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バナナ和音について2013年7月に考えていたこと

俺はバナナ和音について固く口を閉ざしてきたが、ここ数年、断片的にバナナ和音について語ってきた。しかし、録音データ800テラバイト分を電子メールで送信してきたり、東京ドーム3個分のグランドピアノをこっそり置いて帰ったり、洗面器1万個分のコンデンサマイクを送りつけてきたりする人は現れなかった。これはたいへん残念なことだ。だが、起こらなかったことを嘆いてもしょうがない。

もっと残念なのは、馬七馬七師匠が「たわけが。もう完成品があるのだ」と完成品を送りつけてこなかったことだ。

バナナ和音に関心がある人にとって必要な情報を1つのブログエントリに詰め込んでおきたいと思う。

俺は今まで、cleemyとしては情報を発信したことは一度もなかったといえる。すべては体験の提供だった。今回、cleemyとして初めて、情報を提供しようと思う。

さがしているもの

まずさがしているものから書くことによって、俺にとってバナナ和音がどのようなものであるかがよく分かると思う。

さがしているものは、プレイヤー、作業場所、カンパしてくれる人、楽器や機材、馬七馬七師匠についての情報だ。

プレイヤー

ピアノが弾ける人をさがしている。

まずは適格者をさがし、その中から1人のプレイヤーを選び出すことになる。ある意味では俺は最初の適格者だが、今は弾く気がまったく失せてしまった。俺はもう9年以上、ほとんどピアノにさわっていない。ねこふんじゃったしか弾けなくなっている。

このプレイヤーさがしについては、自分から立候補していない人にこちらから連絡をとるということはしない。なりすましに注意してほしい。

自薦・他薦は問わないと言いたいところだけど、たとえ「このエントリは一言一句があいつのために書かれたとしか思えない」と思うようなことがあったとしても、1回はこのエントリを日本語の原文で本人に読んでもらってほしい。ここに書かれたことをすべて理解している必要はない。

難しい曲が弾ける人である必要はない。クラシックやジャズの文脈において上手なプレイヤーかどうかというのはあまり関係ない。ただしこれは「プロには及ばなくてもかまわない」ということではない。クラシックやジャズでは要求されないことを要求されることになる可能性は高い。どんなプロの現場よりもシビアだと感じる人もいると思う。「大芸術家はすべてアマチュアである」というエリック・サティの言葉を思い出してほしい。

一緒に末永くやっていける人をさがしているわけではない。長くても1年間くらいになると思う。やってみたら3日でケリがつくということもありえないわけではないけど、「3日でケリをつけてやる」と意気込まないでほしい。ある種の長期戦になることは覚悟しておいてほしいのだ。

「自分らしく生きたいから」とか「自分磨き」とか「自分への投資」などを念頭に置いているなら、こんなものに参加するのはやめとけ、と言いたい。

ショービジネスの世界に入る足がかりにするものをさがしているなら、他をあたってほしい。すでにショービジネスに関わっている人の場合、非常に微妙なところだ。所属事務所などから、「イメージに合わない」とか「他の仕事との兼ね合いがあるから公開のタイミングをずらしてほしい」とか「著作権の放棄やクリエイティブ・コモンズ・ライセンスはやめてほしい」などと横やりが入るのは絶対にありえない。ここで考えるショービジネスの世界とは、TV業界やファッション業界などを含む。

しばらくの間はプレイヤーをさがし続けたいけど、最悪の場合、俺が弾くことになると思う。でも1年間くらい1人の適格者とあれこれ実験を続けたあげく「やっぱ俺が弾くことにするわ」となることはありえないと思う。半年以上1人の適格者と実験を続けていたなら、プレイヤーはその人で確定、といっていい。ここでの「半年以上」とは、ブランク期間を除いたものを考える。

基本的にノーギャラであることに注意してほしい。

良いピアノをさがしてスタジオめぐりをしたりすることがあるかもしれないけど、その時には1週間くらい各地のマクドナルドで夜を明かすことになるかもしれない。「1年間ずっとマクドナルドが家」なんてことにはならないようにしたいけど、資金的なものがどうなるかによる。まあでもマクドナルドも難民キャンプに比べれば天国だ。

1年間といっても、ずっと毎日バナナ和音に取り組むわけではなく、意識的にブランクをつくることになる可能性が高い。例えば1週間とか1カ月とかのブランク期間を設定し、バナナ和音から意図的に離れてもらうのだ。その間、バナナ和音を聴くことすらしない。ブランクを経たあとバナナ和音に「再会」する時の新鮮な感じを重視したい。もしかしたら、一切ピアノを弾かず、ピアノそのものについてブランクをつくってもらうことになるかもしれない。

プレイヤーと馬七馬七師匠とはなるべく会わせないようにしたい。師匠からの提案は、なるべく文章という形で送ってもらう。彼は自分の気にくわない演奏に出会うと、水声社刊『絶対の探求』のP.33のイラストのような状態に陥ることがある。あの強烈なオーラの放射を食らうと、とても演奏どころではなくなる。だから物理的に隔離したいのだ。

もちろん、すべてが終わってからなら会うのもいいと思う。お互いが望むなら。「ラブでもなんでも勝手に発展しやがれ」というわけです。

手をケガされたら困るので重い荷物を運ばせたりはしないけど、録音のセッティングなどでちょっと手伝ってもらうことがあるかもしれない。これは低予算映画で出演者がスタッフを兼ねる場合が多いのと同じようなものだと思ってほしい。

さて、プレイヤーは、何よりもまず、ヒマな人でなければならない。あるいは、1年間くらいヒマをつくれる人。1年間くらい、仕事をしなくても大丈夫な人。バンド活動やコンビでの活動をしている場合、1年間くらい休止してもかまわないという人。

毎日俺と顔をつき合わすことにはならないと思うけど、俺が「今っ! 今っ! ちょっと今これ試してほしい」と思った時にすぐに試せることが望ましい。

ヘロインをやっていない人。ネットワークビジネスをやっていない人。

基礎練習のようなものを毎日やっていない人。別にやっていてもかまわないけど、1年間くらいそれを休んでもかまわないという人。そういう練習をやっていないと不安になる人は今回やろうとしていることには向かない。ネズミを殺し続けたらいつかカバに素手で勝てるようになるわけではない。カバに素手で勝った人について「あいつ毎日ネズミ1000匹殺してるらしいぞ!」というような逸話が広まったりするわけだが、それが事実だったとしても、ネズミを殺しまくることが本当にカバに勝つことに貢献しているのかどうかはよく考えてみたほうがいい。実際には、「ネズミを殺しまくることによってカバに勝ちにくくなる」ということだって起こるのだ。

