『麒麟がくる』最終話 果たしてNHKに麒麟はくるか

藤孝よ、お前もか!

 本能寺の変については、様々な角度から色々な解釈がなされてきた。今回は、信長こそが天下人にふさわしいと考え背中を押した光秀自身が、その責任において、暴走する信長を食い止める役割を担った。決して、自分が信長に酷い仕打ちを受けてきたからという理由ではなく、己に従わぬ者を容赦なく切り捨て、将軍や帝をないがしろにし、自分が支配者として日本の頂点に君臨しようとする無慈悲な怪物に育ってしまった信長を止める責任が自分にはある、と考えての決行だった。そして、必ず、麒麟がくる国にすると誓う。ある程度、予想はついていたが、予想外だったのは盟友・細川藤孝の以下の行動だった。

細川藤孝に覚悟の程度を問われ光秀が放った言葉。「覚悟には果てはありませぬ。」これを聞いた藤孝は備中高松城攻めの最中である秀吉に密使を送る。

藤孝から光秀が謀反を起こしそうだとの文を受け取った秀吉が放った言葉。「明智様が天下をぐるりと回してくれるわい。」

これは最後まで予想できなかった。確かに、前回の放送で、秀吉と藤孝が密談するシーンが描かれていたが、それでも藤孝が謀反の密使を送りつけるというのは気がつかなかった。一般によく聞かされるのは、光秀の毛利への密使が偶然にも秀吉の軍勢の手に落ち、本能寺の変が露見してしまい、泣きじゃくる秀吉を黒田官兵衛が説得し天下取りへと仕向けた、というものである。今回では、秀吉は泣きじゃくるどころか、反対に謀反を望んでいたように描かれていた。実際のところ何が真実かは分からない。しかし、事実として、秀吉は中国大返しを成功させ、孤立無援状態の光秀を討ち滅ぼす。およそ、歴史をドラマ化する作業には、歴史資料からは判らない、資料の隙間を埋める作業がどうしても付きまとう。資料に記述がある部分については、堂々とそれを描けば良い。では、資料に記述がない部分はどのように描けば良いのだろうか。可能性など模索し出したら、それは無限に広がる。あまりにも荒唐無稽な流れにしてしまうと説得力に欠ける。そうかといって、過去に語られてきた内容と全く同じだと個性がないと言われる。だから、歴史上の人物の人となりを出来るだけ分析して、彼ならば、こういうことをしたであろうと予測できる範囲内で描かねばならない。まさにこれこそが、脚本家なり原作者なりの腕の見せどころなのである、と私は思う。間違っても、荒唐無稽な話に歴史上の人物を巻き込んではならない。それは、歴史に名を残す者たちへの冒涜に等しい。

このような観点からすれば、上記の秀吉や藤孝の言動は、予測可能な範囲内と言ってよいと思う。

 

