映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「またヴィンセントは襲われる」

「またヴィンセントは襲われる」
2024年5月12日(日)シネマ・ロサにて。14時35分より鑑賞(シネマ・ロサ1/D-6)

ゾンビ映画のような不条理スリラーの背景にある社会の現状

 

池袋で最も古い映画館(たぶん)シネマ・ロサ。ここも長年続けていた劇場窓口のみでの鑑賞券の販売をやめ、ネットでの予約が可能になった。とはいえ、この日は事前に予約する時間がなく直接窓口へ。渡されたのはQRコード付きのレシートのような鑑賞券。味気ないが、これも時代の流れだろう。

というわけで、鑑賞したのは「またヴィンセントは襲われる」という変わったタイトルのフランス映画。

主人公はデザイナーのヴィンセント(カリム・ルクルー)。ある日、職場の実習生に突然パソコンで殴られてしまう。続いて今度は同僚からペンで手をめった刺しにされる。いずれも何の理由もなく襲ってきたのだ。しかも、相手は襲撃時の記憶をなくしている。それ以来、ヴィンセントは見ず知らずの他人からも襲撃されるようになる……。

突然凶暴化した相手に襲われるという不条理スリラー。そこからヴィンセントが逃げ出すさまは、ゾンビ映画そのものだ。

ユニークなのは、ヴィンセントを襲撃するきっかけが視線だということ。つまり、目が合っただけで相手がヴィンセントに殺意を抱き、狂暴化して襲ってくるのだ。いうまでもなく、これは理不尽な暴力が横行する現在の社会を反映したものだろう。

隣人同士のトラブルから、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルによるパレスチナ侵攻(もはや虐殺といってもいいだろう)まで、現在の社会に理不尽な暴力の種は尽きない。本作の設定は、明らかにそれを意識している。劇中でヴィンセントがインターネット検索した、怒りによる暴力の現場がそれを象徴している。

そういう意味では社会派スリラーと呼んでもいい映画だが、けっしてそれを前面に出しているわけではない。あくまでもエンタメ性と折り合いをつけて描いている。それが独特のタッチを生み出している。

最初のうち、ヴィンセントは自分が何で襲われているのかわからない。周囲は職場の事情が関係しているのではないかと考えて、彼に在宅勤務を促す。

だが、会社の外でも彼は襲われる。同じアパートに住む子供に襲われたり、たまたま目が合ったドライバーにひき殺されそうになったり。ここに至って、ヴィンセントはどうやら自分と目が合った相手がおかしくなるらしいと悟る。

仕方なく彼は父の住む実家に行くが、父は女性と同棲中で、ヴィンセントの突然の来訪を迷惑に思っているようだ。

何だか脱力するようなエピソードで笑ってしまうが、こうしたユーモアもそこかしこに仕込まれている映画なのだ。おまけに、この父親が終盤で効果的に再登場する仕掛けも用意されている。

その後、ヴィンセントは危険を逃れるために田舎の一軒家に避難する。だが、それでも誰とも目を合わせないわけにはいかず、ついつい視線を合わせた相手から次々に襲われる。

そうするうちに、彼は同じような目にあっている人が他にもいることを知る。その人物は仲間たちが専用サイトで連絡しあっていることを告げ、彼に護身用に犬を飼うことをアドバイスする。

いつ襲われるかわからない恐怖感を抱え、ヴィンセントは最新型のティーザー銃を手に入れたり、護身術を身に着けたり(といってもテレビで学ぶだけだが)、自分の身を守ることに躍起になる。もちろん犬も飼い始める。

こうしてスリリングな中にも、脱力系のユーモアを織り交ぜてドラマは進行していく。さらに、中盤以降は愛のドラマも織り込む。ヴィンセントは立ち寄ったレストランのウェイトレスと恋仲になるのだ。

しかし、これも単純な恋愛とはいかない。なにせヴィンセントと視線を合わせた相手は危険なのだ。「こいつ大丈夫なのか?」「いや、やっぱりヤバイだろう」「しかし……」というので、逡巡しつつ彼女と愛し合うようになるヴィンセント。その過程では、やっぱり襲われて、それからはいつ襲われてもいいように相手に手錠をかけて愛し合うという笑っちゃうようなシチュエーションもある。何のプレイだよ(笑)。

そんな中、暴力事件は各地に波及して大問題になる。ヴィンセントが大量の人々に追われる姿は、完全にゾンビ映画の様相。もはや笑ってしまうしかない。

混乱に混乱を重ねた果てのラストシーンは、愛の逃避行とも呼べるものだが、逃げる相手が暴力だからね。いつ終わるとも知れない絶望的な出帆なので、なんとも苦い思いが残る。地球は暴力だらけなんだぜ。まったく。

ヴィンセントを演じたカリム・ルクルーは、その無骨な雰囲気が恐怖に支配されて一変するところが何ともいい味になっていた。彼が飼う犬も凶暴さと愛くるしさが同居した名演。

