comoco’s blog

ネガティヴな思い出を綴る場。楽しい話は基本的にありません。

中期中絶しました その後

辛かった非日常も、慌ただしい日常にいつの間にか風化し、季節はあっという間に春になりました。

子供の新生活や、私自身も新しい仕事や挑戦もあり、気持ちは自ずと前向きに。

自他共に、「もう大丈夫、乗り越えられた」と認識するのにそれほど時間はかかりませんでした。

 

ちょうどこどもの日に初めてお墓参りに行くことができました。

新緑に木漏れ日がとても美しく、不便な立地ではあるけれど、静かで落ち着ける墓所で安心しました。

この時も、気持ちが沈み込むことはありませんでした。

 

やがて、再び妊娠したことがわかりました。

嬉しくなかったわけではありません。

でも、正直なところ、「またここからスタートなのか。」とその後の道程を思うと気が遠くなった方が余程大きかったです。

第一子の妊娠時は気軽に通えていた妊婦健診も、診察室に入るといつも急に「大丈夫だろうか」と心配になりました。

 

そして間も無く訪れた、悪阻の時期。

たった1年少しの間に4度目。

第一子の時を含めても、いちばん辛かったです。

吐気、眠気、倦怠感、頭痛、、

何よりも気持ちの落ち込み。

 

こんなに辛くても、どうせまた上手くいかないんじゃないの。

ぜんぜん上手くいく気がしない。

上手くいかないなら、早く妊娠やめたい。

早く楽になりたい。

 

そこまで考えて、私は今なんてことを?!と我に返って泣くのです。

産後に赤ちゃんを抱いてるイメージを全く描けず、代わりに思い出すのは数ヶ月前に経験したあの宣告、痛み、処置室や病室の光景。

乗り越えたと思っていた死産でしたが、その実全く乗り越えられていませんでした。

そんな日が、酷い時で3日に2日はありました。

 

 

それでもなんとか日は過ぎ、少し落ち着いて健診を受けられるようになった頃です。

胎児の性別がわかりました。

女の子でした。

いまお腹にいる子は、2月に見送った子(男の子)が帰ってきたわけではない、違う子なのだとはっきり悟った瞬間でした。

妊娠出産のファンタジーなんて全く信じない現実的な私がそんなことを思うなんて、と自分自身に可笑しくなりました。

 

妊娠が進むにつれ、産後のイメージもだいぶできるようになってきました。

しかし悪阻後も、蕁麻疹、頭痛、浮腫みとマイナートラブルは多くありました。

何より悩まされているのは、第一子の赤ちゃん返りです。

まだ妊娠中なのにこんな感じでは産後どうなってしまうのか。

そもそも私に2人育児など本当に出来るのか。

と悪阻の時期とは違う不安に襲われ、動揺することも多くなりました。

 

そして今。

まだ産後に不安はたくさんありますが、臨月に入り、ようやく成るように成ると思えてきました。

あと少しで妊娠は終わります。

でもそれは、おそらく2人育児のスタートになるでしょう。

妊娠中のことなどあっという間に忘れてしまうほど、怒涛の日々になるでしょう。

それを望んだのは紛れもなく私と私の夫です。

そろそろ2人目が欲しいと思い始めて2年。

合算すると1年数ヶ月に及ぶ妊娠期間。

やっとここまできました。

やっと始められそうです。

他人には些細な事であるが、当人には一生忘れられない恐怖の話

長男、療育センターのスヌーズレン室に入れなくなった。

スヌーズレン

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%AC%E3%83%B3

去年は大好きで、誰よりもリラックスし、その空間を楽しんでいたのに。

今年、ある日を境に激しく拒否反応を示すようになった。

その日、私は長男に付いていなかったので、何が起こったのかはわからない。何もなかったのかもしれない。

誰にも理由はわからない。

 

私は入れなくなった事実を聞いても、去年の彼の姿を知っているだけに俄かには信じられなかった。

1か月程後に親子通園でスヌーズレンに入る日、私にべったりの長男が私と一緒であっても入室を拒否。

少し怯えたようにバイバイバイバイと手を振って先生にしっかり抱っこされていた。

本当に嫌なのだ、とそこで私にもよくわかった。

 

 

