猫とヤモリ

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近所の猫がヤモリを捕まえて遊び道具にしているところを目撃。まだヤモリが生きていたので、猫の痒い所をかいてあげて油断しているすきにヤモリを保護。安全な場所に逃がしてあげました。

生き物って大事。

今できることをする。

ティーポイント募金から寄付してみました。
http://tsite.jp/donation/index.pl

いつかいつかと夢ばっかり追ってこんなに時間がたってしまった。

小さなことでもいいから何かする。
そう決意しました。

鬼才キムギドク監督新作『STOP』

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突然ですがこの度、鬼才キムギドク監督新作『STOP』のスタッフに参加させて頂きましたので報告致します。

実は『STOP』の東京上映初日にお客として観に行ったのですが、その帰りに、映画舞台となった新宿のネオンを観て帰る途中、何だかいたたまれなくなってプロデューサーの合アレンさんに連絡してお手伝いの申し出をしたのです。ダメもとでしたが心良く承諾してくださり、現在に至ります。

この東日本大震災を題材にした映画です。まだまだやれることがある。そう励ましてくれる映画です。

東京上映は終了しましたが横浜ジャック&ベティで7/8〜7/14まで上映されます。この機会を是非お見逃しなく! #stop #キムギドク #東日本大震災 #合アレン

公式サイト
https://www.stop-movie.com/story

ジャック&ベティ
http://www.jackandbetty.net/cinema/detail/1293/

宗教を読み解く重要キーワード「修行」

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【修行】

人々は死を克服するために死に価値をつけた。飾られた世界。天国。神の国。そうした抽象概念は分かりやすく言葉で説かれてきた。聖書、経典によって。

言葉以外で外界を理解することは、体験を通して行われる。奇跡を体験した人は、精神的な変化を経験し悟ったり回心したりする。

 

イッチャンドン監督の映画「シークレットサンシャイン」では、牧師の説教によって(つまり宗教体験によって)回心する描写がある。これがまた物凄く異様な光景にもみえるかと思えば、文脈から至極自然にもみえてしまう。


これは生まれ変わりの儀式であり、一種のイニシエーション(通過儀礼)ともいえるだろう。子供から大人になる成人式はその典型で、新しい自分に生まれ変わる儀式だ。

 

宗教学者島田裕巳氏は、道元の修行について取り上げ、『イニシエーションは永遠に繰り返されるものだ』ということ説明している。

修業と悟りは同じものであるという「修証一等(しゅしょういっとう)」の考え方は道元思想の主要な考えのひとつだろう。

「修」は修行、「証」は悟りのこと。修行に終わりはなく、悟りにも終わりがない。

 

日本は式や節目の行事など、イニシエーションが行われる場所はたくさんあった。いまはどうか。もし、そういう機会が少ないのであれば自ら日常に修行を取り入れるしかないだろう。もし、イニシエーションが行われなかったらどうなるか。ことのほか簡単に人格の破滅をもたらし、社会を崩壊さえてしまうかもしれない。

 

映画「ディストラクションベイビーズ」というタイトルが強烈に、恐ろしいほどに目の前にのしかかってくるのであった。

 

おわりに 

「修飾」「修辞」「修行」

修めることが宗教だと最初に述べたのだけど、人々が歩んできた宗教の歴史をそんなに簡単に述べることはできないでしょう。ただ、三つ単語をこう言い換えたらどうか。「デザインする」「わかりやすくする」「生活する」どれも極単純に日常で行っていることだろう。無宗教だと思う人は何かでその機能を代用したり補完したりしているのだろうし、信仰の強い人も実は当たり前の営みをしてきたとも考えられる。修めるという観点から宗教をみることできっと今までとは違ったふうに見えてくると思うのだ。

もう一つ、言及していないのは「契約について」だ。神の存在を知った後の誓い(律)の話。また別の機会に調べて纏めてみたい。

 

参考文献

島田裕巳『宗教はなぜ必要なのか』知のトレッキング叢書

イチャンドン、映画『シークレットサンシャイン』

真利子哲也、映画『ディストラクションベイビーズ』

   

 

 

宗教を読み解く重要キーワード 「修辞」

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宗教がなぜ必要かと言えば、死を克服するために死に意味づけをしたということ。つまり、死を飾る。