よく考えたら、ヴィンセントがサングラスか何かで目を隠せば、それで済む話じゃないのか、という疑問もありますが、それはまあ置いといて、一歩間違えばB級映画になりそうな不条理スリラーを、社会派の要素を取り入れて巧みに仕上げた見応えある作品だった。

◆「またヴィンセントは襲われる」(VINCENT DOIT MOURIR)
(2023年 フランス)(上映時間1時間55分)
監督:ステファン・カスタン
出演:カリム・ルクルー、ヴィマーラ・ポンス、フランソワ・シャト、ジャン=レミ・シェーズ、ユリス・ジュヌヴレ
*新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町ほかにて公開中
ホームページ http://vincent-movie.jp/

 


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「青春18×2 君へと続く道」

青春18×2 君へと続く道」
2024年5月7日(火)グランドシネマサンシャイン池袋にて。午後1時15分より鑑賞(スクリーン2/e-8)

~18年前の思い出を胸に日本を旅する台湾人男性。旅の先に見たものは……

 

2019年の「新聞記者」で日本アカデミー賞を受賞した藤井道人監督。それを見て社会派の監督だと思った人もいるようだが、そういうわけではない。「全員、片想い」「青の帰り道」「デイアンドナイト」「ヤクザと家族 The Family」「余命10年」「ヴィレッジ」「最後まで行く」といった過去作を見れば、いかにジャンルを超えた幅広い作品を送り出しているかがわかる。

青春18×2 君へと続く道」は、藤井監督にとって初の日台合作映画。脚本も担当している。その内容は青春ラブストーリーだ。青春ドラマとしては過去にも「青の帰り道」という秀作を撮っているし、ラブストーリーも「余命10年」などで定評があるから、この映画もそれなりの水準にあることは観る前からわかっていた。

冒頭で描かれるのはシビアな会議の場面。この段階では細かな説明はないが、この物語の主人公ジミー(シュー・グァンハン)が、友人とともに立ち上げ成長させた会社を放逐されたらしい。

失意のジミーは、最後の仕事として日本に出張する。そこで彼は旅に出る。かつて淡い恋心を抱いていた日本人女性のアミ(清原果耶)の故郷を目指して……。

というわけで、ジミーの現在進行形の旅のドラマと、18年前の高校生の頃のドラマが交互に描かれる。

18年前のドラマでは、大学入学までの間、故郷の台南のカラオケ店でアルバイトしていたジミーの目の前に、台湾を旅するバックパッカーで4歳年上のアミが現れる。アミは財布をなくし、カラオケ店で働かせてもらいたいという。こうして同じバイト仲間になった2人は、楽しい毎日を送るようになる。

そんな日々を明るくユーモラスにテンポよく描き出す。神戸出身の日本人のカラオケ店長や他のバイト仲間なども効果的に配され、生き生きとした彼らの毎日が綴られる。

そうした中でジミーは次第にアミに惹かれていく。夜道を疾走する2人乗りのバイク、台南の夜景、岩井俊二の映画「Love Letter」などが巧みに使われ、2人の交流を情感たっぷりに描いていく。同時に、アミの陰の部分も映し出し(彼氏の存在?)、ジミーの心をかき乱す。

一方、現在進行形のドラマでは、ジミーが影響を受けた「スラムダンク」の舞台である鎌倉を皮切りに、長野、新潟と旅をしていく。そこでは、同じ台南出身の蕎麦屋の店長、一人旅を楽しむ青年、ネットカフェのアルバイト店員などと交流を重ねていく。

旅に関する至言も飛び出す。細かな表現は忘れたが、「何かを変えるためではなく、過去の生き方を確かめるための旅もある」というような発言がある。

現在進行形の旅で起きることは、18年前の過去の出来事ともしばしばリンクする。その典型的な例が、新潟で出会ったランタンフェスティバルだ。18年前に、帰国が決まったアミとジミーは最後にランタンフェスティバルに出かけ、そこで願いを込めてランタンを空に放ったのだ。時代を超えた2つのランタンが空に舞う。その幻想的な映像が情感を高める。

こうして観客のノスタルジーを刺激し、「あの時違う選択をしていたら……」というほろ苦い思いを抱かせるわけだが、そのツボの押さえ方が絶妙だ。あまりにもベタになりすぎず、かといって薄味すぎず、味付けの仕方が心憎いほど巧みなのだ。

そして、現在進行形のドラマは、いよいよアミの故郷である福島県只見町へ。はたしてジミーはアミに再会できるのか?

そこでクライマックスが訪れるわけだが、これがまあ涙なしには見られない感動の場面なのだ。観客の涙腺を思いっきり刺激して容赦がない。

ここに至って、実はこの旅がアミとの再会を目的としたものではなかったことがわかる。そして、序盤に出てきた旅に関する至言がここで大きな意味を持つ。ジミーの本当の旅の目的を私たちは知ることになるのである。

主演のシュー・グァンハンは過去と現在を巧みに演じ分けた。清原果耶の存在感も出色だ。最近は、どんな役を演じても様になる。何だか長澤まさみに雰囲気が似てきたと感じるのは私だけ?

