2度目のトルコ旅行記(3)

5日目(6月27日)

 ビンギョル⇨アハラット⇨ヴァン

 快晴の毎日です。日中の気温は30℃以上になりますが、湿度が低く東京のような暑さは感じません。8時にホテルを出発。バスの中でガイドのユスフさんが、この地域の90%はクルド人が占め、自分もクルド人である事。また現在のエルドワン大統領になってからイスラム化(今までの学校の半分がイスラム教の学校、新聞禁止、服装の自由化が厳しくなった、飲酒の場所が少なくなった)が進みつつある事、アラビアの国々との交流が増え、アラビア人が増加している事を話してくださいました。検問、WC休憩を取りながら10時半にローマ帝国時代からあるビトリスの町に残る16世紀のキャラバンサライ(隊商宿)で写真ストップ。

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シルクロードはディヤルバクル〜ビトリス〜タトワン〜アハラット〜ヴァンを通り、イランのイスファハーンへと繋がっていました。タトワンを通過(10時45分)するとヴァン湖が見えてきました。あまりにも広いので地元の人々はヴァン海と呼んでいるそうです。

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11時15分にハラベ・シェヒルローマ帝国時代の洞窟居住跡に到着。バイラム休日の家族連れも来ていて、管理が全くされていない居住跡を自由に見学しました。

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その後、近くのアハラットの墓石へ行きました。アハラットは6世紀のウマイヤ朝時代に発展し、1060年代にはセルジューク朝の本拠地になりました。1071年、ここを拠点にしたマラズギルド(北へ約60㎞)の戦いでビザンチン帝国(東ローマ帝国)に勝利し、トルコ人アナトリア移住と征服が始まりました。野花が咲き乱れる広大な敷地に3万人位の墓石が林立しています。茶色い火山性の凝灰岩で出来ており、大きさは生活レベルで決まり、大きなものは3、5メートル。表面にはアラビア文字幾何学模様が施されています。

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昼食はヴァン湖畔でパスタスープ、サラダ、肉炒め等。15時過ぎに50万都市のヴァンに入り、ウズンジュル大学構内にあるヴァン猫研究所を訪ねました。110匹が保護と繁殖のために飼育されています。原種は絶滅したとも言われており、今も減少し続けている貴重種で、トルコの生きた文化遺産とも呼ばれています。手足の長い白猫で左右青と黄色のオッドアイが特徴ですが、産まれる子猫の3匹の内1匹しか特徴を受け継がないため両眼とも同じ色の子(中には同じ色でも濃さが違う子)も沢山います。他の猫と違い泳ぎが得意ですが、太陽の光に弱く、環境の変化にも敏感な繊細な猫です。輸出禁止のためトルコ国内でしか見られませんが、手続きをすると飼う事が出来ます。

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16時過ぎに街の中心部にあるエリートワールドホテル着。ここでは連泊で、19時の夕食まで通りを散策。

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ミナレットが見えたウルジャーミーにも行きました。お参りに来ていた地元のおじさんが親切に色々説明をしてくれましたが全くわかりませんでした。

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夕食は緑レンズ豆のヨーグルトスープ、トルコ風ムサカ、プディング。

 

 

 

 

6日目(6月28日)

 ヴァン湖周辺の観光の1日です。午前中はヴァン湖に浮かぶマクダマル島に行きました。本土から3㎞離れていて、ヴァン湖にある5つの島の内最大の島です。島に在るアルメニア教会は、915〜921年にアルメニア帝国カギク一世の”島のどこからでも見える大きな教会を”との命により建設されました。元々はイエスが磔にされた時の十字架の一部を納めるために造られました。当時は屋根の上に金色の十字架がありましたが、別の教会に移されました。2000年代、アルメニア政府が、アルメニア人がお祈り出来るようにするとの条件の元、費用を負担して修復が始まりました。しかし、修復後、トルコ政府はアルメニア人を拒否。2010年代になって年一度のお祈りがようやく許可されました。外壁には、アダムとイブの物語など聖書に出てくる五輪のレリーフが美しく残っており、内部には生徒の勉強部屋や井戸、イエスや大天使ガブリエルが描かれているフレスコ画も。何人かで高台に登ってみました。青空の下、ヴァンこと教会の眺めが素晴らしかったです。