ことばを飾ることを修飾するというが、そこから類推して、修辞についても言及しようと思う。修辞つまりレトリックについて。

 

宗教学者の中村圭志著書「宗教のレトリック」ではレトリックの観点から宗教を考察している。

レトリックとは簡単に言えば言葉のテクニックだが、その中核にあるものが比喩である。

一番なじみやすいのは、例え話 。寓話。

 

大学時代に、キリスト教概論という必修科目があったが、その講師は実際の牧師で、映画の話を交えながらキリスト教を説いていたのが印象的だった。お坊さんや牧師はいつも例え話をしてくれる。
私たちは理解しがいたい真理を比喩を利用して理解する。

 

寓話はレトリックの世界では諷喩とも言われ、隠喩の一部である。隠喩は「 ~のようだ」とか「みたい」を使わない方の表現だが、占いや予言なども諸に隠喩的である。例えば、タロットカードに描かれている内容を解読して示される予言。「カード」=「 自分の未来」であり、カードと予言は隠喩的である。極端なものになれば、自然災害が終末の兆候だと予言する教祖もいる。

 

その他、換喩と提喩というものもある。
換喩とは、例えば「ホワイトハウスが重大政策を発表した。」と言うとき、「ホワイトハウス」は「大統領」を表す。つまり、隣接に関係する比喩。

提喩とは、例えば「海の向こうに帆が見えた」と言うとき、「帆」が「船」の意味を持つ。つまり、一部分が全体を表すこと。

前者は、神の代わりに他のものを崇拝するフェチ。後者は、本質だけに固執する考え(本質主義)として表れる。

 

占い、フェチ、本質主義はどれも一歩間違えればとっても危ういもの。だからレトリックのカラクリを知って、うまく付き合っていく。それが大事かもしれない。

 

参考文献

宗教のレトリック 著者:中村 圭志.
出版:トランスビュー

 

宗教を読み解く重要キーワード 「修飾」

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宗教をうまく利用する。そんなこと言ったら怒られそうだけど、宗教を理解する為の三つのキーワードを考えてみた。

 

それは、修飾、修辞、修行です。
つまり、宗教とは修めることだと悟った。修めるとは、正し、整え、直すこと。なんてことない。本来は誰にでも役に立つものなのだ。
特に物事を考えたり、創作する上でのツールになるだろうと考えている。 

 

「修飾」
人々は死を装飾した。

我々は死を意味づけ、「無意味な死」から「意味のある死」にするために宗教が必要だった。
島田裕已著『宗教はなぜ必要なのか』によれば、仏教キリスト教も死を意味づけるために確立されていったという。
日本の仏教でいえば西方極楽浄土への往生。
キリスト教で言えば原罪からのキリストの復活。どちらも、死というマイナスの価値をプラスの価値にしたのですね。

 

 

諸行無常入門 vol.5 「 流動体について 」

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小沢健二が19年ぶりシングル『流動体について』をリリースして、自分のほうも久々にシングルを買って、ミュージックステーションも見て、ドキドキした。(気づいたらもう3ヶ月経ってしまいましたが。)ちょっと備忘録。自分なりに整理したいので書き留めておこうと思う。

・日本の良さ
ニュースZEROのインタビューや朝日新聞に掲載された全面広告記事をチェックしてみると、小沢健二は日本の良いところについて言及している。具体的にはざっくりだが、「日本人がすぐ謝ることは、悪いこととはいいきれない。」とか「日本の食パンは、きめ細かくてハイレゾ。そのセンスは日本の良さだ。」というような内容があった。細かいところに気づくこと、きめ細かい感性。それが日本の良さなのかもしれない。

・気づける日本人
森田芳光監督の『の・ようなもの』という映画で主人公の落語家、志ん魚(しんとと)が街を歩きながら目に映る情景を頭の中で淡々と言葉にしながら歩く名シーンがある(これは落語の「道中づけ」という一種の型である)。
通り過ぎたらすぐ忘れてしまうような日常の刹那を形に表している点が非常に面白く、印象に残っている。
小説家や、作曲家を志す人にとっては日常の瞬間的な発見を形するのが仕事ともいえるだろう。日本人は古来から芸能や和歌でこうした機微を表現してきたのだ。

