河童日記

暇つぶしです

心情

家の扇風機が壊れた。左右に動く首の部分が胴との接合部からガクっと半分外れてしまう哀れな最期であった。壊れてもなお羽は回っていて、それが壊れたせいで異様な音を立てるものだから、さながら断末魔の叫びを聞くようであった。

家電製品から人間性を感じることがある。無論、ただこちらが家電の動きに人間の動きを投影するまでであるが、それにしてもそういうことが結構あるから面白い。例えば以前、パソコンの調子がおかしくなって、仕方なしに家族に買い換える相談をした直後、急にパソコンの動きが良くなったことがあった。買い換えないでくれと言わんばかりである。

こういう、本来心を持たぬ者に心を持たせようという人間の働きは、どこから来るのだろうかと不思議に思う。独り暮らしの人が、お掃除ロボットに話しかけがちであるというのも、同じ現象であろうか。これが万人に共通なのかそうでないのかも気になるところである。小説の主人公に感情移入するような感覚で、身近な家電にも感情移入できるのであろうか。

そういえば科学の世界でも往往にして、感情移入がされることがある。電子の気持ちになって考える、とか、光の気持ちになって考える、とかそういう類である。初学者の私にとっては、その方がむしろ理解しやすいらしい。その点、立派な科学者もやはり物理現象に心を与えているのだろうか。是非そうであってほしい。全ての現象を数学という言葉で全てを表すのは間違いなく便利だし、それが更にその先の発展に繋がるというのも分かるが、しかしその後に大事なオマケとして、万人の腑に落ちるような心の動きというものを現象に投影してやるべきではないかとも思うのである。

仮説

三菱第一号館美術館で、ダ・ヴィンチミケランジェロのデッサンや手稿を集めた展覧会をやっているというので見に行くことにした。大学院生は年齢こそ社会人とはいえ、まだ学割が効くからありがたい。学校帰りに東京駅に寄って、息抜きがてらに見てこようと思ったのである。

遅い時間だったからかそれほど混雑しておらず、それもまたありがたい。混んでいる美術館ほど落ち着かない所はない。小さい美術館だから、展示数は少ないだろうと踏んでいたのだが、展示品が小さいからか、予想以上に沢山展示されていた。どれもこれも、天才の頭の中に想いを馳せることを助けてくれるものばかりで、にやついてしまった。

それにしても、美術館に限らず東京駅の周りはいい雰囲気である。まず東京駅が良い。ノスタルジックである。周りの建物も、歴史を感じるとか洒落ているとかの類よりも、むしろやはり漠然とした懐かしさを醸している。同じ感覚を抱かせる建物として、東京タワーもそうである。あの朱色のライトアップからは言い得ぬ切なさを感じる。とはいえいずれの建物にも、幼少期に何か特別な思い出があったというものではない。何が私にそう感じさせるのか。それらの根源についてかつて思いついたことがあるから、それを基にして考えてみよう。

人間がそういう情緒を感じるには、ある種の緩急が必要なようである。激動の時代の後の平穏に感じる空虚感、あるいは夏という、太陽からのエネルギーに裏打ちされた濃厚な時間が過ぎ去ってからやってくる秋に感じる喪失感は、おそらく時間もしくは空間の緩急に基づくのではないか。ちょうど、気圧の高いところから低いところに移動した時に耳に感じる違和感と同じである。濃い時間、濃い空間からいきなり通常の状態に戻った時に起こす反応が、切なさや郷愁となって表出するのではないか。そう考えると東京駅や東京タワーに感じる情緒の根源も、時空の濃淡である。そういう建物の周りでだけ時間が止まっているように感じることが、自分の身の回りの変化の目まぐるしさと対比されて、感傷を呼び起こすのではあるまいか。何十年か振りに旧友と再会した時、老いた顔の中に若き日の面影を見つけたならば間違いなく感じるであろう感慨、大昔の写真の中に自分の姿を認めた時に感じる哀愁などは、全て同じメカニズムであるように思えるのである。

時空の濃淡などという概念が果たしてあるのかどうか、物理の勉強を突き詰めるとある程度は論理的に判断できるのではないかと思っているが、まだそこまではたどり着けていない。ただ、私の中でまだ反例が見つかっていないということからも、結構いい線を行っているのではないかと思えるのである。

道楽

暑い。ただ暑いだけならまだしも、湿度が高いから参ってしまう。去年まで愛用していた扇子が壊れてしまっていて、今までは扇子無しで耐えていたのだが、さすがに我慢ならなくなって、今日新しく扇子を買った。

先代の扇子は高校の修学旅行の時に京都で買ったもので、思えば6年ほど使っていたこととなる。扇子を買おうと小さな扇子屋に入った時、ふと目を引かれて手に取ったものだったのだが、手に取った途端、店主に目の付け所を褒められて、良い気になって買ったのである。友禅染の藍が美しい扇子だった。そのせいもあって大切に使っていたものだが、それにしても長持ちしたものである。結局壊れてもなお、捨てられずにしまってある。今回は東京駅の近くの店で買ったから、昔の都と現在の都でそれぞれ一つずつ扇子を買ったことになる。油断すると色々なところで扇子を買い集めてしまいそうなくらいだから、緊張感を持たねばならぬ。

昔ながらの色は、奥ゆかしい美しさがあって良い。今回も色に惹かれて買ったのである。友禅などの類ではないが、中々良い色なのである。あまり高すぎても分不相応であることを考えれば、良い買い物をしたようである。

花火の中でも、昔からあるようなものを和火というらしい。調べてみると、なるほど一番私好みの色合いである。色の好みというものがどのように決定されてくるのかはよく分からないが、多少の振れ幅はあるにしても、結局私は和色が好きらしい。浮世絵や着物に見られるそれらの色のどこが好きなのか、形容するのは難しい。ただ堪らなく惹かれるのである。

私の研究テーマは、色が多く出てくるのが特徴である。金属の微粒子を水に散らすと、様々な色を呈するということに基づいているのだが、せっかく沢山の色と触れ合うのだから、実験ノートに書き留めておく色を伝統的な名前で表記してみても面白いかもしれぬ。

僥倖

この間論文を読んでいて、興味深い一文を見つけた。それが正しければ、私が現在行なっている研究に応用できそうに思えた。そこで早速それを使ってみると、やはり一歩前進したのである。それも、私が大学院に入ってから初めての、間違いなく前進といえる前進であったから、なかなかに嬉しい。

ところが、その結果を踏まえてもう一度考察しようと思って論文を読み直すと、間違いに気がついた。解釈を間違えて、私の研究に応用できると勘違いしていたらしいのである。何だか化かされたようである。化学は人を化かすから化学と書くのか。解釈を間違えたのに、たまたま上手く研究が進んでしまった。

困ったことにそのせいで、なぜ上手くいったのか分からなくなってしまった。良い結果だけ先に突きつけられたのである。求める答えが存在することだけは教えてやるから、そこまでの道のりは見つけなさいよ、ということらしい。意地悪な話である。

それでも、こういうことを研究と呼ぶのなら、確かにこれは楽しいかもしれぬ。少し、科学の姿を垣間見たような気がする一日であった。科学は悪戯好きの子供の姿をしている。