Nowhere Man's Side

何者でもない人達へ

想像と才能

自然に輪郭は存在しないが、想像にはそれがある。

ウィリアム・ブレイク「芸術の意味」)

 

自然はただの辞書にすぎない。

ウジェーヌ・ドラクロワ「日記」)

 

自然を汝の師とせよ。

ウィリアム・ワーズワース「忠告」)

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才能について語る時、私たちはまず「才能における評価の対象」について議論しなければならない。昨今、特に個性の重要性が主張されるようになった。個性の乏しい人間は一部の社会から疎外され、憂き目にあうほどで、その競争はますます激しくなっている。それは個人の能力が尊重される社会であることを示唆しており、今まで散々虐げられてきた「禁忌の題材」を多くの人々が寛容に取り扱うことのできる素晴らしい時代であるのかもしれない。しかし、それは才能の評価が「正当」になされていればの話である。

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限りある人生において「個性の尊重」は、幸福な人生を送るためにどの時代でも重要な位置を占めていた。自身の制作した作品が、あるいはまた作物や思想が、自分以外の多くの人々によって認められ、さらに権威ある人々や名も知らない人々に賞賛される人生は、何ものにも代えがたい「喜び」がある。作者は才能が認められることで、後世にまで語り継がれる「名声」を手にする。それは形あるものではないが、過去の人生の全てが間違いではなく、正当であったという何よりも力強い証明となり、これから過ごす人生において不純な迷いを一切捨てることのできる「自信」となる。

自身の才能を信用して迷いなく生きることのできる人生は、今後あらゆる障壁が目の前に立ちはだかろうと、それをのり越えていくことができる。彼らは間違いなく、人生における目的のひとつを果たしたのであり、最も重要な精神を、つまりは「勇気」を獲得したのだ。私たちが作品を評価する時、作品そのものの造形の美しさや社会への影響力もさることながら、作者の「誇り高き精神」を讃えていることも記憶しておけなければならない。

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作品を正当に評価するにあたり、重要な要素とは「造形」と「社会への影響力」と「勇気」の三点である。第一に「造形の正当性」は、面や線、色彩、構図、質量、質感といった理性的な判断によって評価される。第二に「社会への影響力の正当性」は、常に抑圧する概念として存在する社会への批判として、人々の感性の訴えを描きだすこと、その正確さと感情の豊かな描写によって評価される。第三に「勇気の正当性」は、最善なる精神の出現を促すこと、その徳の偉大さや知性のさらなる発展の可能性によって評価される。つまり、あらゆる作品は「理性」と「感性」と「知性」の三点によって正当に評価されなければならない。

以上の三つの異なる性質を評価する時、はじめて「個人の才能」は人々の正当なる判断によって評価される。そして、理性と感性と知性を同時に刺戟する作品は、実存する自然の背景を凌駕した「詩作品」と呼ばれる。そして、私は全く新しい概念として提唱するのだが「詩作品」を生み出した人々を、天賦の才能を有した「天才」として認めることをここに宣言する。

結晶魔術的性質

 

 

言葉!ただの言葉!その言葉の怖ろしさ!明晰さ、なまなましさ、残酷さ!誰も言葉から逃げおおせるものはいない。しかもなお、言葉にはいいしれぬ魔力が潜んでいるのだ。言葉は無形の事物に形態を付し、ヴィオラリュートの音にも劣らぬ甘美なしらべを奏でることができる。ただの言葉!いったい、言葉ほどなまなましいものがほかにあるだろうか。(オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』)

 

 

すなわち、踊り子は、踊る女ではない。それは次のような並置された理由による、すなわち、彼女は一人の女性ではなく、我々の抱く形の基本的様相の一つ、剣とか盃、花、等々を要約する隠喩なのだということ、そして、彼女は踊るのではなく、縮約と飛翔の奇跡により、身体で書く文字を用いて、対話体の散文や描写的散文なら、表現するには文に書いて幾段落も必要とするであろうものを、暗示するのだ、ということである。(ステファン・マルラメ『ディヴァガシオン』)

 

 

