ひび割れ女子高生

女子校で凝固し粉砕され霧散しかけています

ふっと・いん・ざ・ねこ

陽光が眩しい。

11月にもなると空は澄み、光は冷たくパリッと乾燥した空気の中を一直線に落ちてくる。混じり気のない光と空気に晒されると、身や心さえも洗われるように感じられる。私を渋らせるものは何もない。一年で一番好きな季節。

そんな日は、機嫌良くねこを連れて散歩する。ねこなんてどこにもいないけれど。私が散歩していると、ねこはいつだって知らない間に側に寄ってきて、隣に並んで歩き出す。それがねこ。

行くあても無く寂れた商店街を歩く。着物屋靴屋、ワインバー、ドラッグストア、宝石店。店はあれども人はいない。かつては賑わっていた享楽の地にこだまするのは、コツ、コツ、コツ、という私の足音だけ。やや伸びた私の影をねこが追う。ねこは足音を立てない。

いつしか雑駁とした路地裏に入る。狭く入り組んだ石畳の道は、両脇に並ぶ店に挟まれて、今にも潰れそうになっている。これほど人気が少ないと、どこまで侵入して良いのかの判断にも迷う。いくつかの風景を写真に収めながら、注意深く石畳を鳴らしてゆく。ねこは何もしない。ただ呑気に私についてくる。

 

路地裏を抜けて再び表通りに出る。荒凉を極めたシャッター砂漠にぽつんとひとつ、人の脈動を醸す珈琲屋がある。

『珈琲屋 ペット入店お断り』

入ってみたい、ねこには外で待っていてもらおうか、いや見失ったら大変だ、暫く迷ってから、珈琲屋の手前のマンホールに目をやる。蓋には、市のシンボルである大きな斜張橋があしらわれていて、その上に市の名前が配置されている。ちょうどいい。その上にねこを乗せる。 

「悪いけど、そこで少し待っていて」

通りすがるスーツ姿からの不審な目。ねこに言葉が通じるはずがないとでも思っているのだろうか。そんなことはない、だってもう長い間、私はねこと一緒にやってきた。

珈琲屋に入り、テイクアウトで珈琲とサンドイッチを注文する。それらを受け取り、珈琲と書かれたカップを覗き込むと、目に入ったのは溢れんばかりの黒い虫。互いに絡まり蠢きひしめきあい、不気味な温かみを放っている。驚いてカップを店員に投げつける。

「客に失礼ではないですか、こんなものを出すなんて」

「失礼なのは貴女でしょう」

店員は私に謝罪をすることもなく、虫が大量にかかった左腕を懸命に水で洗い流す。きっと極度の虫嫌いなのだろう、それなのに……いや、それだから、私に虫を提供した。成る程、そうに違いない。それ以外あり得ない。確実にそう。そう思うと、徐々に怒りが込み上げる。サンドイッチを掴む右手に力が入る。パンの間から人の手がずるりと床に落ちる。

「馬鹿にするのもいい加減にしてください」

サンドイッチを床に捨てて声を大にする。怒りを表現するために、近くの机を2度殴る。机に乗せてあった容器が倒れて、中から束になったナナフシが転がり出る。店内からは野次馬がわらわらと集まり始め、皆が私に毒を吐く。

「さっき店の前にゴミか何か捨てたのもあの女だ」

「ゴミは処分しておく。まずはあの気狂い女を取り押さえろ」

酷い言葉遣い。ねこはゴミなんかじゃないし、私は気狂いなんかじゃない。私には、真っ当な人間の血が流れている。それを証明しなければ、ねこが処分されてしまう。咄嗟にそう判断した私は、近くの鞄の掛かったポールハンガーに掴みかかり、硝子のショーケースに向けて押し倒す。叫び声。硝子と共に赤いダニが飛散する。悉く不潔な店。私は散った硝子の破片を手に取ると、それを自分の頬に押し付け血を流して皆に見せた。どうですか、真っ当な人間の血です。