道枝駿佑黒木華松重豊黒木瞳らの脇役もいい。特に黒木華は、完全に役に同化した演技で、最初は彼女と気づかなかったほどだ。

観る前から想像していた通りに、とてもよくできた青春ラブストーリーだ。私の場合、終盤の展開も含めて、ある程度予測がついていたのだが、それでも素直に感動してしまった。日台合作映画でも、藤井監督の演出力の高さは不変だった。

◆「青春18×2 君へと続く道」
(2024年 日本・台湾)(上映時間2時間3分)
監督:藤井道人
出演:シュー・グァンハン、清原果耶、ジョセフ・チャン、道枝駿佑黒木華松重豊黒木瞳
*TOHOシネマズ 日比谷ほかにて全国公開中
ホームページ https://happinet-phantom.com/seishun18x2/

 

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「辰巳」

「辰巳」
2024年5月1日(水)ユーロスペースにて。午後2時55分より鑑賞(ユーロスペース1/C-5)

~裏社会に生きる孤独な男と無鉄砲な少女によるバイオレンスな復讐劇

 


自分と全く関係のない世界を体感できるのも映画の魅力の1つ。暴力にまみれた裏の世界など現実の私には全く関係がないが、映画ならその世界に入り込むことができる。

2016年公開の長編デビュー作「ケンとカズ」で注目を集めた小路紘史監督が自主制作で完成させた長編第2作「辰巳」もそういう映画だ。

主人公は裏稼業で生計を立てる孤独な男・辰巳(遠藤雄弥)。冒頭は彼が弟を殴るシーン。彼の弟は麻薬に手を出し、自らも売人をやっているらしい。結局、弟は麻薬がやめられずに死んでしまう。このことが、その後の彼の行動に大きな影響をもたらす。

辰巳は暴力組織の遺体処理係をしていた。組織で殺しがあれば、殺害された遺体を身元が割れないように処理する役回りだ。ある時、辰巳は同じく裏稼業をしている知人に呼ばれて、自動車修理工場に出かける。そこは辰巳の元恋人の京子(亀田七海)の夫が経営する工場で、そこで働く京子の妹葵(森田想)が義兄が扱う麻薬をくすねていたらしい。辰巳はその尻拭いを依頼されたのだ。

一方、組織内では麻薬の横流しが発覚して、その犯人探しが過激化していた。そんな中で、凶暴な竜二(倉本朋幸)が京子の夫を殺害し、さらに暴走して京子も殺害してしまう。その現場を目撃した葵も命を狙われるが、辰巳が救出して2人は逃走する。葵は最愛の姉を殺した犯人に復讐することを決意するが……。

本作の大きな特徴は、容赦のない暴力描写が連打されること。このドラマでは多くの血が流れ人が死ぬ。それを赤裸々に描き出す。よって映倫区分はR15。血が苦手という人は、鑑賞を控えたほうがいいかもしれない。

だが、それに耐えられる人は観るべき映画だと思う。本作は、裏社会に生きる孤独な男と、姉の復讐を狙う少女によるノワール映画。リュック・ベッソンの「レオン」を挙げるまでもなく、似たような話は数多ある。しかし、ストーリーはシンプルでも、色々と工夫してスリリングな映画に仕上げている。

中でも秀逸なのが葵のキャラ設定。この手のドラマでは、純真で可憐な少女をヒーローが守るというパターンも多いが、本作の葵は無鉄砲で気性が荒く、口も悪い。放っておけば、何をするかわからない少女なのだ。

そのため、なんとか事態を収拾しようとする辰巳を尻目に、葵は猪突猛進で復讐を狙う。だが、それは無計画でずさんな行為。だから、葵はどんどん袋小路に入り込み、危険な目にあってしまう。それでも、辰巳は葵を放っておくことができずに手助けする。

その背景には、冒頭で描かれたように麻薬で弟を死なせてしまったことがある。さらには、京子が目の前で死んでしまったことも影響している。彼女は刺された後もしばらく生存しており、辰巳や葵に運ばれたのちに死んだのである。

本作で描かれる暴力組織は、昔のやくざとは違い義理も人情もない。金だけがすべて。その源泉である麻薬を奪った相手は、仲間といえども容赦はしない。それを止める「親分」も存在しない。そのため暴力の連鎖は果てしがない。

それにしても、よくもまあこれだけワルそうな役者を集めたものだ。こんなのに街で出会ったら、絶対に目をそらせてよけて通る。もちろん、演技や演出のせいでそう見せているのだろうが、できれば会いたくない人たちばかりである。

というわけで、暴力描写が多い映画だが、だからこそ数少ない人間味あふれる場面が心に染みる。葵が辰巳に姉とのエピソードを語るシーン。姉の元彼を盗ったという葵に対して、辰巳が「お前は盗んでばかりだな」とからかう。そんなシーンにほっこりさせられる。