ねえ、きみ、きみはいったいそれを知っているのだろうか、きみはそれを理解しているのだろうか。それともきみは、薄々は感じているのだろうか?きみの学んできたことなど、まるで子供だましの、葦の茎のように、脆くはかないおもちゃであることを。心で憶えたことなら、それはきみの翼となって、きみは今すぐにでも空よりも高く飛び去るのだろう。けれど体に染み付いてしまったことなら、それはきみにとって、背負わされた重荷でしかないだろう。かみさまだってこんなふうに言っている、「書物を運ぶろばよ、あわれなものよ」と。けれどかみさまのこぼす、あわれみなどには背を向けて、重荷を運び続けるのも、それはそれでわるくはない。無心に、ただひたすらに歩いて行けば、きみはいつか、辿り着かずにはいられないだろう。そのとき重荷は取り去られるだろう、そこで初めて、きみは歓びの何たるかを知るのだろう。それを知ることなしに、どうして自由になれるだろう?きみというきみの全てが、それのしるしそのものだというのに。きみが見ているそれ、感じているそれを、人はまやかしと呼ぶだろう。けれどまた同時に、まやかしほどに真実へと至る道を知らせるものはない。いったい、リアリティを含まないファンタジィがあるだろうか?それとも、きみは「薔薇」という文字から花を摘めるのか?きみはその名前を知ってはいるだろう、だがそれだけで、きみはほんとうに「薔薇」を「知っている」、と断言できるのか?名前の背後に何が隠されているのか探すといい。月はいつでも空にある、水面に映るのはただの影に過ぎない。きみはきみの心ひとつを信じて行け、全ての偏見、全ての誤解、全ての常識からきみ自身を無垢にして。きみの心の中には、全ての知識がすでに用意されている。それを信じて歩め、書物を捨てて、理解を捨てて、学んだ全てを捨てて。(メヴラーナ・ジャラールッディーン・ルーミー『精神的マナスヴィー』)

 

 

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   結晶の放つきらめき

 

 

生涯にまで及ぶ青春を駆け抜けて、驚異の世界を作りだした人たちがいた。彼らの作り上げた緻密で魅惑的な世界を称えて、僕たちは驚異と魅惑に包まれた人たちを「天才」と呼ぶことにした。彼らは結晶のように緻密で繊細で、多面的な性格を有していた。点と点が線で結ばれ、未だかつて見たことのない、美しい幾何学模様が浮かび上がっていた。心や身体とも違う、それはまるで心臓の鼓動に共鳴する、あの青く気高い魂に似た「無垢な結晶」を、新たに構築しているように見えた。

 

 

「天才」の定義を辞書に載せるなら、僕は「全く新しい言語を作りあげた人たち」と表現するだろう。全く新しい言語を作り上げること、それは日本語やフランス語のような意思疎通をするためのコミュニケーション言語やコンピューターを動かすためのプログラミング言語ではなく、もっと本質に根付いた言語形態を指している。それは記号としての言語、つまりエリクチュール(宙に線を引くこと)としての言語を指している。だから、芸術家であっても、スポーツマンであっても、舞台役者であったとしても、言葉を扱う職業にとらわれず、全く新しいエリクチュールをテクストに描いていれば、彼らを「天才」と呼ぶことができる。

 

 

天才と呼ばれる人にはじめて対面した時の衝撃は、どんな言葉であっても表現することはできない。僕たちはまるで言葉を奪い去られたような感覚に陥り、その驚異の最中、じっと目を見張り、認知不可能な存在にただ圧倒されるばかりである。なぜなら彼らは全く新しい言語を作り出したのだから、言葉に惑わされ、言葉によって規定されてきた凡人たちに、天才を理解することは到底不可能な話なのだ。

結晶化する言語について、あるいは輝ける天才(テクスト)の青春について

 

 

結晶体のピラミッドが隆々と浮かび上がるのを僕は見た。それはひたすら美しい光景で、記号としてイメージを保っていた言葉は崩壊し、結晶が飛び散っていく光景にただただ茫然としていた。青く透き通った結晶体は、驚くべきことに電気信号のように意識を送り出すと、ぎらりと発光して内側から新たな結晶体が芽生えてくるのだった。(ある日見た夢の記録)

 

 

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”結晶化と三角形の記号”

 

 

   結晶化する言語

 

 

言語を観察していると、まるで「結晶体のような運動」が見られる。それは線と面と色価の織りなす幾何学の運動」と同様のものだった。古代ギリシャ時代、三大哲学者であるプラトンは学術アカデミー「アカデメイア」を建設した。ソクラテスに師事し、アリストテレスを弟子としたプラトンは、アカデメイアの入門者に「幾何学を知らぬものは入学を禁ずる」と伝えた。様々な諸説は存在するが、僕は幾何学とは「世界を知るために基本的な術である」からだと思う。人間は全ての物体・現象を「記号」として認識しているに過ぎず、点と線によって構成される記号は、幾何学の構成と全く同一である。つまり、記号の中に意味を付け加える人間の性質から考えて、幾何学を知らなければ、一切の知識は意味(表象)を見ているだけに過ぎず、その下に隠れている「物事の本質」を理解することは到底「不可能」であるということになる。

 


 


