だった。

就職活動に関しても違和感を感じることが多くなった。行きたい!と100%思う会社じゃないところに対して自分は何を伝えるんだろうか。それは相手にとっても自分にとっても幸せなことなのだろうか。ある日を境に私は望まない選考を自分から断った。

自分に嘘をつくのに費やす時間がうっとうしく、耐えがたかった。

 

いくつか選択肢が定まってきた時は、3つ体があれば全部の場所で働けるのに。と思ったこともあった。しかし寝ても覚めても体は一つだった。

いつしかその選択肢以外の道を進むことにだんだんと抵抗が出てきて私はガラスの箱に閉じ込められたみたいになった。そこまできても、自分が何がしたいのか全く分からないし、何を成し遂げたら人生が幸せになるのか、全く見当もつかなかった。なりたい自分だけはあったが、どうすればそうなれるのかも正直分かっていない。

 

ただただ、このまま私が今いる道を進むにあたって、何か大切な問いを忘れているのではないかとだけ感じた。

 

今まで、「完全にやりきったと思える経験」が私には無かった。受験でも、海外インターンシップの活動、イベント運営やもろもろやってきたけど、一番頑張ったと思えるのは今でも多分(生活に占める割合的にどうしても)受験だ。海外インターンの活動は実現したらいいんだろうなと思ってやっていて、ある程度頑張ったしいろんな人に対して責任感もあったので最後まで続けた。し、やることはやったと思う。

 

しかし、受験も第一志望に受かることは出来ず、インターンもやり切ったという感覚は全くなかった。終わった、という感覚に近かった。

 

星の王子さまの中で、「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみがバラのために費やした時間だったんだ」というセリフがあったが、私は時間をかけても、何かをかけがえのないものだと思うことが出来ていない。私が目指していた大学の事も、サークルの事も、星の王子さまがバラを愛しているようには愛せていないとおもうし。

 

だから、もう一つ、時間とは別に大切なことがあると思う。それを自分は忘れている。

それは、誰かのために時間をかけることを純粋に自分の意志で行うことだと思う。

 

今までの基準は全て他に置いていた。受験も高校の先生に勧められて、なるべく頭のいいところに行った方が良い、という自分以外のところからきている価値観だったり、海外インターンも最初は自分でやりたいと思ったことだったけど、途中から誰かに責められないためにやっていたようだった。

 

ここまで書いといて、自分がこの先どうしたらいいのかが分からなくなった。今後やっていくことも今までのようになったらすごく嫌だ。人生がそんな感じで終わるのは本当に嫌だ。今まで自分が考えていたように、『こうならないため、ではなく、こうなりたいから!こういう状態がうれしいから!』という理由で頑張ればいいじゃん。というような単純な話でも無くなってきた。どうすればいいのだろうか。

 

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最近スランプだったので、

 今年はいろいろあった年でした。

就活を春に初めて、いろんな人や会社に出会ったり、自分の中でぐるぐる考えたり、自分の事を振り返りすぎて嫌いになったこともありましたし、将来やりたいことが定まらずに苦しむことも多々ありました(これからもかもしれませんが笑)

所属する某海外インターン学生団体の海外インターン生受け入れプロジェクトでは、取引先の人の連絡などでミスを連発し、かなり凹んだり、インターン生が来て大喜びしたり、メンバーのマネジメントに苦しんだり、なかなかインターン生が日本に慣れてくれないと悲しんだり、日本での生活を楽しんでいる姿に涙したり、上下の幅が激しかったです。

 

最近、インターンでぼこぼこになって自分まじでポンコツだ、これじゃ仕事なんてできない…!って思うようなことがあったり、結構楽しみにしていたインターンに落ちてしまったり(しかも面接受かった後の適性検査でw)、自己分析していたら自分の嫌なところが家族に少なからず起因していることに憤りを覚えたり、いろいろ感情の動くことがあって、自分は役立たずな人間なんじゃないか…とか、人柄も能力も無いなんて終わってる…とかいろいろいろいろ頭の中で無意味に悩んでました。

 

でもそれは本当に無意味なことだと思うので、やめます。そんな自分好きじゃないので。

 