そして実は笑いもある。暴力と笑いが裏腹なのは、タランティーノの映画などを観ていればわかるが、この映画にも過剰な暴力が笑いに転化する場面がある。

おまけに、この映画は無国籍テーストだ。小路監督曰く「日本的なものを極力排除した」とのことだが、それが独特な世界観を形作っている。

終盤は、二度のクライマックスが訪れる。葵の復讐心が消えないと悟った辰巳は、自らの身を挺して彼女を守ろうとする。

そして、余韻の残るラストシーン。すべてが終わり岸壁で海を見つめる葵。やがて車に乗り、走り出す。その表情は何を物語るのだろうか。

辰巳を演じた遠藤雄弥は、「ONODA 一万夜を越えて」などで活躍しているが、狂気をはらみつつも、その底にある人間らしさを見せる見事な演技だった。今や死語かもしれないが「ニヒル」という表現がぴったり。

一方、葵を演じた森田想も「アイスと雨音」など多くの作品に出演しているが、その反抗心あらわな目の表情が印象的な演技。普段の時とのギャップが大きくて、それがとても魅力的だった。

すさまじい熱気と迫力に圧倒された。同時に、辰巳と葵の人間味あふれるドラマにも魅了された。この手のジャンル映画としては出色の作品だと思う。ただし、最初にも言ったように、全編血だらけなのでご用心を。

◆「辰巳」
(2023年 日本)(上映時間1時間48分)
監督・脚本:小路紘史
出演:遠藤雄弥、森田想、後藤剛範、佐藤五郎、倉本朋幸、松本亮、渡部龍平、龜田七海、足立智充、藤原季節
*ユーロスペースほかにて公開中
ホームページ https://tatsumi-movie-2024.com/

 


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「悪は存在しない」

「悪は存在しない」
2024年4月26日(金)Bunkamuraル・シネマにて。午後4時より鑑賞(C-14)

~森を舞台にした濱口竜介監督の新作。シンプルなストーリーの向こうに深いテーマがある

 

濱口竜介監督といえば、一般にはアカデミー国際長編映画賞、カンヌ国際映画祭脚本賞を受賞した「ドライブ・マイ・カー」や、ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞した「偶然と想像」、あるいは商業映画デビュー作の「寝ても覚めても」あたりが知られているところだろう。

だが、個人的にはそれ以前に撮った「ハッピーアワー」が印象深い。30代後半の女性たちが抱える不安や悩みを描いたドラマで、実に総時間317分の長尺だが、少しも長く感じなかった。圧巻の映画なので、ぜひ観ていただきたい(配信はないようだがBlu-rayは出ているみたい)。

その「ハッピーアワー」では、演技経験のない人たちを中心に起用していたが、その中の渋谷采郁、菊池葉月、三浦博之らが出演しているのが、新作映画「悪は存在しない」だ。

もともとは「ドライブ・マイ・カー」でタッグを組んだ音楽家・シンガーソングライターの石橋英子がライブパフォーマンスのための映像を濱口監督に依頼したことがきっかけで、石橋と濱口監督による共同企画として誕生した映画だ。

オープニングの映像がすごい。森の中の木々が下から上へと流れてゆく映像。あれはどうやって撮っているか。普通に木々を下方から撮影したものだろうか。いずれにしても、森の奥深くへと吸い込まれるような感覚を味わった。深遠で荘厳な映像で一瞬にしてスクリーンに引き込まれた。

その後は、ある男が薪を割り、井戸の水を汲み、自然と共生している姿が描かれる。便利屋を営む巧(大美賀均)。自然豊かな長野県水挽町で、巧は娘の花(西川玲)と慎ましい生活を送っていた。

巧と花は、森の中を歩きながら木々の名前を確認しあう。その中には、鹿に芽を食われた木もある。ここでは鹿が普通に出現し、それを狩る猟師もいる。森の中には鹿の死骸も転がっている。

こうして自然の奥深さと、そこで暮らす人々の暮らしぶりをドキュメンタリー風に描き出した序盤だが、その後ドラマは新たな展開を見せる。東京の芸能事務所がこの地でグランピング場を設営する計画が持ち上がり、地元の住民に向けた説明会が開催されるのだ。

この説明会の場面が圧巻だ。芸能事務所から出席したのは、高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)という2人の社員。計画の概要を説明し、住民の声を聞くと宣言した彼らに、厳しい声が寄せられる。施設に設置される浄化槽は、結果的に町の水源に汚水を流すのではないか。あるいは、スタッフの配置が十分ではなく山火事を起こす危険性があるのではないか。

話を聞くうちに住民の間で次第に動揺が広がり、次々に声が上がる。高橋は住民の疑念に対して「貴重なご意見」と紋切り型の対応をするが、厳しい声の連続にだんだん投げやりになってくる。それをフォローするように黛が真摯に住民の声を受け止める。異様な緊迫感に包まれたリアルな場面だ。

しかし、両者に歩み寄りの余地が全くなかったわけではない。地元の区長は「水は低い所へ流れる、上流の方でやったことは必ず下に影響する」と自然破壊を危惧しつつ、今後も話し合いを続けることを提案する。巧も「自分たちも入植者であり自然を破壊してきた。要はバランスの問題だ」と訴える。

その後、高橋と黛は東京に帰り、事務所社長とコンサルタントに計画の白紙撤回を訴える。しかし、新型コロナ対策の補助金を手にしたい社長は、計画通りに着工する意思を変えず、高橋と薫に巧を利用して住民を懐柔するように命じる。