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昼食は対岸に戻り、ヴァン湖を見ながらトマトスープ、インジケファル(ヴァン湖の魚、淡白な味でした)のグリルと果物(さくらんぼ、桃、杏、バナナ)

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 昼食後はヴァンの外れにある岩山の城跡、ヴァン城へ。紀元前825年に、この地で高度な文明を築き上げたウラルトゥ王国のサルドゥール一世によって建てられました。その後、アッシリアヒッタイトアレクサンダー大王ローマ帝国セルジューク朝、ムラト4世(オスマントルコ)なども利用しました。アルメニア時代まで、ヴァンの街はここにありました。当時はセメントや鉄が無かったので、土、水、卵、ミルクなどで築かれました。城の裏手にはかつてアルメニア人が住んでいた住宅、教会、モスク跡が残っていて当時を想像することが出来ました。

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16時にホテルに戻り夕食まで自由時間です。郵便局から絵葉書を出したりスーパーを覗いて過ごしました。夕食は春巻き、チキンのピラフ詰め等。添乗員さんからのソーメンの差し入れもありました。旅行参加者は現地の食事を楽しみにしているので個人的には不要だと思うのですが・・・添乗員さんも大変です

 

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2度目のトルコ旅行記(2)

3日目(6月25日)

マラテヤ⇨キャフタ⇨カラタント⇨ネムルート山

 昨日で1ヶ月続いたラマダンが終わり今日からバイラム(砂糖祭)です。子供達は甘いお菓子や新しい服をもらえるそうな。7時30分にキャフタに向け出発。道中には黄色い花が沢山咲いていました。ヨーロッパに1200種ある花の内900種はトルコで見られます。10時25分にキャフタに到着し、ミニバスに乗り換えて、紀元前1世紀頃この地で栄えたコンマゲネ王家の墓標が立つ”カラクシュ”、ローマ時代の”ジェンデレ橋”、アンティオコス時代(紀元前1世紀)から要塞があった”イエニ.カレ遺跡”、コマンゲネ王朝の夏の離宮”アルサメイヤ”を訪ねました。

 

カラクシュ

 カラ=黒、クシュ=鳥と云う意味で、アンティオコス1世の妻と2人の娘の為に、息子のミトラダテスII世が造った墳墓です。ここからネムルート山が望めます。これはアンティオコス1世夫婦がお互いに深く愛し合っていたため、見える場所に作ったのです。墳墓の周りには元々5本の柱が建っていましたが、現在は4本。正面には鷲、右にはライオンと牛、左には王のレリーフがあります。

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奥のとんがっているのがネムルート山

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ジェンデレ橋

 ユーフラテス川の支流であるジェンデレ川に架けられた橋です。ローマのセプテミウス皇帝(在位193〜211)のために建設されました。92個の石材が10キロ先から運ばれ、セメントを使わずに積み上げられました。バイラムの休日で子供連れの家族が水遊びをしていました。

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イエレ、カレ遺跡

  紀元前1世紀に建てられましたが3度修復され、現存するのは13世紀マムルーク朝のもの。そのためイエレ、カレ=新しい城と呼ばれている要塞です。修復中で普段は入ることができませんが、ガイドさんが掛け合ってくれて入場できました。急な坂を登り、中に入ると地下に部屋が残っていたり、モスク跡もありました。

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アルサメイヤ

 アンティオコス1世が父のミトリダテス1世の命で造った夏の離宮跡です。アポロンレリーフや井戸、ヘラクレスとミトリダテス1世が握手するレリーフギリシャ文字などが残っています。かつてはイエレ、カレまでトンネルで繋がっていました。

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 観光後は昼食(14時)でひき肉のピザ、ラフマジュンとマッシュルームスープでした。夕方から旅のメインイベントである、ネムルート山夕景鑑賞があるので、早め(15時)のホテル到着でした。山麓にあるこじんまりとしたホテルで、蟻が出てきて殺虫剤をかけてもらいました。18時まで休憩です。18時に再集合してミニバスに乗り、途中の休憩所でシャトルバスに乗り換えました。東のテラスまでは徒歩で30分。そこから西のテラスに周り日の入りを見ました。20時40分にホテルに帰り、遅い夕食(トマトスープ、トルコ風シチュー)となりました。

