風流人日記

医王整体院 院長のblog

心に響く本から感じる「時」の尊さ

今年出会った言葉から、、、

 あゝもう年末かぁ~と、毎年この時期になると思わず口走るセリフをこの年の瀬もまた呟いています。

 今年も数多くの出来事があり、その一つひとつが整理のつかないまま次々起こるので、頭は混乱するばかりです。

 それぞれの意味や問題点を深く考えることも大切なのでしょうが、どう考えてもそんな時間の余裕はありません。

 今回は今年読んだ本や出会った言葉を紹介しながら、その中に何らかの答えを探してみたいと思います。

 いや、答えなんてそう簡単に見つかるものではないことは重々承知していますが、混乱した頭に何かヒントになるものが欲しかったのです。

 

国会話法の正体」 藤井青銅

 今に始まったことではありませんが、昨今の国会答弁を聞いていると、「国民に誤解を招いたとすれば遺憾であります」とか、「丁寧に説明してまいります」とか、「適切な時期に適切に対応します」とか、あげればキリがないのでこれくらいにしておきますが、ひと言で言えば答えになっていない、人を小馬鹿にしたようなはぐらかしの答弁ばかりです。私たちは誤解もしていないし、丁寧な説明など聞いたことがありませんよね。このところ大騒ぎになっているパーティー券裏金問題では、ある議員は「読み上げますよ」と宣言して誰が書いたのか知れない言い逃れの紙切れを棒読みし、記者がそれに対する質問をすると、「質問しても何も言わないって言ってるじゃない。わからないの、頭悪いね」と、本当に人を小馬鹿どころか大馬鹿にした酷い会見を見て、空いた口が塞がらないほどでした。

 この本はそんな国会議員の話法を鋭く指摘し、さらに見ていて眠くなるような(主役の議員自身が寝ていることもよくありる)国会を、どうすれば面白く視聴率が上がるようなものになるかにまで言及しています。興味のある方はご一読ください。

 その中で興味を引いたのは、今の若者たちは他者との摩擦・衝突を避ける(自分が傷つくことを避ける)ために、はっきりとした表現を嫌う風潮があるというところでしたが、国会議員も自己保身のために曖昧な答弁に終始するのでしょう。

 批判とは物事を根源的に吟味することで、他者を悪く言うことではないとも書かれています。今の日本の閉塞感や社会の停滞は、言いたいことを言わず(言えず)、物事を深く考えずに過ごしてきたことが原因の一つではないかと思いました。

 

高橋源一郎飛ぶ教室

 あらゆる人を傷つけるウイルスをぼくたちはみんな持っているのです。誰でも自分は正しいと思って「ことば」を発します。それでもその「ことば」はどこかで誰かを深く傷つける。「ことば」という病菌を感染させないためには、よっぽどの意志と緊張を持たねければならない。

 

世界がひとつになりませんように峯田和伸

 ネットって最初のころはすごい楽しみで「あっ、世界が近くなる」「わからない世界が知れるようになる」ってワクワクしたんだけど、今はそんなにワクワクしない。広がると思ったのにどんどん狭くなっちゃって。バラバラだからおもしろい。バラバラだから広い。ひとつの意見、ひとつの考えになった瞬間に、その世界は狭く息苦しいものになってゆく。

 

東京新聞今週のことば」青山俊薫

 彼岸とは悲しみ苦しみの多いこちらの岸から、苦しみのない彼の岸へ渡すという意味を持っている。しかし此岸・彼岸は地理の問題ではない。一つのことをどう受け止めるかで、そのままここが彼岸にもなれば此岸にもなるのである。

 

人類はどこで間違えたのか」 山極寿一

 地球環境が限界に達した今、人間の足跡を検証し正しい道へと社会を向かわせなければならない。そろそろ過去の間違いを認め、共感力と科学技術を賢く使う方策を立てるべきだ。それには言葉の持つ力を正しく認識し、言葉以外の手段を用いた共鳴社会の構築を目指すことが必要だ。個人の欲求や能力を高めることよりも、共に生きることに重きを置く。管理された時間から心身を解放し、自然の時間に沿った暮らしをデザインする。所有を減らし、シェアとコモンズ(共有財)を増やして共助の社会を目指すことが肝要だ。間違いを認めず、いたずらに武力を強化して、再び戦争の道を歩むことだけは決してあってはならない。

