無造作に

眠りにつくまで、話をしよう

逃走迷亭

「どうして生きるの?」「生きたいの?」「「それでも何かしていたいの?」

分からない。そんなの知るか。自問自答のような、誰かと話しているようなやり取りを無為に繰り返す。様々な思考・感情が流れていって、僕はそれらを受け取れない。昔はそれを確認する為に腕を切った。それで自分の何かが満たされたし鬱屈な感情が流れ出していくように感じた。様々な感情と周囲の期待全ては受け取れない。受け取れなかったんだよ。受け取ってしまったら生きることを強いられる。それが嫌だった。それに背きたかった。それに抗いたくて逃げたくて、ひとり授業をサボったり、学校がしているカウンセリングを受けたり、成人してからはもっぱら煙草を吸うようになった。そんな自分は、果たして生きてるといっていいのだろうか。


ここ数か月、夜が寝れない理由を忘れていた。睡眠はほかの人格に任せていたからだ。それで解決して物事がうまくいっているように思えていた。実際、朝起きると体の重みと眠気に死にたくなり、起きている間は地獄だった。処方されている覚醒作用のある薬を飲んで無理に起きて無理やり日々を過ごす。

そんなある日、ほかの人格が酒と薬に頼って寝ていることを友人伝いで知った。



私はその行為を咎めず、
ただうらやましく思った。



私は酒は飲んでもあまり楽しめない。薬での現実逃避もできない。
ただうらやましかった。でもまぁ手遅れになる前に止めた。
それから最近は自分でも寝る日が増えた。夜が怖い。けれど眠気がやってくれば案外楽に寝れた。

 

夜が怖い、というのは違う。夜は静かだから好きではある。僕の睡眠への恐怖は、過去父親から性的虐待を受けていたため、それを防止する為に眠らないよう必死だったから。私が起きていればあいつは何もしない。それがこの体には沁みついてしまっていた。それが寝れない理由だった。友人にそこをつつかれ、忘れていたことを思い出した。
まぁこれらの話はここで終。

 

僕はひとり思考しててぽつりと、知り合いが欲しくなった。友達じゃなくてもいいから。誰かを求めていた。誰の心にもいれなくていいと思っていた半面
「ああ、この人の中にはもう私はいないのだな」と思うことが増えた。
人は年をとって大切な人に出会って、そして人生を生きていく。

自分はノンセクのつもりだけど、よくわからない。アセクなのか、それともまた違った生き物なのか。どこにも属すことが出来ない。久しぶりにLGBTQ界隈のツイートを覗くと、相変わらず論争が激しくてすぐに画面と閉じた。
こんな時期、誰かとどこかに行くのも面倒というか、コロナのせいで無理だろう。友人も忙しそうで、私は鬱になって動けないままでいる。


自分の幸せは自分で見つけけなくちゃいけないのはわかるんだけど、何か甘い蜜か何かが頭上から降ってきてほしい。なんという他力本願ぶり。でも、もう動けないんだよ。

 

これからはとりあえず、寝たいので横になる。おやすみなさい。

響かぬ心と伽藍洞な心音

最近、、記憶がぐちゃぐちゃになることが多い。
何を書きたかったのか分からない。けれど感情の濁流は止まらない。感情が胸から溢れ出ていて、この感情たちの処理の仕方が分からない。
ペンが置けない。筆が置けない。描くこともこうして文字にすることもやめられない。それはきっと誰かに見てほしかったからかもしれない。けれど、どちらかといえば、これは一人芝居に近い。ひとりで泣いて縋りたい手をすべてを薙いで、全力で己を否定したい。すべてを壊したくなる。また、こんな文章ですが、お付き合いしてください。
 
頑張っても、遠くに行っても、何も変われない。氷を食べて口の中がが痛い。昨日から左手が痛くてうまく動けない。上手くいかないことが多い。何も描けない。歯医者にも行けてなくて歯だかよくわからない場所が痛い。心が痛い。痛いことが痛い。段々右手も痛くなってきた。否定をしても何も変わらない。頑張っても何も変わらない。続けることで変わるのだと知っている。けれど自分は間違いなく間違ってて、矯正しようが無くて、自分は自分にしかなれない。自分はどこまでも自分で、自分にしか成れず、ひとは孤独である。だからこそ気づけることが多い。
苦しんで創作をしている僕を肯定してくれた人がいた。
その人は「苦しみがなければ創作活動はできません」と言った。
それなら、楽しく創作している人は何なんだ。
いつも眩しくて、自分もあんな風に楽しめたらいいのにと、思ってしまう。楽しい中での苦しみがあることは知ってる。創作の苦しみは知ってる。

