こんなに綺麗で、ずっと見ていられたらいいのにと思う色に、これから先何度出会えるかな

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こんばんは

 

すっかり日暮れが秋の匂いを漂わせて、なんだかいろんなものが懐かしく思える季節になりました

 

夏は鮮やか、秋は朧げ、そんなイメージがあるんだろうなあとは思うんだけど、私は、秋には一番濃い時間が流れているんじゃないかと思います

 

それは、冒頭にも書いたように「懐かしい」という気持ちが飽和する季節が、秋だからです

 

秋は静かに、今ここにいる私たちに、あくまで「今」を通して昔を思い出させてくれる

 

色褪せた思い出が素直にそのまま、何か飾られたり修正されたりせずに、自分の中に溶け込んでくれるのが、秋です


過去はいずれ薄れゆくもの

 

だから今を大事にしようとか、そういうことを言いたいんじゃないです

 

私は、そんな暴力は嫌いです

 

そんな理由で大事にされる今の気持ちにもなってみろよな


私は今日、「色褪せる」の定義を変えたくて、この記事を書きました


【色褪せる】
[動サ下一][文]いろあ・す[サ下二]
1 色がさめる。色が薄くなる。「―・せたカーテン」

2 美しさやみずみずしさなどがなくなる。新鮮みがなくなる。衰える。「―・せた容色」「―・せた企画」「―・せた思い出」


辞書的にはこう説明されているけど、色褪せるって、本当に色が冷めちゃって、美しくなくなって、衰えちゃうってことなのかな

 

色褪せた思い出よりも、鮮やかに蘇る思い出のほうが、価値があって、重要で、大切なんだろうか

 

もしそうだとしたら、そんな世界で生きようなんて、私はきっと思えない

 

そもそも、「思い出が鮮やかに蘇る」なんて経験が今までに一度もありません

 

どんなに強烈なきっかけがあっても、「懐かしいな」と昔を愛おしむときはいつも、何かが欠けてしまっているような、物寂しい感覚がついてきます

 

それは確実に、私が思い出のうちで何かを忘れてしまっているからです

 

でも私は、その「欠けている」という感覚を、なんとなく、でもはっきり、知覚することができて、その感覚が、大事なんじゃないかと思います

 

色褪せた思い出は、鮮やかさを失っても、無色透明になったわけじゃないもんね

 

消えながらも、遠ざかりながらも、色を失いながらも、ちゃんとそこにとどまろうとしてくれる記憶が、そこにきちんと「ある」とわかる

 

きっと、そこに置いてきた記憶に宿っている私の小さな意志が、「ここにいたい」と頑張ってくれているんだろうな、なんて思う

 

正しくくすんだ色をして、お行儀よく残ってくれている、私の大切な記憶

 

こんなに綺麗で、ずっと見ていられたらいいのにと思う色に、これから先何度出会えるかな

 

私は、鮮やかに蘇る思い出なんてたったのひとつとして必要ないと、本当にまっすぐ、素直に、言葉にしたい

 

思い出は美化されるから無敵だなんて、そんなこと言ってほしくないんです

 

思い出は、記憶は、少しずつ形が崩れて、色が変わって、匂いもしなくなって、きっと、いつか原型がわからなくなってしまうくらい私たちから遠ざかってしまう

 

視力が悪くなったときみたいにぼんやりと姿を見失う感覚で、きっと私は誰かとの大切な思い出の欠片を失っていく

 

その遠ざかってしまったという感覚を、ぼやけていく輪郭を、私はいつまでもいつまでも覚えていたいな

 

今を生きる私たちの脳みそには思い出が入りきれなくて、素敵な思い出が増えれば増えるほど、どれかは明瞭さや占める面積を奪われてしまう気がする

 

でも、素敵な思い出がいくら増えても消えない粒が、色褪せながら、そこにいてくれる

 

色褪せるって、消滅中って意味じゃないよね

 

色褪せるって、「残る」ってことだ

 

大事なものは、残ってくれるよ

 

もちろん「思い出せない」って感覚に苦しめられることもあって、あんな大切なことをなんで忘れちゃったんだろうって泣きたくなることもあるかもしれない

 

あっていい

 

私たちは忘れてしまう

 

残酷なほどに、遠慮なく、忘れてしまう

 

でも、「覚えていたい」という思いのほうが、実際に「覚えている」ことよりもずっと確かなことだって、私は強く信じていたい

 

誰かがいなくなって、不在を通してそのひとの存在の大きさを感じるように、大切な場所を訪れたときの「何かを忘れてしまっている気がする」という感覚が、思い出せない悲しみや切なさを呼び起こすから、忘却を寂しいと思えるから、過去のその時間がどれだけ大切だったのか、どれだけかけがえのないものだったのか、どれだけなくしたくないものなのか、やっとわかるね

 

私は大事なその感覚を、失くしてしまいたくないな

 

あの愛おしい感覚を捨ててまで、大切な思い出をあのときと同じ鮮やかさで再生したいなんて、ほんの少しも思わない

 

そんな風に何度も生き返る使い回しの思い出なんて、嘘っぱちの思い出なんて、欲しくないです

 

私、鮮やかじゃなくても、若くなくても、豊かでなくても、はっきりしてなくても、ちゃんとその思い出が好きって言えます

 

私はもうきみのことをあのときのまま思い出すことはできないけど、でも確かにきみはここにいたんだねと、そして私はきみのことが大好きだったんだねと、何度だって言いたいよ

 

触れられなくても手を取り合えるもの、

 

見えなくても瞳に映るもの、

 

音がなくても聴こえるものを、

 

ずっとずっと大切にしていきたい

 

一番大事なものは、絶対に消えないと言えるから

 

それぞれのひとたちとの「一番」はずっと私の内側や、大事な場所に残っている

 

忘れたという感覚を植えてつけてさえ、残ろうとしてくれているんだよね

 

これまでに何度通ったかわからないあの大通りだって、私にとってはきっといつまでもきみと並んで歩いた六月の景色で

 

あの有名作家のファンなんて知り合いに何人もいるけど、私が一番に思い出すのはいつだってあなたひとりです

 

どんな会話をしたのか、あのひとがどんな表情を浮かべていたか、それらはもう思い出せないけど、今でもあのコンビニに入ったり、夏の夕暮れになったり、よく待ち合わせのときに乗ったバスに揺られたりすると、私はなんとなく懐かしくなる

 

それで十分だ

 

それ以上のことはないんだってことを、心の奥底ですでに確かめたから

 

色褪せて光も彩度も失いながら、でもかすかに残る記憶を、その距離感を、曖昧さを、ずっと大事に守っていこう

 

不器用で万能ではない私たちの脳みそすら、ゆっくりやわらかく愛していこう

 


50年後、私は昨日や今日あなたと喋ったことやきみと笑い合ったことを、きっとほとんど覚えていない

 

でも、色褪せていく思い出は、たったひとりでも、その50年間頑張り続けてくれると信じています

 

だから、明日も明後日も生きていくことが、私は何も怖くありません

 

私の意志に、頑張る力をくれてありがとう

 

願わくば、あなたがいつか忘れる私についての記憶にも、あなたの意志が生き続けてくれますように

 


お  わ  り

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夏の幸福はあまりにも鮮やかだから、隣にいる大事な友達の脳みそにも、ずっとその色や匂いが残ってくれたらいいなあと思っていた

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こんばんは

 

2月以来おやすみしていたブログを、本日より復活させていただきます

 

書き方も忘れてしまうくらいご無沙汰していましたが、今の私は今の私なりに、またマイペースに更新していきますので、読んでくださる方がいらっしゃったら、よろしくお願いいたします