PCが使える必要はない。携帯電話の類を持っていなくてもかまわない。住所がなくてもかまわない。

5年以上植物としか会話していない人でもかまわないが、日本語で意思疎通ができる人が望ましい。

前科があってもかまわない。60億人を殺害した過去があってもかまわない。そして将来性も関係ない。1年後にすべての指を切り落とす予定でもかまわない。1年後に火薬満載のダンプカーで国会議事堂に突っ込む予定でもかまわない。ただしダンプカーで突っ込んだりするプロジェクトには協力できないかもしれないのでそれはそっちで勝手にやってほしい。

8才くらいとか100才くらいとかでもかまわないけど、そういう場合は短期決戦でいけそうかどうか、というのが重要なポイントになる。保護者同伴、介護者同伴、彼氏同伴、彼女同伴はカンベンしてほしい。ただし職業的なヘルパーはまた別。

顔、戸籍上の名前、国籍、年齢、性別などは公開したくないなら、それでもかまわない。何か芸名を考えておいてほしい。俺には顔を見られることにはなると思うけど、俺の前ではサングラスを取りたくないとかスカーフを取りたくないとかでもかまわない。

著作権の放棄に同意すると一筆書いてもらうかもしれない。その時に名前を書いてもらうことになるかもしれない。契約書という形になるかもしれないし、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスとして公開すると何らかの宣言を行ってもらうかもしれない。これはあくまで演奏や録音作業にまつわる権利の話であって、曲の著作権は馬七馬七師匠にある。

家出のついでに参加、というのは大歓迎だ。ただし、食費や寝る場所を提供できるのかどうかは不明だ。DVや虐待などがある場合、証拠をとるという形での「武装」をしておくことをおすすめする。そしてこういうことに興味を持っているということを悟られないようにするのも重要だ。可能なら、一切誰にも言わないのがいい。誰にもだ。

音楽についてどういう考えを持っているかはどうでもいい。とにかく弾けることが重要。ふだんはヴィジョン・オブ・ディスオーダーしか聴かないという人でもかまわない。曲や演奏の感想を求められても「ふつう」と「まあまあ」の2種類しか思いつかないとか、「濡れた」と「濡れない」の2種類しか思いつかないとかでもかまわない。とにかく弾けることが重要なのだ。

五線譜は読めなくてもいい。アドリブができなくてもいい。和音の知識は必要ない。「和音て何?」という感じでもかまわない。

いわゆる難曲が弾ける必要はない。音の数が少ない曲をいかに弾くかが重要。目安として、ドビュッシーの「月の光」の最初の1分くらいは弾けることが望ましいけど、後半はまったく弾けなくてもかまわない。

人前で弾くのが苦手でもかまわない。曲によってはマイクをセッティングした後で俺が退室するようにしてもかまわない。ライブを一切やらないということでもかまわない。俺以外の人となるべく会いたくないという場合、できるだけ配慮する。

「こういう感じで弾いて」という要求に応えられる人であることが望ましい。これは技術的にどんな要求にも応えられるということではなく、心情的に応えられるかどうかということ。つまり、他人が考える正解に近づけていくことが苦痛ではない人。俺はこれが苦手なんだ。あらゆるジャンルにおいて、他人が考える正解に近づけていくというのが。

立候補する人は、ピアノの録音を送ってほしい。できれば生のピアノ。グランドピアノでもアップライトピアノでもいい。

特に、サティ「ジムノペディ」第1番、ドビュッシー「月の光」、この2つをどのように弾くかは気になるところだ。

他には、シューマン「予言の鳥」、ドビュッシー「夢」、BWV 156、ショパン「子守歌」Op.57、ショパン「ノクターン」Op.9-2、ラヴェル「亡き王女のためのパヴァーヌ」、ベートーヴェン「月光」、ベートーヴェン「悲愴」第2楽章、オリヴィエ・メシアン「Regard du Père」、クラフトワーク「Tanzmusik」、モンク「Misterioso」、モンク「Pannonica」、ビル・エヴァンス「Peace Piece」、ジョビン「Wave」、坂本龍一戦場のメリークリスマス」、久石譲「風の伝説」、カルロス・ダレッシオ「Duo」、などをどのように弾くかは気になるところだ。

ここに挙げた曲でなくてもかまわないけど、例えば「ラ・カンパネッラ」をどんなに素晴らしく弾けたとしても、適格者なのかどうかは分からない。ここに挙げた曲は、それなりに慎重に選び出されたものなのだ。とはいっても、これらの曲の構造や歴史的背景などをいくら分析しても、バナナ和音の理解につながるわけではないし、プルトニウムの隠し場所が判明したりするわけでもない。

クラシックの長い曲の場合は最初の1分くらいだけを録音してくれたらいい。後半はまったく弾けなくてもいい。

クラシック以外の曲と BWV 156 については、好きなようにアレンジしてもらってかまわない。ただし、必ずピアノソロで2分以内にしてほしい。また、音の数は多すぎない方がいい。沈黙への恐怖を音の弾幕でごまかすことに慣れすぎてしまった人は、今回やろうとしていることには向かない。

あ、メシアンはクラシックに含める、としておこう。

アレンジの際、終わり方はどうでもいい。途中でぶった切ってくれてかまわない。俺の言動などから「オチをつけないと怒られるのではないか」などと考えないでほしい。

録音する際は、マイクをどの弦のどの位置からも1m以上離してほしい。そうしないと音のうぶ毛が分からなくなるからだ。

録音をしたことがない人は、MGR-A7 か MGR-E8 をおすすめしておく。PCがなくても大丈夫だ。これらは録音の経験がある人にもおすすめかもしれない。こういうのを1個持っているとすごく便利だ。「USBのオーディオインターフェースをすでに持ってるから」という理由だけで、コンデンサマイクの初購入に挑戦するのはおすすめしない。

録音した後にPCなどで加工しないでほしい。音量が足りなくてもかまわない。聴く時にこちらで補正して聴くから、そちらでは何もいじらないでほしいのだ。

設定で中高域を強調したりせず、ハイパスフィルタやローパスフィルタもなるべくかけないでほしい。「ゴー」とか「シャー」とか「ジー」とかひどいノイズが入るかもしれないけど、そういう音が入るということは音のうぶ毛も録れているということだ。無理にノイズを消そうとすると、音のうぶ毛が一緒に消えてしまうのだ。