じゃあどうしたらこの痛みは治癒されますか。創作とは自分と向き合うこと。自分の傷とも向き合うことだとその人は言った。これ以上何に向き合ったらいいんですか。これ以上何を否定すれば自分あきらめて死ねますか。どうしたら死に焦がれることをやめられますか。どうしたらこの確信を覆すことが出来ますか。

眠たい世界を見つめ続けて

その虹彩は何を捉えているだろうか。


どうもこんにちは。
前回言っていた約束は継続する形になりました。
友達も解離持ちで、他の人格同士の方が冷静に話せるし、互いに無駄な傷付けあいをして精神を乱さない方がいいということで他の人格に任せました。彼と彼が長い話し合いをしてくれて、結論が出ました。知れたこともあります。

苦しみが続いているのは自分だけではないということ。
あの約束があるから、彼の主人格、つまり僕の元恋人はそれでやっと冷静になれるということ。
お互いにまだ傷が癒えてない事を知ったのです。あの頃を笑い合えるようになったのは、その約束を守り続けてきて、人間関係が修復されていっているからだと。
後に人格づてでそれを知り、知ることはこんなにも難しかったのかと思いました。

自分はいわゆるボダ持ちでした。今もそれが尾を引いていたり、突然感情が爆発することがあります。その癖というか、刃が出てしまったのだなという結論に落ち着きました。約束を守り続けていくことに不安を持った、らしいです。とりあえずそれで完結。約束は継続していきます。



その後「灰が自殺すれば、あなたたちは解放されるのではないか」と問うたそうで、「灰が自殺したらそれは呪いにしかならないよ」と言われました。


それを聞いて、生きるって難しいな。どうしてそんなに友達でいてくれようとしてくれるのか、分からなくなり、ただ別人格の報告を心の中で復唱するだけでした。
どうして、どうしてと、思うばかりで。
前回綴ったと同様に、僕が誰かを大切にして想う様に、僕も誰かに想われている、大切にしてくれている人がいる。正直それだけで死にたくなった時もあります。「僕なんか、僕なんか、僕なんか」って、自己を否定し続けていました。


まだ、僕は僕を許せないし好きになれない。


最近はそれをぼーっと考え、希死念慮が隣にいて、そのまま生活しています。僕の受け皿はとっくに壊れてて、ただ、浴び続けるしかないのです。さんざん自問自答した結論です。
死ななくていい。でも生きなくてはならない。
けれど胸に秘めるものは各々自由で抱えてるものも言わなきゃわからず、只見目で何かの尺度を付けたくないし、知ろうとすることしようと強く思いました。

僕は人生にも人の世の物事にも身の回りの人間関係にも頓着がない。だから、怒るべき場所は怒れないし、冷静に第三者目線から何かしら言える。そういう人間なので。直す気はありませんがもう少し目線を自分の目線に近づけようと思います。

調律しないと崩れる世界

心ってなんでしょうね。
私にはどうにも分からないことだらけで、理解できないところは聞くけれど、それでも分からない時は割り切ってる。そいう世界もある、そういう人もいると。

 


個人的に書き留めてるメモに「死んだら幸せ」とあった。この文字を読んだ時涙が溢れて止まらなかった。どうして、どうして、その問ばかり出てくる。


頭が痛い、泣いたせいだろうか。久しぶりに泣いて、思い出したのは元恋人の友達のことでした。とある約束をしてて、それをずっと守ってて、それが枷になってることに最近気づきました。ソレがあることでいつまでも前を向けない自分がいました。
最初は償いのつもりだったかもしれない。
けれどこれが償いというなら、今のこの関係は対等と言えるのだろうか。という疑問を持ってしまった。今度話せたら話して、その約束をどうするかふたりで決めようと思う。もしかしたら関係が壊れるかもしれない。けれどいい加減前を向かせてくださいと伝えたい。いつまでもソレが後ろをついてきて、離れてくれなくて、未来のこと、新しい出逢いや物事を求められずにいるんだと。