 


さて、先日、恵文社一乗寺店で「世界をきちんとあじわう」ためのトークイベントが行われ、友人の誘いを受けてありがたく私もご一緒させてもらいました

 

このトークイベントでは、普段、ひとが誰かに見られていることを意識していない視点や行動、ものの使い方に秘められた不思議を見つけて、その不思議を大切にしたいという思いが伝わる、私たちと密接な話題が盛りだくさんで、とても楽しい時間を過ごすことができました

 

今回私が書こうかなと思うのは、このトークイベントの終わりに質問コーナーで話題になった、日常についての話から生まれた考えです

 

日常は学問にならないのか、という質問に対して、日常には結論が不要だから学問にすべきじゃない、という考えが述べられました

 

確かに、まとまってなくていいし、どんな形でもいいし、形なんてなくてもいいし、正誤という枠に入らないし、そのひとの個人単位での日常って、わざわざ可視化するものじゃないんですよね

 

「結論が出た瞬間、それは日常じゃなくなってしまう」という言葉は、ああ痛いほどに真実だなあと思えました

 

そして、トークイベントから数日経って私が思ったのが、「幸福」も同じだな、ということでした

 

私は今まで、自分が幸せだなあと感じたことは、ひとに伝えたくて伝えたくてたまらなかった

 

あなたのおかげで今日私は本当に楽しくて楽しくて仕方なかったですだとか、ずっとここにいたいなと思いましただとか、そういうことをどうにかして伝えたくて、でも少し気恥ずかしいような気もして、言葉は難しいなあなんて思っていた

 

でも、本当は、私の意志なんてちっぽけで、そもそも不可能なんだって、ほんの数日前に思ったんです

 

本当に幸福だと、言葉って出てこないなあって

 

かと言って、沈黙だとか、態度だとか、表情だとか、そういうものも同じくらい不完全で、幸福って別の形に置き換えることができないものなんだって思いました

 

きっと、幸福は誰かに伝えるためじゃなくて、私ひとりが、大事に大事に噛み締めて、自分の中で守っていくものなんだと思う

 

感謝や謝罪は、相手に伝わるように、慎重に丁寧に言葉を選んで、態度を改めて、全身で表現しなくちゃいけない

 

でも、幸福は、誰かに伝えるために表現してしまったら、結論が付随した日常と同じで、瞬く間に泡のように消えてしまう

 

幸福という中身を失ってしまう

 


伝わればいいなとは思います

 

もっと欲を言えば、私に幸福を感じさせてくれたひとが、私と同じ理由で幸福を感じてくれたらいいのにな、なんておこがましいことも思ってしまいます

 

でも、精いっぱい伝えるので私の幸福を知ってくださいっていうのは、少し違うような気がした

 

私にしかわからないから幸福なんだし、自分の幸福を伝えることばっかり考えていたら、相手が見えなくなってしまうようにも思えたから

 

もちろんそんなこと言っても、伝わればいいなの気持ちがなくなるわけではないんですけどね(堂々巡りじゃんかい、という感じですが)

 

でも、その思いが残っているのは同じでも、自分しか知りえないこの感覚を大切にできるのは私だけなんだぞって思えることで、今しか感じられないこの多幸感を、このやわらかさを、この心地よさを、一生思い出せるようにしっかり覚えておこうって、身体全体に染み込ませて、心いっぱいに満たしておけるような、そんな気がしてくるのも、また事実だと思うんです

 


個人的な話ですが、なんだかこの夏は幸せすぎてどうにかなっちゃうんじゃないかなって本気で思う日ばかりでした

 

私は楽しかった日は遠回りして帰ることにしているんだけど、本当にその頻度がとんでもなく高い夏を過ごしています

 

この一週間なんて、毎日遠回りして帰っちゃったくらい良いことがたくさんありました

 

毎日毎日、その日が終わってしまうのが惜しいなんて、なんて恵まれているんだろうね

 

京都の夏は厳しいから、今年も暑さに溶けちゃうかなあと心配していたけれど、暑さに溶ける前に、幸せの過剰摂取でとろけてしまいそうです

 

そりゃあ、寂しいことも名残惜しいこともあります

 

ただ、そんな気持ちになれることも含めて、幸せな夏だなあなんて思えるくらいには、ゆったりとした気持ちで夏を過ごせているなと思います

 

ちょっと話が逸れましたが、この一週間そうやって遠回りして帰る中で、明らかに昨日の帰り道は風の感じ方が違いました

 

秋ってほどじゃなくても、今までの夏とは違う空気が流れていて、今年もちゃんと礼儀正しく季節が巡り巡っているんだなと嬉しく、そしてほんの少し寂しくなる、そんな温度に包まれる帰り道でした

 

きっと今からすぐ秋めくわけではなくて、まだまだ暑い日は続くだろうけど、永遠に思える夏が終わらなかったことなんて、今までただの一度もなかったなあって、夏がまた去っていく準備をしているんだなあって、少ししんみりなんかして

 

当たり前のことを忘れさせてしまうくらい、夏は特別な季節なんだよね

 

夏の幸福はあまりにも鮮やかだから、隣にいる大事な友達の脳みそにも、ずっとその色や匂いが残ってくれたらいいなあと思っていた

 

でも、そんなことは贅沢すぎるお願いだということもわかっていて、だからこそ私は、幸福をきちんとひとりであじわいたいなあと、そう思うわけです

 

そもそも、世界をきちんと「あじわう」という動詞から見ても、世界とか日常とか幸福とか、個人単位での視点で感知するものはひとりで受け止める対象なんだろうね

 

誰かと一緒に「あじわう」ことはできない

 

そのことに寂しいと思えるのだとしたら、それはあなたにとってとびっきり特別なひとがいるからで、決して悲しいことではないんだって、思ってくれたらいいな

 

ただ、自分の幸福を自分があじわうことをしなかったら、その幸福は行き場を失ってしまうから、きちんと、大事に、手のひらに包んであげたいなって、そう思えたら素敵かもしれないね


そして、こういうことを考えている私の脳内に蘇ったのが、星野源の曲で私が一番好きな、Friend Shipという曲です

 

懐かしさが染み込んだやさしいメロディーに合う歌詞が、すごくすごく好きなんですよね

 

以下はサビ部分の歌詞です

 

“君の手を握るたびに わからないまま
胸の窓開けるたびに わからないまま
笑い合うさま”

 

私たちはきっとどんなに触れ合っても、心を打ち明けても、どんなことをしてもお互いのことを伝えたり理解したりすることはできなくて、でも、一緒に笑うことはできて、それはすごくいいなあと思うし、奇跡だなあとも思う

 

私にとって大事な他人の幸福とも、こういうふうに付き合っていけたらいいなあと思う

 

わかりあえないからこそ、それでも一緒にいてくれる相手のありがたみややさしさが染み渡るんだもんね

 

幸福を分かり合えなくても一緒に笑ってくれるひとたちと、これから先もずっと一緒にいたいなあ

 

永遠にずっとは無理だけど、可能な環境にいる間は、ずっと、ずっと一緒にいたいです


今年は、学生最後の夏

 

確実に秋の気配をそっと漂わせながら、きっとまだまだ終わるつもりのない、そして私も終わらせるつもりのない最高の夏を、もう少し、大好きなひとたちと一緒に過ごして、贅沢すぎる幸福を、ひとつひとつ、きちんと、あじわおうと思います

 

ここまで読んでくださった慈悲深いあなたに、幸福がたくさん訪れる夏になりますように

 

お  わ  り

好き、なんていう整いすぎた言葉で、ぐちゃぐちゃな自分の気持ちを伝えるなんて、最低じゃないですか

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こんばんは

明日はバレンタインということで、バレンタインに告白する女の子について書いて、このブログをいったんお休みしようと思います

注意書きなんですが、途中で辟易して読むのをやめていただくのは構わないんですが(むしろこのページに来てくれただけで、ありがとうございますの気持ちです)、それだと私が勇気を出す女の子たちをひたすら否定して終わるみたいな印象になると思いますとだけ、先に書いておきますね(忠告しましたからねー!)




