イジり芸の心得、良い人間関係を構築するために

人をイジるという行為で笑いを取りたいのなら、マストで必要なものはたった一つ。それはイジられる人とイジる人の絶対的信頼関係である。信頼関係がなければイジられる側はそれを許せるはずがない。

 

早速自分で言った「一つ」を否定するが、一つというよりもっと言えば、イジる側は、その信頼関係が構築された土壌の上でさらに、「イジらせてくれて本当にありがとう。」という感謝の念を決して忘れず、またイジられる側へのフォローを欠かさないようにすることはむしろ必然である。

 

この場合のフォローとは、おもに後日のLINEでの「昨日嫌な気分にさせてなかった?酔った勢いにせよ、申し訳ない(ごめんスタンプ」等のケア全般のことを指す。

 

冒頭で言ったことをまた否定するが、さらにイジる側の心持ちとして持つべきものもある。それは自分がいつでもイジられる可能性があることを受け入れることである。なんならちょっと欲しがるぐらいが良い。

 

具体的なケースとして、イジっているときに誰かに「そういうテコヤマも中学生の時、運動会の組み体操で上半身裸で乳首毛があるのバレるの嫌で全剃りした挙句、プールの授業で濃くなった乳首毛を見つけられて以来、乳首毛濃いマンって言われてたやん」ぐらいのイジられなんて朝飯前で「今もですけど〜今は乳首毛をはじめとする主要毛すご〜く濃いマンです〜〜〜」ぐらいの返しをすべきである。

 

まとめると絶対的な信頼関係と感謝の念と自分がイジられることを受け入れる、の三つがない人間は誰かをイジるべきではない。

 

以上から言えることはイジリ芸とは友情であり愛であり覚悟であるということだ。ここまで書いておいてさらに足りないものに気づく。「たった一つ」と冒頭に述べた自分を思い切りよくぶん殴ってやりたいが、これも非常に重要であり、欠かしてはいけないものだ。

 

それは「笑い」である。ここまで全ての条件を満たしていても、笑いがなければ意味がない、だいたい芸ではない。面白くなければただの悪口になりかねない。ギルティ、罪だ。

 

そのためにはイジリ芸をする前に、しゃべくり等他の芸で一定の笑いが取れる程度のレベル上げが必要だ。なぜならイジリ芸とは友情・愛・覚悟が必要な綿密な連携からなる笑いであり、そもそも大して面白くない人間に扱える代物ではないからだ。

 

ようやく本題に入ろうとする著者の首根っこを引っこ抜いてやろうかと思うが、最も注意すべきなことがある。それは逆は絶対に成り立たないことだ。いくら笑いがあっても前述の三つが不成立である場合、もはや本当に罪だ。どういうことかというと、「ぱっと見いじられキャラやん。どうだ喜べ、おれのおかげで面白くなっただろ。むしろお前が感謝しろ。おれ?おれイジられキャラじゃないから、うるせーな」だ。

 

これは重罪だ。世間がどんだけ許してもおれはそんな奴許さない、大嫌いだ。別にイジリ芸が嫌いなわけではない。確かにそういう芸はある。テレビで芸人さん達がよくやっているし、僕もそれで笑う。だからこそ言いたいことは、イジリ芸とはそれほど高次元の笑いなんだということだ。

 

日ごろの人間関係における圧倒的コミュニケーションと根本的な人間愛、日々の笑いに対する鍛錬、イジられることへ羞恥心の克服、それを笑いに昇華できる実力。思うに素人が気安くやっていいもんじゃない。

 

もし今までそれが一見成立していたように見えていたとしたら、それは上述全て解決しているか、イジられる側がめちゃめちゃ優しい最強にいい人か、それで笑う周りの友達がバカかのどれかだ。

 

※ふざけた文体でマジな内容になってしまい、読みづらいことこの上ない乱文であるという至極真っ当な指摘を、誰かに言われる前に真っ先に謝罪する。本当にすみませんでした。内容はマジなので心の目で読んでください。