「人殺しだ!」

「私、そんなことはしていません」

皆、騒ぎに乗じて言いたい放題。この場を収める気のある人など誰もいない。私がどれだけ平静を保ち、自分は真摯で賢明でまともで嘘をついていなくてこの宇宙の正しいことを全てちゃんとわかっていると主張しても、周囲は皆、非日常的であればあるほど面白いと熱気に浮かされて妄言を交わし合い理性を喪失していく。

怒号、罵声、金切り声。私以外、猫も杓子もまともでない。店の奥の猫背の老人に至っては、掌を耳に押し当てて、一人で壁に向かって話している……猫……ねこ……?そうだ、ねこだ、急がないと。制止を振り切り外へ向かう。大変だ、外にねこを待たせてる、私の可愛い大事なねこ。独りで待たされた可哀想なねこ、ねこだけは守らないといけない。もうどこかへ運ばれてしまっただろうか、そうだろう、冷静に論理的に思考すれば当然そう、しかしまだ遠くにはいっていないはずだ、大した時間は経過していない、ならば急げば見つかるはず、私は瞬く間に極めて緻密で妥当な推論を行うと、表通りを見やり、少し離れたところに人影を視認する、いた、あいつだ、あれがねこ泥棒だ、絶対そう、間違いない、やれ、やってしまえ、走り出す、地面を蹴る、足を踏み出す、

——そこにはねこが

ギャッ

ゴムをねじ切ったような鈍い音。静寂。

——踏んだ、踏んだ、ねこを踏んだ、見事に踏んだ、私が踏んだ、この足で

気付いたときにはもう遅い、マンホールの蓋の上に立つ私。足裏の下には靴下があり、靴下の下には靴底がある。そしてその下。恐る恐る足をあげる。市の名前が入ったマンホールの蓋。市のシンボルである大きな斜張橋があしらわれている。

ヒュゥゥ、と短く風が吹く。

 

……野次馬。警笛。話し声。

「◯◯警察署です。我々が何故お話を聞きに来たのかわかっていますか」

「聞いてください、私に虫を提供する酷い珈琲屋があって、ねこ泥棒が……」

陽光が眩しい。11月にもなると空は澄み、空気は冷たくパリッと乾燥している。こんな日は、機嫌良くねこを連れて散歩したい。ねこなんてどこにもいないけれど。

 

 

 

 

手触り

 

時計の秒針が刻むリズムにあわせて、爪の先で机の表面を叩く。カッ、カッ、カッ……

 

私はどうして机を叩いているんだろう……いや、理由を考えてはいけない、とにかく叩いていればいい。なにかあるのか、なにも無いのか、それが一番の問題だ。なにかあるのならそれでいい。深遠な物思いは敵だ。

カッ、カッ、カッ……机を叩く音が脳を揺らす。考えごとを削る音。

机を叩くときに大切なことは、決してリズムを乱さないことだ。叩く強さを変えず、正確に同じ場所を叩き続けることだ。羽を動かし続けていれば、地面に落ちて死ぬこともないだろう。カッ、カッ、カッ……

 

 

 

 

長い間、無と有の往復を続けていた。いつの間にか、視界が曇った。

もはや全てが鈍い。ビニール袋越し。

 

毎日が自殺だ。生きないために自殺する人がいれば、生きるために自殺する人もいる。でも、結局、皆自殺する。皆自殺している。そういうシステム。たとえ何処に逃げたって、そのシステムは巧妙に網を張り巡らせて人々を待ち構えている。オプションは自殺の速度くらい。

虚構、不毛、無意味……意味とは目的だと誰かが言った。ならば目的の出処が知りたい。私が欲しかったのは麻薬ではない。ぼんやりとした鮮烈さではなく、はっきりとした落ち着きが欲しい。なにか手触りのあるものが欲しい。例えば、形状とか、温度とか、中身とか……

……地面。地面が欲しい。地面の上で眠りたい。

 

 

夜空に散る星に気がつくために必要なものは、煌々と輝くオフィス街ではない。料理が辛すぎるときにするべきことは、唐辛子を増やすことではない。空しさを集めると空しい。こんなことは当たり前だ、そう言えるようになりたい。

 