毎年バレンタインに、一体何人の女の子たちが「好き」と意中の相手に伝えるのか

なんてことが気になったとき、ふと、気づいたことがある

考えてみれば私は、他人に対して本気で「好き」と言ったことがない

おちゃらけていうことはあっても、真面目に本気で言ったことなんてただの一度もない人間を

もう21年も、やってきていた

LINEだとか手紙だとか、「言葉」しか希望がない手段というか、「言葉」だけにすべてを託す手段においては、スタンプでも文字でも「好き」って心から思って使うけど、そういった視覚化された「好き」と、一瞬の音として届ける「好き」はほんとに全然違うと思っている

具体的に言うと私はずっと

音としての好きって、厭だな

と思っていた

小学生のとき、先生も、クラスメイトも、年上のお世話係のお姉さんも、男の子も女の子も皆、私にとっては「好きなひと」だった

ところが信じられないことに、男の子から「好き」と言われて、私もその子のことが好きかを確認されたときに、どんなに「好き」でも、私の「好き」を「好き」という音で相手に返すと、その子との関係が変わってしまうらしいと学んだ

小学生の私は、あんまり簡単に好きって言ったらいけないんだな、好きって言葉はとりあえずやばいんだなと思った

だいたい、皆の言う「好き」は「手をつなぎたい」だとか「学校以外でもふたりきりで会いたい」みたいな意味らしくて、それは私の「好き」とは全然違ったから、ものすごく混乱したし、他者への理解が著しく欠けている私小学生ver.は、何じゃそりゃきみたちは宇宙人かいと結構ほんとに思っていたし若干の焦りもあった

好きって言葉って、そんなに大事かな

手をつなぎたいならそう言えばいいし、言うよりも実際つなげば良くないか

会いたいなら会ったらいいと思いますよはい

という感じと

全然わかんないな

私が異常で、間違っていて、

狂ってるんだろうか

みたいな感じだったんですね

しばらくすると私の脳みそは働き方を覚えて、「好き」が何を含むかは個人差があることを学ぶことができた

でも、学べたからこそ尚更、そのせっかくひとりひとり違う何らかの大切な気持ちを、なぜかくも暴力的に「好き」でまとめてしまえるのか、完全に意味が不明だった

もう意味不明だったけど、考えるのはしんどいことだから、しんどくなって、私はサボリ魔だから、せっかくの考える機会を放棄して、しかも直接ひとに聞くことはしなかった

代わりに本をたくさん読んだ

算数に公式があるように、多分「好き」にも何らかのパターンがあって、それさえ見つけてしまえば、ひとがひとから好きって言ってほしい理由を簡単に理解できるだろうと、勝手に決め付けて

もしまだ答えが発見されてなくても、私が自分でたくさんのパターンを整理して、答えを見つければ良い話だしな、というなめた考えすらあった

そんなこんなでもう少し年をとった頃、私は好きなひとから「おはよう」って返してもらうことって幸せだなあと思うようになった

周りにも「今日◯◯くんと話せた!」と意気揚々と話す子がいて、うんうん、話せるって嬉しいよね、と思っていたら、周りの女の子たちは「付き合いたいと思わないの?」「それだけでいいの?好きって言われたくないの?」と彼女を質問攻めにしていた

すさまじい衝撃だった

言葉にはプライオリティーが存在したんですね

自分の挨拶に反応して返してくれる、「おはよう」は、「好き」よりも何かで負けていて、何かの程度が低い言葉らしかった

だから、「おはよう」じゃ満足しなくて、「おはよう」よりも何かの程度の高い「好き」で相手の好意とやらが「真剣」で「本物」であることを確かめないといけないらしかった

好きって言わないと、言われないと、駄目らしかった












 

 

 



めんどくさ



 

 









正直、それ以外何も感じなかった

厭になった



当時、私は携帯を持ってなかったから手紙だけについてになるけど、LINEも同じなのでまとめると、相手の顔が見えなくて、声も仕草もわからない、さっきも言ったように言葉だけにすべてを託して相手に何かを伝えないといけない手段においてなら、そりゃ好きでも愛してるでも書くよ

でも実際にそのひとと会って、目を見て、目をそらして、喋って、黙って、時間を共有してるんなら、そのすべてで「好き」ってお前もあの子も伝えてるんじゃないわけ、それが1番尊いんじゃないわけ

せっかくの好きなひとから、お前は一般化された「好き」なんかが欲しいのか

AくんにもBくんにも、誰にでもできる愛情表現で好きなひとからの好意を受け取らないと気が済まないのって、何だよ、それ何の遺伝システムだよ

自分を見つけてくれたときにパアッと笑顔になって嬉しそうにしてくれるとか

一緒に歩くときに歩く速度を合わせてくれるとか

外に出たとき「寒いね」って一言声をかけてくれるとか

緊張して話せなくなって目もそらしてしまうとか

そういう、そのひとにしかできない「好き」は全無視か

とどこかひねくれている私は思っていた

というか

本当にシンプルに、厭で厭で厭で仕方なかった

主観的でしかないのは承知だけど、私は1度もレベルの低い会話としてなんか「おはよう」をとらえたことなんてなかった

毎日全力だったし毎日本気だったし毎日



皆の言う「好き」を「おはよう」の言葉と、

それ以上に私っていう人間で、まるまる伝えてるつもりだった



私の頭の先から足の先までの思いを、暴力的に「好き」でなんかまとめたくなかった

誰でも言えるだろそんなん

だから、「好き」って言ってほしい、を理解したことがない

何で、好きとかすきとかスキとかsukiとかが、必要な、わけなの、ですか、ね、ね、ね?



ワタシノコトスキ?ボクノコトスキ?

っていうのは、言葉に溺れて脳みそをやられたひとが言う台詞で、「あーこの症状はこの病の最大の特徴ですね」ってお医者さんが言うやつだと、まあ思ってたわけだ

好きって聞かないと不安になるとか、どれだけか弱くて可愛い生き物アピール?とかね

思ってました


今も、私は誰にも、別に好きって言ってほしいなんて、思わないし思えない

言ってほしくないわけじゃないんだけど、言ってほしい!言ってほしい!ってはならない

私なんかにそう言ってくれるひとには、ありがとうって、いつも返してはきたけどね

軽蔑とは違って、ほんとに、わけわからなすぎて多分混乱してるだけだから、攻撃してるんじゃないんだって、それだけは言わせてくださいね

むしろ私は皆みたいに、誰かに好きって言ってほしいっていう感情を、知りたいよ


そして、でも、バレンタインはまた別だって、今日は言おうと思ったんです

多くのひとは、好きなひとをいわゆる恋人にしたいんですよね

で、恋人って付き合ってるひとじゃないと、だめなんですよね

頭おかしいと思われるかもしれないけど、付き合ってない恋人が存在しないのも、なんか堅苦しくて息苦しい世界だなと思うよね (ね、って言っていいか分かんないけど)

よく理解できないけど、でも、こういう理想のために、頑張って、改めて「好きなんです」って相手に伝えるのは、実はすごくすごく、素敵なことなんだなって、私は思えるようになりました

