paper sky

マンガ作家、コジママユコのweblogです。

いちばん信仰されている神様の名前

「わたしの居場所」というお題でマンガを描きました。

comici.jp

 

さらに賞までいただき、インタビューをして下さいました。

withnews.jp

 

居場所、というのはきっと、自分が自分らしくいられる場所のことでしょう。だからこうこうこういうプロセスを経て、わたしは自分の居場所を手に入れました、という流れの物語が王道なのだろうけど、ちょっとそういうものは描けなかった。居場所…。なかなかないので。

場所にはその場所その場所の不文律として「いていい資格」のようなものがある気がする。その場所にいるためには、まずふさわしい肩書きがいる。学校にいるためには学生。会社にいるためには会社員。それプラス資格として、「学生らしさ」、「会社員らしさ」のようなものも要求される。もちろんたとえば不良グループにも「不良らしさ」が求められている。(ルールを守ることで保たれる集団より、ルールを破ることで保たれる集団のほうがルールの破り方のルールはきびしい。)

家庭、にいるにしても家族という肩書きはいるし我が家らしさを守る資格はいるし、ほんとうにただそのままでいていい居場所というものはないな(会社より家庭の方が居心地はいいとかはあるにせよ)。

そして資格がないことを責める言葉として、私にはとても気になるものがある。

 

「おまえは普通じゃない」という時の「普通」だ。

 

続きを読む

公平な試験(「面接あるある」によせて)

『面接あるある』という作品をコルクbooksに描きました。

その作品をシャープさん(@sharp_jp)がコラムに書いてくれ、それが素晴らしかったので、ぜひ、読んで‥。

就活がつらい&つらかった人は是非是非読んでほしい。

(作品もこちらから読めます↓ 企画内で入賞にも選んで頂けました)

https://comici.jp/cotori9/episodes/5b2ca6e29a035


 

今回のマンガはコルクbooksの「#面接あるある」というお題で描いたものです。私がお題にそってマンガを描くときは、そのお題にまつわる経験の中から描きたい「感情の動き」を持ってきて、それを再体験できるように、エピソードを配置して描いている。私の今までの人生の中でいちばん大きな挫折として「面接」があったので、「#面接あるある」というお題を出されたらこういうふうに描くしかなかった。長い就職活動のなかで面接に受かったことはほとんどなくて、それでも続けた理由は「新卒でこの先のキャリアが決まる」という強迫や、「一度非正規になると正規になれない」という強迫や、「新卒無業では経済的に死ぬ」という強迫や、さまざまな暗い強迫があったけれど、一番は

 

「落ちるには落ちるなりの理由がある」

 

という思い込みによる強迫だったかもしれない。その思い込みはもちろん私個人だけのものではなく、周りの人ほとんど全てが持っていた思い込みだったと思う。落ちたのは落ちた人間が「悪い」から。型にはめられて点数をつけられるのがどれだけ辛くても、試験に合わせてPRできない方が悪いとみなされる。「あなたが悪い」という視線しかない中で流れに逆らっていくことは、できなかった。

 

「試験」というものがあると、それはとても公平なものだ、と人は思うらしい。筆記試験で満点をとると、あたまがいい、と言われる。筆記試験の内容が丸っきり入れ替わっても満点をとると、あたまがいい、と言われる‥。試験はどうやら、知識や条件を満たしているかといった人の中身を確認するものであると同時に、その形式によって、「人を峻別する」というもう一つの機能があるらしい。受かった人にぺたりと権威のラベルを貼って、落ちた人より格上に置く。スティグマを発生させてしまう装置。

当時はよく就職課カウンセラーの元に通った。目の前に落ちた人間がぽつんと一人いるとき、カウンセラーは落ちた人間の中から理由を探す。試験は公平で、落ちた場合は受験者の側に問題があるという前提は疑われることはなかった。そうしてそのスティグマを払拭するためには、ただ一つ「試験に受かる」しかありえないのだった。実際、払拭できなかった私は、何年たっても言われた。「君の場合は、本人に問題があったからだよねー」と。

 

どうしても、思い込んでしまうのだろうな。公平な試験で選ばれた結果が正しかったら、考えなくていいから楽だ。私だって今回は当事者だったけど、自分が直接関係のないことには、正直自信がない。