大好きだった場所が、ある日を境に絶対に行きたくない場所になる。

思い返せば、私にもそういう場所があった。

幼い頃、電車が大好きで電車が見えるスポットに行くと1時間は動かなかった私。

自宅から15分程の所にある踏切も、お気に入りスポットの1つだった。

その踏切は、ある日を境に絶対に行きたくない場所になった。

私は「その日」のことを覚えていない。

でも、何故行きたくなくなったのかは実ははっきりしている。

看板だ。

踏切の中に無闇に入ると危険、と子どもにもわかりやすく啓蒙する為に踏切の傍に立てられたそれである。

そこには、踏切に走って進入しようとする子供の絵と、電車が怒った形相で近づいてくる絵が描かれていた。

その電車の絵が、堪らなく恐ろしかったからだ。

 

私は驚かされることが大の苦手である。

大人になった今でも、ホラー映画やお化け屋敷の類はお化けそのものの怖さよりもその驚かされる演出が苦手で怖くて、触れないようにしている位だ。

幼い頃はもっとその傾向が顕著で、その驚かされた経験は強烈な印象となって残っているのだろう。

まして大好きな電車が事もあろうに鬼のような形相で襲いかからんばかりにこちらに向かってくる絵なのだ。

ある意味、トラウマだ。

まさにその初めて看板に驚かされた時のことを覚えていないことこそが、とても強烈な経験だったのだろうとすら思う。

それはある日急に立てられた物なのか、ずっとそこにあったけれどその日まで私が気づかなかっただけなのかはわからない。

でも、その看板がそこにある、ということを思うだけで何が何でも近づきたくなかった。

 

両親は、突然その踏切を激しく拒否するようになった私を非常に不思議に思ったようだ。

しかし何度か通っているうちにまた慣れるだろうと考えたらしく、無理矢理連れて行かれたこともある。

そこを通るのが一番近道になる場合も多かったからだ。

 

何度通っても嫌なものは嫌だった。

 

父は嫌な物は嫌なのだろうと早くに納得してくれて、理由を聞かずにその踏切を避けてくれるようになった。

しかし母は、何故あの踏切を通りたくないのか、と何度も訊いてきた。

私は答えなかった。

たかが看板が怖くて近づきたくない、などとはとても言えなかった。

笑われたりおかしな子と思われるんじゃないかと思った。

それでも一度だけ、意を決して正直に話した事がある。

小学生の頃だったように思う。

母は笑いはしなかったが、しつこく訊いてきた。

電車が笑った顔だったら大丈夫なのか、

泣いてたらどうだ、

電車でなかったらどうだ、

とかそんなようなことだ。

私はその看板を頭に思い浮かべることすら嫌で、電車の表情が違っていたらなどという想像をいちいちすることすら出来なかった。

結局、母には私が感じている恐怖感をうまく伝えられなかった。

そのうち母は「あなたにしか感じられない霊か何かがあるのでしょう」と無理矢理納得していたようだった。

 

成長するにつれ、車で通過するなら大丈夫、絶対に看板の方を向かないと心に誓い実行すれば大丈夫、と少しずつ克服していった。

それでも苦手である事には変わりなかった。

 

 

長男に何があったのかはわからない。

もしかしたら彼自身にすらわからないかもしれない。

でもあの怯えた顔、彼にとって強烈な恐怖体験があったのだろうと思う。

スヌーズレン室に入れなくて困る事は無いのだから、避ければ済む事だ。

無理に慣れさせ、克服させることではない。

もし彼が今後その恐怖感を思い出すような事があれば、出来れば側にいて寄り添いたいと思う。

 

 

あの踏切は、立体交差か何かになり、今はもう存在しない。

その場所を歩行者として通ることは無いが、電車の乗客として通過することは偶にある。

乗客として通過する時でさえ、ああこの辺だったなと今でも必ず意識してしまう。

この文章を書いている今も、動悸が激しくなっている。

私は結局、ちっとも克服出来ていないのだ。

困る事は無いのだからそれでいい。

でも育児をしていると、こうして過去の自分を取り出して向き合わねばならない事がある。

ちょっとしんどいね。

中期中絶しました。その5

妊娠12週以降の死児の出産は、法的には死産になるため、死産届を役所に提出し、埋葬が必要になります。
死産届には赤ちゃんの氏名を書く欄はありません。
忘れるわけではありませんが、あまり想いを残して引きずることはしたくなかったので、名前を付けることはしませんでした。
 