全身でもう好きってすでに伝えていて、相手も似た感じの気持ちをいろんなところに散りばめて示してくれているかもしれなくて、でもそれをあえて「好き」って言葉を合言葉に変えて伝えて、理想の「恋人」って関係をきみもあの子も手に入れたいわけで、それは、なんだか、すごく可愛くて微笑ましい

チョコをあげる、って行為も「好き」の表れで、そう考えると音としての「好き」はなくても良いけど、世に言う告白としてチョコを渡す子からすると、全身全霊で、その2文字に自分の思いを託すんだよね

ほんとはいろいろ言いたいことも伝われば良いなという感触や感情もいっぱいあるし、目でも指でも肩でもそれは伝えられる状況なのに、言葉っていう普遍的で1番薄くて弱くて脆いもので、伝える

なんて頼りなく、なんて美しい行為


「おはよう」のほうが言いやすい

毎日言ってきたもんね

自分がどんなに「好き」の意味で言っていても、伝われって思っていても、心のどこかでは「相手はただの挨拶だと思ってくれているはずだ」って、だから、ちょっとずるいやり方だけど、こうやって「好き」を隠れてこっそり伝えていこうって、きっとほんとは私も思っていた



好き、は言うのが難しいね

だって、好き、はそのひとと関係を変えたいって、すごく思い切ったことを伝える言葉らしいからね

でも

好き、なんて言葉をうまく言えるかなんて、多分そんな大事じゃないよ

言えなくても、言えても、言いたい気持ちは一緒だし、伝えられると思う

「おはよう」とか「寒いね」とかと同じで、私は言葉にプライオリティーなんて、ないと思うんです

好きって言葉が大事なんじゃなくて、きみがその子に好きって言いたいと思った、だから好きって言った、噛んじゃったけど言った、あまりうまく言えなかったけど言った、いざとなったら怖くなってちょっと違う言葉になったけどそれっぽいことを言った

その、つながりみたいなものがきっと、1番大事だと思うわけです

だから、頑張ろうとしているひとたちは、自分の中の感情と行為がつながったというそれ自体を誇ってあげて良いんじゃないかと私個人は思うし、自信を持って言葉にしてあげてねなんて、生意気に思っているんですね

 


ほんとに、ほんとに、

好き、なんていう整いすぎた言葉で、ぐちゃぐちゃな自分の気持ちを伝えるなんて、最低じゃないですか


でも


本当に嬉しいときとか、愛おしいときとか、幸せなときって、人間、綺麗な言葉でしか、話せなくなっちゃうよね

純度100%の感動とか幸せなんてね、その整いすぎた言葉で形容しても不十分なくらい、キラキラ眩しくて綺麗な感情だよ

だからひとは、綺麗な言葉で足りない部分を少しでも相手に伝えたくて、泣いちゃったり、笑っちゃったり、するんだろう

感極まって、全身で、好きとか、嬉しいとか、ありがとうとか、言える相手がいるって、最高だと思います


バレンタインなんて、ただ最低で最高なだけじゃん

 

 

最後に

去年の最後の記事で、言葉がまがいものでも何か伝えたいことがある相手に一所懸命言葉を選んでいることを私は自分の誇りにしたいと書いて、それは今も、変わらない

だから、もしかしたら、関係を変えたいと思えた相手にそう伝えなくちゃと思い立つような日が来たら、私だってその2文字を音で、自分の声で、言うかもしれないんだな、なんて思った

私は心がぐちゃぐちゃだし、不整合な気持ちだらけで器官に異常が出てしまいそうですが、

それでも、

そんな私でも、

自分にとって大事なひとに大事なことを伝えるときくらい、綺麗な言葉を届けたいと思うし、そのときがきたときもきっとそう思えると、信じてます


まあ、今のところ私の愛は売り切れてて再生産の見込みはないんですけどね

23歳とか24歳で、身を焦がすような恋のひとつくらいしたいかな


火傷したいね

できたら全身



冬もこの記事ももうすぐ


お わ り

まがいものでも、この感情を伝えたいなあと思える相手がいるなら、自分が言える範囲で良いから、真剣に、限られた言葉を使って、届けたいと思えるんじゃないかと、言いたい

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こんばんは

昔からひとに自分の気持ちを伝えるのが苦手で、成長するにつれてそれにこじつけのような理由をつけることすらできるようになってしまって、そういう考えをしていた、そのときにしかいない自分が私はとても好きだけど、好きになれないときもあるから、誰かに好きとまで言ってもらおうなんて思わなくてもいいねとか面白かったとか言ってほしくて、文章を書くのかなと思うときが増えました

って話を今日はします

好きという感情はあまりに爆発的だけど、それ以外の嬉しいとか悲しいとかも含めたすべての抽象的感情を自分以外のひとに伝えるのが私はどうも怖かったし、後々億劫だと思うようになってしまっていました

最初は悲しいとか悔しいとかのマイナスな感情を言うのが怖かった

どんな理由があっても、悲しいって言われたら、それで泣きでもされたら、相手は困るだろうし、私も恥ずかしいやらなんやらでトラウマになるかもしれなくて、言えなかった

そして泣き虫という概念を知ったとき、もっと言いたくなくなった
周りのそう言われてる子たちが悲しいとか辛いとか言ってるのを聞いて、「私はそんな程度のことで泣き言は言っちゃいけないと思ってやってきた」なんて傲慢甚だしいことを思った
私のほうが根はうんと泣き虫かもしれないけど、少なくとも人前で泣かないよう我慢してるんだぞ、と
もし私が悲しいって言ったら、他人にわたったその瞬間に、私の感情はこんな程度の悲しみにまで萎んでしまうのかって、それは私の悲しみに対する冒涜だろうと生意気なことを思った
まるで自分が1番我慢してきた人物であるような、そしてそれが勇者の証であるような自己陶酔状態で、ひとの悲しみをランク付けして、独断で私の悲しみこそが悲しみとしてふさわしいんだと思い上がっていました

でも同時に、悲しいという言葉の枠組みの中だけに、渦巻くたくさんの感情を落とし込めることができなくて、じゃあやっぱり「悲しい」なんてひとつの言葉で言い表したくない、とも思っていたから、本当に一貫性がないというか我が儘というか身勝手というか自分しか見えていないというか

でも実際そうなんですよね

百歩譲って「悲しい」と言ったとして、私が悲しいと言ったのは事実だけど、その分言葉にされなかった感情があることもまた事実なんだと知ってほしいと思っていた

むしろ後者の方が断然に多くて、もやもやだったりズキズキだったりチクチクだったりそういう擬音語にすらなれない感情を全部押し殺して、無情に殺して、たくさんの犠牲を払って、「わかりやすい」悲しいという言葉を不平等に選んでいる

私は本当にずっと、口にしていない言葉を誰かに聴いてほしかった

言わないと伝わらないだろうなんて言葉は聞き飽きていて、言えないから、言葉に退化させた一般的な感情の名前をつけられないその感情を丸ごとそのまま気づいてくれないかと願っていた

で、

無        理        だ        と諦めた

そりゃそうだよなあと思う
私の感情は私だけのものだし、私だって誰かが見せることを遠慮した感情をきちんとすくい上げることなんてできないんだし

そう思っちゃったら、嬉しいとか楽しいとかも、更にはかなり濃度の高い感情「好き」なんてもっと、伝えるの無理なんじゃん不可能なんじゃんわかってもらえないじゃん、と諦めてしまいました

例えば「好きなひとにプロポーズされて嬉しい」の「嬉しい」が、相手に「道端でどんぐり拾えて嬉しい」の「嬉しい」として捉えられることだってありえるんじゃないかと思います