麒麟がくるの総評

 主演の長谷川博己氏については、アクのなさ、線の細さは昨今の俳優という印象で物足りなかったが、できるだけ聡明さと上品さが滲み出るような演技姿勢は評価できると思う。ただ、悲しいかな、拙い脚本のせいでその演技力を十分に発揮する機会がほとんどなかった。せっかく品と知謀とを兼ね備え歴史的大事件を引き起こす武将を主人公にいただきながら、架空人物が物語を引っ掻き回すという、予想していたとはいえ、残念な出来栄えになってしまった。正面から戦国時代と光秀を描くならそんな架空人物を出して活躍させる暇などないはずだ。以前も書いたが、これはNHKの悪い癖で何も今に始まったことではない。今回も今まで同様、架空の人物が縦横無尽の大活躍であった。おまけに、ご丁寧にも駒をはじめ東庵、菊丸、伊呂波太夫と何と4名も登場する有様である。彼らは、それぞれ、医者、忍者、踊り子、と武士が中心の戦国時代ではどちらかと言えば日陰の存在である。制作者側の意図が実際どこにあったかは分からない。しかし、厳しい身分制度の中、武士以外の武士よりも身分の低い職業に就いている者たちが、武士同士が起こす戦争の犠牲になる様を描いて見せることで、不幸しか生まない戦争は止めましょう、という安っぽい平和主義の押し付けが容易に読み取れる。あるいはまた、戦国時代当時は虐げられていた女性が実はいつも正しく、賢く、逞しく、有名武将の尻を叩いていたのは女性に他ならない、という男尊女卑へのアンチテーゼをこれ見よがしに見せつけていたのも目に余る。このことは、過去の大河を見ても明らかである。例えば、利家とまつ、江、直虎などがそうであった。もちろん彼女たちは(直虎に関しては男性との説あり)、いずれも歴史上の重要人物であることは間違い無いし、戦国時代に生きた女性の中では比較的活躍する機会が与えられていた方であろう。しかしながら、武士である男性を引っ張って、天下を揺り動かすほどの大仕事を一女性がやってのける一方で、命のやり取りをするはずの武士が女性に導かれるままに歴史上の出来事を起こすかのような描き方をするのは、戦国時代の武士だけでなく、彼女たちへの冒涜となろう。ましてや、麒麟がくるの駒や伊呂波太夫は架空の人物なのである。彼女らが、光秀に説教をしたり、信長に鉄砲を売ったり、将軍や公家衆と関わり、歴史のうねりに深くくい込んでいるように描いているのだから救いようがない。架空の女性まで出して、歴史をねじ曲げ、歴史上の人物の活躍をかすめとろうとするのだから女性視聴者取り込みだけでなく、ある種の偏った思想を普及していると思われても仕方がないだろう。

 

おわりに

 「万里に長城を作ったのは誰か」という質問に対して「秦の始皇帝」と答えるのは間違いで、「人民」と答えるのが正解だという話を聞いたことがある。根拠は大筋で以下のようなものだ。秦の始皇帝は命令しただけで石一つ運んではいない。実際に汗水垂らして長城を築いたのは一人一人の人民だ。秦の始皇帝とて人民と同じ血の通った人間であるから特別な人間であるかのように描いて英雄視すべきではなく、むしろ彼によって虐げられた人民一人一人こそが英雄なのだ。こんなところである。皆さんはこれを聞いてどのように思われただろうか。このような考え方はどこか寂しい。長い長い歴史の流れの中で、その名を刻まれた人物というのは、やはり名もなき民とは一線を画すると私には思える。もちろんその人物にも同じ人間の血が流れている。しかし、だからこそ、その人物のことが気になるのだ。我々と同じ人間でありながら、およそ自分には到底できるはずもないような大仕事をやってのける。そんな英雄の姿に人は憧れ、また、誇りに思うのだ。悪しき平等主義によってこういった英雄史観を廃れさせるべきではない。

 

お題「#この1年の変化

1年間、麒麟がくるを見続けて、案の定というか、予期した通りの出来だったことが残念でならない。戦国時代で明智光秀といえば、もっと様々な内容を描くことができたはずなのに。NHKには麒麟どころか架空キャラがきてしまった。

都構想 五年に二度の 茶番劇

都構想反対多数。『維新の会』の存在意義は否定された。

 

都構想

五年に二度の

茶番劇

 

 ようやくこの二度目の茶番劇が終わった。一度目は橋下氏が政界引退しそして今回は松井市長が引退を表明、吉村知事も自分の任期中は二度と大阪都構想を口にしないと明言した。彼らお得意の民意に忠実な姿は結構なことだが、一体、この『維新の会』は何がしたいのだろうか。そもそも、彼らの旗印である都構想を封印したならこの政党の存在意義はなくなるだろう。そのはずなのに、松井市長は「次の世代が…」などと敗北の記者会見で口にしている。自らの存在意義たる都構想を二度も住民によって否定されたのだから、それほどまでに、民意、民意と言うならば、潔く解党宣言するべきではないのか。都構想などというお遊びのために、金と時間を費す余裕が果たして大阪にあるのだろうか。