歌うのが好きなら、歌を入れてくれてもいい。「'Round Midnight」、「Lullaby of Birdland」、「Fly Me To The Moon」、「Desafinado」、「Triste」、「安里屋ユンタ」、「てぃんさぐぬ花」、「四季の歌」、などをどう歌うかに興味がある。ピアノ弾き語りか独唱で、なるべく1曲あたり2分以内にしてほしい。歌詞を覚えるのが面倒とか歌詞が気にくわないという場合、「ラーラーラー」とか「アウアウアー」とかでかまわない。

ピアノソロの録音は2つは入れてくれるとありがたい。

なお、送ってくれたものを馬七馬七師匠以外の人に聴かせることはしない。

録音が用意できないという場合、いきなり俺に直接聴かせるしかないかもしれない。そんなことが可能なんだろうか。2014年末までであれば、おそらく日本国内にいるとは思う。でも練習スタジオ等を予約しても俺が現れない可能性なども考えると、金銭的にもリスクは高い。「お前に聴かせるためにスタジオ予約してお前が寝坊したんだからお前がキャンセル料払え」は受け付けない。交通費のことなども考えると、結局 MGR-A7 か MGR-E8 を買った方がいいということになるだろう。

適格者かどうかの判定は、俺の目の前で弾いて対話的なやりとりを経ないと不可能だ。いきなり細かい注文をつけたりはしないけど、例えば「この曲のこの部分をもうちょっとゆっくり弾いたらどんな感じになりますか?」というようなやりとりは必要になるだろうということだ。

今回やろうとしているのは特殊なことだ。適格者としてみなされなかったとしても、それは下手であるということではない。「一体何が悪かったんだろう」などと考えないでほしい。プロとして何十年もやってきて世界的に有名な人でも適格者ではないこともある。

今回、録音を残すということが重要なのであって、プレイヤーとして選んだ人をピアニストとしてプロデュースしようというわけではない。

私はあなたをプロデュースしない。

そして最後に、最も重要なこと。今回やろうとしていることは、がんばってどうにかなる問題ではないので、ぜひともがんばらないでほしいのだ。がんばって良い録音が残せるなら、こんなに楽なことはない。

作業場所

日本国内で、1年間くらいタダで貸してくれる作業場所をさがしている。あるいは、光熱費こみで月に1万円以下になる場所。

北海道、冬に雪かきが必要な所、関東圏、福井県尖閣諸島、などは避けたい。福島県は可。でもやっぱり本州全体を避けたいという気持ちもある。というのは、スギ花粉やヒノキ花粉が飛んでいると、俺が10秒に1回くしゃみが出る状態になり、音楽どころではなくなるからだ。

車の音、飛行機の音、ヘリの音、ボイラーの音、ポンプ室の音、犬の声、などが聞こえてこない所。たまにしか聞こえないならかまわない。

ネズミが大量発生している場合、ネコを持ち込むかもしれない。所有者の許可なく動物を中に入れることはしない。

へんぴな場所も魅力的だけど、俺が車の免許を持っていないのでバスくらいは通っている所が望ましい。あと、あまりにも閉鎖的で映画『ドッグヴィル』のような事態になりそうな場所は避けたい。へんぴな所の場合、村の中よりは別荘地のような所の方がトラブルは少ないと思う。

大量の観光客が近くをうろついている場所は避けたい。

釣り人がたまにやって来る場所も避けたほうがいいかもしれない。釣り人を装った殺し屋にちがいないと思って狙撃してしまうかもしれない。

ホテルの一室をたまり場にするのは避けたい。また貸しも避けたい。できれば1回、直接所有者に会っておきたい。

ホテルの一室だけというのは避けたいけど、営業してない小規模なホテルの建物ごと、というのは魅力的だ。

24時間いつでも音を出してかまわない所である必要がある。音楽において午前3時から5時というのは神聖な時間帯だ。ただし、俺は1日のリズムが24時間ではないので、この時間帯はいつでも起きてるというわけではない。最も重要なことは、「今これを試したい」と思った時にすぐに試せることだ。

ピアノを持ち込むかどうかは未定。湿度のコントロールの問題もある。状態が良いピアノが見つかったけど所有できるわけじゃないという場合、作業場所には電子ピアノだけを持ち込むということになるかもしれない。ギターアンプやドラムセットなどの大きな音が出るものを所有者の許可なく持ち込むことはしない。

もしかしたら、土地だけでもいいかもしれない。つまり、トレーラーハウスと電子ピアノという組み合わせ。

ある時間帯しか使えない場所は避けたいけど、何月何日までしか使えないという約束は厳密なものでもかまわない。期限が来たらブルドーザーを使って排除してくれてかまわない。本当にブルドーザーを使って排除できるよう契約書を交わしてもいい。「気軽に追い出せないから使わせられない」というスパイラルは「気軽に解雇できないから雇えない」というスパイラルと似ている。

基本的に、馬七馬七師匠の作業場所を兼ねるという形にはしない。プレイヤーと馬七馬七師匠を物理的に隔離しておきたいというのもある。2カ所以上の作業場所が見つかった場合、1つを馬七馬七師匠に紹介するということはあるかもしれない。でもプレイヤーの寝る場所を優先させたいのと、馬七馬七師匠の作業場所については俺の責任で借りるのではなく所有者と馬七馬七師匠とで直接契約してほしい。

カンパしてくれる人

カンパしてくれる人をさがしている。100円でもかまわない。

100円のカンパと100万円のカンパを金額で差をつけたくない。その100円は、本当に貴重な100円だったかもしれないのだ。「○円以上カンパしてくれた人だけ完成記念ライブに招待」みたいなことはしない。

カンパしてくれた人の住所が分かる場合、全員平等にプレゼントを送付することはあるかもしれない。それがCDになるかどうかは未定。

100円というのは冗談で言っているのではなく、本当に100円でもかまわない。

今回やろうとしていることは、すぐに大きな反響を呼ぶものではない。今回の録音がデザルグの「主著」やカフカの『変身』のようなものになってもかまわないという人だけにカンパしてほしい。

サケの放流のようなものをイメージしてほしいと思う。「完成」が「サケの稚魚を放流する瞬間」だ。放流が終わった直後に放流した場所を訪れても、何か劇的な変化が見出せるわけでもない。何年も、あるいは何世紀も経ってから、「あの時のあの放流がこういう形で実を結んだんだな」と分かるものだ。