いろいろな方がいるようですが、私たちは赤ちゃんを火葬し、葬儀屋さんに紹介していただいたお寺に永代供養することにしました。
 
 
小さな赤ちゃんの火葬は、まだ炉が冷えている朝1番でなくては骨が残らないのだと葬儀屋の担当者が教えてくれました。
火葬場も、ここでなくては難しいだろう。
それでも、骨が残ると約束することはできない、と。
 
 
火葬当日の朝、これを買った時は我が子のために着るなんて想像すらしてなかったなと小さく息を吐いて喪服に袖を通しました。
朝一番の火葬場は人も疎らで、時折スタッフが朝の準備に小走りに駆けている程度で、ひっそりとしていました。
桐製の小さな棺には、お花と折鶴を入れました。
折鶴の一部は看護師さんたちが休憩時間に折ってくれていて、あとは赤ちゃんが病室にいる間に夫婦で折りました。
お花は、この時期に花屋にあるチューリップも1輪収めましたが、赤ちゃんの横に置くと大きすぎるくらいでした。
病室にいる時に入れたお花ではまだ余裕があったので、炉の前で白とピンクのスイートピーの花を追加で入れてお花で埋め尽くしました。
なかなか可愛くできたと思います。
お経もなく、お焼香のみで夫婦2人で静かに見送りました。
もう涙は出ませんでした。
 
お骨上げまでに掛かる時間は30分程。
大人のそれと比べるとあまりにも短い時間です。
係員が持ってきたそのトレイには、僅かではあるけれど骨が残っていました。
魚の小骨ほどの小さい小さい物でしたが、確かに骨とわかる物でした。
通常、お骨上げは2人で1つの骨を摘むものですが、小さすぎてそれは叶いません。
夫と私で1つずつ箱に収めましたが、箸の持ちようを試されてるような気がして、可笑しくなりました。
残った遺骨、遺灰をすべて収めても、ほんのひとつまみ、ふたつまみほどにしかなりませんでした。
 
 
遺骨は葬儀屋さんに託し、俄かに慌しくなってきた火葬場を後にしました。
奇しくもこの日は妊娠5か月の最初の戌の日でした。
 
 
これですべて終わりました。
あとは落ち着いたら、お参りに行こうと思います。
これから身体の回復と共に、徐々に慌しい日常が戻ってくるでしょう。
この辛い非日常の1週間の記憶も、徐々に風化されていくでしょう。
それでいいと思います。
いつまでも引き摺っていられるほど暇ではありません。
それでもたまに思い出して偲びたくて、忘れないうちに記録に残しました。
書くことで気持ちを整理しているということもあります。
そしてどこかの誰かの何かのためになれば尚良いと思います。
 
 
 
 

 

中期中絶しました。その4

分娩後に処方された数々の内服薬や点滴の中に、母乳を止める薬もありました。
尤もこの週数では乳房が張ることはあまりないようですが、それでも乳腺炎などの心配がないわけではないと説明されました。
もちろん悪露もしばらく続きます。
子宮収縮の痛みもあります。
死産であっても、産婦であることには変わりないのです。
 
分娩当日は、その後も葬儀屋さんと打ち合わせがあったり頻繁に点滴の入れ替えがあったりしてバタバタしていたのですが、眠剤を飲んでいてもなかなか眠れませんでした。
興奮しているような、疲れているような、動きたいような…
頭と心と身体がばらばらになっているようでした。
 
私たちは結局、染色体異常が本当にあったかどうかの検査は受けないことにしました。
主治医からの説明でも、今回のことは恐らく偶然であるし、今回のことが次の妊娠に影響があるとは考えにくいとのことでした。
また、昨年の初期流産との関連も恐らくないだろうと言われました。
最初に胎児が無事に育たないと告げられたときから私がいちばん気にしていたのは、次の妊娠のこと。
逃げ出したいほど痛くて辛かったのは間違いないけれど、それでももう1人子どもが欲しいと言う思いが変わることはありませんでした。
主治医も私の考えを尊重してくださり、無理に検査を勧めるようなことはありませんでした。
そして、次の言葉をくださいました。
 