ネムルート山

 標高2150mの山頂に巨大な神像があります。これは紀元前1世紀に、この地方を支配したコンマゲネ王国のアンティオコス1世の墳墓。岩のかけらが積もって円錐状の丘となっている山頂自体が陵墓です。東と西にそれぞれ5体の神像と鷲とライオンの像が並んでいます。地震で首が神像から転げ落ち、神々の首はまるで地面から生えたかのようです。アンティオコス自身の像はゼウスやアポロンヘラクレスなどの神々と並んでおり、強大な権力を持っていたことが伺えられます。

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東のテラス

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西のテラス

 

4日目(6月26日)

カラダット⇨エラズー⇨ビンギョル(530キロ)

 7時半にホテルを出発してマラテヤ経由でエラズーに向かいました。バスの中で簡単なトルコ語講座がありました。毎朝ギュナイドン(おはよう)と挨拶していますが、3日間続くバイラムの時にはイーバイラムラール(良いバイラムを!)と挨拶をしたほうが喜ばれると教わりました。WCストップ、検問を通過して13時にエラズー到着。ヨーグルトスープ、羊のケバブの昼食。レストランの子供さんからバイラムなのでチョコレートのプレゼントがありました。

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 昼食後は新市街の中心にある小さなバザールへ。ドライフルーツ、スパイス、蜂の巣、地元のお菓子等が売られていて、ここでチャイ、干しイチジク、干し杏、蜂の巣を購入しました。1時間の自由時間後はバスで旧市街に移動しました。石畳に石造りの建物が並ぶ古代都市カーバード(ハルプト)で要塞でもありました。エズラーはカーバードから発展した都市で、オスマントルコ時代(1299~1922)は重要な場所でした。アルメニア語でカーバードは”岩の砦”の意味で、初代アルメニア王によって建設されました。

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ハルプト城

 紀元前8世紀、ウラルトゥ王国時代に建設され、現存するのはオスマントルコ時代に改築(修復)されたものです。当時は水が少なかったためにミルクと卵白をセメント代わりに使っていました。そのため地元の人からは”ミルク城”とも呼ばれました。城壁内には刑務所、井戸、モスク跡が残っています。上は展望台になっていてエラズーの町が一望できます。

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 16時に今日の宿泊地ヒンギョルに向け出発して1時間後に到着しました。夕食はキュウリとヨーグルトの冷製スープ、レンズ豆のスープ、ナスの挽肉つめ等。このホテルに日本人が宿泊するのは初めてで、フロントの方と写真を撮ったり、」スタッフ総出のおもてなしでした。

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2度目のトルコ旅行記(1)

 トルコのガイドブックに載っていた山頂に石像が鎮座する(ネムルート山)光景をいつの日にか見たいと思っていました。テロの影響で、久々の催行のトルコ旅行の中にネムルート山の文字を見つけ申しこみました。2010年に退職記念の友人と西の主な観光地は回っていますので2回目のトルコになります。

1日目(6月23日)
 成田空港第一ターミナル集合は19時25分。スーツケース持参で16時17分の京急で横浜へ。16時50分のリムジン(2000円)で成田到着は18時30分。事前の電話連絡で、東トルコは両替できる所が少なく、イスタンブールでの乗り継ぎ時間も僅かなので成田での両替を勧められていました。10000円を190トルコリラ(52円)に両替。予備知識では32円のはずなのに高い(世界的に流通していないお金はリスクも多く高いとか?)。後でイスタンブールで両替した人は32円。かなりの違いにがっくりです。ツアーは15名で三人組、夫婦一組、一人参加10名で若い女性の添乗員Hさんです。21時42分に満席のトルコ航空機はイスタンブールに向け離陸。途中2回の食事が出ました。