 

ゆく川の流れは、動的平衡」 福岡伸一

 持続可能と聞くと、丈夫で長持ち、堅牢で強固なイメージだが、生命ははなからそんな選択を諦めた。そうではなく、むしろ自分をゆるゆる・やわやわに作った。そして常に分解し壊すことで自らを作り直す。 変わらないために、変わり続ける。壊すことは作ることよりも、実は創造的なのである。

 

 今年読んだ本から忘れないようにと備忘録に書き留めた言葉をみなさんと共有したいと思って書き始めたのですが、ついつい手が滑ってページの余白が残り少なくなってしまいました。これでもまだ一割にしか満たないのですが、残りは来年またぼちぼち書いていこうと思います。

 今年読んだ本の中で一番考えさせられたのは「時間」ということです。誰にも平等に与えられた時間ですが、環境によって、その時々の心のありようによって、長くも短くも感じられます。特に昨今の日本社会はスピードばかりが速く、振り返ってみると何も残っていないんじゃないかという気がします。そして自分は自分の時間を生きたのだろうかと。

 来年は社会のスピードに逆らって、自分一人だけでも自然時間で過ごしていきたいと考えています。たとえ世間に置いていかれても。

へいわって すてきだね

 へいわってなにかな。

 ぼくは、かんがえたよ。

 おともだちと なかよし。

 かぞくが げんき。

 えがおで あそぶ。

 ねこが わらう。

 おなかが いっぱい。

 やぎが のんびり あるいてる。

 けんかしても すぐ なかなおり。

 ちょうめいそうが たくさん はえ

 よなぐにうまが、ヒヒーンと なく。

 みなとには、フェリーが とまっていて、

 うみには、かめやかじきが およいでいる。

 

 やさしいこころが にじになる。

 へいわっていいね。

 へいわってうれしいね。

 みんなのこころから、

 へいわがうまれるんだね。

 せんそうは、おそろしい。

 「ドドーン、ドカーン。」

 ばくだんがおちてくる こわいおと。

 おなかがすいて、くるしむこども。

 かぞくが しんでしまって なくひとたち。

 ああ、ぼくは、へいわなときにうまれてよかったよ。

 このへいわが、ずっとつづいてほしい。

 みんなのえがおが、ずっとつづいてほしい。

 へいわなかぞく、へいわながっこう

 へいわな よなぐにじま、へいわな おきなわ

 へいわな せかい、

 へいわって すてきだね。

 これからも、ずっと へいわが つづくように

 ぼくも、ぼくのできることから がんばるよ。

 

 

 当時小学一年生の沖縄の安里有生少年が書いたこの詩に心を動かされて絵本を作った絵本作家の長谷川義史さんの言葉と行動が、今度は私の胸に響く。

 「いかなる理由があるにせよ、人々を殺し、傷つけることは まちがいです。平和のために戦いに行くなんて、そんなことから平和は生まれへんねん。」

 

 

 戦争というのは、ほとんどの場合、自衛という名目で始まるらしい。どこかの国が攻めてくる、じっとしていてはやられてしまう。だから守らなければならない。

 その懐疑心はどこから生まれるのだろう。

 他人の心はわからない。まして他国の思いを知ることはとても難しい。しかしどこの国のリーダーも一人の人間だ。

 同じ人間として互いを信頼することは、日頃から対話を重ねることでしか生まれない。

 考え方、生き方の違いは必ずある。違いを超え、互いの思いを尊重するためには、分かろうとする不断の努力が必要だ。下手をすると私利私欲の塊となる「自分」という枠組みを緩めることでしか、互いを理解することなどできない。

 

 安里少年のような邪念のない心を、人はいつどんな理由で失ってしまうのだろう。

 誰もが自分は可愛い。でもその可愛い自分を前面に押し立てていては、人との関係は決してうまくいかない。

 人間は弱いだ動物だ。一人では身を守ることができない。他者と協力しながらでしか生きられない運命にある。

 そのとき、自分を抑えて一歩譲る気持ちがなければうまくはいかない。相手の立場や思いを汲み取る必要があるのだ。

 ええ格好でもきれいごとでもない。そうしなければ人と人はうまくやっていけないのだ。そう思う。

 誰もが平和を望んでいると思う。でもそれは簡単ではない。

 なぜか、自分が可愛いからだ。可愛い自分をいつまでも平和な世界に身を置きたいのなら、そんな可愛い自分の欲望を少し抑えなければならないという矛盾がある。

 「みんなのこころから、へいわがうまれるんだね」

 安里少年は、幼い心でそれをわかっていたのだと思う。

 