まだ十分に妊娠できるお身体です。
月経が再開したら、次の妊娠を計画なさって大丈夫ですよ。
私たちはここで待っています。
 
医師や看護師を始め、この病院のスタッフさんたちには本当に良くしていただきました。
彼らの心ある対応のおかげで無事に終えられたのです。
もう何度目かわからない涙を流しながら、またここに来たいと思いました。
願わくば、反対側にある産科病棟に、もう一度。
 
お世話になったスタッフさんたちにちゃんとお礼を言いたかったのですが、そうしたらまた泣いてしまいそうで、そんな姿を迎えにきてくれた家族に見られたくなくて、簡単に素っ気ない挨拶をしただけで病棟を後にしました。
今はこれ以上はとても出来そうにないと思いました。
お礼は、また来た時に、必ず。

中期中絶しました。その3

入院4日目の朝。

子宮口の開きは十分あるとわかり、薬を入れて陣痛を起こすことになりました。
 
私は第一子を予定帝王切開で産んでいるため、陣痛を知りません。
現在では一度でも帝王切開歴があれば、その後のお産も基本的にはすべて帝王切開になります。
自然分娩した友人と「痛いとは聞くけどちょっとその痛みを味わってみたかったな〜」「あんな痛いの、経験しなくていいならその方がいいよ〜」なんて談笑したこともあります。
それが、まさかこんな形で陣痛を経験することになろうとは…
 
 
結果的には、楽なお産だったのだと思います。
陣痛を起こす薬も、その効きには個人差があり、しっかりした陣痛が来るのに時間がかかる人もいればすぐ来る人もいます。
また、陣痛が来てから分娩に何時間もかかる人やすぐ分娩する人などいろいろだそうです。
(薬の効きは3時間程度なので、3時間毎に薬を入れて分娩を待つようになります)
私の場合は、痛いかと問われればかなり痛いと答えるほどですが、我を忘れて叫んだり耐えられないと思うほどの痛みではなく、下腹部と腰にやや強い鈍い痛みが短い周期で現れる、そんな感じでした。
痛みの質は違いますが、ラミナリアの入れ替えのほうがよっぽど痛かったです。
薬を入れてから1時間半ほどで出産に至りました。
その瞬間はあっけなく、特にいきむほどのものではありませんでした。
(その後胎盤を出すのに、何度かいきむ必要はありましたが。)
それほどまでに、小さい小さい赤ちゃんでした。
 
「頑張ったね」「大変でしたね」
と看護師さんたちが声をかけてくれました。
でも「おめでとうございます」はありません。
「堪えなくていいのよ」
ティッシュと共に渡された言葉に、ようやく涙を流すことができました。
 
 
その後、ひとりになった病室に主治医がいらしてくれました。
 
赤ちゃんは男の子でした。
浮腫以外は奇形もなく、綺麗な赤ちゃんです。
3日間よく頑張りましたね。
赤ちゃんもお母さんに負担をかけすぎることなく生まれてきてくれました。
胎盤も綺麗に出ています。追加の処置も今見る限りでは必要ありません。
お水も飲んで良いです。
食べたい物をご家族に持ってきてもらってください。
付き添いがあれば排泄もトイレで良いです。
シャワーも明日からは入れるからね。
診察は今日はもうありません。
熱が上がらなければ明日退院です。
もう無事に終わりましたからね。
 
それからずーっと泣いていたと思います。
この日は0時から絶飲食、発熱して喉が渇いて仕方ないのに嗽で紛らわすことしかできず、
入院期間中の排泄は病室のポータブルトイレで行い(感覚が似ているため万が一トイレで分娩に至るとその後の処置が困難)、
感染症のリスクからシャワー禁止の清拭のみ。
生活の基本的なことへの制限が一気に解除され、本当にこれで終わったのだと感じました。
 
 
夫が来てから、2人で赤ちゃんと面会しました。
本当に小さかったけど、顔も身体も正しく人間の形をしていました。
長男は私に似ていると皆口を揃えて言うけれど、この子は夫に似ていると思いました。
浮腫はエリマキトカゲのように付いていて大きな枕のようにも見えました。
確かに綺麗でした。
13cm・114g、棺ごと持っても驚くほど軽かったです。
この日は16週0日。
順調な経過だったならば、安定期に入るはずの日でした。
 

