連絡通路

脳と現実の連絡通路

何が一番つらいって文章が書けなくなっていることが一番つらい

仕事をしているうちに文章作成能力も低下しているようで辛い気持ちになってきた。昔はもっと手軽にポンポンと文章が書けたはずだ。気づいたら書けなくなっていた。

一体どうすれば文章を書けるようになるのだろう。まず、文章力が落ちるのを怖がっているくせに、その一方でタイピングをするのが非常に怠い。

なんというか、タイピングをしていたいという気持ちが起こらない。というのも、プログラマなので一日中キーボードを叩いているからだ。流石に朝から晩までキーボードを叩いていると食傷気味になるのである。

帰宅してからもタイピングをする気にはならない。アニメをみて、ダラッと過ごすのが関の山である。

ということで、仕事に疲れて日記すら書かずにいたら、みるみるうちに文章力が落ちて、今では目も当てられない事態になってしまった。いや、前から目も当てられなかったけれども、以前は文章量だけは確保できていた。1000文字くらいなら軽かったのだ。

 

それが今ではどうだ。1ツイートを埋めることにすら苦労する有様だ。1ツイートって長くないですか? 140文字も文章を構成できない。140文字以上のまとまった思念が頭に思い浮かばないのだ。

これは読書をしていないのも原因かもしれない。これも仕事が悪いのだが、プログラマとして1日中コードを読んでいると、家に帰ってから日本語というコードを読む気にならないのだ。精一杯なのである。

 

何か文字を読むこととタイピングが好きな人間にとってはプログラマという職業は向いているんだけど、そうしていると日本語の作成と日本語の摂取が少なくなっていく。仕事でまとまった文章を読む機会と書く機会がないと、人間はどんどんとダメになっていきますね。

 

さらには炎上している仕事のストレスからか、ますます思考にモヤがかかっている。発想も一つも浮かんでこない。悪循環から文章がますます書けなくなっていくのだ。

 

さらには今ノートPCを叩いていたら腕まで痺れてきた。物理的に指が動かなくてキーボードが叩けない。こんな仕打ちあります?

小説を読むなどした

何か面白いことないかなーと思って日記を書いている。逆なのだ。面白いことがあったから日記を書いているのではなく、日記を書きながら今日という1日の中で面白いことが無かったかを思い返している。そうしないと1日の中で何が起こっていたのかが全く分からなくなってしまう。

 

そんな経験は無いだろうか。文章にしようとして初めて、自分の1日を客観的に振り返ることができるのだ。それまでは漠々とした「今」という物にとらわれて、今日1日をどんな風に過ごしたかなんてことは頭に一切浮かんでこない。そんなものだ。

 

今日は小説を2本ほど読んだ。1つ目は京極夏彦の「鬼談」だ。

 

怪談みたいなものだった。解説によると他にも「〜談」シリーズがたくさんあるらしい。自分は鬼談しか読んで無いので比較のしようがないが、巻末の解説によると「〜談」シリーズ内では一番怖いらしい。

 

実際怖かった。

 

久々に怖かったと言っても良い。最近は美少女が出てくるアニメか、なろう発の小説くらいしか読んでいなかったので、こうした恐怖感は久々に感じたものだ。短編集なのでサクサクと読めるが、サクサクと読めるが故に恐怖心が連続してやってくる。それでも読むのが止められない。辛くて旨いものを食べているような気分だった。

 

精神の奥底というか、人間の奥底にある恐怖感を喚起させる。顔を半分隠した女が出てくる話のラストシーンや、屋敷内に正体不明のおばさんが住んでいる話、そして山に引き寄せられる話のラスト。このあたりは脳裏に景色が焼き付いて離れない。

 