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 2日目(6月24日)
  約12時間の飛行で4時にイスタンブール、アタチュルク空港到着。日本との時差は-6時間。国内線のターミナルに移動し、ガイドのユスフさんと合流し、6時10分発のマラテヤ行きに搭乗しました。飛行時間は1時間半。軽食のサンドイッチが出て、飲み物は塩味の飲むヨーグルト、アイランを頼みました。甘い飲むヨーグルトに慣れている身には不思議な味でした。7時30分にマラテアに到着し、VIPバス(2-1列)に乗り込みました。マラテアはアナトリア高原の古都で、初の製鉄技術を持ったことで有名なヒッタイト帝国(紀元前2000~700年)以来の歴史があります。杏が有名で、この時期、道端の杏売りもみられました。200キロ先のディブリィまでトイレ休憩を取りながら青い空と緩やかな丘が続く中を3時間のドライブです。ディブリィは小さな村ですが、12~13世紀頃のセルジューク朝時代の重要な都市で、1985年に世界遺産に登録された”大モスクと病院”があります。1228年に地方君主のアフメット・シャーとその妻によって建てられたイスラム建築です。西の門はテキスタイルの扉でキリムを想像させる彫刻が施されています。夕方頃の礼拝時には日陰が男性が祈る形に見えるとか。北の門はオスマン帝国時代の城壁方向に面していて、扉のモチーフは天国。陽のあたる時間には陰が女性のシルエットに。病院側の門にはイスラム教を表す月、ユダヤ教を表す星、キリスト教を表す十字架が合わさったモチーフがありました。修復の最中でしたが、ツバメの巣もできており、荒れていました。f:id:chizukoAchan:20170817173314j:plain

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 昼食は近くのレストランでレンズマメのスープ、チキンケバブとサクランボ。自己紹介もしました。昼食後は来た道を戻り、マラテヤのホテルには16時に到着しました。長旅の疲れで19時の夕食(ビュッフェ)まで横になっていました。

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(チキンケバブとサラダ(このサラダはいつも出てきました))

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ポーランド旅行記

ポーランド旅行(2016年6月18日~25日) 

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 2015年末から大腿骨骨折で入院していた母がやっと4月2日に退院。そろりではありますが、自分でトイレに行く事も出来るまでに回復し、やれやれと思っていたところ4月27日から心不全でまたも入院。ゴールデンウィークは母の見舞いも兼ねて白老へ。思ったよりも元気な様子に少し安心はしましたが、年齢もあり無事退院できるかなと心配もしましたが、5月18日に退院。10日程何事もなく過ぎたのを見計らって6月の旅行を決定しました。インドのビザが7月まで残っていたので、ラダックが第一候補でしたが催行されず、前から行きたかった東欧で連泊も多く直行便のポーランドに決定しました。

第一日目(618日)

 成田集合は2時間30分前の745分。朝一の京浜急行で横浜まで出て530分発のリムジンにYキャットから乗りました。65歳以上は片道2000円です。渋滞も無く90分で第一ターミナル着。参加者は26名で久しぶりの大人数です。夫婦2組、母娘2組、友人同士3組、三人組、70代?の姉妹、一人参加7名。平均年齢が64歳でがっかり。若いつもりでも十分な年齢になっている事を実感しました。出発ロビーに入る前に20,000円を現地通貨620ztズウォティ)に両替しました。1015分発のポーランド航空機は20分遅れで離陸。席は3-3-3の配列で窓際の席を取りましたが、隣が空いていてラッキーでした。2回の食事もまあまあで7時間の時差のあるワルシャワショパン空港に11時間後の1430分に到着しました。ホテルはバスで30分余りで、ワルシャワ西駅が目の前。機内食が夕食替りになっていて夕食は無しだったので、添乗員さんが近くのスーパーまで連れて行ってくれました。その後、一人で電車通りを真っ直ぐワルシャワ・ボヴィシレ駅まで歩いてみました。夕食はスーパーで見つけた寿司。興味があって買ってしまいましたが、シーチキンや沢庵を半殺しのもち米で巻いた感じの海苔巻を美味しいと感じるポーランド人がいるか疑問です。夏至近くのこの時期は9時頃まで明るかったです。

 写真はポーランド空港、機内食、ホテル前の様子、寿司です。

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第二日目(6月19日)