「学術」を身につけるためには「言葉」を扱わなければならない。「言葉」を扱うためには「幾何学」を知らなければならない。「幾何学」を知るためには「意味」に囚われてはならない。「意味」に囚われないためには「記号」見つめなければならない。「記号」を見つめるためには「線」を辿らなければならない。「線」を辿るためには「想像」しなければならない。「想像」するためには「自然」に身を委ねなければならない。「自然」に身を委ねるためには「鳥の言葉」を理解しなければならない。「鳥の言葉」を理解するためには「祈り」を捧げなければならない。「祈り」を捧げるためには「神」を信じなければならない。「神」を信じるためには「自分」を感じなければならない。「自分」を感じるためには「死」を通過しなければならない。「死」を通過するためには「光」を失わなければならない。「光」を失うためには「暗闇」に身を潜めなければならない。「暗闇」に身を潜めるためには「意識」を崩壊させなければならない。「意識」を崩壊させるためには「魂」を目覚めさせなければならない。「魂」を目覚めさせるためには「音楽」を奏でなければならない。「音楽」を奏でるためには「線」を描かなければならない。「線」を描くためには「エリクチュール(宙を舞うこと)」を描かなければならない。「エリクチュール」を描くためには「踊り」を踊らなければならない。「踊り」を踊るためには「線」を引かなければならない。「線」を引くためには「沈黙」しなければならない。「沈黙」するためには「陶酔」しなければならない。「陶酔」するためには「美」を観照し続けなければならない。「美」を観照し続けるためには「幾何学」と一体化しなければならない。「幾何学」と一体化するためには「呼吸」を落ち着かせなければならない。「呼吸」を落ち着かせるためには「瞑想」をしなければならない。「瞑想」をするためには「三角形」を築かなければならない。「三角形」を築くためには「足」を組まなければならない。「足」を組むためには「線」で支えなければならない。

 


 

 

つまり僕が言いたいのは、天才(テクスト)とは「結晶化した言語」であるということなんだ。言語同士の結びつきが意識(記号)の集合体となって結晶化する。その結果、全く未知の新しい言語が生まれてくる。人々はその美しい光景(結晶作用)を目にして、彼の天才性を賛美する。天才は決して科学では解明することはできない。言語を解明するためには、対話(記号同士を結びつける行為)を繰り返す以外に術はない。だから僕たちは音楽を奏で、踊りを踊り、線を描いてきた。幾何学が世界の理であるのなら、その歴史はこれからも続いていくことだろう。

ポートレイトには被写体との「熱い愛なざし」が交わされている。

彼は、その人たちに自分の眼差しを贈っていた。

『内なる静寂』

 

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ポートレイトは難しい

写真の最も一般的な使い方に、被写体に人物を写す「ポートレイト」という撮り方があります。最近ではセルフィー(自撮り)が単語として新たに登録されるなど、ポートレイトは今まさにホットな写真となっているようです。なぜ人がポートレイトを撮るのか、その理由は様々ですが、荒木経惟森山大道ブレッソンのように時代に名を残してきた写真家はポートレイト写真こそが最も難しい、とインタビューで答えていました。

 

緊張する視線

ポートレイトには必ず、写真家自身と被写体となる相手が、面と向かって対面している必要があります。たいていの場合、彼らは全くの初対面で、相手の素性をほとんど知りません。そんな時、人は相手を信用する前に「疑いの視線」を送ります。「この人は一体、誰なんだろう」と。そこで写真家は、緊張した視線を送ってしまうと、間違いなくその写真は、緊張した顔が映し出されてしまいます。ここにポートレイトの難しさが現れてくるわけです。写真はただ正面の世界を切り取るだけの道具ではありません。写真は絵を描くのと変わらず、写真家自身が緊張すれば緊張した写真が、苦しければ見ているだけで苦しくなってくるような写真が写し出されます。こうした現象は僕たちが言葉を話す時も同様です。人が誰かに向けて話をする時、その話の内容は必ず自分が気になっていることを話しているように、写真においてもその当時の感情(時間)が、目の前に描き出されてしまうのです。それでは一体どうすれば、自然な無理のないポートレイトを撮ることができるのでしょうか。そのためには被写体を写すのではなく、被写体を通して自分自身を写すことが、何よりも重要になってきます。

 

交差する、熱い眼差し

ポートレイトは相手の顔を記録として残す写真なのに、どうして写真家自身を写さなければならないのでしょうか。なぜなら、写真を撮るということは、どうしても写真家がカメラのシャッターを切って、被写体を写さなければならないからです。つまり、写真は自分と被写体とが存在して初めて成立する、対話であり、贈与であるため、写真家自身の描き出されない写真は「不自然なもの」となってしまうのです。