怖い話の怖いシーンが頭から離れないほど厄介なことはない。今日も風呂でシャワーを浴びているときにふと脳裏にシーンが思い起こされて、普通にぞくっとしてしまった。恐怖心なんてとっくの昔に忘れたと思っていたのにな……だが、恐怖心が残っていたのだ。最近心が動かされないと感じているのであれば、試しにホラーで動かしてみるのも良いかもしれない。喜怒哀楽なんてつまらない。恐怖は良い。

 

二つ目は小説家になろうで「辺境の老騎士」を読んだ。

 

これも面白かった。10時間くらいぶっ通しで読んでしまった。最初は純ファンタジーだと見せかけて、話が思いもよらない方向に進んでいく。それでいながらキャラクターは骨太だし、物語の骨子がしっかりとしている。なろうっぽさが全く無かった。読んでいるとあれよあれよという間に時間が溶けていくのでオススメしたい。

 

こういうストーリーを求めているんだよな。昔のスクエニRPGみたいにシンプルなストーリーのファンタジー物を求めている人間であればスッとハマると思う。けれど、登場人物や登場地名が多すぎて、誰が誰だか分からなくなるという欠点はあった。

 

正直、登場キャラクターをいちいち頭の中で整理して、誰がどう言った人物であるかを覚えていられるのは10人くらいが限度だと思う。よほど個性が強ければ別だが。辺境の老騎士の場合はキャラクターが際限なく増え続けるし、中世の貴族社会的な世界観で繰り広げられるのでキャラクター同士の親戚関係がめちゃくちゃ複雑だった。

 

できる限り小説を読むときに脳を使いたくない自分としては、登場する固有名詞の多さには辟易とさせられたが、これが純ファンタジー的な世界にリアリティを与えているのだと思う。たまらない人にはたまらないのだろう。

 

それに、主人公に絡んでくるメインキャラクター達は誰もが個性豊かで魅力的だった。だからそれで十分なのかもしれない。また、親戚関係が描写されることが、より深く主人公の”人生”の描写に寄与していたようにも思える。いずれにせよ、最後まで一気に読んでしまった。最高でした。

 

というわけで感想は終わり。辺境の老騎士を読んだ後の読後感は素晴らしかったな、と思いつつ。読後感が爽やかな小説って良いよね。舞城王太郎の小説とか途中はめちゃくちゃ面白いんだけども、ラストの尻切れとんぼ感だけは頂けないし。自分の読み方が悪いのかもしれないけど。

 

こうしてみると、世の中には面白いことがたくさんあるんだよなぁ。正直、フィクションさえ面白ければなんだって良いのかもしれない。ノンフィクションって怠いんだよね。全ての事実関係にソースが求められるから、読んでいてスピード感が出ないというか。ノンフィクションにスピード感やエンタメ性を求めるのは間違ってるけど。

 

そして今日も面白いものを探して生きていきます。

たくさん寝てしまうことについて

欲求が無くなっている。問題は欲望が無くなっていることだと思う。

人は満たされてしまうと何の欲求することが無くなってしまうのだ。

自分の場合は、最低限必要な環境が「電車通勤をせず、朝は自由な時間に起きられること」である。この環境さえ整ってしまえば、あとは他に何もいらないのかもしれない。

それ以上の高次な欲求を持てなくなってしまった。あまりにも呆れ果てるが、人生で求めているものはそれ以上でもそれ以下でも無いのだ。電車通勤をせずに、好きなだけ寝ていられるのであれば、それで良いのである。

こういったメンタリティが形成されたのは、10代の頃にあまりにも酷い環境で生活を送っていたからだろう、ストレス値が臨海値を越えると人はダメになるのだ。何かを新しくやろうという意気込みが消失してしまう。

 

ここ数年で自分が注目している現象がある。それは身体の凝りを無くしていくことだ。インターネットをやっている人間に共通することだが、身体中に凝りが蔓延している。これらを一つ一つ治していくことがライフワークとなっている。