これは別に小さいときの私が考えたような、どっちの方が程度が上とかレベルの高い嬉しいかとかじゃなくて、違う「嬉しい」に変換されてしまうことを受け入れられない、っていう話

同じ「嬉しい」の中で差異が起きるのはまだ恵まれているほうで、「僕らの喜びを誰かが悲しみと呼」ぶなんてこともあるんだから、本当になんて世の中なんだと打ちひしがれたくなってしまうのは私だけですか

感情を正確に伝えるのは無理だよね

そもそも感情を言葉にした時点でそれは嘘なんだし

嘘というか、まがいものというか

言葉は本物にはなりえないんじゃないかと、たまに思ってしまうから、だから誠実に言葉を贈られたときは自分のひねくれた考えがどうしようもなく嫌いになって、こんな素敵なひとは自分には釣り合わないと思ってしまう

言葉なんか嫌いだと叫びたくなる

手紙はもらったら1番嬉しい贈り物だけど、相手の誠意が見えるほど自分が不甲斐なく感じられる1番の凶器にもなるんだなあと、そういう考えが嫌なのにやっぱりやめられないしもう嫌だ

なんてことになる

共感されたくて文章を書いたことなんでも一度もなかったって最果タヒさんは書いていて、タヒさんはすごい、私には無理だと思ったんです

今まで他人とコミニュケーションを取ってきて、無理だと思ったのに、諦めたと思ったのに実はそう思った気になっていただけで、「別に誰もわかってくれなくて当然だし」って口では言ってても、やっぱり本当は誰かにわかってほしい

でも私が思った通りには伝わらないから、だから面白いんだと、伝えがいがあるんだとしても、求めてしまう諦めの悪さが、私にはあるんだと思います

映画レビューも自己満とか言ってるけど、いやまあそのこと自体は否定できないんですけど、自己満=読んでもらわなくたっていい、ではないです

やっぱりいつも、誰かが何か思ってくれたらいいなあと思う

だらだら長文書いてるなあとか、面白いなとか何でもいいから、何かを思ってくれたらいいなあ、と読むひとのことを考えて書いています

そうしたらほら、やっぱりわかりやすくって観点からいくつもの感情を捨てて何かひとつの言葉に託すわけだから、そういう多くのひとにわかる内容に仕上げてる自分が嫌になったりもする

本当にしてた

書けば書くほど嘘だなと、誰でも書ける文章を書いてるような、私からどんどん離れていく言葉を書いてるような気がしてた

わかってほしいなんて思っちゃだめだと思った

でも、最近は、実は、それで良いのかもしれない、と思えてしまう

読み手を想像して書いて何が悪いのか、聞き手を想像して話して何が悪いのか、むしろあるべき姿なんじゃないかと

言葉がまがいもの、っていうのも、まがいもの上等じゃんと思えるようになってきた

だってやっぱり、悲しいって言葉が与えられるまでその感情は悲しいなんかじゃなかったし、悲しいって言葉になることでふるい落とされた感情は、もしくは部分的感情はきっとあると思う

でも、言葉は感情(だけではないけど)を伝える道具なんだから、本物じゃなくて当たり前なんだよね

まがいものでも、この感情を伝えたいなあと思える相手がいるなら、自分が言える範囲で良いから、真剣に、限られた言葉を使って、届けたいと思えるんじゃないかと、言いたい

たとえ私が自分自身を貶したくなくてそう思い込みたいだけだとしても、届けたい気持ちがないわけじゃないなら、胸を張って「私は一生懸命伝える努力をしています」って、言いたい

聴いてくれるひと、読んでくれるひとがいるのは、ものすごく恵まれているからこそで、とても幸せなことだと思う

言葉という与えられた道具は皆同じなんだから、だからこそ誰より丁寧に言葉を使うとか、どんなささやかな日本語も蔑ろにしないとか、そういうことを徹底していきたい

あんまり語彙力もないし説得力のある書き方もできないけど、でも私は絶対に誰かに言葉を贈るのに投げやりにもならないし、その場しのぎのあしらいだってしないし、常に、相手にも、言葉にも、自分の感情にも、きちんと敬意を持って接し続けられるんだってことを大切にしたいです

生半可な気持ちじゃ、言葉は、剽窃になったり二番煎じになったり空っぽになったり、ただのつまらない無意味な塊になる

でも、ひとつひとつに心をこめれば、まがいものでも誠意を持ってつなぎあわせれば、時にはそのまがいものが、誰かに本物の感情を気づかせるかもしれない

そう信じられるから、やっぱり私は、言葉が好きです

大好きです

お わ り

多分残りのひとたちはひとり残らず、どこかの器官が壊れた残念な欠陥品に違いないね

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こんにちは

朝起きてTwitterを見ていたら、大すきな『智恵子抄』の中の大すきな『あなたはだんだんきれいになる』が流れてきて、色んな思考がぶわ~っと巡り巡ったので、ザッとですがその考えを書いちゃおうと思ってブログにします

まずは詩の紹介から


あなたはだんだんきれいになる

をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。
見えも外聞もてんで歯のたたない
中身ばかりの清冽な生きものが
生きて動いてさつさつと意慾する。
をんながをんなを取りもどすのは
かうした世紀の修行によるのか。
あなたが黙つて立つてゐると
まことに神の造りしものだ。
時時内心おどろくほど
あなたはだんだんきれいになる。


これ、ほんとにほんとに最高だと思います

病気で日々狂っていく智恵子を「きれい」っていう彼も、きっと周りからしたら極端に傾倒、陶酔する狂気を纏った妄想者だと認識されたと思うんだけど、そういう異様さの中にある美とその世界観、理解されない切なさと崇高さが、私はもう最高にすきです

閉ざされた世界で自分たちにしか分からない尊さを大切にするって行為は、私の中ではすごく神聖な行いです

例えば、私は綺麗なビー玉を集める子よりも、蟻の死体だとか穴の空いた靴下だとかをコレクションする子に惹かれます

汚い、不気味、不清潔、それらを低評価する言葉はいくらでもあると思うけど、彼らは理解者の少ない、もしくはいない世界の中で、大多数から見ると「不適切」だったり「異常」だったりするものの中に美を見出せる眼を持っていると思うからです

そういえば、私の大すきすぎる小川洋子さんも、小さいときに切った爪を大切に取っておいたみたいなエピソードがあったような記臆があるんだけど…違ったっけな(すきというわりにうろ覚えです、すみません)

パッと見ただけでは醜く見えてしまうものを見放さずに、ようくしっかりと見つめてあげて、奥に光る美しさを探してあげる、そんな慇懃な態度で世界と触れ合えるということ

それってとても素敵なことだなあって、私には思えます

私はそんな審美眼を持ったひとを本当に尊敬するし、素直に憧れます

高村光太郎の詩に戻る前に、もうひとつだけ関連した話を紹介させてもらえるとすれば、私は『堤中納言物語』に収められている、有名な「虫愛づる姫君」を思い出しました

(この話大すきです)

恐らく、多くのひとが1度は読んだことあるんじゃないかなあと思います

しきたりが固定化された当時の日本において、花や蝶といった一般的に綺麗なものではなく、気味が悪いとされる毛虫などを可愛がり、また、眉も抜かずお歯黒もしないひとりの小さな姫君のお話です

私はこの姫君も、皆が気づかない、物事や生き物に隠された、もうひとつの美に眼を向けられるタイプの人なんだろうと思っています

そして、彼女は周りには分かってもらえないこの尊さと己の信じる正しさを、決して手放さないひとです

姫君の言葉と私の恥ずかしい拙訳をいくつか載せたいと思います(現代語訳、大きく違ったら教えてください…)