・流動的で普遍的な言葉
先の新聞広告では‟歴史の連続性”と題して、歴史や文化に普遍性があることを述べているが、‟流動体”もこの普遍性と深く関わっているように思う。流動体は普遍的なのだ。
流動性(変化すること)=普遍性(すべてに共通すること)」ということは逆説的にみえるかもしれない。これは前に説明した諸行無常と考えれば良いだろうか。「つまり、巡り巡ってみんな一緒」ということと照らし合わせると何だかしっくりくる。
ここで参考になるのが池上嘉彦の「記号論への招待(岩波新書)」だ。
言葉は記号という観点からみると、そこには「固定性」と「創造性」がある。
記号とは意味づけられたもの。例えば、標識が「止まれ」とか「進入禁止」とか意味することを考えれば分かりやすいが、これは習慣的に固定化された記号である。つまり、共通の認識という普遍性が成立している。しかし、記号には、文化を創造する美的機能がある。言葉には、意味を固定化すること‟ことばの牢獄”と、それを超えていこうとする「創造性」の二面性があるのだ。詩人は ‟ことばの牢獄に挑む人”だと池田氏は表現した。
‟言葉は”普遍的に流動的に時間や空間を超え、‟都市を変えていく”

絶えず移り変わる世界。それを固定化してしまうのもの言葉。それを乗り越えるの言葉だ。日本人は、きめ細かい食パン的な感性を持って普遍性を常に新鮮なものにしていけるだろう。その移り変わる一瞬を微分的につかむとき、それは言葉となり文化(歌や小説などの精神活動)となって相手に届くのだ。

もう一つ、歌を受け取る私たちも創造していることを忘れていはならない。「‟神の手”はアダムスミスの?それとも釈迦の?」とか「‟だけど”は何を受けているのかな?」、「二回目の‟もしも”の主節はどこかな?」とか思いながら。私たちはそのテクストからが新しい気づきを生み、言葉を生み出す。結局、僕はその刹那を探してしまう。言葉を借りていうなら‟良いことをする決意”を持ってこの瞬間を書き留めておこうと思うのだ。誰かの流星になりますように。しんとと。しんとと。
参考:
『流動体について』小沢健二 Universal Music
qetic記事/朝日新聞広告(2月21日)
https://qetic.jp/music/ozawakenji-170226/236406/
『の・ようなもの』森田芳光 KADOKAWA / 角川書店  
『記号への招待』池上 嘉彦 岩波書店
引用は‟”によって表す。
#流動体について

STOP/キムギドクを観よう!(ネタバレなし)

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東北で育った筆者にとって被災地のことはずっと気がかりだったが、実際には、生活に追われ、ちょっとした節電をするくらいで何も出来ずにもう6年も過ごしてしまった。


それでも何か行動に移さなければと先月東電から再生エネルギー(89.1%)のパルシステムに乗り換えた。契約にこぎつけるまでひと苦労あったので、これはまた別の機会に述べるとして。


昨日キムギドクの新作「STOP」観に行ってきた。
新作といっても2015年の作品で、『THE NET』の前の作品である。第20回釜山国際映画祭で見逃して、もう観る機会はやってこないのかなと思っていたが遂にその機会がやってきた。もちろん。アンコール上映ではない。配給が決まらなかったのだ。

 

なぜ、世界が認める監督の作品に手を上げないのか。彼は山にこもってスランプを乗り越えたのだから、日本に来てまで苦境に立たせないで!


キムギドクはインタビューで「日本の監督がこのテーマを撮らないから、自分が撮らなければいけない」と語っていた。せっかく、重要なテーマを撮ったのに。それを広める場所がなければ元も子もない。

 

出演者で、プロデューサーの合アレンもそう思ったに違いない。今回、彼女が配給まで担当して、彼女のおかげで劇場公開が実現したようだ。キムギドクファンとして、
そして東北出身として感謝したい。

 

彼女の快演にも注目してほしい。内容も訴えかけるものがあった。舞台は福島と新宿。観終わったあと、新宿K'sSinemaから帰る途中に明るい街並みを見ながら考える。もっとできるがはずがあるはずだと思った。

 

キムギドク、合アレンがそうしたように、何かするべきことがある。
今回の利益は福島の復興支援に回るそうなので、キムギドクファンはもちろんのこと、多くの人に観てもらって劇場数を増えることを祈っています!

 

STOP オフィシャルサイト