 

大阪を『都』とは呼べない

 そもそも都構想などというものは、道州制において、大阪を関西の雄たらしめんとする飽くなき野望がその根底にある。そして、その動機たるや、東京に勝ちたいという対抗心、あるいは、勝てないにしても、東京と肩を並べたいという、実にあさましいものなのだ。なぜ、あさましいか。大阪府民は己を顧みるがいい。私は、東京が、あるいは大阪以外の他府県の人間が、もっと言えば、そもそも、現代の平和を謳歌している日本人そのものが、非の打ち所なく立派で、かつ洗練され、また賢明であるとは全く思わない。私はこのブログでは、ほとんど、今の日本人のものの考え方や行動様式を非難している。その日本人の中にあってなお、下品の極致にあるのが大阪の人間だと思っている。その彼らが寄ってたかって作り上げ、褒め称えているものが、吉本とオバちゃんと粉もんの文化である。彼らは、これらを日本を代表する文化だと言って憚らない。もちろん、大阪が、どこか、辺境の未開の地であれば、こんなものでも、文化足り得るのだろうが、決して、日本どころか関西が誇るべき文化でもない。また、彼らは、自らの品の悪さを自認した上で、これを笑いに変え、芸人を使って売り物にしている。日本人は恥の文化だと言われて来た。しかし、その恥を捨て去り、品のかけらもない人間がいる所を『都』とは決して呼びたくない。断っておくが、もちろん、大阪の中でも、しっかりとした方々がおられるのは承知している。しかし、大阪発の放送から読み取れる大阪の人間のイメージは残念ながら、こういったものとして、少なくとも私には受け止められる。

もし、この都構想と道州制が組み合わされると、近畿一円は関西州などと呼ばれ、大阪都を頂点として、京都や神戸や奈良などは全て、衛星都市扱いとなり、その富は大阪に集められる。集められた富は、たこ焼きを頬張り低俗なお笑いを見ながら笑いころげるオバちゃんの腹の中におさめられるのだ。もう二度と、都構想など口にするな、と戒めたい。

 

今週のお題「急に寒いやん」

最近の若手芸人のお笑いは面白くも何ともない。聞いていて、寒くなる。テレビでは、褒めたり、笑ったりしてるけど、本気か?と疑いたくなる。

 

 

 

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『麒麟がくる』 駒と伊呂波太夫のせいで歴史が荒れ放題になっている

麒麟がくる

 摂津晴門の計略。将軍足利義昭を助けた功績として光秀は領地を与えられるが、実は、その領地は横領されたものであり、将軍の政所執事である摂津晴門の仕業であった。裏で私腹を肥やす摂津の悪事を暴こうとする光秀。一方、将軍を助けて上洛した信長は二条城築城後、朝倉討伐のため美濃に帰らねばならない。後のことは、光秀と藤吉郎に託された。

ーこの世で一番偉いのはお日様。その次は帝。その次は将軍。将軍は帝の門番。我らはその門番を守る者にすぎないー

信長はそう語った。

幕府は腐っており、将軍は有名無実と化しており、もはや何の力もない。御所の壁も壊れたままである。一体誰が帝をお守りするのか。いや、そもそも、帝など守る必要があるのか、とでも言いたげである。

「余は神である、御神体(石)を拝め」

これは、1992年の大河ドラマ『信長』の中の天下統一目前の信長のセリフである。今回の信長はどこまでこの狂気を演じるのだろうか。

 

 

駒がくる

 物語の半分以上を駒と伊呂波太夫に引っ掻き回されながら進んでいく。

どうして駒が足利義昭のために1000貫集める?
どうして伊呂波太夫近衛前久だけでなく、帝とお近づきになる?