 今日は移動日です。7時45分に集合し出発。席は一人ずつには少し足りなくて前2列は二人掛けになり、毎日変わりました。郊外に出ると麦畑、じゃがいも畑の平原が続き、山らしい高い所もありません。2度トイレ休憩を取りながら4時間30分のドライブでイタリア・ルネサンス様式の美しい建物が並ぶザモシチに到着しました。貴族ヤン・ザモイスキ(1542~1605)が若い頃に感銘を受けたイタリアの景観が忘れられずにイタリア人建築家ベルナルド・モランドに作らせた街です。今では一部しか残っていない堡塁に囲まれた要塞都市でもありました。18世紀の後半からオーストリア、ロシアと支配され第二次大戦中はナチス・ドイツに占領されましたが、破壊されることなく1992年に世界遺産に登録されました。ポーランド風ロールキャベツ(具に米も入っていました)とジャガイモサラダの昼食後600×400mの旧市内を散策しました。散策後は5時間のドライブでクラクフへ。途中、速度違反キップを切られるハプニングもありましたが、19時過ぎにホテルに到着し夕食はチキンでした。

 写真は麦畑やジャガイモ畑が続く大草原、ザモシチの広場、昼食のロールキャベツ、シチュブジェシン門と堡塁、聖トーマス大聖堂です。

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第三日目(620日)

 クラクフでは三連泊です。11世紀中頃から1596年までの約550年間ポーランド王国の首都として栄えました。1939年、ナチス・ドイツに支配されるも壊滅的な打撃を受ける事なく1978年に世界遺産に登録されました。ヴァベェル城や旧市街をはじめ町全体が中世のたたずまいを残しています。残念ながらホテルは郊外で、朝の散歩に出てみましたが何もありませんでした。930分発でクラクフ旧市街地観光です。始めに旧市街の南の外れヴィスワ川に沿って建っている歴代ポーランド王の居城、ヴァベル城を訪ねました。初夏の花々が咲き乱れ、ここで皆で記念写真を撮りました。

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ヴァベル城から1364年にポーランドで最初に創立されたヤギェウォ大学の構内等を通って中央広場に向かいました。中世からそのまま残っている広場に面してレストラン、カフェ、お土産屋さんが連なっています。

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広場の中央には14世紀に建てられ、当時は衣服や布地の交易所だったルネッサンス様式の繊維会館があります。今は一階がお土産物街、2階はクラクフ国立美術館になっています。また1222年に造られたゴシック様式の聖マリア教会も面しています。昔、モンゴル軍がクラクフを襲った際、敵襲を告げるラッパがこの教会の塔の上から吹きならされましたが、モンゴル兵の放った矢がラッパ手ののどを貫き亡くなってしまい、そのことを悔やんで今でも1時間ごとに塔の上からラッパが吹きならされています。夕食に再び中央広場に来た時に見学しました。

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昼食はマッシュルームのスープ、サケのムニエル、ザワークラフト。

 午後はポーランド旅行のメインのアウシュビッツです。アウシュビッツの在るオシフィエンチムクラクフから54kmで収容所は博物館として公開されています。第2次世界大戦が始まりポーランドナチス・ドイツ支配下におかれていた1940年に最初はポーランド人の政治犯を収容するために造られましたが次第にユダヤ人やロマ、ソ連軍捕虜も収容されるようになりました。150万人が亡くなったとされる中、ユダヤ人は110万人。1929年、ニューヨーク株が大暴落したときに台頭した第一党のナチス・ドイツは苦しい生活の中、金融業等で私服を肥やしたユダヤ人を標的にし排斥しようとした事もユダヤ人の死亡が多い原因の一つとも言われています。重労働と貧しい食事で多くの人々が亡くなりました。また、労働力にならない老人、障害者、子供たちと母親は収容後間もなくガス室送りとなりました。被収容者から没収した衣服、トランク、靴、切り取られた髪の毛、義足、義手などが展示された部屋、被収容者が施設に入る時に撮られた3枚組の写真や囚人番号の刺青写真に、収容されてから亡くなるまでの日付けが記入されていました。男女共に丸刈りにされ縞々の衣服をきたうつろな顔の収容者の写真は何とも云われないものでした。

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 第二の収容所ビルケナウはアウシュビッツ強制収容所」から2kmほど離れた所

に有ります。広大な敷地の中に今も木造バラックが少し残っていて、蚕棚のベットで身を寄せ合うように生活していた姿が想像できます。鉄道の引き込み線が敷地内に入りこんでいて、ここで下された被収容者は否応なく労働者と非労働者に分けられました。非労働者はガス室送り、労働者も重労働などの為数か月で亡くなったそうです。