今読んでいるアドラーの本にも書いてあるのですが、「かわいそうな私」「悪いあの人」の話ではなく、「私に何が出来るか」を考えます。

自分が、周りの人達にたいして、価値を提供できるような人に、少しずつでいいのでなりたいです。いつも周りを見渡して、何かを必要としている人がいたら手を差し伸べる。ドアを開ける。モノをとってあげる。ごみを拾う。机を直す。そういうことの積み重ねだと思いました。

所属している団体、友達のグループ、家族、クラス、いろんなコミュニティで役に立ちたいです。疎外感感じるのは自分いなくてもいいんじゃないか?と思うときなので、そう考えるのではなく、まず自分にできることは何か?を考えます。

今の時点で役に立ってなくてもいいから役に立てることを信じて、相手の事を考え続けることが今の私には重要だと思いました。

キャッチボール

最近記事とか、就活セミナーとかでよく聞くのは、コミュ力ってただどんなひととも会話が盛り上がる能力の事ではない。ってことだ。

でも、じゃあなんなのかというと、『言葉のキャッチボール』だと。

最近、ディスカッションとか初対面の人と話す機会が多く、この『コミュ力』についてよく考えるようになった。

 

そしたら、コミュ力不足って三つのパターンがあるのでは?とおもった。(今は二人での言葉のキャッチボールを想定(N=2)多数のコミュニケーションの場合はもっと場合分けが必要になる)

 

①そもそもボールを投げられない

自信が無い…今言っていいのかしら?話の流れ崩すんじゃね?って思って躊躇して後悔する。言いたいことを言えない。わりとコミュ障っていうとこのタイプを思い浮かべられる方が多いのではないかと思う。

(自分は初対面とかディスカッションの時このタイプになることが多い)

 

②ボールを見当違いの方向に投げる

相手の頭の中を想像することが苦手なタイプ。指示語が多かったり、自分の頭の中で考えていたことを、相手も分かっていると思い込んで話すことが多く、相手が理解がしづらい場面がみられる。

 

③相手が投げたボールをグローブの真ん中でうけることが出来ない

(相手のボールの投げ方に責任がある場合もあるが)相手が質問したことの意図とか、話していることの真意とかをつかみ損ねるタイプ。話がかみ合わなくなることがある。

 

ここで言いたいのは、①の人達は自分たちの心の中に思っていることがあり、それを伝えられていないことを認識しているが、②③の人達はそもそもトラブルが起こっていることに気づかない可能性がある、ということだ。

決して他人の批判をしたいわけでは無く、自分も①だけでなく②③のエラーもよくしていたな、と思う部分が振り返ってみると多々あるため自戒も込めている。(サマーインターンの人事に理解力ないねって言われたことあるし 涙)

 

だから、②③で示してある、ボールをしっかり受け取り、しっかりと相手のグローブの真ん中をめがけて適切な速度でボールをはなつということを意識的に行うことが重要だと思った。

②③は意識しないと自分では気づかない。気づかぬうちにコミュニケーションとりづらい認定されてたらすごく悲しいし、なるべく避けたいので相手を思いやってコミュニケーションしていくことが重要だなって、思いました。

謎の胃痛

ゴールデンウィーク前最後の日から、謎の胃痛に悩まされている。

最近責任を感じることとか、嫌だなあと思うこととか、ストレスを感じることがあったからかもしれない。

 

胃痛といっても、私の場合消化器官が痛いわけでは無く、何となくみぞおちのあたりがずずずんと重く痛む。食べたから悪化するわけでもないことを思うと、胃が痛んでいるわけでは無いのかもしれない。

これは四六始終続くわけでは無くて、波がある。朝は大体痛くなくて、夕方から夜にかけて痛み出す。胃痛は立てないほど激しいわけではないが、ずっと重くみぞおちに居座り、笑顔や楽しみなどのプラスの感情を奪う。胃腸薬を飲んでも治らないし、医者に行くほどの事でもないし、なんだかなあ。どうしたものか。

 

実家に帰ってるからまだいいかもしれないけど。一人暮らしのおうちにもどってまた痛くなったら誰も助けてくれない。怖い。

 

まあ、その時は医者にでも行こう。

 

何か落ちなくてすみません。