戦乱で荒れ放題というよりも架空キャラで荒れ放題になっている。

いつまで、歴史を侮辱するつもりだろう。

前回も書いたが、NHKの悪い癖である。

架空キャラの活躍や生い立ちを延々と流したいなら、別の番組にしろ、と言いたい。

なぜ、普通に描かないのだろう。

視聴率獲得のため、女性活躍社会を描きたいというセコい意図がしっかりと見てとれる。

 

今週のお題「いも」

「いも」は煮ても焼いても美味しい。

光秀たちが大活躍する戦国時代も「普通に」描けば、美味しいに決まっている。

それを極めてまずい味付けをするものだから、散々な出来になってきている。

酷い料理人を雇ったものだ。

これは食卓のおかずになりませんな。

 

 

 

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久しぶりに『麒麟がくる』 

Yahooコメント欄に今更ながらの駒批判

 

帰蝶さまのいない「麒麟がくる」なんて……放送再開後、川口春奈はなぜ出演しない?(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース

 

 

 開いた口がふさがらぬとはこのことだ。

ヤフーニュースのコメント欄には駒に対する批判が多く記載されていた。

私に言わせれば、今さら何を言っているのか。

再三再四、私は言い続けてきたことだ。

世間の皆様はどうやら半年たたないと分からなかったらしい。

それどころか架空のキャラクターが歴史を引っ掻き回すのは近年大河の得意芸であることもこちらは承知している。

このコメント欄には、コロナの影響で架空キャラの露出度を上げざるを得なかったかような見方もあったが、全面的に否定はしないが、それが決定的な理由ではない。

架空キャラの活躍は企画段階から既に想定されていたのだ。

そのつもりがなければ、なぜ、4人もの架空キャラを導入する必要があろうか。

光秀の前半生が不明であることが、製作陣には幸いした。

架空キャラの暴れ放題なのである。

素人同然の浅知恵により、駒と帰蝶と光秀が三角関係になり、駒が秀吉に字を教え、駒が大見得を切って今井宗久を説得し、駒が足利義昭に信頼される。

こんなものを歴史だといって見せつけられるのである。

そのうち本能寺の変も駒が起こすのではないかと思わせるぐらいの流れである。

NHKをはじめほとんどの視聴者は、歴史文献に載っている事実と、こういった完全なデタラメを同一作品で描くということがいかに罪深いことか全く分かっていない。

以前も書いたが歴史に対する冒涜である。

実に品性を欠く行いだ。

しかしながら、理由はいくらでも付くもので、「一般人の目線から歴史を描くことでより肉厚になる」などと、『麒麟がくる』の初回放送前日の番宣で堂々とのたまった御仁がいたが、実際は肉厚どころか、薄っぺらなB級、C級の「なんちゃって歴史ドラマ」に成り果ててしまっている。

かの御仁は自分の発言に責任をとれ、と言いたい。

世間も世間だ。

架空キャラの登場をろくに批判もせず、それどころか称賛し続けてきたではないか。

半年以上経ってようやく駒批判とは、呆れ果てるばかりである。

 

 

 

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お題「気になる番組」

 

 

『デジタル庁』がもたらす悲劇 パート2

『原神』問題から考えるデジタル万能主義の恐怖と自己責任時代の到来

 