話して、分かってくれるだろうか。分からない。
腹を割って話そう。君の腹の内も見せて欲しい。


涙が止まらない。頭が痛い。離人が起こって沢山のエラーが出てる。私たち、どうやって生きていたら正しい形になれたのかな。涙が止まらない。誰も僕を見ないでいい。誰かの何かになれなくていい。僕は傍観者でいたくなかったけど、もう間に合わないと思うから。何もかも手遅れだ。いい加減死ねたら、いいのに。それだけなんだけどな。そんなことを毎日考えてる。


いつもの文通相手から手紙が来たので返事に何を書こうか悩んでいる。その人も同じところをぐるぐる回って苦しんでいる。いくら励ましても本人が動かなければ意味が無い。しかし、励ますことはやめたくはない。ああ、友達は思いやれるのに自分に対してどうしてこんな粗雑なんだ。私が友達を大切に思うように、彼等も私に友情やら、何かしらの感情を抱いてくれている。分かってはいる。けれど自分を好きになるのは難しい。

 

自分、愛せないです。
 

衝動と願望に蝕まれる

19日に記録していたものを残しておく。
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5月ももう、今日で19日。
なんだか、早いような、遅いような、よく分からない感覚で日々を過ごしている。自粛ムードのせいですっかり鬱。正確にはただ疲れただけではあるけど。外に出る自由があってこそのひきこもり、というタイプなんだと実感した。
今日は夜中の2時半から友達と作業通話をしていた。朝の5時半に切り上げて、ベッドに入って二時間くらい寝た。作業の進捗はまあまあ。でもどこかで心がふわふわしてる自分がいた。
最近ずっと、自分は何がしたいのか考えている。僕は創作がしたい。絵や漫画を描きたいし、文字だって綴りたくて、アート方面のこともしたい。アート方面とは油絵の事だけど、恐らく描くものは変わらない気がする。自分の根底部分はそうそう変わらない。変われないんだよ。思い続けている思考嗜好の数々、描きたいものを思い出しながらそう強く思う。環境が変化しても、描くものが変わっても、自分の根底のモノは変わってない。それは例えば些細な表現を大切にしたいという気持ちだったり、譲れない拘りだったりする。
よく何者にもなれず、という事を歌う人はこの世界に沢山いるだろう。僕自身も思う。僕は僕でしかなく、誰かには成れない。けど何かにはなりたい。
僕は救済者になれなかった。けどそれはそれで良かったと思う。上京して10代20代前半で救済者になりたい人を腐る程見てきた。幸い手を伸ばしてくれた人がいた。時には金銭的に助けてもらった事もある。オフ会も何度も参加した。生きてきた中で別れもあった。そういう積み重ねがあって、今生きてる。生きてきた。
自分が生まれたことは間違いだった、んだよ。でも、たとえ僕の命の誕生が祝福されていようとも、生まれた理由が両親のエゴや願いだったとしても、今はもうどうでもいい。僕は生まれてしまったを悔やみたくない。間違いではあったのは確かだ。僕の居ない世界が正しいんだ。けど、もう嘆くのに疲れてしまった。沢山嘆いた。沢山憂いて自分を傷つけて、ボロボロになった。その姿が正解で相応しいのだと、今でも思ってしまう時はある。今だって思うよ。だから自傷をやめられずにいる。
昨日、雨と低気圧のせいで自傷した古傷がやけに痛かった。その傷跡たちは、自分が生きる為のものであった。そう、自分を傷つけながらも、僕は生きることを諦めなかった。その執念に近い努力が今返ってきてる。だから、頑張れるならこれからも諦めたくない。
 
別の話をすると、僕は元恋人と友達関係に戻った。今ではもう付き合う前みたいに仲が良くて、いざという時頼れるし助けたい間柄にまでなった。その人と別れて4,5年は経った。別れてから今日まで縁を切らなかった、互いの最後の執着。それでも最近は互いに付き合っていた事を笑い話に出来るようにさえなったのだ。互いに互いの幸せを願ってるから、僕は自分の幸せを探してる。まぁ、創作に打ち込めることが、今の幸せではあるんだけど。
 
死ぬってなんだろうな。生きるってなんだろうかと問われれば、煙草が美味いことだと今は言う。来年、数年後には変わってる事を願う。
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これが19日に書いたもの。こんな事を残していたのか。よく覚えていない。
寝れたら寝よう。