 今から78年前の今日、一発の原子爆弾により、十数万ともいわれる貴い命が失われました。 核兵器によってもたらされた広島、長崎の惨禍は決して繰り返してはなりません。我が国は引き続き非核三原則を堅持しながら、唯一の戦争被爆国として「核兵器のない世界」の実現に向けた努力をたゆまず続けます。

 これは今年の終戦記念日に岸田首相が話した言葉だが、ここに他者を思いやる気持ちを私は何も感じない。こんな上辺だけの言葉で平和を築くことはできないと思う。

 いったい自分には何ができるだろう。

 そんなことを、ことさら暑い今年の夏も考え続けている。

 

 



宇宙開発とゴミ

 ロケット開発や宇宙開発はいったい誰のためのもので、その目的は何だろう。

 これまで漠然と感じていたそんな疑問が、このところ続いている日本のロケット打ち上げ失敗のニュースを聞いて、改めて自分の中で膨らんだ。

 それは失敗したことを叱責したいわけではなく、莫大な費用を投じて開発を続けるのはどういう意味があるのかということである。

 そして疑問を膨らませたもう一つの要因は、海に落下した機体を回収しないでそのまま放置するという事実を知らされたからだ。

 人間のやることだから失敗することもあるし、「失敗は成功のもと」とも言うからそこを責めるつもりはないのだけれど、打ち上げに失敗して海に墜落した場合には当然回収することだと思っていたのだ。それだけにこのニュースには些かショックを受けた。

 日頃から、地球環境を汚染しないようにゴミを減らそう、海洋生物を守るためにプラスティックごみを出さないようにしよう、CO2の排出を規制しようなどと世界的に環境保全が謳われ、われわれ一般市民もそのことを意識しながら小さな努力を積んできたはずだ。

 それなのに、これほどの超大型ゴミを海に放置してしまうというのはどういうことだろうか?

 巨大な金属の塊が半永久的に海の底に置き去りにされるというだけでも驚くが、その中には海洋の汚染につながる燃料や有害な化学物質が含まれているのではないのだろうか。

 いくら海は広いといっても、それが海洋生物や、ひいては地球全体のあらゆる生物に影響を与えることはないと言い切れるのだろうか?

 大量生産・大量消費で、われわれの日常生活から出る僅かなゴミでさえ、積もり積もっていまや簡単に処理できないほどの膨大な量になっているのだ。

 人類の文化の発達、文明の進歩と言いながら、それが自分の足元を汚しどんどん環境破壊をしていることの矛盾を感じざるをえない。

 

 宇宙開発について調べてみると、ある工学系の大学のWEBサイトには次のように書かれていた。

 宇宙開発は、科学的技術や知識の向上が期待できます。

科学的技術が向上することで、人類の生活に活用できるメリットがある反面、デメリットとしては、宇宙にロケットや人工衛星を飛ばすことで、「スペースデブリ」と呼ばれる宇宙ゴミの増加も問題視されています。

 また、宇宙開発のために研究した技術が、テロなどに悪用されるリスクもあるでしょう。

 

 書かれているように、地球上の問題だけでなく、宇宙にまでゴミの問題が拡がっているようだ。

 僕だってまだ好奇心は失っていないつもりだし、未知のことを知りたい見てみたい気持ちはある。中でも生命の起源や宇宙の仕組みには、とても興味がある。そして気象観測などロケットや人工衛星によってもたらされる恩恵を否定するつもりはない。

 でも、地球を汚したまま宇宙に行くなんて、ゴミで溢れた自分の家を掃除もしないで放ったらかして、きれいなホテルに泊まりに行くようなものではないか。

 昔から言われてきた「飛ぶ鳥、跡を濁さず」という言葉はもう過去のもので、現代社会では「飛ぶロケット、落下物は海に放置」で良いのだろうか?