 先日、『原神』というゲームがリリースされた。オープンワールド型のアクションRPGであるが、アニメ調のグラフィックが特徴的なゲームである。さて、このゲーム、プレイするためには、PCなどにインストールしなければならないが、ここで、とんでもない問題が発覚した。一度インストールしてしまえば、あるプログラムが組み込まれ、仮にアンインストールしたとしてもそのプログラムは常駐し続ける、というのだ。そのプログラムの正体はいわゆる、スパイウェアだとの情報がネットで流れた。運営側は、チート対策として、そういったプログラムを導入したと認めたが、同時に決して個人情報取得のためではないことも明らかにした。この問題がネットで騒がれたのは、このゲームが中国産だったからである。今もってなお、このゲームが安全なのか、危険なのか分からない。結局は、運営側に委ねられていることになる。さて、菅総理が、ネットゲームをするとは思えないが、このような事態は、ゲーム以外にも十分に起こりうる。あるアプリをインストールした瞬間に個人情報が流出する、だけでなく、仮にアンインストールしてもスパイウェアが常駐し、新たに取得した個人情報が次々に流れ続ける可能性がある。さらに、そのアプリがTwitterFacebookなどと連携していれば被害は広がる。加えて、課金制ということであれば、クレジット番号や口座番号も流出する可能性があるわけだ。我々はたった一度のクリックやタップでこんな危険を招いてしまうのである。ではどうすれば良いだろう。運営側を信用するしかない。もし運営主体の国籍が我々と同じ日本なら、(それでも分からないが)一応信用できる。では、中国ならどうだろう。結局は自己責任という都合の良い言葉で片付けられる。もし、自力でウイルスを除去するだけの知識があればよいが、デジタル端末使用者の中で、果たしてそんなことができる人間は一体、どれぐらいいるのだろうか。また、ウイルス除去のために割ける時間が我々にあるだろうか。我々は当然ながら、そのアプリを一日中しているわけではない。家事や仕事や勉強などのことを考えれば、ウイルス除去作業に貴重な時間を割くことはできない。では、余分なお金を払って業者に依頼すればよいのだろうか。最終的にはウイルスは除去されても、少なからず、時間はかかるだろう。その間に情報が流出してしまうことは避けられない。

 このような危険性を指摘すると、必ずといってよいほど、どんなものにも危険はつきものだ、危険を恐れていては前には進めない、などという反論が返ってくる。一般論としては、その通りだと私も思う。デジタル化、オンライン化によって我々は、ある面では、簡単に目的を遂げることができるようになった。そう、ワンクリックで情報を送受信できるのである。しかし、同時に、ワンクリックで危険も招いてしまう。アナログ時代はそうではなかった。情報は本で調べ、互いのやりとりは郵便を使った。時間こそかかるが、危険はまずなかった。それが今では、あまりにも簡単な動作で、重要な情報を意図せず、流出させてしまう。誰にでも起こりうることである。また、ネットによりある意味、国境が取り払われてしまったことも問題である。ネットに一度接続すれば、好むと好まざるとにかかわらず、世界中と繋がってしまう。人類皆兄弟と思っている人はそれでよいが、少なくとも私は、自国民と同じ信頼を他国民におけない。デジタル化、オンライン化が招来する危険のハードルはアナログ時代と比べて明らかに下がっている。「利益の帰するところ、損失もまた帰する。」昔の人間はうまく言ったものだが、ことデジタル化、オンライン化に関しては、不注意なワンクリックで大切な情報が流出してしまうことを考えれば、無意識に損失を招く確率の高さが際立って高い。そして、損失を被った者に対しては一言、「自己責任」で片付けられる。そんな世の中に今、なりつつあるのだ。

 

 

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大阪帝国の野望?

 

都構想は大阪の野望に他ならない?