ただ、「試験は人工物なので絶対の指標になりえない」「人に対して何が悪いとか一方的に裁判できる人はいない」ということをちょっとでも思い出せたら。「試験」の外の一回り大きい構造が見えてくると思う。どんな視点で選ぼうとしていて、どんな視点を、取りこぼしているのか。

 

ほんとうはずっと復讐をしたかった。でも、敵に実体がないから。就職課の職員とか面接官とか就活ビジネスとか、そんな仮想敵なんかどれだけやっつけても意味ないだろう。構造から壊さないと。構造が言わせている思い込みを外して一つ一つの嘘を無力化していかないと。それ以外に方法はない。そうやって抑圧を一つ一つ外していくのは、物語の仕事であるような気がしている。

 

 

私たちの庭、あるいは解毒する物語

 ありがたいことに、マンガの制作について相談に乗ってもらえる機会を頂けて、「どんなものを描いていきたいですか?」というお話を聞いてもらった。

私は元々、どこにも出しようのない考え事の置き場としてマンガを作っていたのだけど(役に立ちにくいものとか、観念的すぎるものとか)、これから先も続けていくにあたり、誰に届けたいとか、何に役立って欲しいとか、そういう他者に向けたイメージを、少し戦略的に作っていったほうがいいねというお話をしました。

その時は、人のいわゆる「生きにくさ」のようなもの、なんとなく社会にうまくフィットしないと感じている人のために‥ということを話したのだけど、上手いこと言語化できなかったので、改めてここにまとめてみようと思います。じつは一度前にもステイトメントをblogに書こうとしたことがあって、でもその時同時に描いていたネームがぜんぜんダメだったのでやめたのだけど‥その時はほらやっぱ能書きだけ立派でもダメなんだと思って‥。でも、頭の整理のために一度書き切ることにしました。言語化したら乗り越えていけるので。

 

--- 

生きているとたくさんの言葉を言われる。「そろそろいい歳だし結婚は?」とか、「いいものを身につけないと出世しないぞ」とか。それがなんの根拠があるのか本当は分からないけど、人は言われた言葉から意味や論理を読み取ってしまう。どうやら大勢の人が信じている物語があるらしい。そこでは人間は生きた年数に従って課題をクリアして、成功を目指す道筋を生きるらしい。ほんとは課題になんの意味があるか分からないけど、みんなが信じているから。

そうして時に、その物語が「わたし」を傷つけることがある。「数ヶ月で退職するようじゃ一生何やってもダメ」「結婚できないとか人として問題があるんじゃない?」‥。物語の構造に従って人は簡単に人を「負け組」とみなすことができる。人は分析力を持っているので、息を吸うように他人を裁判できてしまうらしい。

でも、ちょっと待って。本当にそうなんだっけ?もともと何が根拠なんだっけ‥?目につく周りの全員に価値がない奴を見る目で見られても、自分を全部完璧に諦めきってしまう前にいつも少し、戸惑いがのこる。

そんな時に「わたし」は物語のページをひらく。

そこにはのび太みたいな怠け者の「わたし」がいて、夜神月みたいな不遜な「わたし」がいて、「こうすべき」「こうしなさい」という大きな物語から取りこぼされた変な物語がある。そこには、理解されなかったわたしの感情の輪郭がくっきりと描かれて置かれてある。そこでちゃんと感情の形を確かめた後には、どうして負け組といわれた「わたし」が本当は負け組でなかったかが、わかるようになる。小さな変な物語が「わたし」を語りたがる大きな嘘の物語からの逃げ場になる。安全な私たちの庭。

私は人を応援するために二つの方向性があると思っていて、一つは、既存の構造に従って負け組を勝ち組にしていくこと。もう一つは、既存の構造を疑って勝ち負けを拒絶していくこと。今は後者の方向に人をエンカレッジしていくことに関心がある。マンガを通して少しそれができるような気がしている。気がしているだけだけれど‥。そしてあんまり頭でっかちになったらつまらないとも思うけど。

いちばん役に立つ、一見一番役に立たないものを作ってみたいと思う。既存の構造に則った生産性から遠く離れて。

---

 

(しかし書いた言葉にしばられるのはいけないから、これに拘らずにどんどんアイディアは出していきたい)

 

学校がしんどいほどまともな感受性のために

「#学校がしんどい君へ」という企画に参加している。

 果たしてこのテーマで描いていいのかな?