日常蠅

子象の体当たりで粉々になりそうな韓国料理店を見つける。表には、かなり黒ずんだ黄色の看板。そこに、青と赤で文字が色々書いてある。こういう店は、大抵、すごく美味しいかすごく美味しくないかのどちらかだ。

入った途端、太ったハエが出迎えてくれる。やや遅れて店員さんの声。

「お一人様ですか、こちらへ……」

案内された机に置かれているメニューの上を、ハエが呑気に歩いている。私より遥かに人間慣れしているように見える。彼は恐らく、ずっとここに住んでいるのだろう……そう思うと、自分の力を確認したくなる。私もここに生きている。

ハエを叩き潰し、その死骸が貼りついた部分を指差す。

「これください」

 

見回せば客入りは悪くない。

レモンの香りが強い水道水を飲みながら、換気扇に溜まった埃を眺める。元は白かったであろう壁は、もうすっかり黄ばんでいる。思わず煙草に火をつける。私も壁を黄ばませたい。

 

隣の席から、寝癖について話す声が聞こえる。見ると、近くの古着屋で買ったものをそのまま着てきたような女の子二人が座っている。飾らない、淀みも弾けも無い会話は、聞こえやすいし忘れやすい。

 

店員さんが無言で料理を机に置く。赤いスープに浸かった茹で過ぎのインスタント麺と、乾燥したチヂミ。付け合わせのナムルからは、市販の、すこし古くなった胡麻油が香る。 私が目を細めるのをよそに、店内のテレビを見て笑いはじめる店員さん。

料理はお世辞にも美味しいとはいえない。業務スーパーで買い物をした後の私でも、これより美味しく作れそう。

 

……見回せば客入りは悪くない。

 

今年で創業20年。何もせず、放っておいたら黄ばんだ壁、溜まった埃。どれもが変わらず変化し続けながら、一切の驚きを演出しない。ここには、新しさもなければ古さもない。躍進もなければ停滞もない。

それでもここには何かがある。それがシステムを動かしている。私の心を掴んで離さない、何か。私には見ることも触れることもできない、何か。この場所に人の繋がりを維持して文化をつくり出している、何か。その正体は、なんだろう……。

 

 

 

隣の席でしきりに寝癖の話をしていた女の子二人が席を立つ。

「ありがとうございます。お会計2460円です……あれ、お客さん100円玉1枚多いですよ……はい、2460円……いや、違った、2560円でしたね、お客さんがあってます」

あぁ……

ひっそりと、音を立てて溶けていく、私のコップに残った氷。

そうか……

 

 

 

机に視線を落とす。メニューにはりついたハエの死骸と目があう。死骸が突然叫びだす。

「お前はここにいてはいけない!お前はここにいてはいけない!お前はここにいては……」

わかってる、私も既に気づいてる。だから黙って、お願いだから。……だまれ、黙れ、黙りやがれ。五月蠅い黙れよ糞虫が。

煙草の火をハエの死骸に何度も押し付ける。どうしてこんなに不器用なんだろう。私はここにいてはいけない、その通りだ。足早に会計をすませ、逃げるように店を出る。私が再びここに来るのはいつだろう。さっきまで私が煙草を挟んでいた左手の人差し指と中指、ここに染み付いた匂いが消えてくれるのは、一体いつだろう。

 

ここにはまた来たいし、指の匂いは消えてほしい。だけど多分、ここにはもう二度と来ない。指の匂いは一生消えない。

 

台風のキス

街を歩く。煙草の煙みたいな雲から僅かに覗く太陽が、心の内を隠しきれない詐欺師がギラつかせる目に見える。何故だろう。私がいつも詐欺紛いの方法で日付を自分の前から後ろへと送り続けているからだろうか。

歩いていたら、人混みの中、こちらに向かって歩くスーツの男に目がとまった。何か妙だ。腕が所在無さげに曲がっている。足を前に出すときの、体の重心の移動に躊躇いがある。よく見れば視線もおかしい。顔こそ、周囲でやかましく光っている建物に向いているけれど、目は歩く人のほうを見ている。餌を前に気がつかないふりをしているというか、目的があるのに無いふりをしているというか、そんな感じ。