仕方なく2人は再び長野に向かう。その車中の2人の会話を長回しで映し出す(車中の会話を映すという点では「ドライブ・マイ・カー」を想起させる)。そこでは2人の現在地が語られる。高橋と黛もそれぞれに事情を抱えて、現在の職に就いたことがわかる。彼らの人生がそこから浮かび上がる。彼らとて決して悪人ではないのだ。

というわけで、本作はそのタイトル通りに単純な善悪、被害者と加害者という図式を排したドラマだ。現在の資本主義の下、自然に対しては誰でも加害者にも被害者にもなる可能性がある。いや、それは自然に限ったことではないのかもしれない。そうした中から、本作のテーマが浮き上がってくる。自然を守ることの難しさや、開発と環境保護のバランス、さらには対立する者たちの対話の可能性などだ。そこには、混迷を深める世界情勢も視野に入っているのかもしれない。本作は、そうした視座を持つ作品なのだろう。

だが、その先に待っていたのは驚きの展開だ。1人で森に入った花が行方不明になり、高橋と薫も捜索に加わるのだが、その果てに衝撃的な出来事が起きる。唐突と言ってもいい。正直あっけにとられた。濱口監督が安易に観客に迎合しない映画作家だと知ってはいたが、これほどまでに観客を突き放すとは。

あのラストは何を意味しているのか。自然との共生の困難さを訴えているのか。それとも……。それは、観る人それぞれが考えるしかない。私も一瞬混乱し、心が乱れ、その後に様々なことに思いをはせた。

濱口監督の映画では、役者たちはセリフを棒読みするところからリハーサルがスタートする。そこに真の感情を宿らせる。いわゆるドラマチックなセリフ回しはない。本作でも、この手法を採用したのかどうかは知らないが、役者たちは一様にリアルな言葉を吐いている。

特に主演の大美賀均は、本職の役者ではなくスタッフ側の人間だという。セリフは少ないながらも、その声に加え無骨な雰囲気を漂わせる風貌が、とてつもない存在感を放っていた。何を考えているのかわからない表情が、この映画のミステリアスさを倍加させている。

新人子役の西川玲、開発側の人間の小坂竜士と渋谷采郁らも、印象に残る演技だった。

音もこの映画の主役だ。特に自然の描写が多く無音の場面も多いだけに、その中で聞こえる音がストレートに心に響く。もちろん石橋英子による音楽も、もともとパフォーマンス映像から出発した企画だけに、効果的に使われていた。

いやぁ~、なんだかすごい映画を観てしまった、というのが観終わった感想だ。ある意味、これほど奥の深い映画はないだろう。観客の想像力を激しく刺激する。個人的にはラストの展開などは黒沢清監督の作品を連想した。ストーリーはシンプルだが、その向こうにあるテーマは世界の名だたる映画作家の作品と同じようにスケールが大きい。それが海外の映画祭で濱口監督が評価される理由なのだろう。

というわけで、本作も第80回ベネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員大賞)を受賞したほか、国際批評家連盟賞、映画企業特別賞、人・職場・環境賞の3つの独立賞を受賞している。

◆「悪は存在しない」
(2023年 日本)(上映時間1時間46分)
監督・脚本:濱口竜介
出演: 大美賀均、西川玲、小坂竜士、渋谷采郁、菊池葉月、三浦博之、鳥井雄人、山村崇子、長尾卓磨、宮田佳典、田村泰二郎
*Bunkamuraル・シネマほかにて公開中
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「異人たち」

「異人たち」
2024年4月25日(木)ユナイテッド・シネマとしまえんにて。午後12時55分(スクリーン8/D-5)

山田太一の原作を映画化。現世と来世の境界線上で孤独な男の心が癒されていく

昨年11月に亡くなった山田太一氏は、脚本家として知られているが小説も書いている。その中でも、第1回山本周五郎賞を受賞した「異人たちの夏」は、1988年に大林宣彦監督によって映画化されたこともあり、よく知られている。

その「異人たちの夏」をイギリスを舞台に移して再映画化したのが、アンドリュー・ヘイ監督の「異人たち」だ。ヘイ監督は、「さざなみ」「荒野にて」などの作品で知られている。

ロンドンのタワーマンションに暮らす40歳の脚本家アダム(アンドリュー・スコット)は、12歳になる前に両親を交通事故で亡くし、孤独な日々を送っていた。目下、彼は両親との思い出をもとにした脚本の執筆に取り組んでいた。ある日、彼が両親と幼少期を過ごした郊外の家を訪ねたところ、30年前に他界した父(ジェイミー・ベル)と母(クレア・フォイ)が当時と変わらぬ姿のままで暮らしていた。それ以来、アダムは実家に足繁く通い、父と母と会話を交わすうちに心が癒されていく。一方、彼は、同じマンションの住人である青年ハリー(ポール・メスカル)と恋に落ちるのだが……。