一部は馬七馬七師匠への支援にまわされる可能性がある。支援とは、餓死させないための食費、寝る場所の確保、交通費、電子ピアノ、そして、もしかしたら契約解除のための何か。それ以外のことには1円も渡せない。

この契約解除とは何かというと、例えば、どこかのレコード会社や個人のプロデューサーとすでに何らかのやりとりがあって、馬七馬七師匠のプロジェクトにお金が投入されたけど、こじれて中断状態になったというような場合、そのお金を清算しておいたほうがいいかもしれないということ。セロニアス・モンクにまつわる有名なエピソードに、プレスティッジからの「前借り」をリバーサイドのプロデューサーが肩代わりして清算してからリバーサイドに移籍させたというのがあるが、まあそういう感じのことだ。

俺の借金返済に使われることはない。俺の借金の問題があまり簡単に解決してしまうと、馬七馬七師匠の「財政規律」の最後の一線が崩れるので、非常にまずいのである。

カンパしてくれた人が誰かを公開したり、他人に話すことはしない。馬七馬七師匠にも知らせない。リスト等を何らかの形で電子データに置き換えることはしない。公開してもかまわないという場合はその旨を知らせてほしい。

法人からのカンパは受け付けていない。個人の所有物のみとさせてほしい。

楽器と機材

何よりもまず、グランドピアノをさがしている。特に、ベーゼンドルファーの225cm以下のもの。あげてもかまわないというもの、格安でゆずってもいいというもの、また無料で貸してもいいというもの。借りて別の場所に持っていくということは考えてない。借りる場合は今置いてある場所で使う。

ピアノは個体差が大きいのでじっくり選びたい。2003年ごろにベーゼンドルファーの新大阪ショールームの練習スタジオにあったものは、大きい方の部屋には2台置いてあったのだが、その2台がまったく違う音に聴こえたので驚いたことがある。同じくらいの大きさのピアノで、同じ部屋で、同じ湿度で、同じスタッフがメンテナンスしてて、こんなに違うのかと思った。

ベーゼンドルファーで確定ということではない。いろいろ試した結果、18世紀に製造されたピアノでやることになるかもしれない。

電子ピアノもさがしている。これは実験用。88鍵すべてをサンプリングしたものでないと意味がない。調律曲線のこともあるので、どの機種がいいのかなんとも言えない。できれば、同じものを2つ用意して、1つを馬七馬七師匠専用にしておきたい。

基本的には、録音機材は市販のものしか使わない。SN比にはこだわらない。

高価なマイクは必要ないかもしれない。SN比や音の情報量については信じられないようなクオリティのものが信じられないような値段で手に入るようになってしまった。重要なのは個々の性能ではなく相性だ。

あまり音の加工はしたくないが、真空管コンプレッサーは使うかもしれない。

ある程度「こういう音にしたい」というイメージはあるけど、バナナ和音の紹介という重要な目的があるので、最終的に今考えている音とは似ても似つかないものになるかもしれない。

そして、STAXのヘッドフォン。すぐには必要ないけど、ヘッドフォンは重要だ。一歩間違えると、王室が傾いたりする。

馬七馬七師匠についての情報

ここまで順番に読んできた人の中には「読めば読むほど自分には関係のない話だ」と思う人もいるかもしれない。でも、もしかしたらあなたは馬七馬七(ばなな・ばしち)師匠を知っているかもしれない。

あの人はどこで何をしているのか。生きてるのか死んでるのか。とりあえずこのエントリは生きていることを前提にしている。また、「最初の1枚」がまだ完成していないことを前提にしている。あまり中途半端に噂を収集したくない。珍妙な噂や死亡説は何度もあったし、自称馬七馬七師匠が発生している気配もある。また、彼のことだから「死んだことにしといてほしい」を発動している可能性もある。

俺が知りたいのはバナナ和音についてのことだ。「最初の1枚」がすでに完成したのかどうかというのはもちろん、バナナ和音についての考えが大きく変わっていないかどうかというのも重要だ。それと生活保護を受けているかどうかも重要だ。もし生活保護を受けていれば、彼の食費のことは心配しなくてよくなる。

それにしても彼は実在していること自体が衝撃的な人である。最近の地球において、俺以外の生命体で実在していること自体が衝撃的な人というのは珍しい。あとは『岸和田少年愚連隊』のカオルちゃんくらい。

馬七馬七師匠について、基本的なことを書いておく。彼はおそらく1950年代に生まれた。おそらく哺乳類。ここ50年くらいのうちおそらく3分の2以上は大阪府で過ごしている。馬七馬七師匠というのは2012年から俺が勝手に呼び始めただけである。彼に大きな影響を与えた人として、ジョルジョ・デ・キリコ雪舟セロニアス・モンクスウェーデンボリ、エドワード・デ・ボノ、ロジャー・ペンローズ、ドナルド・クヌースの7人。彼と「濃厚接触」したことがある人ならこの7人の誰かの話を聞いていることと思う。彼はベートーヴェンは嫌いだった。

俺と同じく大学には行っていないけど、1970年代か1980年代に、ヴィジュアルデザインの専門学校か何かに通っていたことがあるらしい。課題を提出すると、「これは天才的発想だ!」と絶賛されるか完全にスルーされるかのどちらかになる場合が多かったらしい。

彼自身のヴィジュアルとしては、笑ったときの顔は池上彰に似ている。ロベルト・ベニーニにも似ている。シリアスな顔の池上彰はあまり似ていないかもしれない。若いときはかなりの美男子だったのではないかと思う。それなりにモテていたようでもある。落ち込むと水声社刊『絶対の探求』のP.33のイラストのような状態になることがある。醜形恐怖におちいっているような発言をする時もあり、たしかに髪の毛が伸びると漫画『バガボンド』の不動様のような雰囲気をただよわせる時もあるが、髪の毛が短い時は男前の片鱗が見えて、なかなかダンディーでもある。サングラスが似合いそうな感じもする。なんというか、彼は頭の形が良いのである。

子供のころはピアノが弾けたらしい。母親から練習を強要され、ヒステリックに怒られたりもしたらしい。俺と会った時は曲はまったく弾けなかったが、バナナ和音を押さえる時のタッチには光るものがあった。手だけ別人という感じがした。