中期中絶しました。その2

12週以降の中絶は、初期のように全身麻酔下で子宮内容物を掻き出す処置は取らず、子宮口を広げ陣痛を起こし分娩する、という通常のお産と同じプロセスを辿ります。

入院期間も数日に及びます。
何から何まで、昨年の初期流産とはまったく違いました。
 
閉じている子宮口を強制的に広げる。
これにはとても時間がかかり、痛みも伴います。
医師の説明をしっかり聞いた後に、体験談などをあらかじめ少し読みましたが、正直恐怖と不安が募るばかりであまり読み漁る気にもなれず、覚悟しようにも「なるようになる」と思う以外にどうしたらよいのかわかりませんでした。
 
初期流産後の処置でも子宮口を広げることはしますが、せいぜい3-5mm程度です。
今回の場合、胎児の頭は3cm程あるのでそれ以上には広げなければなりません。
あの時も、一瞬声を上げるほど痛かったのに…
 
入院直後からその処置は始まりました。
具体的には、ラミセル(またはラミナリア)と呼ばれる棒状器具を挿入します。
これは水分を吸うと膨張するスポンジのようなもので無理なく子宮口を広げられるのだそうです。
目標の広さになるまでおよそ半日毎に入れ替えをして、その度に本数を増やして徐々に開いていきます。
開き具合には個人差があり、なかなか開かない人もいればあっさり開いてしまう人もいるといいます。
一般的に経産婦は早いと言われていますが、私は経産婦と言えど帝王切開だったので産道を通っておらず、その意味では初産婦と変わりはありません。
今回の3cmに至るまでは、丸2日はかかると言われました。
 
と書くと非常にあっさりなのですが、これが非っっっ常に痛かったです。
 
 
入院2日目の朝の処置後のこと。
前日とは違い、まずすぐには立てませんでした。
歩いて部屋に帰ることはできたものの、気休め程度にもらった痛み止めの内服を水と共に吐き出してしまう始末。
 
その日の夕方の処置のこと。
振り返ればここが一番辛かったです。
挿入本数も増えてきたので、まず処置に時間がかかります。
内診台の上で脚を開き、そこをライトで照らされたままじっとしていなけれなならないのです。
処置自体を私が見ることはありませんが(見たくもない!)、挿入するたびにまるで身体の内部から腹パンされるような激しい痛み。
胎盤鉗子か何かの金属器具が間接的に触れる無機質な感覚。
まだ続くの??早く、早く終わって!と願わずにはいられませんでした。
処置後、立ち上がれない私はその場で号泣しました。
自分でもわけがわかりませんでした。
結局、車椅子で部屋まで移動しました。
 
3日目の朝。
前日の夕方の話では、この時には3cm開いているだろうというのが医師の予想でしたが、実際には2.5cm程度とのこと。
(経産婦さんはわかるでしょうけれど、この子宮口がどの程度開いているかを確認する内診も非常に痛いんです。)
子宮口を広げる処置を継続します、と告げられた時には思わず顔を覆ってしまいました。
あと少なくとも2回はこの処置に耐えねばならない… そう思うともう目の前が真っ暗になりました。
 
その日の夕方。
この時は、挿入されているラミナリアを抜くときが大変でした。
剥がされるような、引っ張られるような感覚。
なぜ人間のそこの感覚は鋭敏にできているのでしょうね…
 
 
2日目の夜に号泣した理由、はじめは自分でもわかりませんでした。
確かにとても痛かったです。でもそれだけ?
処置中に私が「痛い!もうやめて!」と叫んでも、やめられるものではありません。
プライベートゾーンを晒し、そこに何か異物を挿入されている。何度も何度も。
確実に終わりはあるのに、永遠にも感じられるその時間。
その場にいるのは医師と看護師だけで、全員女性で、こまめに私を気遣う声を掛けてくれて、手をさすってくれて、こんなにも安心できる状況はないのに、それでもなぜか言いようのない惨めさを感じてしまったのです。
痛みに耐えた先にあるのは元気な子の誕生でもなく、病気や怪我から回復でもない。
外に出ては生きられない命であるかもしれないけど、確かに宿った子を自らの意思で葬ることです。
 
そんなこと、まったく望んでいなかったのに!!
なぜ私だけがこんな思いをしなければならないの??
 