つまらない男に声をかけられたら嫌だから、少し大股で歩く。リラックスして、肩は後ろに引く。そして、眼球を動かすのをやめて、目の周りに少し力を入れた。これは結構難しい。私の目は、力を入れすぎると、人懐っこく輝いてしまう。なるべく冷たく、だけど、頼み事を断れなさそうな弱さは出ないよう、他人を馬鹿にしている感じが出るよう、気をつける。男まで後2メートル、1メートル……すれ違いざまに、横目で男を見た。目が合う。

「あの、落し物ですよ」

突然の声に立ち止まる。途端、男の顔が近づいてきて、私の唇にザラッとしたものがあたった。煙草と珈琲の乾燥した匂い。それが私の全身に広がった頃には、男はもう姿を消していた。

キャーッ痴漢、と叫ぼうとして、やめた。だってよく考えたら、私はそんなことを思っていない。感情に対応しない言葉を発するのは気に食わない。勿論、言って仕舞えば、ただの痴漢だったのだろう。でも、私にとってそんなことはどうでもよかった。わざわざ声帯を震わせるのはなにか違う。

感情に対応する正確な言葉……口から注入された異物に無理やり適合しようとしているかのような、全身の不快な湿り気、思想の蕩け、液状化……いや、違う、これもどうでもいい。じゃあ、私が本当に発するべき言葉はなんだったのだろう。

耳元でなる風の音が、目の前の、7階建てのカラオケ店からの音を掻き消している。道行く人は皆、自分達のお喋りに夢中だ。今なら嘘を叫んでしまったってどうせ誰にも聞こえやしない……本当に?

台風が、使い道の無いガラクタばかりを私のもとに飛ばしてくる。苛ついたから、結んでいた髪をほどいて風に靡かせた。

向こう側

この病室ではなぜ空が見えないんだろう、としばらく考えて、私はその日の空の色を気にする人らしいと気がつく。ベッド横の閉まりきったブラインド、そこから僅かに漏れる光から、水樹奈々さんの声みたいな青と、それを覆う重いグレーの雲を想像してみる。

視界を空で埋めてみたい。だけど、ブラインドの操作の仕方がわからない。無理に動かそうとして壊してしまったらどうしよう。そもそも、勝手に操作してしまって構わないものなんだろうか。一瞬、コールボタンに目をやる。その途端、そんな質問のためだけに呼ばれる看護師さんの気持ちが頭をよぎって、ブラインドに目を戻す。ブラインドは、明らかに私を挑発している。ときたま、クーラーの風を僅かに受け、漏れる光線を震わせる。それと同時に、私の首筋をも震わせる。そして、私の口の端から力を抜き、開いた口から空気を抜いていく。

 

どれだけ空気を抜かれただろうか。私は徐々に、自分の中に芽生えてしまった、ブラインドを上げたいという欲求に疑問を感じ始めた。だって、閉まりきっているほうが自然だ。この景色は完成されている。私は手を加えてはいけない。その必要はない。一度夢見てしまったものは秘匿され続けなければならない。もし手に入ってしまったら最後、私は何もかも……

 

「どうしたんですか?壁ばかり見て。あぁ、開けてあげますよ」

あっ、ダメ……。言う間もなしに、スルスルと上がっていくブラインド。そういえばもう採血の時間だった。あれだけ私の中をぐるぐる回った青とグレーが、ワインのコルクを抜く音を立てて、私の目に飛び込んでくる。

空はたしかに綺麗だった。そして、きっと何度も見たことのある、至って普通の空だった。どうしてこんなことに心を奪われていたんだろう、そもそも、自分に空の色を気にする習慣があることにすら今日気がついたような私が。急に馬鹿馬鹿しくなる。きっと全部、自分の家の窓にカーテンをつけていないせいだ。カーテンを買おう。毎日カーテンの開け閉めを繰り返せば、そのうち、釣り合いというものがわかってくるだろう。利用や操作という行為の平凡さに、気がつけるだろう。

 

 

 

 