母親はクラシックピアノの教師で声楽もやっており、父親はジャズピアニストだった。夫婦の音楽の好みはまったく異なるものだったらしい。両親が離婚してから母親から勘当されており、父親の居場所は分からなくなっていた。

おそらく彼に子供はいない。俺は彼の血縁者には1人も会っていない。

プログラマーで、出向だったか何だったかで日本IBMで仕事をしていたことがある。彼はもちろん、LISPにぞっこんである。

彼は1人でないと集中できない人で、プログラマー時代に、会議室を占有して鍵をかけてそこでアルゴリズムを練るということをよくやっていたらしい。

隣の部屋で人の気配がするだけでもだめになる場合もあったようだ。

1980年代か1990年代に、1回ホームレスになったことがある。新今宮のドヤ事情には詳しかった。

1980年代か1990年代に、大阪のある練習スタジオの内装デザインを手がけたことがある。それは彼の色彩についての理論を実践するチャンスでもあったが、彼にとっては光の当たり具合などについて強い不満が残るものになったらしい。

彼は共感覚の持ち主である可能性がある。これは複雑な和音を聴いたり複雑な幾何学模様を見た際に、匂いを感じるというものだった。気分によってはあまり匂いを感じない時もあったようで、典型的な共感覚といえるかは分からない。

映画は『去年マリエンバートで』がお気に入りで、ある有名映画監督の前でこの映画の話をしたことがある。直接話をしたのだったか、文章に書いたのだったか、あるいはその両方なのかは不明。少なくとも1回、その有名映画監督と会っている。その監督はもう故人である。

ちなみに、2001年ごろに彼を主演にした白黒映画を製作する構想が俺にはあって、かなり詳細まで決めていたんだけど、その際には彼はかたくなに出演を拒否し続け、1秒たりとも撮影されることはなかった。

彼はしょっちゅう体調が悪くなる。ドクダミのエキスを飲むと体調が良くなるようだった。いろんな人にドクダミをすすめていた。

兄弟子が少なくとも1人いる。俺が「兄弟子」と言ったときは、この1人を指している。兄弟子は音大を出ている。兄弟子が1998年ごろにソフトウェア開発の会社をつくって、俺が求人誌『an』を見て応募し、俺はまず兄弟子と先に出会った。兄弟子と馬七馬七師匠は少なくとも2回絶縁している。1回目は1980年代か1990年代、2回目は2000年後半あたり。兄弟子は俺や馬七馬七師匠と違って、社会適応が良い。

2000年に兄弟子と2回目の絶縁状態になり、経済的に困窮しはじめ、2000年末ごろだったか2001年初頭くらいだったか、大阪市内のあるたこ焼き屋でバイトをしたことがある。店長職だったが、すぐ辞めてしまった。

俺が馬七馬七師匠を支援していたのは2001年3月ごろから2004年9月ごろまで。最初は師弟関係という感じではなく、彼が絵を描く環境を俺が提供したりして協力関係が始まった。思い出しただけで気が遠くなるような多種多様なすったもんだの末、2004年秋以降の彼の足取りは俺はまったく知らない。散発的な支援のことも考えると、2000年夏ごろには支援は始まっていたともいえる。

馬七馬七師匠と兄弟子の2回目の絶縁の少し前に、兄弟子が師匠に対して1回目の絶縁について話をしたことがあるらしい。つまり、「あの時なぜ私はあなたと絶縁したか」という話を兄弟子がしたらしい。この時兄弟子は「あとちょっとのように見えてそうじゃないから切った」という主旨のことを言ったらしい。これは馬七馬七師匠のような人を知らない人にはどういうことなのか分かりにくいと思う。彼は「あとちょっとだから」と思って、無茶な要求をしてしまうのである。

兄弟子は俺に対しては、「あの人はつくりかけのもんがいっぱい」で、「なにひとつ完成させられてへん」と言っていた。これは2001年の時点ではおおむね正しい。

完成品がほとんどないにも関わらず理論によって同時代の表現者を魅了したというと、「描かない画家」としての岡倉天心を連想する人もいるかもしれない。でも馬七馬七師匠は文化史的なものにはあまり興味がなかった。

馬七馬七師匠にとって絵画がどのようなものだったかを示すものとして、キリコの絵についての彼の説がある。ジョルジョ・デ・キリコは晩年になって、若いころに描いた絵のリメイクのようなものを描いているが、その際に、昔使っていた構図の法則を意識的に使わずに描いている、というようなことを彼は主張していた。つまり、馬七馬七師匠にとって、キリコの若いころの絵は構図が「快」なのだが、晩年のものは「快」でなく、詳細な分析の結果、若いころの絵は厳密な法則に従って描いていたが、晩年は違うという結論にいたり、さらに、キリコが意図的に外したのだと考えたのだ。

この仮説は、正しいとしても間違っているとしても興味深い。

彼にとっての「構図」とは、「だいたいこのへんにこういう配置をする」というようなものではなく、比率などにおいて厳密なものであり、少しでもずれると「快でなくなる」らしかった。

彼の理論は非常に厳密であり、やろうと思えば実数の体系に還元できる。岡倉天心が言うことは、実数の体系に還元できるような、そういう「理論」ではない。

今回は別に伝記を書こうというわけではない。彼はあっちこっちで「ふたりだけの秘密」をつくってしまうのだけど、それは今はどうでもいい。バナナ和音にまつわること以外については、知りたくもないという気持ちもある。「あ~~~でもホントはすっごく言いたい…」と思う人もいるでしょうけど、せめて数年は待ってほしいのです!