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見学後はクラクフの中央広場まで戻り、餃子に似たピエロギ、トマトのスープ、チーズケーキの夕食を摂りました。

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第4日目(6月21日)

 9時45分発で」郊外にある世界遺産のカルヴァリア・ゼブジドフスカに向かいました。カルヴァリとはポーランド読みでゴルゴダの丘を意味し、ここはカトリックの巡礼地です。

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17世紀初めに地元の領主ミコワイ・ゼブジドフスキによって造られた礼拝堂は当時の姿を留めています。ポーランド人の95%はカソリック教徒でイースター聖金曜日には10万人もの信者が押し寄せる巡礼地もこの日は僅かの人が来ているのみでした。また、前々のローマ法王ヨハネ・パウロ二世はクラクフ郊外で生まれ度々ここを訪れており、銅像が建っていました。

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昼食はヴィエリチカ岩塩鉱の前のレストランでポークカツレツ。

 ヴィエリチカ岩塩採掘場は1250年頃から1950年代まで稼働していました。1978年に世界遺産に登録され、地下64325mにわたって複雑に入り組んだ採掘場の一部、約2.5㎞が観光客に公開されています。檻のようなエレベーターで地下64mまで下り、ガイドと共に年間を通じて14℃の中、岩塩で作られた彫像やポーランドの伝説や物語のシーン、採掘の様子を再現したのを見ながら2時間ほど歩きました。ハイライトは聖キンガ礼拝堂です。シャンデリアやイエス磔刑像、祭壇や床も全てが塩の結晶で出来ています。

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見学後クラクフに戻り夕食を摂ってホテルに戻りました。

第五日目(622日)

 810分発でクラクフから2時間30分の巡礼地、チェンストホーヴァーに立ち寄り、さらに4時間のドライブでワルシャワに向かう移動日です。国民の95%以上がカトリック信者であるポーランド人の宗教的聖地、精神的なよりどころとなっているのがチェンストホーヴァーです。1655年にスウェーデン軍が侵略、占領した際もここのヤスナ・グラ僧院が最後まで攻勢に屈しなかったのは、僧院にある聖画“黒いマドンナ”が奇跡をもたらしたからと云われ、守り神として国民の厚い信仰を集めています。

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“黒いマドンナ”は、福音書記者ルカによって描かれたと伝えられており、その後エルサレム、コンスタンティノーブルを経て、1384年にこの僧院に寄進されました。この絵のマリアのほおには1430年に盗賊に付けられた2本の傷があります。僧院は沢山の信者で溢れ、近々ローマ法王が訪れる為の会場の設営準備が進んでいました(7月末にローマ法王が当地を訪ねた記事が新聞に掲載されていました)。ワルシャワに向かう途中のレストランでターキーとボルシチの昼食。ワルシャワ2泊したソフィテル・ヴィクトリアはサスキ公園に面し、旧市街も近い所に在る高級ホテルでした。早めに到着したので夕食までショパンの心臓が祭られている聖十字架教会、大統領官邸などが並ぶ新世界通りから王宮広場、旧王宮まで歩きました。ボタンを押すとショパンの曲が流れるベンチもありました。夕食は王宮広場近くのレストランで郷土料理のビゴス(キャベツとザワークラフトに、肉などを加えて煮込んだ家庭料理)。添乗員さんから独特の風味がありますのでと気がかりなことを云われていましたが、高菜の漬物の炒め物のような味で美味しく食べられました。

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第六日目(623日)

 ポーランド1050年頃に最初の国家としての形が出来上がりましたが、1918年に独立するまで隣国のリトアニア、ロシア、スウェーデンオーストリアとの併合や侵攻により分割されてきました。また、1939年にドイツが侵攻し第二次世界大戦勃発、その後はロシア軍も侵入してきました。1944年にワルシャワ蜂起で国民統一政府発足。1980年頃から労働者のストが多くなりこの中心にいたのが自主管理労働“連帯”のワレサです。1989年に最初の自由選挙が行われ、連帯が政権を勝ち取り社会主義体制は崩壊し、1990年にワレサは大統領に就任しました。