「人々の、花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。人は、まことあり、本地たづねたるこそ、心ばへをかしけれ」

→「人々が花よ蝶よと愛でることは、取るに足らない、見苦しいことです。誠実で、物事の本質をたずね求める人こそ、風情があるのです」

見かけの美しさだけにとらわれて、花や蝶を愛でるのは物事の本質を見切れていないことだ、と姫君は凛としておっしゃいます

私個人は、綺麗な見た目の花や蝶を愛することを「あやし」とまでは思わないけど、皆が気持ち悪がるものに対して「気づかれていないだけで、あなただってちゃんと美しさを持っているのよね。私は時間がかかっても、あなたのそれを見つけ出してあげたいの」って、寂しげな世界に寄り添って生きていける、その誠実さを尊く思います

「苦しからず。よろづのことどもをたづねて、末を見ればこそ、事はゆゑあれ。いとをさなきことなり。烏毛虫の、蝶とはなるなり」

→「いっこうに構わないわ。万事の本質をたずね求めて、その行く末を観察すれば、すべてのものには理由があるとわかります。(そんなことさえわからないなんて)たいそう幼稚です。(人々が気味悪がる)毛虫が、(行く末では皆が愛でる美しい)蝶になるのですよ」

これは世間体を気にする周りのひとに向かって姫が放った言葉です

ちょっと醜いアヒルの子っぽさがあるこの部分、姫は物事の「過程」に注目されてるんだけど、私は物事の「連続」について話そうかなと思います

少し戻って、風変わりなコレクションをするひとに惹かれるって話で、蟻の死体とか穴の空いた靴下、また小川洋子さんの切った爪の話を先ほどしました

私たちはその生き物の見かけの美しさに関係なく、死んだ途端「うわ、死んでる、こんなところにあるの嫌だ」って処理してしまおうとします

一般的な反応であることは私も同意するけど、本能的に「死」の中に恐れだとか不気味さだとかを感じているのかもしれないけど、さっきまで生きていた命に対して、あまりにぞんざいだなと思うときがあります

靴下や爪もそうです

多くの場合、ちょっと前まではお気に入りの靴下だったとしても、穴が空いたら価値ゼロになって(確かに実用性は劣るけども)、爪なんてさっきまで自分の一部だったのに、汚らしいものとして捨てられてしまいます

ものでもひとでも、そんな簡単に美しくなくなったり、縁を切りたくなったりするものなのかな

死ぬ前と死んだ後、穴が開く前とその後、切られる前と切られた後、どれもまだしっかりと繋がりのある「連続」の一部だと私には思えて、そんな簡単に汚らしいものに変えてしまわないでほしいなって、思っちゃうんですよね

姫君は「この毛虫だって将来蝶になるんです」って訴えかけるけど、同時に私は「この死んだ生き物だって、さっきまでは皆がちやほやしてた命なんだよ」っても言いたい

そんな簡単に見捨てないであげようよ、って思います

ひともものも、不必要だから、もう美しくないから、って切ってしまうのは悲しいことだし、一瞬でそんな大切なことを決めてしまっていいのかな、決めてしまいたくないな、って思うんです

私は、せめて時間をかけたいなって思う

丁寧にそのひとやものときちんと向き合って、どんなに無価値、汚らしいと感じてしまうとしても、自分が見落とした価値や美しさは何だろうって悪あがきしてから、接触を続けたり、最悪繋がりを絶ったりしたい

いやパッと判断して捨てるものは捨てなよ、って言われるかもだし、事務的なものはパッパッと即決しちゃうタイプだから「え、意外とそこ踏み切れないんだね」ってびっくりされそうなんだけど、私は案外優柔不断だし臆病なので、そんなあっさりと何かを捨てるって行為は苦手なのです

話を「虫愛づる姫君」に戻します

「思ひとけば、ものなむ恥づかしからぬ。人は夢幻のやうなる世に、誰かとまりて、悪しきことをも見、善きをも見思ふべき」

→「考えてみれば、どんなものでも恥ずかしいなんてことはありません。夢幻のようなこの世の中に、誰がいつまでも死なずにとどまり、物事の善悪なんて判断できるでしょうか、いえ、そんなことは誰もできません」

本当にそうだなと思います

すきなものや綺麗だと思うものには、さっき言ったように何かしらの理由があって、それを恥ずかしがる必要なんて絶対にない

私も昔から趣味が古臭いって軽く貶されたり時には否定されたりしたけど、私は恥ずかしいとは1度も思わなかった

悲しいとは思ったけど寂しくはなかったです

ただ、いつかわかりあえる人がひとりでもいたら、きっとラッキーなんだろうなあ、早く会いたいなあ、とは思いました

まあ私は渋いとはいえわりと王道モノがすきで、趣味が合うひとなんてごまんといらっしゃると思ってるから、自分をそんな悲劇のヒロインぶるつもりも、これらの魅力をわかってあげられるのは私だけなんですみたいな勘違い甚だしいアピールするつもりもないんですけど、やっぱり同世代になかなかすきなものを共有できるひとが少なかったから、悲しかったのかな

気づけば、高村光太郎の詩から「異様さの中にある美」について書いてたのにいつの間にかとてもパーソナルな話になってますね(笑)

わかりあえるひとがいたらなあとか言うわりに、慇懃無礼な態度で文章を書いてしまってすみません

総じて言いたいのは、多くのひとが敬遠する異様なものの中に美を見出せるひとの希少性や崇高さです

高村光太郎の『智恵子抄』なんて、言ってしまったら狂気的かつ妄想的な惚気集です

私はこの詩を「深い愛だね」とかで済ませたくないんですよね

なんか、そんな透き通ったものじゃないと思う

狂気と退廃の、くすんだ世界の中で彼が慈しんだ、ほんの少しの光とか澄みきった何かがささやかながら生きているのが、私は良いなと思うんです

だんだん狂って、機能を失っていく智恵子に美しさを見出せる、その審美眼が何よりもすきです

きっと他のひとは理解できないし、もしかしたら本当に彼らふたりが異常なのかもしれない

それでも、彼は智恵子の狂った美にとことん惚れ込んで、誰にも見つからないまま死んでしまうかもしれなかったその原石を光らせることができた

ああなんて神聖で尊いんだろうって思う

きれいだね

狂っていくほど、何かを失うほど、智恵子はだんだんきれいになる

智恵子はきれいだ

智恵子はきれいだって言える高村光太郎もきれいだ

こんなにきれいなふたりが理解されないなら、おかしくなってしまった智恵子と彼だけがまともで、多分残りのひとたちはひとり残らず、どこかの器官が壊れた残念な欠陥品に違いないね

お わ り

120%自分のために走るひとが、私はすきです

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こんにちは

日々オリンピックを本気で観戦し、生活習慣を乱しまくっていたひとです

オリンピックはLIVEで観るのが醍醐味だと思っているので、翌日(もはや当日)がどんなにハードスケジュールであろうと、この瞬間は見逃せない、って競技は可能な限り観てました

その結果連日2~3時間睡眠だったけど、とても満足です(そのガタが最近きていた)

さて、そんな2016年夏、現実世界では口を開けばひたすら「ボルト格好良いよ~」と言いまくり、SNSではひたすらボルトの投稿にいいねする、そんな生活を送っていたらいろんなひとから「そんなにボルト好きだったの?!」とびっくりされたので、今日はそれについて書いてみようかなと思います(ここから最後までボルトすきしか書かないので、読む気が失せたひとは記事を閉じてもらっても大丈夫です(笑))