 宇宙人からこんな声が聞こえてきそうだ。

 「争いばかりして自分の家を住めないほど汚したり壊す人間たちに宇宙に来てもらいたくないなあ!」

 

 

 これは宇宙開発について何も知らない素人の素朴な(なんていうと聞こえがいいが、ただのモノ知らずとも言える)疑問としてお読みいただければ幸いです。

 北朝鮮が頻繁にミサイルを発射させては海へ落下させていることは論外としても、全世界をあげてSDGsや循環型経済が謳われる昨今、どなたか宇宙開発の意義や、このゴミ問題をどう考えればいいのか教えてください。

 ドラマ「相棒」で水谷豊さん演じる杉下右京のように、

「細かいことが気になってしまうのが、僕の悪い癖でしてねぇ〜」。

ふたつよいこと さてないものよ

 いやぁ、まったく気の許せない一年だった。

 新型コロナの収束も目処が立たない窮屈な状況の中で、これでもかと次々起きる事件に事故に不祥事。

 その一つひとつに驚いたり憤ったりしているうちに、気がつけば今年も終わろうとしている。

 「今年の漢字」がたしか「戦」だったと記憶するが、個人的にも沸き起こる己の感情との「戦」に終始した一年だった。

 怒りや不安といった負の感情が免疫力を低下させることはわかっていたから、できるだけ笑って過ごすよう心がけていたが、それでもやはり怒りの感情のパワーは強力で、鎮火するのは並大抵ではなかった。

 幸い、行き場を見失った彷徨う心を正気に戻してくれることも数え切れないほどあった。そのおかげで免疫力を適切に保つことができて、コロナにも感染せずに済んだのだと思う。

 心の通う人との出会い、対話の中からの気づき、温かい心に沁み入る言葉、偶然にも出会えた美しい風景、心のこもった贈り物、、、。

 それらすべてが健康を保つ力となった。 

 

 苦しいときには、河合隼雄先生の「二つ良いこと、さて無いものよ」という言葉をつぶやきながらやり過ごしてきたが、これは良いことずくめなどということはまずないが、悪いことばかりも続かないことを示唆していると思う。

 世の中は絶妙なバランスの上に成り立っているのである。嫌なことが続いても、それを打ち消す喜びを見つける心の目を持っていれば、なんとか乗り越えられるのではないだろうか。

 先行き不透明、前例のない、答えのない未来を我々は生きていかなければならないが、どんなに科学や情報技術が進歩し便利に簡単に人と人が出会うことができようとも、相手の息づかいを感じる距離での温かい血の通った生(なま)の人間同士の交流に勝る、生きるための力はないと痛感する。

 

 かつてお釈迦さまは亡くなる前に、頼りにしていた師を失うことを不安がる弟子たちにこう言われたそうだ。

「汝自身を拠り所(燈明)にせよ」

「その汝の感じる世界の在り方(法)を拠り所にせよ」

 これが「自燈明、法燈明」という言葉で現代に語り継がれている。

 私はこの言葉を知った時、自らを拠り所にせよと言われてもなあ、こんな頼りない自分なんて当てにしているとロクなことにならないなどと思った。

 しかしお釈迦さまが伝えようとされたのは、拠り所にできるような私、つまり「よく調った自分」になるよう日々努めなさいということだと理解している。

 そのために「瞑想」をしながら自己を調えるわけだが、凡人がそう簡単に悟りをひらくことなどできない。

 わかったようで一番わからない自分を知るには人と交わることだと思う。他人は自分を映す鏡だという。

 出会う人、もの、自然界から自分を知り、自分を調えていきたい。

                

 今年いただいた僥倖の一つひとつを振り返り、感謝しながら、この年を締めくくろうと思う。

 支えてくださった皆さん、本当にありがとうございました。

 

新・新しい生活様式

 コロナ第7波の勢いが凄い。 このままどんどん感染経験者が増えてほとんど(何割かは分からないが)の人が自然に免疫を持つようになり、このウイルスによる疾病が人間社会に定着していくのではないかと思う。 

 新型コロナが安全だと言っているのではない。病気に安全な病気などない(意味はあると思う)。どんな軽い病気でもヘタをすると重症化して死に至る可能性はある。 つまり新型も含めて病気というものは自然現象の一つであるのだから、注意をしながらも共に生きていくしかないということだ。