バナナ和音については、後でまたくわしく述べることにする。

何をつくり、何を公開するのか

今回、バナナ和音としての「最初の1枚」をつくろうとしている。

バナナ和音を使った完成品がないために、バナナ和音について論じることすらできないという状況をなんとかしたい。

おそらく、「デモバージョンの5曲」をやることになる。これはアルバムとしては「つくりかけのもん」だが曲としては完成していた5曲だ。2002年ごろに曲としては完成していた。すべてピアノだけを使った曲だ。作曲者は馬七馬七師匠である。彼はバナナ和音の考案者でもある。

去年(2012年)には、あの「デモバージョンの5曲」を「最初の1枚」にしてしまうと、バナナ和音というのは現代音楽っぽいものしかつくれないんじゃないかという誤解を与える可能性があるからやめたほうがいいと俺は思っていた。でも今はちょっと違うことを考えている。そういう誤解をする人はいるだろうけど、そもそもどういう人が「最初の1枚」を必要としているのかというと、やはり「デモバージョンの5曲」の中のどれか一曲を一聴しただけでこの和音には豊穣なる応用がありうるということに気づく人なのではないか。

「最初の1枚」は、「デモバージョンの5曲」ではなくリハモした曲がいいと思っていた。20世紀によく歌われたスタンダード曲をバナナ和音でリハモするのである。馬七馬七師匠は当然リハモをやってくれるはずだという考えがあったが、本当にそうだろうか。仮に快諾してくれたとしても、たとえば4曲くらいリハモしたところで飽きてしまうというのはありえそうなことだ。もちろん、彼がすでにリハモした曲の大量のストックがあったりするのであればまた話は別だ。

とにかく完成させなければ意味がない。これはみんなで楽しくワイワイやろうというものではない。サケの稚魚をすべて死なせてしまったあげく、「生き物と触れ合うって楽しいね」となることはありえない。完成させられるなら、完成直後に殺し合いで全員死亡してもかまわない。実際には、ある程度楽しみながらやるということも考慮しなければならないが、それはプレイヤーの精神状態を重視するからだ。

今回は、爆着を目的としない。爆着とは、金属の接着に使われる手法で、爆発を使う。衝撃による接着だ。人間関係を含めたいろんなことについて、馬七馬七師匠はよく「爆着を起こすのだ」という言い方をしていた。「万人に爆着を起こす」というようなことを模索していたフシもある。でもバナナ和音というのは和音の感覚が鈍い人は何も感じないものなので、万人にというのは無理がある。もちろん、今回の録音を聴いて爆着が起こる人もいるだろう。でもそれを目的とするわけではない。

馬七馬七師匠と違う路線を目指そうというものではない。そもそも完成品がないために彼の路線が分からないのだ。

連弾はやらない。「デモバージョンの5曲」の中には人間の両手だけを使っては弾けない箇所があるが、プレイヤーの左横に俺が立って1番低い音だけを俺が押さえるようにすればいい。あるいは、そこだけ道具を使って弾くという手もある。

最初にどういう形で公開するかは分からないが、24bit/192kHzのデータは保管しておく。

今回は、バナナ和音の構造についての解説は行わない。基本的に、公開するものは音だけである。もしかしたらCDをプレスするかもしれないので、その際には製作風景の写真と手伝ってくれた人の名前くらいは公開するかもしれない。

動画サイトに自分たちでアップしたりはしないかもしれない。動画サイトで問題なのは、音質だ。アップするのはかまわないけど、頼むから高音質でアップしてくれっていう。

Spotifyのようなサービスは利用するかもしれない。スウェーデンではCDの売り上げを超えた。

お金のことは最初は何も書かない方がいいと思っていたけど、やっぱり書いておく。ノイバウテンにとってのスティーヴォのように「支払いはするけど、もし儲かったら全部持っていく」というような状態にするつもりなのではないかと馬七馬七師匠が疑い始める可能性がある。

CDの販売利益やSpotifyなどでの利益は、全額を馬七馬七師匠に提供する。最初は、25パーセントとかでいいだろ、これだって大手レコード会社と比べれば多いだろ、と思っていたが、「25パーセントというのはなんだ? じゃあcleemyさんが残り75パーセントを全部持っていくのか?」と思うかもしれない。

もちろん、疑いだせばきりがない。利益を全額渡すといっても、「必要経費」の中に「コンサルティング料金」のようなものが含まれてるんじゃないかとか。

もろもろをクリアにするためにも、NPO法人をつくってもいいかもしれない。でも法人化はけっこう面倒ではある。せっかく法人化したのだから、そこで音楽にまつわるいろんな研究を行う母体にしようという空気が生まれるかもしれない。みんなが「怪しい団体」と思ってくれてるならいいけど、下手に「信用」などというものが生まれると厄介である。彼のいろんな計画に巻き込まれて、借金を作ってしまうとか、負債をかかえるとか、お金を借りてしまうとか、そういういろんなことが発生した末に組織が消滅してしまう可能性がある。

本当なら、「最初の1枚」のためだけの組織があるといいのではないかと思う。彼が新しいことを始めても、その組織とは分離しておくのである。何かトラブルが起こっても、「最初の1枚」による収益は彼に渡し続けることができる。

音楽オンリーなのであればそんなに莫大な借金にはならないのではないかと思うのは甘い。たとえば彼は「真空管そのものを設計する」ということを考えていたことがあった。これ、ピンとこない人もいるかもしれないけど、真空管のために工場ごとつくるっていう話になりかねないわけだから。

演奏については、何かがくずれる瞬間を重視したい。「あ、今ええ感じでくずれた。今のを再現してみて」というのとはちょっと違う。それはやはり「再現」なのだ。今まさにくずれつつあるというその瞬間が大事なのだ。「さあ、今からくずすぞ」と自分で決めてもだめなことが多い。自然に崩壊する瞬間である。ブランク期間やピアノの個体差がうまく作用する場合もある。

バッハやベートーヴェンドビュッシーといった作曲家と何十年と向き合ってきて、「自分が考える正解」をたやすく再現できるようになっている人もいるだろう。そういう「再現」には価値がある。だけど、今回やろうとしていることは違う。そもそも、有名作曲家の曲のように「先人たちはどのように弾いてきたか」というデータベースもない。

マイクはステレオで2個だけ使う。ピアノから離して録る。これは音のうぶ毛を重視するからである。

ピアノの中にマイクを突っ込んで録った音は、音のうぶ毛をとらえたものではなく音のレントゲン写真である。うぶ毛をとらえるのもレントゲン写真も「過剰な可視化」といえるという意味では似ているわけだが、方向性が違う。バナナ和音は構造的に面白い性質を持っているというのであればレントゲン写真の方が向いているのではないかと思った人は鋭い。とりあえず今は「さにあらず」とだけ言っておく。

ある段階で、調律師を計10時間くらい拘束して、音色の微妙な変化を観察する実験をするかもしれない。3度と5度の関係がきれいに響くかは重要である。また、高音域は太くてきらびやかに、中音域は複雑な和音を弾いた時にそれぞれの音がくっきり響くように、というような指定をするかもしれない。また、高音域と中音域で音量にちがいがあってもかまわない。音の立ち上がりは遅くてもかまわない。