というのが最初に思ったことだった。with you. だって、現実に、今、私の隣にだれも10代の人は、いないけれども。こんなに切実な人の命が関わるようなテーマで、勝手な解釈を押し付けるのは偽善ではないのか?

しかし、結局描くことにした。わたしが学校がしんどかった時、学校がしんどいことが恥ずかしくて恥ずかしいことを絶対に知られたくなくて、何重にもうすいセロハンを巻かれたような自意識の地獄のなかで暮らしていたときのことを、作品に描きとめておきたいな、と思った。だから、本当は私の作品はwith me かもしれない。I am with me.(あれ、あたりまえだ‥)

corkbooks.com

 

10代だった時の不幸は、今思うと「自分のことを他人が語りすぎる」ことにあったと思う。お説教されすぎるというか。例えば、「学校がしんどい‥」と子供がつぶやいたとき、「学校がしんどいなんて怠けだ」とか、「社会はもっとしんどいのに学校でくじけてはいけない」とか、「私はこうである」と言うと、「おまえは本当はこうだ(こうすべきだ)」と言い返されてしまう。そして、大人と子供の言ってることが違うと、周りは大人の方を信用する。

感情は、感情の輪郭をすこんとそのまま言葉で抽出できた時に、自覚されるのだと思う。感情の認識の枠組みは言葉だと思う。だから、ずれた言葉として取り出されてしまうと、自分の感情がわからなくなる。学校にいたとき、周りの言葉が分からず自分の気持ちが認められなかったときの恐ろしい所在無さは、言葉を失っていたということだったのだろう。

(周りが言っている理屈が正しいのか、私の違和感が正しいのか)とずっと思っていた。私が間違っているのかな、とずっと思っていた。そうじゃないよ。正しいのは、違和感の方だったのよ。

だから、もし今いる環境の中に自分の言葉がなかったら、本の中に自分の感情を探すことをお薦めしたいと思う。言葉は公共物だから、感情を表す言葉はまずは自分が書かなくても良い。文豪だって言葉を発明はしていなくて、本を読むことによって言葉を学んだのだから。学校がしんどい程まともな感受性は、かならず無数にある言葉の中から、あなたの言葉を見つけられると思う。ちょっとでも不快だなと思ったら、それは今のあなたのための本ではないから読まなくていい。

---

最後にすこしだけ、私の選ぶまともな感受性のための本を紹介します。

1.ひとかげ

www.hmv.co.jp

10代の頃熱中して読んだよしもとばなな吉本ばなな)さん。カップルの話なのだけれど、乗り越えられない不幸や分かり合えない感情を無かったことにせずに、それでも相手を愛そうとする欲望の美しさに打たれる。

 

2. 3月のライオン

3lion.younganimal.com

今一番元気になるマンガ。疎外や失敗を正面から描ききっていて、すばらしい。失敗しても人生はつづくのだ。私は林田先生が好きです。女の子なら、香子ちゃん。彼女は救われるのだろうか‥。

 

3.キリンの子

amwbooks.asciimw.jp

いま孤独を書かせたらこの人の右に出る人はいないのではないか。歌人「鳥居」による第一歌集。「空しかない校舎の屋上ただよいて私の生きる意味はわからず」。巻末の掌編小説『エンドレス・シュガーレス・ホーム(第三回路上文学賞大賞)』もすばらしい。

 

‥ほかにも、マンガで引用した川上未映子『先端で、さすわさされるわそらええわ』芥川龍之介『歯車』、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』、森田正馬最果タヒ市川春子、などなどなどなどたくさんあるけど、鬼長いブログになってしまう‥!本はとてもいいよ、人と違ってどれだけ寄りかかっても壊れないから。永遠の味方になります。

 

追記

企画内でなんと私のマンガが大賞に選ばれ、インタビューして頂きました。

あわせてお読みください。

withnews.jp