 

 

白いシーツ、白い壁

昨日と同じ1日だった。終わり。

 

いや、観察力と想像力の欠如のせい。もう一度よく思い出そう。1日の全てに正確に言葉をあてて、微細な構造を炙り出そう。

 

朝起きる。布団の中で看護師さんが採血に来るのを待つけれど、看護師さんが来ない。暫く経って漸く、自分が病院ではなく家にいることに気がつく。先輩から「どした?今日部活休み?」と電話がくる。考えるのをやめて急いで家を出る。何故って、もうすぐ吹奏楽コンクールの支部大会だからだ。

学校に着くと、既に音楽室から合奏練習の音が漏れている。情けなさに打ちひしがれながら、皆が奏でる音から音楽室内のピリピリ度を推定。音楽室の扉を開けるのはどのタイミングがいいだろうか、扉を開けたらまずなんて言えばいいだろうか、考えながら廊下を走り、楽器を壁にぶつけてへこませた。

 

ここまで全て正確。となると、今日書くべき日記はこうなる。

 

今日は珍しく感情が大きく動いた。同じ部活でトロンボーンを吹いている先輩のせい。

彼女は、合奏練習のとき、指揮者から何度も同じ注意を受けて、皆の前でひとり、楽譜の同じ部分を繰り返し吹かされていた。注意の回数が増す度、彼女の身体の震えは大きくなって、演奏はより酷くなった。完全にアガりきっている、皆がそう思い始めた頃、いよいよ指揮者は「ヘタクソ、もういい」と匙を投げ、彼女は悔しそうに目に涙を浮かべて口の端を噛んだ。そしてまさにその瞬間、それを見ていた私は、自分の身体が、何者かによって足先から頭に向かって黒い糸で編み上げられていくのを感じたのだった。

彼女が限界まで堪えた涙の落ちる瞬間が見たい、そう思った。可哀想とは思わなかった。自分の手でゆっくりと握り潰してやりたいと思った。でも、今こうやって書いてみると、やっぱり、合奏中の私は少しおかしかったんじゃないかという気がしてくる。

どうしてこんなことを思ってしまったんだろう。なにも彼女のことが嫌いだった訳じゃない、むしろ、好きだった。私とは担当楽器が違うせいで、会話すらまともにしたことがなかったけれど、でも、そのおかげか、私はいつだって安心して、自分と彼女の間の数枚の壁越しに彼女を眺めていた。彼女の、抑揚のない喋り方や、楽器を組み立てている時に見せる無表情の中の愛情は、私の詮索欲を煽りこそしたけれど、握り潰したいなんて気持ちを沸かせることは一度もなかった。

私は昔から男の子には興味がなかったけれど、まさか同性に対してこんな感情をむけてしまうなんて日がくるとは思ってもみなかった。多分、今日の出来事は、3日後の私の頭にもこびりついている。

 

採血はなかった。

普遍的つらさ

今日もベッドで血を抜かれる。特に事件も起きない変わらない日。食事のメニューは1週間前と同じ。ベッドの左にある窓からは、連日近くで行われている音楽イベントの騒ぎが聞こえている。女性シンガーの高い声は、幾らかの空気とガラス窓を通すと、蚊が飛ぶ音によく似る。これもいつもと同じ。

変化といえば、歩くときに膝が曲がって肩が揺れるようになった人が増えてきたことと、看護師さんが私を呼ぶときに「6番さん」の代わりに「血圧低い方」と言いはじめたことくらい。皆、変化を求めて躍起になったりならなかったりしている。

変化に富む生活にも、単調な生活にも、いつも、同じ種のつらさを感じる。私の感覚器の全てにつらさが張り付いていて、それを通してものを感じている気がする。つらさが強く意識されたときに、自分の置かれている状況を言語化してその特殊性を並べ立てればつらさの原因を突き止めることができるかもしれない、そう思って言葉遊びを始めたら最終的に物理学の勉強に辿り着いた。私にとって、この世は全体的につらいのかもしれない。もしかすると、単に、いつも血圧が低いからつらいだけなのかもしれない。わからない。