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この写真は荒木経惟さんの「さっちん」という写真集に掲載されている有名な一枚です。この写真は疑うまでもなく、子供達のパチンコの先には荒木経惟自身が写っています。子供達の視線に注目してみてください。子供達は明らかにカメラを通して荒木経惟に視線を送っています。それに対して荒木経惟はやはりカメラを通して、子供達に視線を送り返しています。この間には視線と視線の熱い交差が生まれ、意味のある写真が描き出されています。これは視線と視線による贈与と返還に他なりません。

 

必然的に描き出されるポートレイト

写真家がカメラを通して被写体を写す時に、写真家と被写体との間には「何かしてやろう」という視線による意思の交換がなされます。それぞれの意思はカメラを通して一つの意識(センス)として空間に形成され、彼らの間には風景として存在する以上の、何か「意味のある写真」が描き出されます。このように自然で無理のない、つまり演出されていない偶然と偶然の織りなす必然のポートレイトは、写真家自身を被写体の中心としておくことで描き出される「ほんの一瞬の芸術」なのです。

 

 

こころの眼―写真をめぐるエセー

こころの眼―写真をめぐるエセー

 

 

 

ポートレイト 内なる静寂―アンリ・カルティエ=ブレッソン写真集

ポートレイト 内なる静寂―アンリ・カルティエ=ブレッソン写真集

 

 

 

逃げ去るイメージアンリ・カルティエ=ブレッソン

逃げ去るイメージアンリ・カルティエ=ブレッソン

 

 

写真におけるセンスは、幾何学的センスにある。

アンリ・カルティエ=ブレッソン

フォルム上の構図を厳格に築かなければ、被写体のアイデンティティの全てを見せることはできない。私にとって写真とは、面と線と色価が織り成すリズムを、現実の中で認識することだ。

 

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決定的瞬間

ブレッソンにとって、写真は「幾何学」そのものでした。
フランス20世紀の偉大な写真家として名を残した、アンリ・カルティエ=ブレッソンは「決定的瞬間」という作品を残し、写真に必要なセンス、それは幾何学であると言い放ちます。瞬間を切り取った写真を「意味づけて」見せるためには、ファインダーを通して切り取る世界に、自分もまた関与していると肌で感じること。そのために必要なのは集中力、感情と感覚のバランス、そして幾何学のセンスだ、と語っているのです。そこで疑問になってくるのが、何度も強調して必要と語る「幾何学」とは一体どんな学問なのか?ということだと思います。もし写真と撮る上で、幾何学をマスターしていれば、ブレッソンのようにセンスあふれる写真が撮れるに違いないと踏んだ僕は、早速、幾何学について学んでみることにしました。

 

幾何学と写真の関係性 

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幾何学とは数学の分野の一つであり、対称的な図形を用いながら、中心を描き出す、あるいは中心からの広がりを予測する公式である、と僕は認識しています。幾何学の歴史はとても古く、その考察は古代ギリシア時代から熱心な学者たちによって研究されていた、と推測されています。有名な学者にはタレス、ピタゴラスユークリッドデカルトオイラーアインシュタイン、とそうそうたるメンバーが集結していました。そんな彼らを魅了した幾何学は、なぜ現代に至るまで解明が続いているのでしょうか。なぜ天才たちは幾何学に魅了されたのでしょうか。それは幾何学が世界に対する認識を変えてしまうほどの真理であるからだと考えられます。

幾何学的視点を持つことは、いかなる学問を学ぶよりも重要なことでした。なぜなら幾何学的視点を用いることによって、全ての現象に存在する中心を認識することが可能になるからです。つまり、人間の創造や宇宙の創造さへも幾何学的視点を用いれば、中心を発見して、そこに存在するであろう「核」を予測することが可能になるということです。これは写真を撮影する上でとても重要な概念でした。美しい写真には必ず集中する視点が存在します。写真だけには限りません。絵画や文章においてでさへ一点に集中する視点を描き出すことは、人の注意をひくためには必ず必要な技術でした。人間は視覚における性格上、複数の視点を見つめることはかなり無理が生じます。文章においても、その目的が複数の結末を描いていれば、たちまち混乱し、理解することは難しくなってしまいます。しかし、ブレッソンが考えていたように、幾何学的視点を用いて中心を導き出し、構図に収めて撮影することで、そこには確かな視点における中心が発生します。すると一枚の写真は、風景を切り取る以上の、何か予感が感じられるような核、つまり「意味ある写真」が映し出されるのです。

こうした幾何学を、作品に投影する技法のことを「透視図法」と呼びます。美術界ではかなり有名な技法ですが、平面的な表現をする上で「透視図法」は多くの作品に用いられています。最後に幾つかの有名な作品を紹介しようと思います。幾何学の素晴らしさを感じ取っていただければ幸いです。

 

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