もう遠慮なく率直に言って、私はほんとにボルトファンです

もはやオリンピックロスというよりボルトロスと言ってもいいレベル

強いからすきだとか紳士ぶりが良いだとかじゃなくて(もちろん格好良いけどね)、ボルトの顔、表情が、なんかなぜかすきです

皆から「え、顔なの?」って笑われるけど、別にお友達でもないんだからTVで放送される以外のそのひとなんて知らないし、すきになるならそりゃ表面的なことなんじゃないのかなと思う

まあそれはいいとして、私がボルト良いなあって思ったのは2007年に大阪で開かれた世界大会が最初でした(なんと私はまだ若かりし12歳です)

ボルトは当時最速のスプリンター、タイソン・ゲイ選手(米)に200m決勝で破れて銀メダルだったんだけど、その頃から「すきな顔だなあ」って思ってました

超主観的なのは承知な上で、ゲイ選手の顔は怖くてあんまりすきじゃなかったし、ジャマイカのパウエル選手もそんなに魅力的に見えなかったんだけど(ファンの方々ごめんなさい)、ボルトの顔は良い意味で気になった

レース前はどんよりした顔してるけど、走るときとかその後で、結構くるくる表情変えるんだなあ、あ、今の顔良いなあって思ったときがあって

テレビに映るのはゲイ選手ばっかりであんまりボルトは映らなかったけど、まだ若いし、このボルト選手に次の大会にもどんどん出てほしい、もっと顔映してほしい、って気持ちと一緒にこっそり応援してたのを今でも覚えています

すると、翌年の北京オリンピックで金メダルを獲って、更に2009年には世界記録更新して、ボルト旋風が世界中に巻き起こったわけです

そのとき私が思ったのは、記録すごい!1位嬉しい!じゃなくて、あ、このひとって1位になって生きる表情を持つ選手なんだなあってことでした

当時は最後流したことに批判もあったけど(確かに、ダントツの走り見たかよ!ナンバーワンは俺だぜ!感はある)、若さとエネルギーが溢れてて私は嫌いじゃない、というかすき

むしろ、弱冠21歳とかそれくらいで世界記録破りまくりながら「この度は他の選手様と切磋琢磨でき、このような結果を取らせていただいたのも皆様のおかげです」みたいな態度取られたほうが興ざめです(笑)

敬意を払うところは別にあると思うし(それこそ話題のインタビュー中断はこれにあたるよね)、世界中に見せつけたいくらい自分の成し遂げたことに誇りを持てるのって、純粋にすごいと思うけどな

前年のゲイ選手は怖かったけど(200mもだけど、100mの威圧的な感じがすごかった記憶がある)、ボルトはやんちゃっ子が嬉しいって気持ちをそのまま純粋に出しました!って感じのはしゃぎっぷりで、傲慢に見える面があるとしても、水を得た魚みたいに生き生きしてた表情が憎めないなあと思った

年を重ねるごとに、そんな若気の至り感よりも王者の貫禄が出てきて、でも相変わらずレース前はほどよくイケイケで、穏やか&親しみやすい顔になりつつも、昔の良さが消えてないのが人気の理由かなと個人的には思ってる

共感してくれたら嬉しいんだけど、リオで改めて、ボルトってすごいくるくる表情が変わる選手だなあって思いました(思いませんでしたか?)

キリッとしてるときもあればおちゃらけてて親しみやすいときもあるし、本気の顔ももちろんするしで、表情がとても豊かで、私はそんな表情に滲み出る何かに惹かれるのかなあ

その中でも、今年の陸上男子200m決勝のボルトの顔が、2007年から今までで1番すきだ、と思いました

準決勝まで流して走っていたボルトが、雨の中最後まで歯を食いしばって全力疾走して、予想より伸びなかったタイムを悔しがって、でも最後にはレブロンポーズしてにかっと笑うの、ほんっとに最高で、国籍関係なく200%惚れるし、もはや私は泣いてしまうくらい心を掴まれました

(ボルトが3大会2種目3冠が決まったあの日、いろんなひととLINEしながら、私はほんとに涙ぐんでました)

ボルト自身も言ってるけど、200mは彼にとって1番思い入れがある競技だし、2007年銀メダルだったときの表情、世界記録更新したときの表情、ベルリンオリンピックで2連覇したときの表情、全部思い出される中であの表情はとても感慨深かった

世界記録更新はできなくてももっと速く走りたかった、って言葉もぐっときました

ボルト旋風が吹き荒れた2008年から今まで基本「いえーい、今回もぶっちぎりだぜ」って顔で走ってた彼が、久しぶりに最後まで全力で走って、かつ悔しい顔をしたのは心に残ります

やっぱり、大勢のひとの前で悔しがったり泣いたりって、抵抗があることだと思う

でも、人前でそんな表情ができるのは、それだけの準備や努力をしてきた証であり資格なんだろうね

なりふり構わず、がむしゃらに、一生懸命、本気で走るって良いなあ

たとえ不恰好なフォームだとしても本気で走る姿はひとの心を掴むのに、世界一のスプリンターが、最高に綺麗なフォームで、世界一を目指して最後の100分の1秒まで本気で走る姿なんて、もう宝物だと思います

何より、あの表情はずるい

もう私は何度でもあの瞬間のボルトに惚れられます

前は2大会3種目2連覇が決まった100×4リレー後にレブロンポーズしてたけど、今回はこの200mであのポーズしたってのも、個人的には響いたよね

他の選手への敬意を表しつつ野心は相変わらずで、真っ先に自己を表情や言葉に出すところも最高に良い

ファン思い、サービス精神旺盛ってことで有名ではあるけど、インタビューでも、皆のおかげです、応援ありがとう、じゃなくて、自分は伝説になりたいから全力を尽くすだとか、嬉しかった、悔しかっただとかの自分がどうかってのを先に言うところはずっと変わらない

あくまで、自分の目標達成のために走りたいから走るのであって、自分が走ることで観ているひとにインスピレーションを与えられるならそれは嬉しいことだっていう、私たちをプラスαに捉えてる感じが最高だと思ってます

だからテレビキャスターが、彼は国民の思いを胸に皆のために走るんですね、みたいなコメントするの聞くと毎回辟易してしまう

なぜそういう方向で美化する、って思っちゃうんだよなあ

くだらない

応援側に関しても、北京オリンピック決勝で流してたことに対して「俺たちがこんなに応援してるのに、最後流すなんてふざけてるのか!」ってコメントするひとに、私は口が悪いので「ふざけてるのはお前だろ」って思ってました

自分たちが応援してるから本気で走れとか、何様のつもりだって言いたい

ひとが走るときに100%誰かのために走るとかありえない

誰か喜ばせたいひとがいるから走るんだとしても、それはそのひとのためじゃなくて、根本的には喜ばせたいって思ってる自分のためじゃないですか

皆のために走るひとなんて、全然格好良くない

120%自分のために走るひとが、私はすきです

ボルトは、自分のことについて話した後はいつもちゃんと「応援ありがとう」「最高の走りを見せるから次も応援してほしい」って言ってくれるし、もうそれで十分すぎるくらいだと思うよね

棘のあることも書いちゃったけど、こういうわけで私はボルトが大すきです

そんなこんなで2007年から2016年まで、約10年間ボルトの走り、表情に魅せられてきたから、これで最後かと思うと寂しいです

キリッとして走るひと、笑顔が素敵なひとなんて数え切れないほどいると思うけど、理屈抜きですきな顔ってのはあって、そのひとの表情はそのひとにしかできないから、もう見れないんだと思うとこんなに寂しくなるのかな