運動をするのが一番なんだが、どうも運動をする気持ちになれない。なぜだろう。東京都という人が密集した地域に住んでいることが一つの原因である気がしてならない。

それはともかく、身体の凝りをどうにかしたい。そのために、たまに凝っている部分を解放しようと意識を集中させ、その部分の血の巡りを良くしようと試みることがある。うまくいく場合もうまくいかない場合もあるのだが、うまくいくとコレがすこぶる気持ちがいい。これ以上の快楽は存在しない。

例えば、1〜2時間以上もインターネットをやっていて身体がこわばってきたときに、うーんと背伸びをする。そのときに感じられる気持ち良さを何倍にも増幅したものだと考えてもらいたい。何年も固まっていた筋肉が動き出すのだから当然だろう。数年分の強張りが一度に解放されるので、それだけ気持ちが良いのだ。

問題は、そうやって凝りを解放すると睡眠時間が異常に伸びることだ。精神的に鬱であることも関係しているのかもしれないが、どちらかといえば肉体由来の睡眠時間だと感じる。単純に、身体の神経を回復させるために睡眠が必要なのだ。

いつか身体中からこうした凝りが無くなってくれたら、それだけで健康的な生活が送れるのではないかと考えているが、果たしてそううまくいくだろうか。

 

もっと睡眠時間を減らし、といっても7〜8時間という真っ当な時間にまで減らすという意味だが、それで健康的な生活を送ってみたいという気持ちがある。そうなれたら良いなぁと考えるのみだけども、今は。

漠然と

「自分の頭で考えろ」というが、自分の頭で考えたところで大した答えは得られないことが分かってしまった今、果たしてどうやって生きていったら良いのか途方に暮れている。

大方の人間がそうなのだろう。自分の頭で考えても答えが得られないから、誰か他の人に答えを教えてもらおうと、情報を得ようと躍起になっているのだ。1+1=2であるような世界は純粋な数学の世界にしか存在しない。もしかしたら、純粋な数学の世界にも存在しないかもしれない。

自分も大方の人間と同様で、何が答えであるかが分からなくなってしまった。誤魔化して生きてきた代償である。

 

全く話は変わるのだけど、自分で料理をしないというのが悪い影響を及ぼしている気がしてならない。出来合いの物ばかりを食べるのではなく、自分で調理をし、自分で作ったものを自分のために食べるという行為が重要なんじゃないかと思う。

肉や野菜を調理して食べれば、そこには生きているという実感が湧くんじゃないかな。なんだかインスタントな物ばかりを食べ過ぎている。エネルギーが減っていくのも致し方ないのかもしれないな。

 

どうにも、生きている実感が湧かないのが一番の問題だと思う。冬で寒いからだろうか。それとも、単純に自分の中でのエネルギーが低下しているからだろうか。何を見ても感動しなくなってしまったなぁと感じる。

 

東京には情報量が多すぎる。前は田舎に住んでいたのだけど、その頃は漠々と広がる田舎の中で、都会に憧れながら視聴するアニメが輝いて見えた。そんなもので良いんじゃないかな。普段から東京の情報量に慣れていると、そういうこともできなくなってしまう。全てが虚無的だ。

 

今は27才の私だが、10代の頃は一体何を考えていたのだろう。もはや2〜3年前に何を考えていたのかも分からないので、10代の頃の自分が何を考えていたのかなんて分かったものじゃない。少なくとも、今と違う人格を有していたはずだ。

10代の頃は全ての軟弱な文化をバカにしていた気がする。日常系アニメやその他の軟弱なコンテンツをバカにする一方で、自分はエロゲを嗜み、それが高尚な趣味だと信じてやまなかった。

27才の今となっては、何が高尚なのか、自分が何をしたいのかも分からないし、何をしていても虚無感が付きまとってくる。単純にエネルギーが低下しているだけかもしれないが。

 

全てが漠然としている。外界に興味が持てない。面白いものは世界中にたくさんあるはずなのに、心の底から楽しむことができない。運動不足だろうか? 運動不足なだけかもしれない。人間の精神なんて、所詮はそんなものだからだ。