あまり特殊な調律をやると、すぐに音が変わりやすくなるという場合もあるだろう。資金的なものがどうなるかにもよるけど、ある時点で1日2回の調律を毎日やってもらう、というような時期が来るかもしれない。「今日が録音の日」というように「本番」を決めないようにしたいけど、それでもある種の「いよいよだな」という時は来ることになる。このタイミングはプレイヤーの気分を最優先したい。なお、こういう時期は複数回用意するかもしれない。

調律についてはもっと重要なことがある。今回は12等分平均律にしたい。すべてが無理数である。調律曲線はゆるやかなカーブで。もしかしたらチューナーを使った厳密なフラット。これはバナナ和音の「最初の1枚」としては極めて重要なことである。そう、もちろんこのプロジェクトは数学の研究でもある。

そもそもバナナ和音とは何なのか

そもそもバナナ和音とは何なのか。

ここではバナナ和音の構造について解説はしない。周辺事情だけ書いておく。

バナナ和音は誕生してからもう30年以上が経つ。バナナ和音という名前は2012年から俺が勝手に呼んでいるだけである。

バナナ和音とは、和音そのものを指す場合もあるし、進行のさせ方を指す場合もある。クラシックやジャズでは扱いにくい和音だったものを、ちゃんと進行している感じをともなって使うことができる。ありがちな和音もその進行の中で使うことができる。つまり、バナナ和音らしい和音からありがちな和音へ、そしてありがちな和音からまたバナナ和音らしい和音へ、と進行させることもできる。

現代音楽で変な和音を使ったりするのは進行している感じを犠牲にしているものが多いが、バナナ和音はなめらかな感じがする。もちろん、人によって感じ方は違うだろう。

バナナ和音の構造に興味を持った人なら、「12等分平均律こそが究極の音律だといえる具体的な証拠がついに登場した!」と思う人もいるかもしれない。もしかしたら、すでに思ってる人もいるかもしれない。これについて、混乱させるかもしれないことを少しだけ述べておく。2003年ごろにあるピアノをヴェルクマイスター音律で調律してもらい、そのピアノでのバナナ和音を馬七馬七師匠は気に入ってしまったのだ。そのピアノは12等分平均律で調律していた時期もあったので、ピアノの個体差を気に入ったわけではないと思う。正直、ヴェルクマイスター音律のことを言い出した時は「おっさんまたややこしこと言い出しはったなあ」と思った。でも「絶対にヴェルクマイスター音律でなければならない」と主張したわけではないのでよかった。

バナナ和音が青春の重要な要素だった人が日本各地にいる。

バナナ和音についてなら本が5冊くらい書けるという人もいるかもしれない。あるいはもう書いてしまったのだが、バナナ和音の「最初の1枚」がないために書いたものを発表できないということもあるかもしれない。

バナナ和音を昔から知っている人は、被害の実態についてどう思っているのだろうか。被害といっても、貸したお金が返ってこないというような、そういう被害ではない。

バナナ和音の「最初の1枚」がないということについての被害である。「最初の1枚」がないということが、人類に対する罪なのである。その責任は馬七馬七師匠にあるのではなく、人類全体にある。人類全体が加害者で、人類全体が被害者なのである。

このエントリもある意味では被害届である。

そしてこの被害届によって「最初の1枚」がないという状態を解消するきっかけになればいいとも思っているわけである。

最終決定権について

最終決定権は俺にゆずってほしい。

つまり、馬七馬七師匠が「こんなんじゃだめだ」を発動できないようにしたい。師匠やプレイヤーが反対しても、俺が「これでいく」と判断したテイクを使う。どのテイクでいくのかということ以外の馬七馬七師匠の提案についても、それを受け入れるかどうかの判断を俺1人に任せてほしい。台風の目は1つであることが望ましい。

このことをはっきりさせておくのは極めて重要である。

「こんなんじゃだめだ」は彼の不安と結びついている場合がある。10年前の馬七馬七師匠は「何の反応もない」という事態を恐れているようにもみえた。だが、もはや時間が経ちすぎて「最初の1枚」がないということの問題が大きくなりすぎている。「何の反応もない」というようなことを恐れている場合ではなくなっている。

結局、彼の完成品がほとんどないのも、ギリギリになって「こんなんじゃだめだ」を発動することが多いせいでもある。

また、彼に協力した人々は、彼の発動する「あと少しなんだ」にも悩まされてきた。彼自身も被害者である。本当に「あと少し」だという強烈な確信があるのに、毎回のように裏切られるわけだから。

彼の「あと少しなんだ」は、「これさえあれば」という感覚と結びつくこともあり、破壊力が増す。

これについて、最もわかりやすいものとしてQTC1事件がある。2002年夏に彼はコンデンサマイクのQTC1にこだわり始め、このマイクさえあれば劇的な展開が待っていると主張した。会話の9割以上がQTC1で占められるようになり、もうQTC1を買ってくれないと死ぬとでも言いそうな勢いだった。で、俺は音楽以外のことに使いたかったお金をQTC1に使った。実際にQTC1の音を聴くと彼の態度は一変し、「ゴムくさい」と言い始めた。QTC1はまったく必要なかったのだ。

馬七馬七師匠の提案は、非常に疲労させられたあげく、結局試す必要がなかったと分かるものが多い。

もちろん、馬七馬七師匠がすみずみまで納得いくものはぜひ聴いてみたい。でもそれは自分で資金を集めてやってほしい。そして俺抜きでやってほしいのだ。

俺としては、馬七馬七師匠が「こんなんじゃだめだ」と言い出して、俺が「いや、これでいく」を発動した場合には、「いや、これでいく」の方が優先されるはずだ、という気持ちがある。「デモバージョンの5曲」については、俺がプロデューサーであると認めていたからだ。

それでも、俺が公開しようとしているものを馬七馬七師匠はどうしてもお蔵入りにさせたいと思うかもしれない。そういう状況はまったくありえないわけではない。彼が550万円で俺からプロデュース権を買い取る、というような状況だ。

550万円というのは「デモバージョンの5曲」のために投入した金額だ。2001年夏から3年間兵庫県内に借りていた3LDKは、家賃85000円。彼が「1人で使いたい」と言い出して実際に1人で使っていた時期もあったが、俺の荷物も置いていたので、まあ半分としよう。42500円 × 12 × 3 = 1530000円。楽器、機材、電子部品などで400万円。合計で約550万円。

楽器、機材、電子部品が400万円というのは少なすぎるようにもみえるが、音楽とは直接関係ないカメラなどについては除いているのと、売却して別のものを買ったりした分を考慮したのと、師匠のことに協力していなくても買っていたかもしれない分を考慮した。