頭ではわかっています。
これは偶然であり、誰のせいでもなく、早く妊娠を終わらせることが母子双方にとって最善であることも、
子宮口をしっかり広げなければ分娩にさらなる危険がともなうことも。
 
心の奥に抱えていた痛みや辛さが、肉体的な痛みとともに一気に噴き出したかのようでした。
 

中期中絶しました。その1

妊娠出産は思い通りになんていかない。

それを実感する経験を(またも)したので、記録として残しておこうと思います。
 
 
私は昨年2回の初期流産を経験しています。
前の記事は、その1回目の時の記録です。
ほぼ同じことがその4か月後にもありました。
「こんなにツイてないことってあるのか…」
そういえば今年大厄だ!と思い至り、普段神頼み的なことを全くしない私がかなり遅い厄祓いに行き、水子供養もしていただきました。
 
 
程なくして、再度妊娠がわかりました。
初期流産を3回以上繰り返すと何らかの病気が疑われるので検査をしたほうが良いと言われていたこともあり、今度こそ、という気持ちが強かったです。
相も変わらず悪阻はありました。
吐き気と眠気と倦怠感が常に纏わり付いているなかでの育児はなかなか大変でしたが、家族がだいぶ手伝ってくれたので助かりました。
家事?ああそれは、ごく最低限のことだけであとは見て見ぬ振りでしたね。
なので、心拍が確認できた、と言われたときは心から安堵しました。
前2回はそれが叶わなかったから…
 
 
私が通うのは大病院なので、妊婦健診は順調であれば流れ作業の如くあっと言う間に終わります。
「順調順調、予定日も計算通り、はい次は4週後ね〜」
初期の2週毎の健診から中期の4週毎にステップアップできたときも嬉しかったです。
ひとまず流産の可能性はだいぶ低くなっただろうと、仕事等の関係者や直接会った友人にも妊娠したことを伝え始めていました。
 
 
13週の健診日。
赤ちゃんの形ははっきり見えて、心臓が動いているのが素人でもわかりました。
その時。
「浮腫みがあるな… 」と呟いて、あっという間に終わるはずのエコーを医師は念入りに何度も何度も見ていました。
医師は深刻な面持ちで、座り直した私に言葉を選ぶようにゆっくりと告げました。
 
胎児に大きな浮腫が見られ、正常に育ち分娩に至るのはきわめて難しいだろう。
原因は、恐らく染色体の異常の可能性が高い。
しかし今日の健診だけで診断はつけられない。
また来週ご主人と来てください。
 
その言葉に、今回もダメなのだと理解しました。
診察室では、冷静だったと思います。
それが一度外に出て、助産師さんに「大丈夫?ひとりで帰れる?」と優しい言葉を掛けられたときに初めて涙が溢れてきて少し休ませてもらいました。
 
 
とても電話で伝える気にはならず、夫と息子を預けている母にはメールで医師から告げられたことだけを送信しました。
まっすぐ息子を迎えに行く気にもなれず、街をぶらぶら。
食欲なんてあるはずもないけど、お腹いっぱいになれば気分も少しは紛れるはず、と病院近くのタイ料理店の暖簾をくぐりました。
辛いものを汗なのか涙なのかわからない何かを流しながら食べました。
辛くて美味しいものは正義ですね。
とてもお腹が空いているときでも、食欲がまったくなくても満腹感が得られてスッキリします。
 
 
夫と行った翌週の再健診でも、大きな浮腫は変わらず認められ、医師の見解は変わりはありませんでした。
 
このままでは胎児は子宮内でほぼ確実に亡くなってしまうが、それはいつになるかはわからない。
母体への影響を考えると、胎児が少しでも小さいうちに外に出してあげるの良い。
 
そう言われ、次の妊娠も考えると早めに出してあげるのが良いだろうと夫婦で納得し、そうすることにしました。
 
 
でも赤ちゃんの心臓はまだ動いています。
生きている胎児を外に出すのは、人工妊娠中絶、になるのです。