備忘録

本を読んでその感想を書く。

少なくともこれくらいはしないとダメだ。このままではダメになるので、多少は空想的かつ抽象的なことを書いていきたい。

とにかく、コレだと確信した本を読むのだ。それしかない。

ワナビーに諦念は付き物

 読書することを我慢しているな、と思う。本を読むのなんてそんなに大した時間を使わない。アニメを視聴するのに比べたら、はるかに短い時間で済むはずだ。

 にも関わらず、最近の自分は読書をすることから目を逸らしている。

 なぜだろうと考えてみたら、答えはすぐに出た。要するに「本を読んだって何も変わりはしない」と思っているからだ。例えば、Amazonの人気ランキングで上位に位置している本だったり、はてブの上位に食い込んだ書評で紹介されている本だったり、それはなんだって良いんだが、ふと目に入ってきた本の中には気になる物も存在している。センサーに引っかかるってやつだ。

 ここで読んでおけばなんらかの気づきが得られるだろうな、と思えるような本たちだ。感度の下がったセンサーにも引っかかるような物だから、読んだら何かを得られるに違いないのだ。

 そういった本を無視している。おそらく無意識的にだ。読書をしようと思ったらいくらでも時間はある。Twitterを削っても良いし、アニメの視聴本数を減らしても良い。でも、読むことができない。

 どうしてなのかは自分が一番わかって居る。いくら読書をしても、小説を書けるようにならないからだ。

 唐突に思えるが、これが理由なのだ。かつての自分は、読書を続けていればいずれは自分が小説を書けるようになると信じていた。そのため、暇があれば読書をし、読書をしているだけでは駄目だと思い洋画やアニメにも目を通していた。たくさんの作品を身体に通していたのだ。

 その時間は甘美だった。いつかは書けるであろう小説に向けて材料を着々と溜めているつもりだった。将来する旅行へ向けて貯金をしているようなものだ。溜めていればいつかは旅に出ることができる。そう信じて疑わなかった。

 それゆえに、難しい本を読むこともできた。難しい本を読む人間は少数なので、他の人間との差別化ができると考えたからだ。抽象的な概念を理解することが、物語の作成に役立つと思ったのである。

 ところが、いつまで経っても小説を書けるようにはならなかった。当たり前だ。小説を書こうとしていないわけだから。当時の自分が何を考えていたのかは分からない。単純に余裕がなかったのかもしれない。キーボードを叩いて文章を書くことすらやっていなかった。書いていたのは大学のレポートくらいなものである。

 ある時、一念発起してこれと似たようなブログを作ってみた。そこではアニメの感想だったり、本の書評だったり、掌編小説だったり、色々なことを書いた。けれども、それも長くは続かなかった。なぜだろう。その時は「どんなくだらないことでも良いから毎日書く」を目標にしていたのだが、少しでも間が空くとそんな目標もどうでもよくなってしまった。

 それからはブログを立ち上げては消し、立ち上げては消しの繰り返しである。多分、一念発起して作ったブログで自分に才能がないことをまざまざと突きつけられたのがいけないのだろう。今までたくさんの読書をして蓄積していたはずの知識はどこにもなく、物語を綴るにしても登場人物を描写することすら叶わなかった。

 あれ以来、「本を読んでも、ブログに日記を書いても、自分には魅力ある文章は書けない」という絶望的な事実に苛まれている気がする。日本語で金を稼ぐことは諦め、プログラミングに手を出してみたら、そちらはスカッとハマった。少し勉強しただけですぐにプログラミングだけで悠々自適とした生活ができるようになった。とは言っても、1企業のサラリーマンなので、そこまでできるわけではないが。