基本的なドラマの構図は原作と同じだが、大きな違いもある。特に原作では妻子と別れた脚本家だった主人公の設定を、独身で同性愛者の脚本家にしているのが特徴。それによって、主人公の孤独がより深く印象付けられる効果を発揮している。

主人公のアダムは、孤独を抱え、突然目の前からいなくなった両親に対してわだかまりを抱えている。そんな彼の目の前に両親が死んだ時のまま現れる。姿かたちはもちろん、心の内までも。

アダムはまるで子供の頃に戻ったように振る舞う。両親もまたそんなアダムを素直に受け入れる。両親と会って話をするうちに、アダムの心は少しずつほぐれていく。

ただし、彼が同性愛者だと知った時の両親の衝撃は大きかった。そこには時代の違いもある。特に、素敵な女性との結婚を期待していた母は戸惑いを隠さない。しかし、アダムが当時からずっと孤独を抱えていたことを知った両親は、最終的には理解する。

その一方で、彼は同じタワーマンションの住人である青年ハリーと知り合う。彼はどことなくミステリアスな雰囲気を漂わせている。そして、積極的にアダムにアプローチする。彼もまた同性愛者だったのだ。最初アダムは戸惑うが、次第に彼を受け入れる。2人は情熱的な恋に落ちる。

というわけで、男性同士の濡れ場もある映画だが、いやらしさはあまりない。それというのも、映像が美しすぎるのだ。オープニングのロンドンの風景からして、そのまま絵画になりそうな美しさ。その後も、美しく情趣にあふれた映像が展開する。

全体を包むタッチは静謐だ。常に流れる不穏で幻惑的なBGMもあって、ホラー的な要素も感じられる。そして、随所で効果的に使われるフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドの「パワー・オブ・ラヴ」、ペット・ショップ・ボーイズの「オールウェイズ・オン・マイ・マインド」などの1980年代のヒット曲の数々。

こうした中で繰り広げられるドラマは、やがて終盤に差し掛かる。現実のようであっても現実ではない両親の存在は、いつかアダムの前から消える。それまではすべて家の中でのやりとりだったが、最後に3人で外出する。そこでの3人の会話が胸に染みる。

その末に、両親が「仲良くやって」と願うように、ハリーと幸せな日々を送るかと思えたアダムだが、ラストには衝撃的な結末が待っていた。ひしと抱き合う2人の姿は、やがて宇宙の星となる。切なく、余韻が残るラストシーンだ。

このラストシーンは、両親の時代に比べればよくなったとは言うものの、依然として困難な立場にある同性愛者を象徴したものとみるのは、考えすぎだろうか。

主演のアンドリュー・スコットと共演のポール・メスカルの繊細な演技が光る。両親役のジェイミー・ベルクレア・フォイの奥行きある演技も素晴らしかった。

現世と来世の境界線上で展開される魅惑的なドラマ。同性愛が大きなテーマになっているとはいうものの、それを超えた普遍的なものを感じさせる。孤独や人とのつながりについて考えさせられた。

◆「異人たち」(ALL OF US STRANGERS)
(2023年 イギリス・アメリカ)(上映時間1時間45分)
監督・脚本:アンドリュー・ヘイ
出演:アンドリュー・スコット、ポール・メスカル、ジェイミー・ベルクレア・フォイ
* TOHOシネマズ シャンテほかにて公開中
ホームページ https://www.searchlightpictures.jp/movies/allofusstrangers

 


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「あまろっく」

「あまろっく」
2024年4月23日(火)新宿ピカデリーにて。午後1時55分より鑑賞(スクリーン8/
D-9)

~定番の人情喜劇だが、江口のりこ中条あやみ笑福亭鶴瓶のキャスティングが絶妙

「あまろっく」。何だかヘンテコなタイトルの映画だなぁ~。と思ったら、実はこれは通称「尼ロック」と呼ばれる「尼崎閘門(こうもん)」のこと。水門を開け閉めすることで、兵庫県尼崎市を水害から守ってくれているのだ。

映画は謎のシーンから始まる。ウェディングドレス姿の2人の女性が並んで登場する。なぜに2人???

続いて映るのは、小学生の近松優子(後野夏陽)が父の竜太郎(松尾諭)、母の愛子(中村ゆり)とともにスワンボートに乗って、尼ロックを見学している場面。彼女は学校の作文コンクールで尼ロックを取り上げるのだ。

というわけで、1994年からドラマが始まる。近松家では、鉄工所を経営する竜太郎が「俺は尼ロックや」を自称し、仕事の実務は人に任せて、ただひたすら能天気に過ごしていた。優等生の優子は、父のようにはなるまいと心に決めていた。

そして時間は飛んで2015年。成長した優子(江口のりこ)は京大を出て、東京の大手企業に就職し、エリート街道をひた走っていた。しかし、会社から成績優秀で表彰される一方で協調性には欠け、いつも周囲から孤立していた。まもなく、それが仇となりリストラの憂き目にあう。仕方なく優子は実家に戻る。

それから8年。39歳の優子は独身で定職にも就かず、ニートのような暮らしを送っていた。そんなある日、父の竜太郎(笑福亭鶴瓶)が、突然、再婚を宣言する。再婚相手として連れてきたのは、なんと20歳の早希(中条あやみ)だった……。