法律的にこういうやり方が妥当ということではなく、俺の心情としてはこれがしっくりくるということである。

今回、この550万円を取り戻すために録音作業を再開しようというわけではない。利益が出ても全額を師匠に渡す。何よりも、「最初の1枚」がないという状況をなくすということが最優先だ。だから、たとえ彼が「1000万円でプロデュース権を買い取る」と言い出したとしても、俺としてはあまりうれしくない。そうやって彼が抱え込んで、結局「最初の1枚」がいつまでたっても完成しないということもありうるからだ。

バナナ和音について、俺からの提案というのは少なかったが、反映させることにさほど大きな労力をかける必要がなく、効果も明確だったものが多かったはずだ。

たとえば「デモバージョンの5曲」のうちの1曲について、最初は1カ所だけ甘い和音が入っていた。この和音は単体としてはすごく良い響きだったのだが、ここだけ人間的な匂いがした。そのことを指摘すると、彼は「あ、やっぱそう思う?」というようなことを言ってすぐさま修正した。5曲の中で俺が曲そのものに口出ししたのはこれが唯一である。

また、どんなピアノを使うかについては、最初はスタインウェイでいこうと言って何度か神戸の松尾楽器の練習スタジオで録音の実験をしていた。彼はもうスタインウェイで録音をする気になっていた。俺は「まあ1回だけベーゼンドルファーの音、試してみれば。1回だけ。すぐ済むから。1回だけ。ねっ?」と提案し、まあ1回だけ聴いてみようかということになって新大阪のショールームに行ったら、彼はほとんど一目惚れに近かった。俺はこの時点でベーゼンドルファーの音をじっくり聴いたことは一度もなかった。

俺からの提案ということについて、精度というものをもうちょっと信用してほしいというのがある。

馬七馬七師匠の共感覚的なものをどう考えるかという問題もある。例えばQTC1の「ゴムくさい」も、実際にゴムの匂いを感じていた可能性もある。俺はQTC1は音のうぶ毛が失われてるという感じはしたが、「ゴムくさい」というのはよく分からない。彼の感覚は本当に他人と共有可能なのか。

ちなみに彼はゴムアレルギーだったようだ。

感じ方が独特なのは音以外でもそうだった。クラシックカメラの店で「あのレンズで撮った写真って、こうこうこういう印象を受けるものになりますよね」と彼が説明して、店主が「ハア?」となることがあった。

馬七馬七師匠からの提案は、「うわ、またややこしこと」と思うものが多いわけだが、提案のすべてを「要するにおまえがちちさわり魔か?」と言ってはねつけるべきではない。

では、どういう提案に耳を傾けるべきなのか。これについてはずっと考えていた。結局、馬七馬七師匠からの提案については、「すでに完成されている」ということと、「解釈の余地がない」ということの2点が重要なのだ。

QTC1そのものは市販のマイクなのだから完成しているといえるが、買う前は彼自身がその効能を確認していないので、QTC1がバナナ和音に向いているかどうかの事実確認は「未完成」だったのだ。

また、「聴こえるべきメロディーが聴こえない」というのは、受け入れられない。複雑な和音なのでロールシャッハ的に複数のメロディーラインがありうるわけだ。だからMIDIなどで明示的に「聴こえてほしいメロディーラインはこれだ」と指定してもらわなければ、有効な提案とみなせない。

「音楽的に聴こえない」というのも何度も言われた。でもこれもどうすれば音楽的になるかが分からない。そもそも、クラシックと比較すれば、あの「デモバージョンの5曲」自体がかなり反音楽的である。

彼の有効な提案として印象深かったのが、バナナ和音の重み付けの提案。これは提案された時点で「すでに完成されている」のはもちろん、「解釈の余地がない」厳密なものだった。

和音を弾く時に、どの音を強く弾くのかによって印象が変わるわけだけど、彼は極めて単純な法則によって「どの音を強調すべきか」を提示した。この効果は劇的だった。そして、少なくとも俺にとってはマスターするのにそんなに膨大な訓練を積む必要のないものだった。今回の録音でもこの重み付けの手法を採用する可能性が高い。なお、この手法はバナナ和音ならではのものだが、すべてのバナナ和音に使えるわけではない。

バナナ和音

バナナ和音についての扉エントリです。

現在、バナナ和音についてのエントリは1つだけです。

お知らせ

2013年8月現在、バナナ和音についての連絡先・送付先は下記の住所です。


住所不定気味になっているので物理的な住所にはどこにも何も送らないでください。

たいていは沖縄のどこかにいますが、沖縄にいない時もあります。

また、2015年1月以降、ちとせ商店街ビルにはcleemyは住んでおりません。

2016年10月現在、ちとせ商店街ビルにはcleemyはいませんのでご注意ください。

また、cleemyには狭義のSNSにおける「裏アカウント」「実名アカウント」のようなものや別ハンドルでの活動だとかは一切ありません。

cleemyとして何も発信していない時は本当に何も発信していない時です。

「やってるのは本人じゃないけど事実上のオフィシャル」だとか「この人に伝言すれば確実にcleemyに伝わる」だとかそういうアカウントも現時点では一切存在しません。

(2016-10-02)


住所変わりました。(2013-08-23)

カンパについては、現金書留、額面50円以上の未使用切手、書き損じはがき、商品券、楽天ポイントギフトカードのみ受け付けています。

こちらからの郵便物等が同居している家族等に見られたくない場合、その旨をお知らせください。携帯電話をお持ちでない場合、友人に協力してもらって友人の連絡先をこちらに知らせるなど工夫する必要があるかもしれません。

録音データの送付は、CD-R、SDカード、microSDカードのいずれかでお願いします。

録音については、ノイズが多いこと以外にも「音がペラペラすぎるかな」と思うようなものであってもかまいません。「録音のウデ」をみるためのものではありません。

基本的には、こちらからの返事はないものと思ってください。録音を聴いただけで適格者かどうかの判定をするのは不可能なので、「適格者かそうでないのかはっきりしてほしい」とは考えないでください。また、何の返事もなくても、数カ月経ってから急に「今もヒマですか?」とこちらから連絡をとる可能性はあります。

プレイヤーさがしについては、自分から立候補していない人にこちらから連絡をとることはありません。なりすましに注意してください。

(↑立候補する人が誰もいないのでこの制約はとっぱらうことにします。でもなりすましには注意してください。)