 生老病死」の一つである病気も、地震や台風と同じように自然の営みの一つであるのだから、完全に排除することなどできない。 おそらくこれからも人類にとっては新しいウイルスや病気が次々と襲ってくるだろう。しかしその一つ一つは受け入れていかざるを得ないのだ。

 それよりも大事なことは、人間の行いの結果起きている自然環境の悪化を考えることだと思う。 二酸化炭素の過剰な排出、それによる環境の汚染、温暖化、戦争、、、、。 これらは原因が明らかである。自分さえ(人間さえ)良ければといういわゆる私利私欲が高じて他から搾取し、他を排除する。その結果、自分たちの住む場所を自分たちの手で汚し壊しているという愚かな行為だ。 なぜ人間はそのことに気づかないのだろう。

いや、気づいていても止めることができないのだろう。 どこまでも成長と利潤を追い求める資本主義経済というシステムの宿痾と言わざるを得ない。 このシステムから脱却しない限り、この問題は解決しないと思う。 いや、もはや解決しないなどと悠長なことを言っている場合ではないのだ。 このままではこの地球は人間どころか多くの生き物が住めない星になってしまうのだ。 愚かな人間のために、人間と共に絶滅してしまう動物もいれば、人類なんかよりももっと高次の生物が地球を支配する時代が来るかもしれない。 自分たちは万能だと思い上がっている人類が、実は地球上で最も愚かな生き物ということかもしれない、、、。 

 

 こんなことを考えていると、沸々と悲しみと無力感が湧いてくる。 でも悲しんでいるだけではいけない。自分たちの世代が仮に生き残れるとしても、次の世代の人たちにこのままの状態を引き渡さないよう行動を起こさなければならない。 どんな社会システムが環境を守れるのか、どんな生活様式にすれば地球上の全ての生き物の営みが持続できるのか、私には分からない。 おおよそ考えつくことは、自然は人間の都合に合わせてくれるほど優しくはないのだから、自然に合わせて生きることが正しいのではないかということだ。 大量生産、大量消費、大量廃棄という今のシステムを変えない限り、環境破壊は止まらない。

  それを止めることなど一人の人間がどんなに頑張ってもすぐにできることではないが、いま確実にできることといえば、人間の都合で作られた無駄なものを買わない、相手(人も地球も含む)の身になって行動する。 できる限り自然を破壊する行為に加担することをやめ、自然と調和した生き方に変えていく。 

 これくらいしか思いつかない。

 

誰でも自分は可愛いし、美味しいものを食べ、欲しいものを買 い、欲求を満たしたい。これを改めるということは、欲望との戦い、とても辛い修行生活のように思うかもしれない。 

 でも実際に自然に合わせた生き方をすることは、意外に快適かもしれない。それほどの禁欲的生活ではないかもしれない。  自然は災害など過酷なところもある反面、多くの恵みをもたらしてくれる。 そのことに気づき、自然の営みを尊重しながら生きていくと、よりたくさんの幸せを感じられるのではないだろうか。 

 人間とは習慣の生き物である。日々テレビで美味しそうな(季節外れもある)食べ物を見せられたり、これを毎日飲めば痛みがなくなるというサプリメントを大音量で勧められたり、この便利グッズがあると楽で快適な生活が送れますよと呼びかけられると、なんの疑問も持たず当たり前のことのように欲しく思ってしまうものだ。 でも今ちょっと立ち止まり、それがどんなふうに作られているのか、環境への影響はどうなのか、本当に必要かを考えることから、自分の消費生活を見直すだけでも、良い方向へ変化していくのではないだろうか。 コマーシャルという一種の洗脳で麻痺してしまった頭に、そんな違和感を感じる心を取り戻さなければならない。 

 新型コロナの感染が世界中に広まり始めた当初、頻りに「新しい生活様式」ということが言われた。 あれから2年半が過ぎてもコロナは収まる気配はないが、せっかくならこの際、ただ感染対策として生活様式を変えるのではなく、地球環境問題に対応する生活様式に変えることが必要なのではないだろうか。 つまり、過剰な欲望を抑え、自然に抗わず風流に生きるという生活スタイルに。

 体と心の健康に携わる立場から言えば、健康に過ごすということは、自然との調和を保ちながら暮らすことだと思う。