 私は、正直、大阪がどうなろうと知ったことではない。堺市がつぶれようが、府と市が統合しようが、それを決めるのは大阪府にお住まいの方々である。

ただ、いわゆる都構想なるものが他府県に影響を及ぼすのであれば話は別である。

そもそも大阪府民は、この都構想など言い出す前から、なにかというと、東京への対抗意識をむき出しにしてきた。

阪神・巨人戦から始まって、スカイツリー·アベノハルカスに至るまで、枚挙にいとまがない。

もちろん、今回の都構想がこのような軽い気持ちで持ち上げられた訳ではないことは承知している。

二重行政を解消して効率化することなどは維新の会の議員がよく叫んでいる。

ここから先は、私の身勝手な見解である。

本当に、維新の会の皆さんは二重行政解消などの大阪の健全化のためだけにこの都構想を実現させようとしているのだろうか。

否、私はそうは思わない。

都構想だの二重行政だの難しい言葉が踊っているが、やはり、問題の本質を見誤ってはならない。

そう、東京への対抗意識である。

そして、何より重要なのはその旗頭に大阪が君臨することである。

人が何かを成し遂げようとするとき、決まってその動機は単純なものである。

もちろん、こんなことをいきなり言い出すと他府県から叩かれるのは明らかである。

そこでまず、大阪府民を説き伏せる。

他府県の手前、対抗意識だの旗頭だのとはおくびにも出さず、二重行政の解消などの府内の問題解決を全面的にアピールする。

さて、めでたく大阪都になれば、次に道州制の議論を国会に問題提起する。

地方分権がもてはやされる昨今、道州制に移行することも考えられなくもない。

もしそうなれば、すでに都に移行している大阪は関西州の中心に上り詰めることになろう。

道州制がどのような形になるのかは不明だが、各州はとにかくまず、州都を発展させようとするだろう。

現在の県庁所在地が発展するのと同じ理屈である。

とすれば、現在の兵庫県京都府などはそれぞれ、関西州の兵庫区や京都区などと呼ばれて、大阪都に集められた富のおこぼれをいただく辺境の区に成り果てるだろう。

これは結局、形を変えた中央集権ではないのか。

こうなればもはや、兵庫県京都府などの歴史や伝統は、大阪の東京への対抗意識のために、非効率的だとして消え去ることになる。

まさに、今、伝統ある堺市が消え去ろうとしているように。

一度消え去った歴史や伝統はもはや取り戻せない。

しかし、効率化を前に歴史や伝説などは握り潰される。

こうした効率化を理由に歴史や伝統を葬り去るような都構想に、少なくとも私は声を大にして反対している。

他府県の富をかすめ取るだけでなく、尊い歴史や伝説、文化を消し去り、阪神タイガースと粉もんとオバちゃんと吉本に代表される大阪の低俗極まりない文化で一括りにされる関西を想像するだけで身の毛がよだつ。

一時の流行に流されぬよう賢明な判断を待つのみである。

 

 

今週のお題「運動不足」

 

この問題は決して大阪にとどまるものではない。しかし、いまいち他府県の反応が鈍く感じる。「運動不足」なのでは?

『デジタル庁』がもたらす悲劇

 菅政権は行政サービスのデジタル化のため『デジタル庁』なる組織を作り上げようとしている。しかし、私は、これについては全く感心しない。今回は、デジタル化推進の3つの問題点について書いてみたい。

『デジタルは安全』神話

 以前、「消えた年金問題」が話題になった。誰の年金記録か不明のものが5000万件も見つかったという問題である。紙媒体からパソコンに入力し直す際に起こった入力ミスが原因とされた。結局、アナログであろうとデジタルであろうと人間が関与せざるを得ない以上は間違いは必ず起こる。一見すると、デジタル機器に委ねた方が安全な気がするのが落とし穴というわけである。実際、一部の会社では、ハッキングやウイルスを恐れて、最高機密事項の管理には紙を使っているというから笑い話だ。私は、漠然とデジタルは凄いなどといったある種、『デジタル信仰』とでもいうべき愚かしい考え方からむしろ脱却すべきであると思う。

 