日本人のくせにボルトすきすぎだろって言われちゃうかもしれないけど、国籍関係なくひとつになれるオリンピックって謳ってるのに、自分の国の選手しか応援しちゃだめなんて決まりがあるほうがおかしいじゃん、って屁理屈を言っておきます(まあ私は屁理屈だなんて思ってないけど)

ていうか、そもそも好き嫌いに正しいとか間違ってるとかないんだから、外野はごちゃごちゃ言わないでほしいよね

ボルトが走ったこの数年間に、同じ時代に生んでもらえて、こんなに夢中にさせてもらえて、ほんとに良かったなあって思います

走るというそれだけの行為でひとの心を掴める選手も、ただ走るだけの姿に感動できる私たちも、どちらも偉大で立派で素敵だ

夢中にする側も夢中にされる側も、自分の内にある何かを、あの短い数秒間の間に共鳴させている

その共鳴が、オリンピックの醍醐味であり魅力なんだと、私は思っています

2007年から今まで、銀メダルだったあのときから偉業を成し遂げたリオのオリンピックまで、あの9秒や19秒にずっとわくわくさせてもらいました

ほんとにありがとうございました

自分のために本気で走るひとが、私はすきです

金メダルが似合うのは、きっとそんなひとだと思う

お わ り

ずっとピカチュウでい続けられるって信じることも、いつかライチュウになるかもしれないなって考えながらピカチュウでいることも、きっと同じくらい大切です

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おはにちは

訳ありで寝れなくなって、かと言って課題ができるようなテンションでもないので、深夜にブログを書くことにしました(文章書いてると落ち着くよね、実際は書くというより打ってるんだけど)

夜中の3時に更新するのもなんなので、もっと常識的時間の朝か昼にあげると思います…変な時間に寝てなかったら

さて、せっかくポケモンGOが話題なので、今日はポケモンの話でもしようと思います

世界中でポケモンGO旋風が巻き起こり(?)、歩きスマホだとか位置情報がどうだとかいろいろありますけど、まず私はポケモンGOしてないです

別に嫌悪からじゃなくて、単にゲームで電池を減らすのが嫌なので(笑)ツムツム、パズドラもしてないしね

まああとは、デジタルのゲームについていけず、びびるほど弱い、というのもあります(人生ゲームは強いです、運だけど)(かくれんぼとかん蹴りに関しては、小学生のとき近所で無敵でした)

とにもかくにも私はポケモンGOをプレイしている身ではないので、Twitterで「へえ~こういうのがポケモンGOなんだ」ってシュ~ッ…ポッを繰り返していました

そんな風に知り合いのツイートを見て、ポケモンGOについて知った私が1番に思ったのが「えっ、ゼニガメフシギダネ?めちゃめちゃ私世代のポケモンでは」という驚きと感動でした

アニメを観ていた当時は、この2匹がとてもすきだったので、久しぶりの再会でいっきに昔の記憶が戻ってきました

私は小さくてかわいいポケモンがすきで、たとえばチコリータとかイーブイとか、膝に乗せたい系が私のストライクゾーン入りを果たしていました

でも、幼い頃は、ポケットサイズでもやっぱりモンスターな彼らが怖いときだって、私にはあったわけです

というか、ポケモンって進化するの?!ってすごく衝撃だったんですよね

あんなにかわいいゼニガメフシギダネがゴツくなっちゃうなんて…

嫌だ!!!!!

私はかわいいポケモンが進化するたびに泣いてました

私はゼニガメにもフシギダネにも他の皆にも、ずっとかわいいままでいてほしいのに、どうして皆進化しちゃうんだろう、どうして持ち主もポケモンの進化を何のためらいもなく喜べるんだろう、って不思議だったし寂しかったです

進化しないと強くなれなくて、強くなってジムリーダーを倒したりロケット団をやっつけたりしないとポケモンマスターになれなくて、ポケモンマスターになることが大事な世界なのであれば、進化がプラスの現象として受け入れられるのは当然だけど、そういう論理的なことが言いたいんじゃありません

でも私が嫌だって理由でポケモンたちが進化しなかったら良いのに、と思いました

進化しちゃうからポケモンはほんと残酷、って思ってたけど、これは多分私が「もうあの頃には戻れない」って感覚にすごく敏感な人間だからかもしれないなあ、なんても最近は思ってきました

もちろん進化は成長だし、良いことだってたくさんあるって知ってます

けどどうしても、私は保守的で、基本、変化が怖いと思ってしまうひとなんです

ポケモンの背丈が大きくなって、どんどん相手ポケモンを戦闘不能にしていくのを見て、やっぱりいつもどこか寂しかった

ポケモンマスターになることが讃えられない世界だったら、ポケモンたちもポケモントレーナーたちも、進化を望まなかったのかな

物語としては面白みに欠けるし、成長しないキャラクターっていうのは現実味が薄いかもしれないけど、大きくなるってことは心身の成長とともに他の何かを失うリスクも伴うから、保守的な私はそう考えちゃうんだろう(自分で書いといてだけど、大きくなることは悲劇、っていう小川洋子さんの作品のフレーズ思い出す)(一言一句同じではないかもしれない)

何はともあれ、どうしてもなんとなく進化は寂しいなと思ってた私を救ってくれたのが、ピカチュウでした

サトシのピカチュウです

サトシのピカチュウは、ライチュウに進化しないで、ずっとピカチュウのままです

記憶の限りだと、ライチュウと闘って負けたピカチュウが、雷の石を使ってライチュウになるか選択を迫られるけど、「ピカチュウのままで勝ちたい」って意志のもとピカチュウでいることを選んだ、ってエピソードがあったはず(違ったらすみません)

あとはサトシも「ピカチュウは進化させない」って言ってたし

姿はピカチュウのままでも、ピカチュウは自身のできる範囲でどんどん強くなるし、たくさんのことを学んでいくから、私はとっても嬉しかったです

自分はピカチュウのままでいる!ピカチュウのままで強くなりたい!って思えるピカチュウ自身も、進化による強さに頼りたくないピカチュウを受け入れてあげるサトシも、すごく素敵だなあと思ってました

私たちは自分の意志で身体の成長をとめることは出来ないけど、心の面で、この部分はずっと、永遠に大切にしたいな、って思える何かがそれぞれあるんじゃないかと思います

永遠なんてないっていうのはよく聞くフレーズですが、あるかないかは別で、

永遠を信じられることも、信じられないことも、素敵なことだと思います

ずっとピカチュウでい続けられるって信じることも、いつかライチュウになるかもしれないなって考えながらピカチュウでいることも、きっと同じくらい大切です

少なくとも私はそう思います

日々を過ごしながら、「こんな素敵な毎日が、なんかずっと続くような気がするなあ」「私のこんなところはずっと大切に守っていきたいなあ」って思えること

「こんな素敵な毎日も、きっといつかは終わっちゃうんだなあ」って毎日が愛しく思えること、「いつか変わってしまうかもしれないけど、今の私のこういうところがすきだ」って思えること

これはどちらが正しいってわけでもなくて、どちらにせよそう思わせてくれる周りのひとや環境に感謝したいね

あとはほんの少し、周りの素敵なひとたちのおかげでそう思えるようになった自分も褒めてあげたいかな

かわいいままのピカチュウでも、きっと毎日楽しいし、風鈴は涼しげに揺れるし、コンビニにはおいしいアイスがたくさんある

夏はもう終わりだよ〜って告げられちゃう前に、めいいっぱい夏を浴びておこう
 
私は、ゼニガメフシギダネのことを考えながらメロンバーを食べるし、皆は、今日もポケモンGOしに外に飛び出さなくちゃね

お わ り