この映画は典型的な人情喜劇である。テーマはズバリ、家族の絆。バラバラだった家族が、様々な現実に立ち向かう中でひとつになっていく姿を描く。

そこには目新しさや驚きはない。脚本にも演出にも特に突出したところはないし、この手のドラマの定番の範囲内でドラマが進んでいく。

しかし、それでもこの映画は面白い。何より主要な登場人物3人のキャラが抜群に立っているし、キャスティングが絶妙なのだ。これが本作の最大の魅力になっている。

まず、父の竜太郎は「人生に起こることはなんでも楽しまな」が口癖で、ひたすら能天気な人物。リストラされて帰ってきた優子を、「祝リストラ」の横断幕と赤飯で笑顔で迎えるのだ。それを演じるのは笑福亭鶴瓶。これはもうどこから見てもハマリ役でしょう。何があってもあの笑顔でやり過ごすのだから。抜群の安定感だ。

一方、娘の優子はいつも不機嫌。めったに笑うことはない。おまけに突然、自分より年下の母が登場したのだから戸惑いは大きい。優子を演じる江口のりこは、その仏頂面がこのドラマ全体の屋台骨を支えている。やさぐれた役をやらせたら右に出る者はいないだけに、こちらもハマリ役だ。

そして、竜太郎の再婚相手の早希。ひたすら平凡な家族団らんを夢見る。年の離れた結婚につきものの打算とは無縁。純粋でまっすぐに生きる彼女を演じた中条あやみも、なかなかの演技なのだ。

ドラマの中盤までは、39歳独身女子の優子と、65歳の父・竜太郎、そしてその再婚相手となった20歳の美女・早希が繰り広げるドタバタな同居生活が描かれる。3人のすれ違いと衝突が笑いを生み出す。

ところが、中盤、ある出来事が起こり、そこからは優子と早希のドラマになる。鶴瓶が消えてしまうのだ。

正直「これは苦しいだろうなぁ」と思ったのだが、なんのなんの。江口と中条のやり取りが予想以上で、ちっとも面白さが失速しないのである。

後半は、かみ合わない共同生活の中、早希が独身の優子を見かねて持ち込んだ縁談がドラマの大きな柱になる。同時に、早希が家族団らんを熱望するに至った悲しい過去も描かれる。さらに、阪神淡路大震災のエピソードを絡めて、竜太郎が「人生に起こることはなんでも楽しまな」を信条にした背景が描かれる。

優子の縁談をめぐる話は進展し、早希にはある大きな変化が起きる。その中で葛藤を抱えた優子は、悩んだ末に大きな決断をする。というのが終盤の展開。そこには笑いだけではなく、優子と早希のシスターフッド的な要素もある。

この終盤はずんずんと感動が押し寄せてくる。しかも押しつけがましくないから、自然に泣けてくる寸法だ。私もつい不覚にも涙してしまった。

ラストには1年後の彼女たちが描かれ、まさしく大団円を迎える。そして、それが冒頭の場面につながるのである。

定番の人情喜劇だが、文字通り笑って、泣いて、感動できるドラマだ。こういう映画も悪くない。それもこれも、このキャストだからこそ。江口のりこ中条あやみ笑福亭鶴瓶の演技を堪能した。

ちなみに、鉄工所の職人役で渋い演技を見せていた佐川満男さんは、4月12日に逝去し、これが遺作となりました。合掌。

◆「あまろっく」
(2024年 日本)(上映時間1時間59分)
監督・原案・企画: 中村和宏
出演: 江口のりこ中条あやみ松尾諭中村ゆり中林大樹駿河太郎、紅壱子、久保田磨希浜村淳、後野夏陽、朝田淳弥高畑淳子佐川満男笑福亭鶴瓶
*新宿ピカデリーほかにて全国公開中
ホームページ https://happinet-phantom.com/amalock/

 


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「プリシラ」

プリシラ
2024年4月18日(木)シネ・リーブル池袋にて。午後2時30分より鑑賞(シアター2/D-5)

エルヴィス・プレスリーの元妻の孤独と自立への道

 

昨日、大学病院の眼科に行ったら、左目に異常があるというので、目に注射をされて4万8210円も取られてしまった。先日15万円のパソコンを買ったばかりだというのに、どうするんだ、ワシ? 映画なんか観てる場合じゃないだろう。

しかし、まあ、それはそれとして(本当は、それはそれじゃないけど)、今日取り上げるのはソフィア・コッポラ監督の「プリシラ」。エルヴィス・プレスリーと結婚したプリシラプレスリーの回想録を映画化した伝記映画だ。

米軍関係者である父親の赴任地の西ドイツで暮らしていた14歳の少女プリシラ(ケイリー・スピーニー)は、同じく兵役で西ドイツに駐留していたスーパースターのエルヴィス・プレスリー(ジェイコブ・エロルディ)と出会い、恋に落ちる。数年後、兵役を終えて帰国していたエルヴィスはプリシラの両親を説得して、彼女をメンフィスの豪邸「グレイスランド」に呼び寄せ、一緒に暮らし始めるのだが……。

