風邪と、『ぼざろ』と、ヨン・フォッセと。

ゴールデンウィークはどこも混むし、と思って毎年あまり遠出とかしないのだが、今年はそれに輪をかけて、終盤になって風邪を引いたのでどうにもならない感じになった。発熱はないものの、汚い話、花粉症シーズンでもこうはならんよというぐらいに鼻汁が止まらなくなり、10分に1回は鼻をかむような、日常生活にも支障をきたすぐらいで。鼻に直接シュッと吹き込む点鼻薬というものを生まれて初めて買い、これならば効くのではないかと試したところ、てきめんに効いてはくれたが、2時間ぐらいしかもたないので、「適用間隔は3時間以上おいてください」と書かれているのを頑なに守りつつ、3時間経過するや否や即シュッとする日々を送った。

そんな状態で本を開いても全然集中できず、やれることは「映像を見る」ぐらいしかなくなり、『ぼっち・ざ・ろっく!』を夫婦で全話見ていた。ソロのギター動画を上げているネットでは人気があるが、実社会だと陰キャでぼっちな後藤ひとりが、ふとしたきっかけでバンドに入り、少しずつ日常が変化していく物語。きららアニメだが、過度にきらきらはしておらず、テンポも良くて見やすい。

自分は放映時にリアルタイムで見ていたので2回目、かつ、アニメ終了後に原作既刊も読んだ状態。その状態だと、あのキャラがここで実はもう出ていたのか、とか、ここで伏線になってたのか、とか、きくりが後藤の「ぼっち」呼びをどこで知ったんだ、とか、気付きが増えて楽しい。なお、きくりは原作でもいつの間にか「ぼっち」呼びになっており、経緯は謎に包まれているらしい。楽曲理解も進んでいるため、この場面であの曲が、この曲が、みたいなのも1周目とは違う感慨がある。結束バンドとして最初のライブで披露するのが『あのバンド』かぁ、みたいな。

ストレスがないアニメだな、というのが改めて大きかったのだと思う。ぼっちが陰キャでコミュ障であることを、否定的に描くわけではない。無理にコミュニケーションを取ることを是として、周りが促したりするわけでもない。さすがにライブハウスでドリンク売るときに顔を出さない、というレベルだと「お客さんに失礼でしょ?!」というツッコミは入るが。メンバーは後藤の欠点よりも長所に目を向けて、ラストの文化祭ライブでは彼女を前面に出して行こうとしてくれるし、演奏も見事に成功する、が、その後ぼっちの空気を読めぬ客席ダイブで台無しになりオチがつく、あたりのバランス感。一気に変わって行くわけではなくて、一歩進んで二歩下がったりもするような、ゆるやかな変化を描いて行く物語だな、と思う。全体を通した最後の台詞が、後藤の「今日もバイトかあ」という独り言なのが、たまらなく好きだ。よりによってサービス業のバイトに就いてしまった彼女が、それを日常の一部として受け入れたかのような、無自覚な変化をすごくよく表せている。

1周目の感想は 『恒星』と、アフターダークと。 - the world was not enough に書いている。

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風邪を引く前はこのあたりを読んでいた。

ヨン・フォッセは2023年のノーベル文学賞作家で、彼の邦訳単行本としてはこの『だれか、来る』が初めてのものであり、発売は受賞後の2023年12月だったらしい。買ったのは発売直後ぐらいの昨年末で、紀伊国屋書店の新宿本店を訪れたところ、うず高く積まれていて、目を引いたのを覚えている。

当たり前のような感想になるが、元は演劇なので、実際に演劇の形で見てみたいな、という気になった。登場人物は「彼」「彼女」「男」だけ。「彼」と「彼女」は他の人々から遠く離れた一軒の家を手にし、二人だけで一緒になれる場所として引っ越してくるが、そこにどこからともなく「だれか、来る」という不安が「彼女」へ押し寄せてくる。大きな起伏があるストーリーではない。彼らがなぜ二人きりになりたいのか、「だれか、来る」ことがなぜ不安なのかも細かく語られるわけではない。希望からの不安、不安からの齟齬。ただ情景と会話と、そこから読み取れる心情だけ。

フォッセの演劇では、既存の“演じる”演劇とは、対極にある世界を生み出している。従来の舞台では、役者が出てきて自分はどこにいて、だれを演じるのか、何を伝えたいかを明確に知らせてくれる。そして、信条や感情を強く前に出して表現する。観客は、舞台で語られ演じられるテーマと向かい合い、自己の意見や立場を定義づけてゆく。だが、 フォッセの世界は、まったく異なっている。 フォッセは、いまだ実現されていない何かを模索して、言葉で言い表せないものに言葉を与えようとしている。 (Page 181 訳者解説)

本で読んでいても、もちろん目の前に浮かぶものはあり、そこから感じるものも小さくなく、面白くは読めたのだが、こういった類いの作品は演劇で、役者の動きや表情、あるいは舞台上の空間という、目に見える大きな余白が、こちらの思考をさらに進めてくれる部分があるように思うのだ。ヨン・フォッセ、国内でも演じられたことはあったようだが、これから機会は増えてくるだろうか。

togetter.com

アンドリュー・スチュワート『情報セキュリティの敗北史』は、今はなき東急百貨店渋谷本店のMARUZEN&ジュンク堂書店で最初に見かけた。読みたい、と思いながら買わずにいたのだが、今年になってバズった。この手の本はそこまで刷られてないことも多く、一時在庫が払底することもありえるのでは、と急に不安になってhontoで取り置きしてもらい、無事に手に入れている。取りに行ったとき、カウンターの奥には同じく取り置きされたこの本があと2冊ほど並んでおり、みんな同じことを考えたようだった。幸い、その後も増刷がされているようだが。

まだ読み終えてはいないが、これは確かに面白い。自分が情報系の職種に就いている故に関心が強い、というのもあるとは思うが、そういったバックグラウンドを持っていなくとも面白く読めるのではないかと思う。実際のところ、専門用語には細かく説明が入っており、おそらくは専門職だけに向けられた本ではなさそうだ。「史」というだけあり、話は世界初のコンピュータとされるENIACの誕生から始まる。それから一体どの段階で、なぜセキュリティの問題は生まれたのか。今日ではコンピュータとセキュリティは切り離せないものだが、コンピュータの誕生時点からそれが問題としてそこにあったわけではない。まるで無から生まれたように、セキュリティという概念が生まれる様を見る、という機会は意外とこれまでになく、そそられる。

その後は敗北史だ。問題に人々は如何に対処し、そしてまた新たな問題がどのように生まれてきたのか、という、いたちごっこのような歴史が年代を追って紐解かれて行く。それは単に技術的な問題だけにとどまらない。よく言われるのが「セキュリティは利便性とのトレードオフ」という話であり、例えば最近一般的になってきた二段階認証は、セキュリティを向上させるものの、ユーザーには面倒を強いる機能の典型だ。セキュリティをただ強化しても、それがすんなりと受け入れられて行くわけではない。効果的にセキュリティへ対処していくには、ミクロにもマクロにも心理学や行動経済学の視点が確実に必要になってくる。本書で編まれるのも、そういった複雑化した歴史だ。結局のところ、セキュリティの問題を生んでいるのは人間、ということになるのかもしれない。