高すぎる料金

 行政サービスをデジタル化するということは、当然ながら、我々国民もそれに対応したデジタル機器を持たねばならないことを意味する。具体的には、各家庭にネットに接続されたパソコンなどの機器がなければならない。では、どこのどなたがネット接続のための料金やパソコン代を支払ってくれるのだろうか。言わずもがな、我々国民一人一人が負担せねばならない。電気代やガス代など生活に最低限必要なものにも毎月出費せねばならないのに、なぜ、これ以上の出費を要求するのか。通信会社を儲けさせる必要はどこにあるのか。政府と通信会社との間に癒着でもあるのではなかろうか、と勘ぐってしまう。先頃、菅総理は携帯料金の4割値下げを要求したが、そうではなく、そもそも、インターネット環境にかかる料金をほとんどただ同然にしてもらいたい。全国にwifiを普及させるのも結構だが、肝心の家の中でインターネットをするのに毎月少ないとは言い難い料金を支払うのでは無意味だ。そもそも、過去の通信手段にかかる料金はどうだっただろうか。例えば、郵便では、確かに切手代やハガキ代や封筒代はかかるがいずれも安いし、書留など特殊な手段を利用すれば料金は上がるが、決して月額料金ではない。また、固定電話は月額二千円程度だろうか。いずれにせよ、ネット環境を各家庭で整備するのに、固定電話よりも相対的に高い月額料金を追加で支払わねばならない。

 

操作中のトラブル

 このブログを見て下さっている皆さんの中でインターネットやパソコンに関する何らかのトラブルに巻き込まれた方はおられるだろうか。巻き込まれたことがない人の方が稀だと私は認識している。例え結果的にどんなに些細なトラブルであったとしても、あるいは、そもそもトラブルでもなく単に自分自身がトラブルに陥っていただけであったとしても、その間、何かしらネット上の作業に不都合を来したはずである。その原因が判明するまで作業を中断せざるを得ない。場合によっては専門家を呼ぶなりして対処する必要が出てくる。また、悲惨なのは、トラブルに気づかずに、誤った操作により、期待した結果とは違った結果になってしまうことである。例えば、つい先日のコロナの時の10万円の給付金申請がそうである。二重申請や記入漏れがいかに多かったことか。結局、ネットで簡単に申請出来ると謳っておきながら、自治体にしてみればかえって手間がかかり、結局、10万円が申請者の元に届くのが遅れてしまった。これは他ならぬ申請者の操作ミスやトラブルへの対処ミスに由来する。政府が如何にネット環境を整備したところでトラブルは必ず起こる。このトラブルに対して適切な判断を下せる能力を我々国民に求めているのである。しかし、考えてもみれば、おかしな話で、給付金申請という目的達成のために、これとは別次元のネットトラブルという問題を抱え込むのである。これが、紙媒体ならそのようなトラブルを抱え込むことはまずない。例えて言えば、申請書を書いている最中にボールペンのインクが切れたとか、最悪の場合は申請書が破れたなどがあろう。しかし、前者は、新しいボールペンを買いに行けば済むし、後者であっても、時間はかかるかもしれないが、新しい申請書をもらいに行けば済む。要は、トラブルの対処法ははっきりしていて誰であっても迷うことはない。この点が、ネットトラブルとの違いである。ネットでは、ネットトラブルに慣れている人、慣れていない人で明暗が分かれてしまう。

 

 

デジタル一本化?

 

 さて、これまで散々と、デジタル化の問題点を書き殴ってきたが、こうした問題点に対処するためにも、アナログとデジタルを併存させるであろうことは、私も承知の上である。10万円の給付金について、郵送による申請とオンライン申請の2つが提示されたことは記憶に新しい。が、しかし、私はあえて言いたい。やがて、そう遠くない将来、デジタル一本化にする腹づもりではないだろうか。先に挙げた問題点に対する回答など何とでも言える。「アナログでもデジタルでも間違いは必ず起こるのなら、利便性を優先してデジタルにしましょう。料金が高いというが、洗濯機や冷蔵庫やテレビだって皆さん買っているでしょう。それに、トラブルがない家電はありません。専門家を呼んだり、買い替えればいいではないですか。いつまでもアナログにしがみついていると、諸外国に置いていかれますよ。」私には国民にデジタル教育を施す未来が見える。

 

 

 

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

 

世の中がデジタル化すれば、アナログで育った老人が最も被害を被るのかもしれない。

送れたかどうか分からない画面上のクリックよりも、実際に郵便物を投函する方が確実であることを最もよく熟知しているのはこうした老人である。