ロスト・イン・トランスレーション」「マリー・アントワネット」などソフィア・コッポラ監督の過去作同様に、全編がポップな音楽と色彩鮮やかで陰影のある映像に包まれた映画だ。美術や衣装も凝りに凝っている。まさにコッポラ監督ならではの世界観といえるだろう。

そこで描かれるのは、エルヴィス・プレスリーの元妻プリシラの物語。14歳でエルビスと出会った彼女はまだ子供。エルヴィスを見る目はハートがキラキラ。夢見るお年頃に憧れのスーパースターに会ったのだから、それも無理はない。

一方のエルヴィスはどうだったのかといえば、こっちもかなり積極的。エルヴィスとプリシラは、身長差もあり、見た目も大人と子供。それだけに、「エルヴィスってロリコンじゃね?」などと言いたくもなるが、まあとにかくプリシラを可愛がるのだ。

それでもまだ2人が西ドイツにいるときは、プリシラの両親が厳しくて、そこには一定の線が引かれていたわけだが、エルヴィスが兵役を終えてアメリカに戻ると、プリシラの恋心は一層燃え上がる。「会えない時間が愛を育てる」ってやつですなぁ~。

だから、エルヴィスから「グレイスランドに来ないか?」と誘われたら、これはもう止められない。両親を説き伏せて、エルヴィスのもとに走るのだ。そして、そこから学校に通うのである。そう。彼女はまだ高校生だったのだ。

プリシラにとって、エルヴィスのところに行くということは、両親の庇護のもとから旅立って、大人の世界に足を踏み入れるということでもあったのだろう。

最初のうちは、豪華なセレブ生活を楽しむプリシラ。その時の彼女は、エルヴィス色に染まることに疑問を持たなかった。エルヴィスは「自分が外から電話をした時に必ず家にいてほしい」と言う。おまけに、プリシラの髪の色や服装、化粧まで自分の好みにしないと不機嫌になる。ある意味、モラハラっぽい男なのだ。

それでもプリシラは、最初はエルヴィスの言うがままに振る舞い、自分を出すことはなかった。エルヴィスが共演女優と浮名を流しても、それを否定する彼の言葉を信じて、平静を装おうとした。

だが、次第にプリシラは孤独と疎外感を感じるようになる。エルヴィスは一時スランプに陥り、精神世界に入り込んだりするが、やがて歌手として復活し精力的に活動するようになる。その間にプリシラは子供を産むが(その子がマイケル・ジャクソンニコラス・ケイジの元妻の故リサ・マリー・プレスリー)、その後はエルヴィスから心が離れてしまう。

本作はプリシラを中心に組み立てられたドラマであり、エルヴィスもプリシラの視点を通して描かれる。エルヴィスのステージシーンや俳優として活躍する場面はほとんどない。その代わり、プリシラと2人でいる時の言動から、彼の弱さや孤独が浮き彫りになる。

それをプリシラに癒してもらおうとするわけだが、ティーンエイジャーの頃ならともかく、成長していくうちにプリシラの内面も成長し、そんなエルヴィスに違和感を持ち始める。結局、プリシラはエルヴィスの孤独を癒せないし、エルヴィスはプリシラの孤独を癒せなかったのだ。

そして、彼女はついに自立を決意する。そこで流れるのはドリー・パートンの「I Will Always Love You」。これがいいんだなぁ~。心に染みますよ。

この映画の欠点といえば、プリシラの決断が少し唐突な感じがするところだろうか。そのあたりはもっと丁寧に描いてもよかった気がするが、自伝がベースだから仕方ないのかもしれない。

というわけで、この物語は、ひとりの少女が成長して自立するまでを描いた物語なのだ。女性の成長というテーマは、コッポラ監督にとって一貫したテーマとも言える。女性ならずとも共感する人は多いだろう。

それにしても、プリシラ役のケイリー・スピーニーの演技がすごい。この人、実際は24歳なのに14歳のプリシラを演じて全く違和感がない。しかも、成長して大人になった彼女も全く自然に演じている。その繊細かつ驚異的な演技に対して、ベネチア国際映画祭で最優秀女優賞が贈られたのも納得だろう。

一方、エルヴィス役のジェイコブ・エロルディも外見はともかく、しゃべり方などはいかにもという感じ。こちらもエルヴィスという人間の弱さを巧みに表現していた。

◆「プリシラ」(PRISCILLA)
(2023年 アメリカ)(上映時間1時間53分)
監督・脚本・製作:ソフィア・コッポラ
出演:ケイリー・スピーニー、ジェイコブ・エロルディ、ダグマーラ・ドミンスク、アリ・コーエン、ティム・ポスト、オリヴィア・バレット、リン・グリフィン、ダニエル・バーン、ロドリゴ・フェルナンデス=ストール、ステファニー・ムーア、ルーク・ハンフリー
*TOHOシネマズ 日比谷ほかにて全国公開中
ホームページ https://gaga.ne.jp/priscilla/

 


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