 でも、本当はプログラミングではなく、日本語の物語で糧を得たいのだ。いや、それは望み過ぎかもしれない。せめて、趣味でいいから小説を書いて、それが少数の人間でもいいから褒められるようになりたいのだ。けれど自分には書きたい物語が存在しない。どこまでいっても自分語りしかできない。

 ここにこうして日記を書いているのも、自分の諦めが悪いからだろう。文章を書いてさえいれば、いつかは小説も書けるようになるだろう、書きたい物語が見つかるだろうと内心では考えているのだ。浅はかだけども、こうして足掻くことしかできない。足掻けなくなったらそれこそ精神的な死を迎えるかもしれない。

 つらつらと書いてしまったが、これが現在の心境だ。あぁ、自分は読書というものを心の底から楽しんではいなかったのだな。何かの為の勉強材料としかみなしてなかったのだな、ということを改めて認識している。それでいて自分語りしかできないなんて、滑稽な話ではないだろうか。

生き悩む

 2019年になったらしい。それに対して特に感慨はない。2018年が終わったことに対して感慨が無いように、2019年が始まったことに対しても思うことは特に無い。

 色々なものに手を出してきた1年だった。それでも特に人生を変えるような物には出会えなかった。結構活発に動いてきたつもりだけども、はたから見たら大した物では無かったのだろう。

 2015年頃はまだ真剣に生きていたと思う。ブログだって真面目に面白いことを書こうと意気込んでいたし、実際にそれだけの熱量をかけた記事を書いていた。

 問題は「自分の中には何も無い」ということだ。例えば意見だったり、志向だったり、なんでも良いのだけど、全てがどうでもよく、薄っぺらく感じられてしまう。昔は面白いと思えていたものも、今では面白いとは感じられない。

 映画、アニメ、漫画、小説、フィクション、ノンフィクション、エトセトラ……

 人生なんてこんなものかな、と思いながら生きている。何かしらに熱意を持って取り組める人はそれだけでスゴイ。このブログは日記を書いている程度の気力しか使わずに書いているのに、それでも毎日続けることはできない。所詮はその程度なのだ。

 一番の問題は「自己が薄っぺらい」という点にある。自分を紹介しようとしたとき、一体自分が何を好んでいて、何が嫌いで、どんなことに興味があるのかが全く分からない。逆に言えば、どんなものでもある程度は面白いのだ。

 そう、どんなものもそこそこ面白いという点に最大の問題がある。映画だって面白い。アニメだって面白い。漫画だって面白いし、小説だって一般・ラノベに限らず面白いものは面白い。ゲームだって面白い。虚構も現実も面白い。

 そういう意味では、仕事だって面白い。認めたくない事実かもしれないが、ゲームをやっているのも仕事をやっているのも、所詮は同じことに過ぎない。目の前に課題が与えられ、それを解決していく様が面白いのだ。それは娯楽だって仕事だって変わらない。

 まぁ、面白いのなら良いのかもしれないが、自分の中にある確固とした面白さの信念は年々薄れていきつつあるのを感じる。自分が、自分だけが面白いと思えるものが消失していっているのだ。

 思い返せば、マイナーなものに面白さを見出すことに自分はアイデンティティを感じていた。でも、自分がマイナーだと信じていたものは、実はマイナーではなかった。SNSの時代には、どんな分野もメジャーであり、一つのれっきとしたジャンルなのだ。

 この時代に自分が没頭し得るジャンルなんて存在しない。なにせ「これはマイナーだけども面白い」ということだけを基準にして自分がハマれる物を選定して生きてきたのだ。全てのジャンルがマイナーではなくなった現代において、この基準は意味を持たない。

 どうすれば良いのかな、と考えても答えはでない。純粋に生き悩んでいるだけなのかもしれない。もしくは運動不足による抑うつか。

 なんだかうまく生きれてないな。趣味に没頭したくても、没頭できる趣味が見つからないのだ。こんな哀れなことがあるだろうか。よく分からない。そんな2019年です。