この日の午前中は自由行動。希望者を、追加料金なしで、郊外のジェラソバ・ヴォーラのショパンの生家に案内してくれました。不参加は二人のみで、現在は博物館になっている生家を訪ねました。周りは緑いっぱいの公園で元はスカルベク伯爵家の屋敷跡です。遠足の子供達も来ていました。

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昼食はワルシャワに戻り、不参加の二人をピックアップしてショパンも通ったホノラトカでチキンソテーでした。昼食後、旧市街やワルシャワ市民の憩いの場になっているワジェンキ公園を散策。この公園の夏の風物詩はショパン像の前で行われるショパンコンサートです。

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次に行ったのはショパン博物館です。ショパンの生涯を映像や音などを通して解説しています。彼が作曲した音楽を聴くコーナーも在り、集合時間までゆったりと過ごしました。その後、場所を移してショパンコンサートです。あまり聞いた事の無い曲を大音響で聞いて疲れがどっと出ました。夕食は自由です。一人参加の3人でホテル近くのイタリアンでピッザとスパゲティを食べました。

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 第七日目(624日)

 朝食前にホテルの目の前にあるサスキ公園を散策しました。公園内には無名戦士の墓もあり、丁度、衛兵の交代式をしていました。

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帰国日のこの日は12時まで自由時間で、添乗員さんが希望者をワルシャワのシンボルになっている文化科学宮殿に連れて行ってくれました。37階建の高層ビルで、中には各種研究所、TV局、コンベンションホールなどが入っています。30階の展望台からはワルシャワの街並みが見渡せました

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ここで解散になり、何人かでホテル近くの新世界通りまで歩いて戻り、スーパーやパン屋さんに行ってお土産購入。私はいつも現地のパンを買ってくるのですが、干しイチジクが入ったのが珍しく、とても美味しかったです。12時にホテルを出発してワルシャワショパン空港へ。1520分発のポーランド航空は遅れること無く離陸。10時間25分の飛行で、25845分に無事成田に到着しました。

 

 

 

 

タクラマカン砂漠縦断ハイライト(その8)

10月23日(8日目)
 見学も最終日です。ホテル近くの公園では薄暗い中を太極拳等をしている人も沢山見受けられました。8時50分集合でまずはバザールへ。こじんまりしたしたバザールはまだ早いせいか品出しをしているお店が多かったです。旅に出ると地元のパンを御土産にするので今回はウイグルのナン。
焼き立ての薄いのと少し厚みのあるのを購入しました。最後は新疆ウイグル自治区博物

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館です。旧石器時代からの文化財がが展示されており、シルクロードの交易で栄えた町で発掘された出土品は見ごたえがありました。

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また、民族風情陳列室には新疆に住む12の民族の衣装やアクセサリー、住居等が展示されていました。2階は古代ミイラの陳列室があり、1980年にタクラマカン砂漠の東にある楼蘭鉄板河遺跡で発掘された3800年前の”楼蘭美女”が横たわっていました。

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14時に飛行場前の天縁酒店で遅めの昼食。16時35分の飛行機で宿泊地の瀋陽に飛びました。瀋陽には22時20分着。

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9日目は6時集合で8時30分の飛行機で成田へ帰って来ました。  
 写真は早朝のバザール、新疆ウイグル自治区博物館、唐三彩の置物、楼蘭美女発掘模様、楼蘭美女、復元像、民族風情陳列室にて、機内食ウルムチ瀋陽)、瀋陽からの帰国便と機内食です。警察官の多さ、セキュリティーの厳しさ、市内および郊外の大団地 と広い道路が印象に残っています。新疆ウイグル自治区は中国の中の異国だと感じました。 

タクラマカン砂漠縦断ハイライト(その7)

 

10月22日(7日目)

 9時30分集合でカシュガルの市内見学です。最初にアパク・ホージャ墓を訪れました。16世紀の宗教指導者アパク・ホージャ一族のお墓です。モスクの彩色された柱には特産の柘榴の花、実のモチーフやオアシスの風景が描かれ、水やオアシスへの感謝の気持ちが込められています。

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薔薇園の廟には28歳で清朝乾隆帝に嫁ぎ、36歳で亡くなったウイグル女性香妃の棺が安置されています。アパク・ホージャ墓の外には聖人の近くに埋葬されたいと願った人々の墓地が沢山ありました。これらの墓地には墓標みたいのが有りません。子供の頃から毎週お参りに来るので、あえて名前等を書かなくても墓地の位置を覚えてえてしまっているからとの事です。

