海を藻掻くクリオネ

厨二乙だなんていわないでください

評論家

 生意気なわたしは思っていました。世の中の大人は何故こんなにも文章が下手なのだろう。よく読むご本の作者の方はとてもお上手なのに。どうして。

 それが難しいことだと気付いたのは実際に文字を書くようになってからでした。分かりやすい文章を書くこともさることながら、自分の意見を持つことがこれほどまで難しいものであるとはまったく思いもしませんでした。

 人の意見というものは大半がそれまでの知識に依っているもので、つまり意見をはっきりと持っていてしっかりとそれを述べることができる人は表層に出ている意見の数百倍、数千倍もの知識をもっているということで、それはその人の人生の軌跡を物語っているのではないかと思います。

 知識というのは得ようと思わねば増えぬもので、つまり大抵の大人、勿論わたしも、これまでそんなことを全然考えずにきたのですね。

 そうしてふと思います。ああ、わたしって、なんてつまんない人間なんでしょう。人とは違うということを夢見てそれでいて誰よりも人間を体現していることを自覚している私は、自らの矮小さを思い知るのです。

 先日、某質問サイトでこのような質問を見かけました。

「キラリと光る文章とはどのようなものですか、具体的に教えてください」

 暫し悩みましたが答えは出ませんでした。何と言い表せば良いのか出てきませんでした。ここできっぱりと答えを出せる方こそが知識人であるのでしょう。

 本を読んでいて、ネットの海を漂っていて、たまに素晴らしい文章をみつけることがあります。「負けた……」と思わず白旗をあげてしまうような、そんな文章です。それは小説であったり、批評文であったり、はたまた雑記であったりしますが、総じて自分が如何に頭を振ったとて到底浮かびすらしなかったであろうと感じさせるものです。文章ではなく、考え方のときもありますが、つい溜息がでてしまいます。意味も無くコピーしてみたり、その方の他の文章を探したりしてしまいます。

 センスを感じるのです、その、たった一文に。感動するのです、惹かれるのです。だって、自分にはないものだから。

 人は、自分には無いものに惹かれます。持っている者を嫉妬します。しかしそれが如何にしても手に入らないと知った時――どういう行動に出るのでしょうか。目を塞ぐでしょうか、壊してしまうでしょうか、はたまたどうするでしょうか。

 それでも尚、わたしはひとに焦がれるのです。