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主に読書感想文

劇場で観た映画の感想(2020年1月編)

『屍人荘の殺人』(イオンシネマ岡山)

正直そんなに期待していなかったのですが、かなり良かったです。原作が素晴らしい作品なだけに、「あれを映像化できるの…?」という不安がかなりありましたが、上手く換骨奪胎してエンタメ映画に仕上げたなーと思いました。というか『TRICK』の脚本家・蒔田光治がシナリオを手がけ、『TRICK』の助監督・木村ひさしがメガホンをとった結果、限りなく『TRICK』に近い何かができあがった感じです。何なら『TRICK』の新作を観るつもりで観ればいいと思う。

(↓観た直後の感想)

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『パラサイト 半地下の家族』(シネマ・クレール

よくできた映画です。よくできた映画ではあるんですが、正直に言うとちょっと物足りなさを感じてしまった。その理由として、ひとつには、「カンヌ国際映画祭パルムドール受賞!」「ポン・ジュノ監督の映画に外れなし!」という事前情報を見聞きしすぎて、期待を高めすぎた、ハードルを上げすぎたかなーというところがあります。もうひとつは、「映画の中でここまで『強烈な格差』が描かれた以上、ラストには『強烈なカタルシス』が描かれるはずだ」というのが観ている途中で想定されてしまうので、終盤の展開が一種の予定調和のように思えてしまったかなぁと思います(これは『JOKER』を観たときにも同じことを思いました)。本当に強烈なカタルシスなんですが。

(↓観た直後の感想)

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『9人の翻訳家 囚われたベストセラー』(シネマ・クレール

大変な秀作でした。観に行って良かった。まず斬新なクローズド・サークルの設定がものすごく魅力的だし、二転三転していくストーリーも予測不能な面白さで、息もつかせぬ105分間でした。犯人も、トリックも、動機も完璧。おまけにオルガ・キュリレンコが相変わらず美しい。映画そのものはフィクションですが、「世界的ベストセラーの最新刊を翻訳させるため、地下シェルターに翻訳家が集められる」というのは『ダ・ヴィンチ・コード』を出版する際、実際にあったことだというから驚きです。とにかく面白かった。2020年の暫定1位。

(↓観た直後の感想)

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高潔さの希少性 ―『違国日記』①

ヤマシタトモコ『違国日記』とても面白い。15歳の女子と35歳の女性小説家、その二人がともに暮らしていく”同居もの”だ。筋立てはシンプルだが、やみつきになる魅力がある。

物語の始点はある交通事故。15歳の少女・朝はその事故で両親を亡くす。みなしごが主人公の物語は多いが、彼女もそのひとりだ。葬儀の後、誰が彼女の引き取り手になるかで親戚一同が醜い罵り合いを始める(このくだりでは『3月のライオン』を思い出す読者が多いのではないだろうか、少なくとも私は想起した)。朝は己の天涯孤独の運命を悟るが、このとき痛烈な啖呵を切って彼女を引き取ることを表明したのが、朝から見て叔母にあたる35歳の小説家・槙生だった。

というようにあらすじを書いていくと、朝が槙生の生き様から人生に必要なものごとを学んでいく成長物語のように思われるだろうし、勿論それも間違いではないのだけれど、今作は「槙生の成長物語」でもあるところが妙味だ。とにかくこの女性が不器用で、もっと直截的にいうならば、社会不適合者に近いのである。自らを「落ち込みやすいクズ」「生き物と長時間同じ空間にいるのがしんどい人間」と語り、部屋は汚くはないが散らかっており、料理のレパートリーは少なく、友人ともども「ダメな大人」と自嘲する……そんな槙生の姿に、おそらく少なくない読者が共感をおぼえるのではないかと思われる(私はそうだ)。

槙生は、事故の直後、両親の死が悲しいかと聞かれ、わからないと答える朝に対してこう述べる。

「へんかもしれない でもあなたの感じ方はあなただけのもので誰にも責める権利はない」

また、朝が日記をつけ始める際にはこうも言っている。

「書きたくないことは書かなくていい ほんとうのことを書く必要もない」

 このような槙生のスタンスは結局、親戚たちの前で朝を引き取ると表明した時の「わたしは決してあなたを踏みにじらない」という一言に集約されていく。つまり社会の規範や道徳等よりも、個人が個人であることを重視しようとする考えかただ。

今までのヤマシタトモコ作品では、このような高潔さは比較的「ありふれたもの」として扱われてきた印象があった。現代社会においては、ごく普通の人間であれば、高潔さは当然持ち合わせているはずだ、というようなトーンが作品全体に漂っている場合が多かったように思う(但しこれは単なる印象で、過去作を読み返せば異なる印象を持つかもしれない)。だが少なくとも今作においては、槙生の高潔さは「希少なもの」として描写されている。彼女は良かれ悪しかれ、「変わり者」として周囲に認識されている。物語外の現実社会と照らし合わせても、その認識は自然なものだといえるだろう。高潔さの希少性の確認。それがこの物語の射程をより広いものにしていると言っていい。

そのような槙生の高潔さは常に、母親として朝を育ててきた、槙生の姉と対比されている。槙生の姉は「こんなあたりまえのこともできないの?」という言葉を、朝にも、槙生にも投げかけてきた。また、専業主婦として朝を育ててきた中で、己の傷ついた姿や友人と遊ぶ姿等は朝に見せてこなかったことも明らかになっていく。社会に背を向けてきた槙生とは逆に、槙生の姉は、模範的な振る舞いを自身にも他人にも求めるタイプだったことがわかる。

15歳の子どもが、今まで自分を育ててきた人間とは全く異なる価値観を持つ人間に育てられるようになった時、果たしてどのような変化が生まれるのか。孤独に生きてきた35歳の小説家が急に子どもを育て始めた時、いったい彼女の人生はどのように変わってしまうのか。そして半ば否応なしに始まった二人の関係はどのような形に収斂していくのか。家族なのか、友人なのか、あるいは恋人なのか――

 というのが大体の筋立てだが、『違国日記』の真の魅力は、寧ろ「二人の生活」そのものにある。本作ではとにかく食事のシーンが丁寧に描写される。事故から3年後の2人を描いたプロローグにあたる第1話では、朝が、夕食(鳥カツ、蒸し野菜、いんげんの白和え…)と翌日の弁当をつくっている様子が6ページに亘って描かれる。それ以外にも、事故当日のスターバックスでの食事(あたためたマフィン、ラテ)、葬儀の翌日のかんたんな朝食(キャベツとウインナーのサンドイッチ)、槙生の友人を交えて3人で作る餃子、槙生が元恋人と銀座の喫茶店で食べるホットサンド……等、食事のシーンは1話ごとに、過剰に思えるほどディティールにこだわった形で描かれていく。「35歳と15歳の同居生活」という、一見キャッチーにも荒唐無稽にも思えるような主題だが、食事をはじめとする生活の描写が丁寧に積み重ねられていく分だけ、すんなりと読者の胸中になじんでいく。そしてそれらの描写はまた、本作の最大の魅力になっているように思えるのだ。