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次に新疆最大バザールに行きました。

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ドライフルーツ、カーペット、衣類、日用雑貨等が売られていて、干しぶどう、ソファーのカバーになりそうな布を2m(900円)、お菓子を購入しました。

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バザールの後は中国最大のモスク、エイティガール寺院です。内部には庭園や礼拝堂があり、イスラム教の祭日には2~3万人が訪れます。

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寺院の周りは職人街になっています。ウズベキスタンでも見かけたゆりかごが売っていたり、銅を扱う金物屋、ひょうたん製の民芸品、楽器、帽子屋等を職人さんが作っていました。

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14時に遅めの昼食を旧イギリス領事館で取り飛行場へ。17時10分の飛行機でウルムチに向かいました。窓からは天山山脈が眺められました。

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19時にウルムチに着き、夕食は羊のしゃぶしゃぶ食べ放題、飲み放題です。初日の飛行機の遅れで見学場所がカットされた代わりにこのような贅沢な夕食になりました。地元のワインも美味でした。22時40分ホテル着。

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写真はアパクホージャ墓のモスクの柱、棺を安置している建物、一般人のお墓、街角の帽子売りのおばさん、バザールの布屋さん(手に持っている布を購入)、お菓子屋さん、道端の果物売りのおじさん達、エイティガール寺院、礼拝所(樹ーたんの升目が一人分)、職人街の銅を扱う金物屋さん、肉屋さん、飛行機からの天山山脈、しゃぶしゃぶ食べ放題です。

 

タクラマカン砂漠縦断ハイライト(その6)

10月21日(6日目)
 一日かけてパミール高原のカラクリ湖までドライブです。お天気も上々で期待が膨らみました。カシュガルからパキスタンへと続くカラクルムハイウェイ(中パ公路)は13年の歳月をかけて1979年に完成。難工事で500人も犠牲者がでました。11月から4月の冬期は閉鎖します。

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 9時10分に集合。現地ガイドのトルスンジャさんも同乗し、道路工事の影響で12時間程の行程になるとの説明がありました。ポプラの防風林や田園風景を見ながら一時間強走り、中国最西端のウイグル族のウパール村の果物市場で小休止。

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この先からは遊牧民キルギス人の居住区となり、赤みがかった岩山の景色が続き、遠くには雪をかぶった山々も見られるようになって来ました。キルギス人は日本人と顔立ちが似ており、馬やラクダを使い、ヤクや羊を放牧し、テントスタイルの家に住んでいます。
 13時に検問所に着き、下車して一人ずつパスポートを提示して通過しました。この辺りから一昨日降った雪が薄っすらと残っていました。そんな中、自転車の欧米人を見掛けました。又、2016年完成予定の高速道路工事も進んでいますが、完成には程遠い進み具合でした。

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14時50分に標高3200mの水力発電人造湖、ブロン湖に到着して写真タイム。雪をかぶった山々に囲まれた絶景でした。

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 15時30分に最終目的地の標高3600mのカラクリ湖到着。コングール山(7719m)、ムズターグ・アタ(氷の山のお父さん、7546m)に囲まれたカラクリ湖はさらなる絶景で息を飲む美しさでした。ガイドさん曰く”このように山が美しく見える日は極々稀”との事。遅くなった昼食をゲルの中で頂きました。

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同じ道を引き返し返し、夕食の旧ロシア領事館に着いたのは21時45分。ホテル着は22時40分の13時間に渡る行程でした。
 ガイドのトルスンジャさんは流暢な日本語を話します。楼蘭学術研究に来ていた日本人のガイドをしたことから、その方に招かれ(全ての面倒をみてくれたそうです)宇都宮大学で日本語を学びました。自分が学んだ日本語を学校を作って教えたいのだけれども政府からの許可が下りない。でも僕は諦めませんと云ってました。
 写真はホテル前の広場の毛主席の銅像、ウパール村の果物屋、青空トイレ休憩、ゴロン湖、キリギス人集落、カラクリ湖で旅仲間と、ムスターグ・アタ山です。